藤兵衛伝 第Ⅷ章 2
天智を敬い、互いを認める社会に
山口組は分裂し激減して「必要悪」の時代は終わった。『全国部落調査』のネット復刻をめぐる解放同盟の裁判闘争からも、上田は距離を置く。「同和」から「人権」へのシフトは、済生会理事長、炭谷と組んだ「インクルージョン」と軌を一にする。郷里、山科御陵に眠る天智天皇への敬慕から「天智教」教祖となった上田は、ウクライナの戦火に「こういう時こそ私らの出番」と思いを新たにする。=敬称略、約1万4,500字
第Ⅷ章天智〈後編〉
暴対法と暴排条例の二重の締め付けで、暴力団が衰退し追い詰められていくなかで、山口組の髙山清司若頭は強圧的な「弘道会方式」で直参を厳しく管理した。
情報は自分の元に一元化し、管理統制を強めるために、月曜日から金曜日までのウィークデーは基本的に神戸の本部に詰めさせた。シノギ(稼ぎ)は減るのに上納金は上がり、会費は85万円となり35万円の積立金までプラスされた。さらに、ミネラルウォーター、石鹸、歯ブラシなどの雑貨品まで買わされ、これが、「ワシらは雑貨屋の親父か」と、組長らのプライドを傷付けた。
弘道会方式に嫌気さし山口組分裂
そうした不満分子を髙山は容赦せず、次々に処分した。この弘道会方式、髙山支配に耐えきれず、2015年8月27日、四代目山健組を中核に13団体が離脱、「神戸山口組」が結成された。
我ら有志一同の者、任侠道の本分に回帰致し歴代山口組親分の意を遵守する為、六代目山口組を離脱致し、新たなる「神戸山口組」を発足(します)。
発会式の直後、神戸山口組組長に就いた井上邦雄・山健組組長(兼務)は、こんな回状を全国の組織に配布した。13団体のトップは当然、六代目山口組から処分を受ける。そのうえで両山口組は「同じ菱の代紋」を掲げて激しい抗争を展開。結果的に勝利したのは六代目山口組で、その象徴が神戸山口組の中核組織の山健組が21年9月、六代目山口組に復帰したことだった。
山健組は、三代目山口組の若頭だった山本健一が起こした名門で、組員数も資金力も最大組織。二代目が後に山口組五代目となる渡辺芳則で、三代目が桑田兼吉、四代目の井上邦雄が、神戸山口組結成後、兼務していた組長の座を譲ったのが五代目の中田浩司で、結果的に中田は組を割って出て、司忍六代目の傘下に入った。井上の指導力不足が指摘され、19年10月、府中刑務所を出所して神戸山口組を切り崩した髙山との「力量の差」を指摘する向きもあるが、暴力団そのものが弱体化しており、それほど個人の力量差は関係なかろう。
実際、2015年8月の分裂時点での構成員数は、六代目山口組の約6000人に対し神戸山口組は約2800人だった。20年末時点では六代目山口組が約3800人に減少し、神戸山口組は17年4月に任侠山口組(現「絆會」)が分裂独立したこともあって半分以下の約1200人となった。山健組中核(残留組もいる)の離反でその数はさらに減り、実働部隊は約500人といわれる。ただ、六代目山口組の減少にも歯止めはかからず、暴力団全体が「絶滅」へ向かっている。
会津小鉄は見る影もなく30人
その象徴が、京都を仕切っていた会津小鉄会の“惨状”だろう。
戦後京都の「秩序」は、会津小鉄会とともにあった。中島会幹部として、戦後の混乱期に警察権力の不足を補って三国人(日本の植民地支配を受けていた台湾、朝鮮半島の人々などの総称)と争った図越利一は、中島会の跡目を継いでからは、全国制覇する勢いの山口組への対抗の意味もあって、中島連合会として府下の組織をまとめ、そのうえで明治の名跡だった会津小鉄会を75年に復活させ、三代目に就いた。同じ1913年生まれで気が合った山口組三代目の田岡一雄に「京都不可侵」の約束を取り付けると、京都を守り切り、その座を高山登久太郎四代目に譲った。
