「医療」に開眼、モスキートに活路

リーマンの牢獄 【3】前編

「医療」に開眼、モスキートに活路

ニューヨークにお手本を仰いだ。神谷秀樹氏の本から、巨人に伍して戦う小さな「モスキート投資銀行」に自由が見えた。狙いは「医療」。ブティックの三田証券に飛び込み、診療報酬債権の証券化を実現させる。小よく大を制することができるか。=有料記事、約1万4400字

 

第3章カネは蜜の味〈前編〉

 

――齋藤さん、いよいよお正月ですが、ここ奥信濃の長野刑務所は、ちっとも季節感がありませんね。

「アバターさん、ようやく来てくれましたね。刑務所ではクリスマスもお正月も考えることは一緒です。そこで俳句を一句。

お正月数えた月日は残刑期

駄作ですけど、囚人の気持ちはみな同じです。刑務所では、クリスマスやお正月気分に浸るよりも、一秒でも早く刑務所から出たいんです」

――分かります。前回、〈マンモス投資銀行は賞味期限切れ〉なんて言い切ってましたが、メリルリンチを辞めようと決心してから、齋藤さんはどうしていたのですか。

「つい格好つけたことを口走ってしまいましたが、実は辞めたあとどうするかはノーアイデア、白紙だったんです。

これは外資のいいところかもしれませんが、2002年3月に辞めると意思表示してから、僕には半年近く猶予期間が与えられました。即退職してもよかったのですが、坂東ヘッドの配慮でどちらかを選択できたんです。積み立てた退職金5000万円(ほとんど非課税)は退社してからでないと支給されないことになっていましたが、給料はそれまでの100%が支給され、会社に出勤する必要もありません。

だから正式退社を10月としたのですが、僕にとって有休消化期間ともいえるこの半年間のモラトリアムは、これまでの自分を振り返るためにとても貴重でした。山一證券、新井将敬、都民信組、メリルリンチ……過去を顧み、今現在を確認し、未来を描きだす。次のステップで成功するには何が必要なのかを考える時間ができました。

ニューヨークへ“感傷旅行”

ふと、メリルの本社があるニューヨークへ行ってみようと思い立ったんです。あそこなら、次のヒントがみつかるかもしれない。とりあえず大型スーツケースに服と靴と本を放りこんで、単身ニューヨークへ飛び立ちました。もちろん何のアポも、ホテルの予約も取っていない。一度、吹雪いた日がありましたから、あれはまだ3月のことだと思います」

――へえ、卒業旅行のようなものですか。メリルにいた3年間を懐かしんで、センチメンタル・ジャーニーとは……。

「ニューヨークの空の表玄関、JFK空港で降りて、タクシーに飛び乗るや、〈プラザホテルへ向かってくれ〉と運転手に告げたんです」

――行きあたりばったりに、ノーブッキング(予約なし)で?5番街に面したあの有名な五つ星ホテルに飛びこんだんですね。

「ええ、とっさに思いついたんです。1985年にG5(先進5カ国)蔵相が過度なドル高の是正で合意した〈プラザ合意〉の会議場となったから、誰でも知ってる場所ですし」

――ずいぶん贅沢ですね。まだ〈1億円プレーヤー〉気分が抜けていなかったんですね。

「かもしれません。とにかく値段お構いなしなら、フリーで行ってもプラザのスイートには泊まれますよ。そのままニューヨークに居続けました」

9.11テロの恐怖の余韻

――ちょっと待ってください。その半年前、01年9月11日にアル・カイダの同時多発テロがあったばかりでしょう。メリルの米国本社はWTCツインタワーに隣接していましたから、崩壊の衝撃で大きなダメージを受けたはずです。まずあの時のことを聞かせてください。

アル・カイダの同時多発テロでツインタワーが崩壊した瞬間。
右上の3棟が隣接するメリルリンチ本社のあるワールド・フィナンシャル・センター
​​​(2001年9月11日、ニューヨーク市警航空ユニットが撮影)

「あれは忘れられない1日ですね。全員が緊張しました。〈次に狙われるのは東京だ。米国系の金融機関がテロの標的になる〉なんて噂がまことしやかに乱れ飛びました。

マンハッタンにはもう社員証を提示しても入れないとか、ワールド・フィナンシャル・センターのメリル本社は倒壊の恐れがある、などという情報が東京にも流れてきました。

Jのある大手センタービル、JSのファーストスクエアも、段違いにセキュリティが厳しくなり、身分証がなければエレベーターホールにも入れなくなったと記憶しています。

すぐに避難訓練が実施されましたが、僕ら日本人社員は非常階段を駆け下りながら、とってつけたような泥縄にあきれて、まるで緊張感がありませんでした。〈これで金融が大きく変わるぞ〉なんて言いながら通りすぎた熊谷副社長だって、前夜は相変わらず銀座の高級クラブ『麻衣子』に飲みに行ってましたから」

