母の懐に帰る、失うものは何もない

リーマンの牢獄 エピローグ

母の懐に帰る、失うものは何もない

仮釈放されて故郷で母と水入らずの二人暮らし。が、平穏な日々は続かない。懲役15年に耐えたのは、地下銀行に預けたカネを隠すためだったが、すべて溶けたと知った。騙すものは騙される。「リーマンの牢獄」は終わらない。=有料記事、約4300字

 

エピローグ

 

僕はリセットされて、須坂の墨坂神社に帰ってきた。

2022年6月29日朝、スズキのワンボックスカーを弟がスタートさせる。リンゴの果樹園など田園風景を走り抜けて、向かったのは長野市だった。

「遠くても一度は参れ善光寺」。運転する弟に参拝を勧められた。

が、その前に長野地方検察庁に寄って、保護観察官に更生を誓わなければならない。そこから歩いて5分の中間処遇・更生保護施設「裾花すそはな寮」に1カ月間入り、社会復帰のウォーミングアップをするのが、仮釈放の条件だった。

コロナのせいか、善光寺の表参道は人影がまばらだった。本堂前で大香炉に線香を投げ込み、煙を浴びて参拝した。これで厄落としできればいいが。

善光寺の本堂前の大香炉で線香の煙を浴びた

普段着や日用品を買いに、弟と「しまむら」に寄った。商品のバーコードを読み取る方式で、現金でなくスマホ決済だった。戸惑った。弟のスマホで払ってもらったが、この調子では先が思いやられる。

それから上田市の実家まで1時間半、弟の車に揺られていった。父は5年前に亡くしているから、母が一人で住んでいる。千曲川を渡り、山間に大きな家が見えてきた。呼び鈴を押すと、「はーい」と懐かしい母の声がした。

少し腰を曲げながら出てきた母に、「ただいま」としか言えなかった。15年間で500通を超える手紙をもらったのに、深呼吸しても言葉がでてこない。お茶の味は昔と変わらず、畳の上で大の字になった。やっと家に帰ってきた。が、すぐまた寮に戻らなければならない。

せっかく再会できたのに、と玄関に立って見送る母に、弟が長めにクラクションを鳴らし、後ろ髪を引かれるように走り去った。

自由と拘束の中間地帯

裾花寮は確かに自由と拘束の中間だった。外出は許可制、コンビニでの買い物も、万引きさせないよう、レシートと買った物をチェックされる。

僕は7月7日から3泊4日の外出許可を申請した。東京にいる別れた妻と長男に会いにいくのだ。午前6時45分、長野発あさま604号。「東京行き」の電光掲示板に目がうるんだ。午前8時24分到着。東京駅は人、人、人だった。

風景がすっかり変わっていた。高層ビルが林立し、地下鉄はおしゃれな内装になっている。自由が丘の元妻の家に、15年ぶりに家族3人が集まった。服役中に僕の留守番役を務めてくれた飼いネコの話題に花が咲いた。家族への謝罪の言葉は十分でなかったかもしれないが、元妻と長男が必死に生きてきた生活力のようなものに圧倒された。

翌8日、鮫洲で運転免許の更新手続きを済ませたあと、知り合いから番号を聞いた黒崎勉氏の携帯に電話をかけた。僕の声が意外だったのか、ぞんざいな物言いが気になった。7月は忙しいから、8月にしてくれと言う。ランチでも一緒にしながら、と。

僕も7月中は裾花寮暮らしだから、8月6日に会うことにした。

7月28日、裾花寮を卒業する際、感想文を提出した。「刑務所の工場にいたときのほうが自由を感じた」と書いた。自由を手に入れて不自由を感じたのは、自由には責任が伴うからだ。

山間の一軒家で86歳の母との2人暮らしが始まった。最初にしたことは、母が一人で住み続けた小さな暗い部屋から、家でいちばん明るい部屋に移ってもらうことだった。庭の木々や、少し離れた場所を通る国道の車が見えて、みんなとともに生きている実感がする。

父が亡くなってから、隠れるように暮らしてきて、母の楽しみと言えば、好きな五木ひろしの演歌を聴き、本を読み、日記をつけ、獄中の僕に手紙を書くことくらいだった。

むかし撮った写真を刑務所に送ってきたこともある。メリルリンチ時代、母を連れてロサンゼルス、サンタバーバラ、ビバリーヒルズなどを遊覧した時のもので、母はそれをご近所や親戚に見せながら、漬物をお茶受けに世間話に興じていたという。

朝6時から僕のために食事をこしらえ、庭の草木に水をやり、雑草を刈っていた。早朝から頬被りをして、家の周りを掃除する姿は昔と変わらない。羽振りが良かったころの僕が着ていたダンヒルのスーツをとりだし、虫食いのあとを器用にかがって、ボタンをつけ直してくれた。

少し離れた山中の倉庫に、大量に僕の荷物が置いてあり、母と整理しに行った。生まれて初めて、親子水入らずの貴重な時間だった。土曜には車で母を連れ出し、佐久、軽井沢、白樺湖などへドライブした。もう一度、母と故郷の長野県を感じてみたかった。母は流れていく景色を眺め、昔を語り続ける。近くの温泉にも毎週のように連れていった。

ありがとう母さん、ごめんね母さん、許してくれ母さん……

だが、僕は上京して黒崎氏とケリをつけなければならない。

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