登久太郎は1989年、下京区木屋町通りに4階建ての堅牢な会津小鉄会館を建設、ここを拠点に「京都の揉め事」を裏で押さえ、92年の暴対法施行では反対の先頭に立ってメディアに頻繁に登場した。この頃が会津小鉄会のピークだったろう。構成員は約2000人だった。在日韓国人である登久太郎の韓国名は姜外秀(カン・ウェス)。在日韓国人社会への貢献を心がけていた登久太郎は、在日韓国人組織の民団(在日本大韓民国民団)での活動を続け、幾つもの勲章を受賞している。
1997年に引退、跡目を図越三代目の次男、利次に譲るが、この後で会津小鉄会は山口組若頭補佐の中野太郎襲撃事件などを起こし、徐々に勢力を弱めていく。六代目馬場美次を経て、金子利典が七代目となったが、山口組分裂に合わせて二つの七代目会津小鉄会が誕生、六代目山口組と神戸山口組の代理戦争を展開する。結局、神戸山口組の弱体化によって、会津小鉄会も六代目山口組の後見を受けて一本化、金子体制が継続した。だが、構成員数は20年末時点で約30人。名跡ゆえ名前を残しているだけで、事実上、京都は六代目山口組が支配している。
時代に切り捨てられた「必要悪」
会津小鉄会は、60年代に入って不動産や建設、人夫出しなど事業を手掛けていた上田にとって思い出深い組織だった。同様に山健組は、80年代初め、上田が知り合った頃は、その傘下団体の組長でしかなかった渡辺芳則が、その後、山健組若頭、山健組組長を経て五代目山口組組長となっただけに、思い入れのある組織である。
だが、時代は残酷にひところ隆盛だった社会的存在を、役割の終焉とともに押し流してしまう。会津小鉄会も山健組も、役割を終えたかのように散ろうとしている。厳しい債権回収など表社会の扱えない仕事を“迅速”に行う役割の暴力団を、表社会が本気で潰しにかかった以上、「宿命」というしかない。
暴力団が担ってきたのは、「必要悪」としての「負」の役割であった。同じように役割を終えようとしている同和団体だが、各団体には、差別解消のために必要な「正」の役割があった。全国人権連は2004年の段階で「同和」の旗を降ろし、自由同和会は最後の仕事に取りかかり、部落解放同盟は組織が縮小するなか最後まで同盟員に寄り添おうとしている。その変化も時代の流れだろう。だが、「全国水平社の頃から、解放運動も同和行政も必要なかったのではないか」と、刺激的なことをいう人がいる。
鳥取県出身のソフトウェア開発者で、人権問題に切り込む出版社の示現舎を経営する宮部龍彦――。「鳥取ループ」と呼ばれるが、それは「手続きが無限に繰り返される(ループする)」というコンピュータ用語をブログのタイトルにしていたからだ。
『全国部落調査』復刻のネット公開訴訟
『全国部落調査』復刻版という被差別部落の地名などをまとめた本を出版、ネット公開をしようとして、部落解放同盟と約230人の被差別部落出身者から「プライバシーの侵害だ」として訴えられた。2016年7月に始まった裁判は5年の歳月を費やし、その間、解放同盟は『全国部落調査』復刻版の出版とネットへの掲載は「差別解消を目指す部落解放同盟のこれまでの取り組みを水泡に帰す行為」として総力をあげて戦ってきた。
13回の口頭弁論が開かれ、4回の証人尋問では9名の原告が自らの被差別体験を語り、21年3月に結審・最終弁論が行われ、原告団団長の片岡明幸副委員長が「被告らの行為が差別を拡散、裁判所が私たちの請求を認めなければ、被告らの行為にお墨付きを与えたことになる」として公開差し止めと削除、及び損害賠償の決定を求めた。
東京地裁は21年9月27日に判決を下し、「公表は結婚や就職で差別を受ける恐れがある」として大半の原告のプライバシー権を認めたうえで、復刻版の出版の差し止めとインターネット上のデータ配布の禁止を認め、219人の原告に対し計488万6500円の損害賠償金の支払いを命じた。