――でも一時、世界最大の金融センター、ニューヨークが機能マヒに陥りました。

「メリルリンチは緊急措置として3兆円の流動性を確保した、と異例の速さで発表しましたが、さすがと感心しましたね。そのコメントは実は東京から世界に発信されたんです。デヴィッド・コマンスキー会長以外、米国メリル本社の役員は全員、その日なぜか東京にいて難を免れたそうです。まるで事前にテロを予見していたかのように」

――不思議ですね。他にもいろいろ都市伝説が流れました。

「9.11の日付がニューヨークの110番である〈911〉と同じだったので、ブッシュ大統領は事前に知っていた、とかいう類いでしょ。僕もとっさにそう疑いました。

翌日、東京からニューヨークへ日本の社員50人ほどが出張する予定があったのです。ニューヨーク近郊の空港が閉鎖されて、成田で足止めを食いました。事件後すぐキャンセルすればいいのに、成田で待ちぼうけだなんて、東京はやはり間抜けてました」

――旅の話に戻りましょう。テロから半年経って、春先のニューヨークは立ち直りかけていましたか。

「マンハッタンには問題なく入れましたが、タクシーも地下鉄も、そして都会全体がいまだに星条旗、星条旗、星条旗……の氾濫でした。グラウンドゼロは瓦礫の山。リーマンのアメックスビルや、我らがメリルの本社ビルも、フェンスの板囲いがしてあって中に入れない。メリルの総司令塔(HQ)はまだ対岸のニュージャージーに仮住まいしていましたね。なのに、板囲いの反対側に並ぶ高級レストラン街は、何事もなかったように盛況でした。何とも言えないチグハグさでしたね」

――春の陽ざしにどこか暗い翳りが混じる、奇妙な時期だったんでしょう。そんなニューヨークで何か見つかりましたか。

職探しに壁、出会った本に閃く

「準備不足が祟って、プラザホテルの一室で、暇をもて余す日々でした。せっかくマンハッタンまで来たのに、東京と同じく本をパラパラと斜め読みするしかない。本を何冊読んだか分かりません。ヒントを探す一番安上がりな方法が本でした。

でも、僕があてにしていたのは、メリル時代に知りあった現役の投資銀行マンたちでした。しかしアポなしでは、忙しい彼らの時間がなかなか取れない。半ば観光気分で来ている僕なんかの、お相手をしている暇などないのです。

外出してメトロポリタンやMoMAなど美術館めぐりもしましたが、これでは観光客と大差ない。結局、かさむプラザホテルの宿泊代に耐えかねて、1週間ほどで出ることにしました。タイムズスクエア近くの長期滞在者用のアパートメントハウスに移ったんです。

――それだけ長く滞在したのは、もしかしてウォール街に就職する気だったのでは?

「ええ、あわよくばね。就職を前提にして、会えた友人から感触を探ったのは、スイス系の投資銀行CSFB(クレディスイス・ファーストボストン)とか、保険のプルデンシャルとか……。でも、言葉の壁は厚いし、ビザ取得など困難なことだらけと感じました」

――東京からいきなり飛んできて職探しではね。労働許可証もない、在住経験もない、組織のバックアップもない“三重苦”では、どこも二の足を踏むでしょう。

「友人たちの話を聞きながら内心思ったのは、僕は何をしたいのかがはっきりしていないことでした。それなのに、ニューヨークにいて何の意味があるんだろう、と次第に不安になってきました」

――生き馬の目を抜くようなニューヨークで、東京の〈1億円プレーヤー〉という触れ込みだけじゃ、とても単身では働けないということでしょう。

「寄る辺ない僕は、また本に頼ったんです。はっと胸に響いた本がありました。日本から持参した本だったのか、それともブライアント・パークにある紀伊國屋書店で手に取った本か、もう思い出せません。とにかく心の中にすーっと入りこんできたんです。

それは神谷秀樹みたにひでき『ニューヨーク流たった5人の「大きな会社」』(亜紀書房)です。僕にとっては目からウロコの本でした。

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