リーマンの牢獄 【9】前編
看守の恣意に「金縛り」だった
いよいよ始まったムショ暮らし。そこはあらゆる動作に許可が要るスパルタ社会だった。看守の恣意で“営倉”送りの懲罰と、受刑者同士の陰湿なイジメ。〈係〉に任命されて、スリ寄るしか逃げ場がない。=有料記事、約1万5500字
第9章われ深き淵より〈前編〉
「刑が確定して未決囚から既決囚になると、昔は赤い囚人服を着せられたので、〈赤落ち〉と言うんだそうです。判決から2週間後の2009年9月28日、僕は赤落ちになりました。
ところが、1カ月経っても、2カ月経っても、僕は刑務所に移送されませんでした。元丸紅課長の山中譲氏ら共犯者の分離公判で、検察側証人として出廷するために、東京拘置所のC棟7階の独房にとどめ置かれたんです」
――すでに受刑者の身なのに中途半端ですね。これまでと待遇は同じでしたか。
「いえ、拘置所内で漫然と過ごすことは許されず、与えられた手作業をしなければなりません。僕は独房でせっせと袋づくりをさせられました。
1日の日課は朝6時30分起床、朝食を済ませ、独房の食器口から作業材料が入ってくると、作業スタートです。企業のロゴ入りの紙袋を一人でこしらえるのです。例えば、溜池山王のANAホテルの高級寿司店の紙袋とかがありましたね。途中、独房から出られるのは、屋上で運動する40分間だけ。昼食後は再び4時30分まで袋づくりを続け、〈作業やめ〉〈配食用意〉のアナウンスがあると1日が終了となります。
5時30分には夕飯の〈カラ(食器)下げ〉が終わり、9時まで余暇時間です。本を読むなり、ラジオを聴くなり自由です。ほとんど他人と話すことなく1日が過ぎていきます。
1人でフクロ張り浪人
来る日も来る日も、カサ張り浪人ならぬ、フクロ張り浪人を続けたのですが、なかなか法廷のお呼びがかからない。そのまま、どの刑務所に行かされるのかも明かされず、半年が過ぎました。翌10年3月、見ず知らずの看守(刑務官の最下位)に突然告げられました。
〈命によって長野刑務所に護送する〉」
――何の予告もなく、説明もなしですか?
「はい、その一言だけです。3人の受刑者が手錠をかけられ、腰縄で固く結ばれたうえ、刑務所が用意したマイクロバスで小菅を出ました。いったい何キロ出すんだ、と怖くなるほどの猛スピードで関越自動車道を長野へひた走るのです。手足が不自由なまま硬いサスペンションに揺られていると、やはり受刑者の命など軽いんだなと実感できます。
群馬県の藤岡ジャンクション近くのサービスエリアに立ち寄り、トイレ休憩したのが悪夢でした。手錠や腰縄を観光客がじろじろ見ていて、いたたまれない。しかもトイレ内でも解錠してくれないので、ちょっと大きな動作をすれば全員びしょ濡れになる。
関越道から長野自動車道に入ると、インターチェンジ〈碓氷軽井沢〉の表示が目に飛び込んできました。ああ、別荘地の夢よ、今いずこ、軽井沢の深い森とこの囚人護送バスの何という落差。早く通り過ぎてくれ、とひたすら祈っていました。
長野東・須坂インターで高速道を降りると、目立つのはリンゴなどの果樹園らしき畑です。長野刑務所があるのは、長野市から東に10キロほどの須坂市です。刑務所は市のほぼ中心にあって、近くには高校や富士通の工場、それにイオンの大きな看板が見えました」
――3月の奥信濃はまだ冬景色でしたか?
「刑務所に着いて、マイクロバスから降ろされると、凍てつくような風に全身が硬くなり、頬に刺すような痛みを覚えました。長野刑務所は専ら初犯者を収容するところと聞いていましたが、長野には暖房がなく、冬の寒さに耐えることも重要な刑罰の一つでした。
スパルタ式を叩きこむ
新人の入所者を待っているのは、東京拘置所と同じく厳しい身体検査です。睾丸の裏表や、ペニスに真珠が入っていないかどうかをチェックする、看守の食い入るような視線にさらされます。有名な“カンカン踊り”はもうないが、陰嚢を上げたり下げたりはある。待機場所はまたもや、大人一人がやっと入れるベニヤ製の暗箱でした」
――新人は刑務所のイロハをどう教育されるのですか。
「入所すると一人の例外もなく、1カ月間は新人訓練工場(新訓)で徹底して“スパルタ式作法”を叩きこまれます。それから各工場に配置され、本格的な懲役作業が始まります。僕は第7工場でした。携帯電話の解体、和服収納袋を製作する工場です。
〈1364番、齋藤栄功です。本日より第7工場に配役となりました。よろしくお願い致します〉。我ながらびっくりするような大声で、工場担当の山崎刑務官に挨拶しなければなりません。体育会系というか、軍隊式なんです。懲役10年以上は囚人番号4ケタ、未満は3ケタで、重罪犯とすぐ分かるので嫌でしたね。
でも、工場配役と同時に、僕だけ特殊な日々が始まりました。長野刑務所に東京地検公判部、前橋地検刑事部、東京地検刑事部、国税局査察部などの係官が次々にやってきて、それぞれ僕を取り調べるのです。これでは懲役の作業に専念できません。やがて09年5月のある日、長野から東京拘置所に逆送されました。証人出廷の呼び出しがあったからですが、「なんだ、また来たのか」と拘置所の看守に言われました。公務なのにあんまりですが、何を言われようが囚人はただ耐えるしかありません。
逆送されて証人出廷
また拘置所で袋づくりの日々に逆戻りです。刑務所と違って、拘置所の独房にテレビはありません。いつ看守の叱責が飛んでくるか分からない刑務所のストレスはないけれど、袋づくりと読書の果てしない繰り返しでした。そして予告なく、東京地裁出廷の日が来ました」
――有印私文書偽造及び行使で起訴された山中被告の分離公判ですね?
「ええ、検察側証人として証言台に座った僕に、被告側の高野隆弁護士が最初にぶつけてきたのは、丸紅案件第1号をめぐる質問でした。〈あなたはなぜ、内容証明郵便を山中さんに送ったのですか、脅しのためだったのでしょう?〉。検察と被告の争点を知らずとも、この質問で山中氏側のシナリオが、主犯の僕が丸紅嘱託社員だった山中氏を脅したうえに、詐欺事件に巻き込んだという筋書きだと分かりました。僕は言下に否定します。
いいえ、私はメリルリンチ時代から株主にとって不都合な事実を知った場合、その場で記者会見を開く覚悟が必要だ、と教えられてきました。債務存在の有無を確認する内容証明は当初、山中氏だけでなく、丸紅本社へも送付するよう三田証券管理部門の岩佐健一常務に指示していました。
それこそが事実だからです。結局、担当者山中氏への送付にとどめたのですが、仮にあのとき丸紅本社に内容証明を送っていれば、その時点で山中氏単独犯による単純な取るに足りない詐欺事件で終わっていたでしょう、と陳述しました。検察はそれで十分と判断したのでしょう。出廷は1日で終わり、僕はまた長野へ移送されました。証人の日当は8000円、長野の新人受刑者の約10カ月分の高収入になりました」