解放同盟には背を向けた

藤兵衛伝 第Ⅱ章1 

解放同盟には背を向けた

石川淳の『紫苑物語』の世界のように、京都・東山の山向こうの山科にも、天智天皇陵や大石内蔵助の別邸、山科鄕士隊といった独自の歴史がある。それを背負う上田藤兵衛は、水平社系の反体制派が主導し分裂して熾烈な内訌を繰り返した部落解放運動に与しない。玄洋社を経て自民党系の団体を選んだ彼は、左翼史観を排したがゆえに終始ブレることがなかった。<敬称略> =約1万2000字

 

第Ⅱ章山科〈前編〉

 

上田藤兵衛は、1945年(昭和20年)6月21日、京都市東山区(現山科区)竹鼻竹ノ街道町に非嫡出子として生まれた。幼名は高雄である。

山科には、第38代天智天皇(在位668 ~671年)の墓、天智天皇陵がある。「山科」の名が初めて登場するのは日本書紀。「天皇〔天智〕、山科野に縦猟かりしたまふ」と書かれている。中大兄皇子なかのおおえのおうじとして、中臣鎌足なかとみのかまたりとともに645年の乙巳の変で蘇我入鹿そがのいるかを暗殺し、日本で初めて「大化」と元号を定めて、皇太子として「大化の改新」を断行した。天皇中心の強固な集権体制を築いた天智天皇と山科の関係の深さが窺われる。

「大化の改新」を断行した天智天皇は山科陵に眠っている

竹鼻は、江戸時代の「山科郷17カ村」のうちのひとつで、一部は賤民に区分される「しゆく」であった。夙は、主に牛馬の処理や皮革業に関わる穢多とは区別される賤民で、陵の警護と清掃、葬送などを担ってきた。死体の処理や葬儀など死にまつわることはケガレであり、それを「業」として行うから部落の「外」の人として差別を受ける。その一方で、警護のために槍、刀などの武器を持ち、警察権の一部を担い、「草場くさば権」という名の自治権を持っていた。

家には火縄銃から日本刀まで

被差別部落問題に詳しい人でも、穢多、皮多、川田、河原者、清目きよめ、夙、唱門師しよもじと、時代により、場所により部落民、賤民の呼び名は違い、差別の実態も異なるので、全てに精通している人は少ない。夙と草場権も文献により、地域により異なるようだが、上田の説明では、京都・山科における草場権とは、次のようなものだという。

「部落の外にあって、国や自治体が何かをやってくれるわけではないから、祭礼のテキ屋、芝居や相撲などの興行を夙の者が仕切って収益にする。一方で、御門の警備などを通じて、警察権や刑務権を持っていますから、非人を管理、仕事を与える。あるいは台風が来て、道が壊れたら補修もする。その隙間に、博打場の胴元になって、テラ銭を稼ぐ。ヤクザとは違う形の縄張りを持つ権利ですわ」

上田家もまた夙の一員として、家には火縄銃から日本刀までが備えられており、実際、幕末の戊辰戦争では、上田の曾祖父にあたる藤兵衛(高雄はその名を継いだ)が、山科鄕士隊の一員として、朝廷側(薩長軍)について戦った。家は東海道沿いの一等地で、500坪以上の敷地に借家が8軒あった。曾祖父・藤兵衛の時代には、天智天皇陵の清掃のほか、山科郷は禁裏御料(天皇家の所領)であったため、禁裏御所警護役にも付いていたが、家業として、街道沿いで茶店を営み、そこで提供する酒を醸造、ほかに材木も扱っていた。

かなり裕福だったといえるが、それを映して曾祖父・藤兵衛は、代官奉行の小堀家に願い出て、1850年(嘉永3年)、旧大石内蔵助邸の一部を移設、欄間や玄関などに使っていた。大石内蔵助は言わずと知れた赤穂浪士の頭目で、1702年(元禄15年)12月、主君であった赤穂藩主、浅野内匠頭の恨みを晴らすべく、吉良上野介の屋敷に討ち入り本懐を遂げた。浄瑠璃、歌舞伎、舞台、映画で繰り返し演じられる元禄のスターである。討ち入り前の約1年半、山科に隠棲しているが、歌舞伎では『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居」の名場面で知られ、山科は赤穂に次ぐ「内蔵助ゆかりの地」となった。

旧内蔵助邸の品々は上田が生まれた時も往時の姿を伝えており、上田家の家業だった材木商「若藤」の1956年の倒産、それによる上田家没落と家屋敷の売却までは、「内蔵助ミュージアム」として見学に訪れる人がいたという。

戦後復興で豊かだった材木商の実家

上田の母・摩耶子は、4人姉妹の長女として1911年に生まれた。上田家の家業存続のため、明治になって山科鄕士隊が移り住んだ千葉県東山科村から婿を迎え、男、女、女と3人の子供をもうけるものの、夫との折り合いが悪くなって離婚。戦中、神戸の靴商人で山科に倉庫を持ち、行商していた男性と恋仲となって藤兵衛を生んだ。

藤兵衛の母、摩耶子

長兄とはひと回り(12歳)年上、上の姉と8歳、下の姉とも4歳、離れているという年の差と、「種違い」という屈折はあったものの、ものごころついた頃、日本は戦後復興期に入っており、材木は飛ぶように売れて、若藤は活況を呈していた。

「家の倉庫には製材した商品が置いてあり、近くには製材所があって、多い時は100人ぐらいの職人さんが働いていました。材木屋としては大きい方です。職人のなかには、朝、ウチでメシを食っていく人もいる。だから、直径1メートル近い釜ふたつでご飯を炊き、大量の味噌汁とたくわんを用意する。作るんは、ウチのおじいとおばあですわ。それを私はお手伝いして、おばあが神棚と仏壇にご飯を置き、手を合わせるのを後ろでマネする。朝、一緒に起きるから、一番、美味しいところを食べる。食うのに不自由はしいひんかったんですわ」

山科の諸羽神社のお祭りに着飾った姉2人と
幼時の藤兵衛(手前)。後ろは彼を可愛がった祖母シカ

夙の部落に非嫡出子として生まれたというハンディはあるものの、豊かな家で祖父母に可愛がられて育ち、草場権に守られていた。差別に悩んで育ったという印象は上田にはない。これは、被差別部落に生まれ、同和運動の担い手となった部落解放同盟幹部たちの「物語」にはないことだ。差別と貧困、そこから脱却するための仲間との連帯、行政や企業との戦いといった、部落解放運動史には欠かせない物語がなかったのである。

だからだろう。1984年、運動に入る際、藤兵衛は自民党系の全日本同和会を選んだ。

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