リーマンの牢獄 【1】後編
三塚博の「裏金」口座を任された
夢にみた「任され口座」。大派閥の領袖、三塚博の第一秘書に託されたのは“裏金”か。成績不問、報告不要の休眠口座を、ノルマに追われる赤坂支店は「仕切り」や「アンコ」でしゃぶり尽くす。芙蓉グループの日産自動車株を買い支えたばかりか、破綻間際の山一自社株買いでスッテンテンとなる。=有料記事、約1万5500字
第1章原点は山一證券〈後編〉
――齋藤さんは、自分から赤坂支店への転勤を志望したのですか。
「いいえ、僕の志望先はエリートコースと言われていた事法(事業法人部門)でした。本店での営業成績がそれほどでもなかったから、エリートになり損ねたんです。ただ、先ほど言ったように、本店営業部は新規顧客開拓のためなら何をしてもいい“遊軍”だったので、政治家開拓に集中した時期があったんです。権力を手にする政治家のもとには、おカネも集まると単純に考えて接触してみたかったのは事実です。
議員会館を「絨毯爆撃」
国会議事堂の裏に立ち並ぶ議員会館はガードが固く、入館するのは大変でしたが、いったん中に入ってしまうと軒並み訪問できる。議員事務所を “絨毯爆撃”しました。とはいえ、新人証券マンが簡単に食い込める世界ではない。僕にとっては度胸試しでした」
――飛び込み営業の絨毯爆撃で、お客はつかめましたか。
「入社当時は中曽根政権が日本電信電話公社の民営化を進め、NTT株の上場が予定されていた時代です。170万人近い株主が一挙に誕生するので、株式市場が大衆化しブームが起きると期待されていました。そのあたりの話は政治家、秘書の方々は敏感でした。
かといって、政界はそんな甘いところじゃありません。いきなり資金運用の話をするなんてあり得ない。狙い目は政治家本人より、その秘書軍団でした。すべては秘書が切り盛りしているし、秘書の株式取引は今ほど神経質ではなかったからです。
でも、どんなに真剣に営業しても、すぐに分かったのは政治家や秘書たちが証券会社をカモにしていることでした。秘書の1人にやっと会えて、資金運用の話ができたとしても、要求されることは一つだけ。『新規公開株をくれ』『新発CBをくれ』の一点張りです。要するに、濡れ手でアワで、買ったらすぐ2倍になるような『おいしい商品』をよこせという。証券会社では、そういう商品は、損をさせた客のご機嫌とりに使うのが暗黙の決まりになっていた。損失補填の一つともいえます。
永田町で僕が顧客化できたのはたった1件、それも僕の地元長野の縁で何とか会えた、衆議院議員、羽田孜氏の秘書だけでした。羽田氏は竹下登内閣で農水相を務め、将来の総理候補の一人ともてはやされ始めたころです。けれども、僕にはさっぱりカネの臭いのしない政治家に見えました」
――確かに羽田氏はその後の94年に64日間だけ総理になりました。細川護熙総理が政権を投げ出した後ですが、財布のヒモは小沢氏に握られていたから短命でしたね。
おねだり秘書たちのいいカモ
「ただ、この秘書はおねだり客の典型でした。特に損をさせたわけでもない。山一に何の貢献もしていない。私自身のノルマを果たすために何の役にも立ってくれない。なのに、公然と新発CBをよこせなどと電話してきた。客を紹介してくれたことはあるが、これまた新発CBをせがむお客でした。新人営業マンにそんな融通がきくわけもない」
――証券会社の監督官庁は大蔵省証券局(現在は金融庁)でしょう?MOF(大蔵省)対策として政治家カードを握っておけば重宝だったのでは?
「代議士カードなんて、めったに切れませんよ。議員会館の度胸試しは結局、失敗に終わったのです。しばらくして赤坂転勤を内示された際、人事部に〈齋藤さんにぴったりの支店ですよ〉と言われました。以前、絨毯爆撃を試みたことが理由かもしれません。
でも赤坂支店に着任した当初は、地元の赤坂、紀尾井町、平河町界隈の有力者たちを顧客化するだけで、政界には近寄らなかった。90年代初頭ですからまだバブルが完全に崩壊していません。市場にも活気がありました。一所懸命に営業活動をしていれば、誰かの目に留まることもある。ある日、支店の次長にこう言われました。
〈齋藤。おまえ、政治家の顧客開拓に熱心だったよな。腕の見せどころだ、休眠口座があるんだ。それをおまえに預けるから、顧客を活性化してくれや〉
休眠口座とは、証券会社に口座を開いているものの、デッドストックとして資産を預けっぱなしのお客を指します。証券会社は銀行と違い、資産を預かるだけではほとんど意味がない。株を売り買いし、資産を転がし、手数料を落としてくれるお客でなければ稼げない。銀行と違い、証券会社は回遊魚の集団です。サメと同じで、動いていなければ死んでしまう。
投資信託なら預かるだけで信託報酬が入りますが、トップセールスを自負する次長がそんな上客を手放すはずがない。厄介な休眠客を、転勤してほどない僕に押し付けたのです」
――部下をシゴキ抜いて、手柄を独り占めにする上司は、当時珍しくなかったですからね。
「この次長は僕にとっていちばん苦手なタイプでした。
二重瞼が目立つ色白な男で、社長表彰を二度取ったことが自慢でした。仕事ができれば何をしてもいい、と思い上がっていましたから、社内外の女性に手をつけたという噂を度々耳にしました。生保レディーとホテルから出てきたとか、社内の某女子を性のハケ口にしているとか、同僚たちに囁かれるような男だったのです。
昼も夜もノルマの重圧にさらされる証券会社はどこも、権力を笠に着て女性社員と情事に及ぶとか、社員旅行で女風呂をのぞき見するとかが日常茶飯だった“蛮人”時代です。山一の別の支店のそんな醜聞が、朝日新聞の紙面を飾ったこともありました。僕だって私生活は褒められたものじゃなかったから、口幅ったいことは言えませんが。
曰くつきばかりの休眠口座
案の定、次長に押し付けられた口座は、どれもこれも曰くつきのものばかり。連絡先どころか、本人がどこにいるのかすら分からない。口座に何十億円あっても、これでは活性化しようがありません。成果があがらなければ、僕の責任になる。次長は部下を妬んでいたのかもしれません。どうにもならない客に縛りつけておけば、『無能』とレッテルを貼れますから。
そんな休眠口座の一つが、大物政治家、三塚博氏関連の口座でした」
――えっ、それは凄いじゃないですか。中曽根康弘内閣の運輸相として国鉄改革を推進し、竹下登内閣では通商産業相、3日天下の宇野宗佑内閣で外相、宮澤喜一内閣では自民党政調会長を歴任していた政策通でしょう。
総理の座を狙っていた安倍晋太郎氏が1991年に死去すると、安倍派四天王の1人である三塚氏は、領袖の座を争う加藤六月氏との『三六戦争』に勝ち、安倍派を三塚派に衣替えしました。勢いに乗る政治家のカードを引き当てたわけですね。