リーマンの牢獄 【6】後編
ゴールドマン「破談」で迷える餌食
家族と離れ、豪華ホテルを転々としながら、東京で孤独な放浪。逃げ支度を始めると、ぴたりと寄り添い、密室パーティーに誘って地下銀行へ誘導する「クロサギ」。株も車も不動産も身ぐるみはがされたが、藁をも縋る思いだった。 =有料記事、約1万6100字
第6章コンゲーム〈後編〉
――早いものでもう2月半ば過ぎ、二十四節気の一つ〈雨水〉です。寒さはまだ変わらずとはいえ、陽射しが少し春めいてきました。といっても、この独房にいては、太陽を直接拝むことなどできませんが。
「外の社会から隔離された塀の中にも季節感は存在するんです。クローバーの葉の上の霜、それがあえかに融けていく様子……娑婆にいたら見過ごすような、ささやかな季節感ですけど。
ですが、アバターさん、2008年2月の僕は春の訪れに気づくような心のゆとりはなかったはずです。リーマンから入金した371億円の償還期限という、黒々とした〈バーナムの森〉がもう目前に迫っていたんですから」
――シェークスピア劇の翻案である黒澤明監督の映画『蜘蛛巣城』でも、城兵が総崩れになり、奥方は気が触れてしまう。齋藤さんも人に見放され、誰もが離れていきましたか。
「危ういとなると、たちまち人心は離れていくものです。その先駆けは桐生市に本拠のある福田会計事務所の会長、福田博重税理士でした。アスクレピオスの事業に怪しいところがあると判断するや、直ちに辞職し、いち早くアスクレピオスを去っていきました。
ぴたりと寄り添う「蛭」
アスクレピオスの取締役たちも、すでに浮足立っていました。筆頭株主なのにLTTバイオファーマの取締役を解任された僕を、学士会館で目のあたりにしたわけですからね。まだ室町の新オフィスに移転して間もないのに、会社はもう壊れかかっていました。
ところが、前途に待つ巨大な奈落にむかって、ただ流されていくしかないこの僕に、たった一人だけ、ぴたりと寄り添い、蛭のように張り付いた人物がいたんです。ほとんど毎日のように携帯に電話をかけてきて、親切そうに様子を聞いてきました」
――えッ、誰ですか、そんな奇怪な人がいたんですか……むしろ怖いですね。
「僕自身は、自分が危うい崖っぷちにいるという認識に欠けていたのかもしれません。離れていく人はやむを得ないとして、近づいてくる人にも警戒感を抱きませんでした。何のために近づいてくるのか?そんなことを考える余裕がなかったのかもしれません。
孤立して相談相手もいない僕は、知らぬ間に死臭を発していたんでしょう。捕食獣(プレデター)にいつ襲われてもおかしくないことに気がつきませんでした。どこに隠していいか分からない札束の山と、車や不動産、それに腕時計など貴金属もありながら、立ち往生していたのです。きっと群れからはぐれ、たった一頭でサバンナをうろつく、丸々と肥えたアフリカ水牛に見えたことでしょう。
実はその人物は以前から僕の前に登場していました。裏口上場のためにLTTバイオファーマ株を市場外でまとめて購入したことがあったでしょう?」
――ああ、三田証券社長の弟さんに紹介された株主でしたっけ。初対面は六本木の後藤花店の上の高級カラオケルームでしたよね。あれはいつごろでした?
「06年夏だったと思います。オーナー系製薬会社の娘婿だという黒崎勉氏(仮名)でした。まだ20代でとても若かったのですが、その場でLTTバイオ株を買うことで合意し、三田証券と日興コーディアル証券の場外クロス取引で約3億円弱のLTTバイオ株を取得しました。こちらの足元を見たのか、市価13万円より1割高く売り付けられ、年齢の割にしたたかだな、と感じました。黒崎氏はまた丸紅案件のスキームにも興味を示し、森・濱田松本法律事務所の弁護士立ち会いのもとで説明してくれと言われたんです。
そこで丸の内パークビルディングの森・濱田のオフィスに、僕と税理士の福田副社長と2人で参上して、小野寺良文弁護士の前でプレゼンしました。黒崎氏は後ろで黙って聞いていて、ひとことも口を挟みません。06年の秋か初冬だったと思います」
――小野寺氏は確か知的財産のエキスパートですよね。東京大学農学部で生命科学を学び、法曹界に転じた異能の人です。司法修習52期で2000年に森・濱田に入所していますが、どうして丸紅案件の鑑定役に出てきたんでしょうかね。
「さあ、丸紅案件の本質は病院ファイナンスで、知財とは畑違いでしたが、黒崎氏と小野寺氏は親密でした。名の知れた大手法律事務所ですから、有力な後ろ盾がいることを誇示したかったのかもしれません。
北京風の訛り、南信濃移住
黒崎氏の日本語には北京風の訛りがあります。父親が中国系だったからだそうで、小学生までは中国で育ち、それから長野県の南信濃に移住したらしい。中学生から株式投資にのめりこみ、学校の授業が終わるとまっしぐらに証券会社に通っていたようです。高校は僕の知らない南信の県立高校のようですが、なかなかなじめなかったのか、〈日本人なんか信用できない〉と呟いてました。とにかく上京して拓殖大学に入りました。
20歳前には日本で最年少の投資顧問会社社長になったそうです。目黒碑文谷近くにあるその投資顧問会社に行ってみたことがあるのですが、オフィスと呼ぶにはあまりに見すぼらしく、昭和初期のアパートのような感じでしたね。大学卒業後、消費者金融の武富士の武井保雄会長のもとで住み込みの修業をした、と本人から聞いて、なるほどと思いましたが、30歳前にどうやってそこからのし上がったのか、不思議でなりませんでした。
黒崎氏は森・濱田のオフィスにもう一人、右腕だという霧島明穂氏(仮名)を連れてきましたが、彼と同じ南信の県立高同級生で、いかにも事務方のニコイチみたいな人でした。森・濱田では小野寺氏と霧島氏が正面に着席したので、まず僕はこの2人を説き伏せなければならなかったんです」
――小野寺弁護士は中国語ができ、中国やアジア地域(ASEAN諸国及びインドなど)の知財業務にも精通していて、2014~20年には森・濱田の北京事務所首席代表を務めています。中国つながりで黒崎氏と親しくなったのかもしれません。ただ、若い黒崎氏の後ろには誰か金持ちのスポンサーがいたのでは?
「はっきりとは分かりません。一度、パチンコが本業ですが、投資家としても知られる大阪華僑南華公会の王厚龍会長の名を出してみたら、〈ああ、騙されましたよ〉とそっけなく答えました。あの言い方では接点があるにはあったようです。
とにかく丸紅案件のプレゼンを終えたあと、ほどなくOKの返事が届きました。おそらく丸紅が最終リスクを取るなら問題ない、との小野寺氏の助言を得て、黒崎氏自ら決断したのでしょう。小野寺氏も丸紅に内容証明付きで支払い保証を確認するという手間を取らなかったのです。結局、アスクレピオスが組成する投資事業組合に3億~5億円を出資してもらいました。期間はやはり3~4カ月の短期で、償還の利回りは年率30%程度だったと思います。当時、友人の堀川氏からは〈一般投資家向けの利回りの最低ラインは15%程度〉と言われていましたから、その約2倍にあたるハイリターンでした。
OKの返事をもらってから2週間以内に、僕は霧島氏と小野寺弁護士を連れて丸紅本社に乗りこみ、契約書類を整えたんです。このとき黒崎氏は同行せず、霧島・小野寺氏に任せきりにしていました。代わりにプレゼンに出なかった山中課長が出迎えたんです。やはり丸紅本社の皇居の〈借景〉は効果てき面でしたね。でも、僕が仰天したのはそのあとです」
――どうかしたんですか?出資に横ヤリが入ったとか。