修学院離宮で「死のうか」

藤兵衛伝 第Ⅲ章 2

修学院離宮で「死のうか」

造船疑獄の佐藤栄作をかくまった「長州大政」柳井政雄は、佐藤の意を受けて自民系同和運動の初代会長になる。ユニクロの柳井正の伯父でもある彼は、解放同盟の対立軸として同対法誕生に寄与した。まだ20代の「修羅」を彷徨していた藤兵衛は、グループのいざこざに疲れ、玄洋社に接近、ついに刃傷沙汰で二度目のムショ入りとなる。<敬称略> =約1万500字

 

第Ⅲ章雌伏〈後編〉

 

全日本同和会初代会長の柳井政雄は、部落解放全国委員会(1955年から部落解放同盟)山口県連合会を足場に同和運動に参加したが、もともとは任侠の世界にいた保守の人。反天皇、階級闘争を基本路線とする解放委員会とは、どうしても肌が合わない。

「同和運動は思想以前の問題ではないのか。なぜ社会主義政策でないと部落問題は解決しない、というのか」

こんな発言を集会などで繰り返す柳井と県連の社会主義信奉者、それを支える解放委員会中央との間に溝が拡がり、1953年7月、除名処分を受け、同年12月、分派の山口県部落解放連合会を立ち上げる。そんな軌跡が保守王国、山口県の政治家に気に入られ、自民党とのパイプが太くなって、全日本同和会を主導する存在となった。

「義理人情の人」柳井が初代会長

柳井は1998年、鬼籍に入るが、現在、全日本同和会山口県連合会会長を務め、柳井の後を継ぐのは澤田正之である。姓が違うのは母方の姓を名乗っているからで、柳井が47歳の時にもうけた次男。肩幅が広くがっちりした体躯は、筋肉が隆々としていて「長州大政」の異名を持ち、数々の武勇伝を残した柳井を彷彿とさせる。

山陽新幹線新山口駅に近い山口県連合会事務所で、澤田が「父」を語る。

「長州大政」と呼ばれた全日本同和会初代会長の柳井政雄​​​​

「私もそうですが、親父はイデオロギーで動く人ではなかった。秩序を大事にするという意味では保守でしょうが、保守主義というのではない。弱い者は助けないといけない、困った人を見て素通りできない、頼まれると嫌といえない、差別される側に寄り添って助けたい、そういう義理人情の人でした」

柳井は明治41年(1908年)、山口県吉敷郡陶村(現山口市大字陶)に生まれた。父は隣接する小郡町(現山口市小郡)で牛馬商を営んでおり、四男だったこともあり、高等小学校を中退すると、兄を頼って京都に出て、料理屋で住み込みの小僧となる。そこで、早くも「無頼の萌芽」を見せ、世話をしていたシェパードが向かいの洋品店で飼っている秋田犬とケンカした。噛まれて深い傷を負うと、店に飛び込み刺身包丁を握りしめると、秋田犬に“報復”した。

店には居づらくなり、かといって家には帰れず、体ひとつあれば働ける山口県の宇部炭鉱に行き、働くようになる。気の荒い炭鉱に無頼の血が合ったのか、やがて暴力団の世界に入り、背中には桜吹雪の入れ墨を入れて配下を率いるようになった。小月競馬場(下関市)に乗り込み、抗争相手の馬を日本刀で叩き切った時は、地元紙に大きく報じられたという。賭場荒らしも重ね、「長州大政」の名は極道社会に知れ渡ったが、「どこかの組織に属したことはなく一本独鈷どつこ。地元組織などに兄弟分はいて交遊したが、誰かの配下になることはなかった」(澤田)という。その気軽さもあったのか、24歳で出所する際、30台もの車の出迎えを受けたが、「ごくろうさん。俺は、今日限り、足を洗う」と、宣言して山口市に戻った。1932年のことである。

商才の血筋は弟の長男で花開く

もともと商才もあったのだろう。カタギとなって事業を始めると、それもうまくいった。「商人宿」の経営から始めて、材木業、馬車などを使った陸上小運搬業など事業を増やし、面倒見のいい親分肌ということもあって、陸上小運搬業の組合長や木材の統制組合生産部員(戦中は警察署長が任免)などを歴任、戦時中も事業は発展して、終戦を迎える。

戦後も事業意欲は衰えない。1946年10月、山口市小郡大正町に金物、日用雑貨などを商う小郡商事をオープンする。同社の繊維・洋服部門を任せたのが、柳井の弟で戦地から戻ってきたひとしだった。等は49年3月、隣の宇部市にメンズショップ小郡商事を開業する。これが63年に株式会社化され、現在のファーストリテイリング(ユニクロ)となった。等の長男がユニクロを率いる柳井正で、澤田は従兄弟にあたる。

一代でユニクロを世界のブランドに育てた柳井正ファーストリテイリング社長兼会長と上田藤兵衛

柳井政雄は頼まれるとイヤといえない性格で、戦後初の地方選挙で山口市議会議員になったのは、馬車や木材などの組合仲間が、「あんたなら通るし、俺達の声を伝えてくれ」と勧めたからだった。1947年、社会党公認で出馬、379票を得てトップ当選だった。

柳井は自身が被差別部落の出身者であることは自覚していたし、叔父の柳井伝一は1922年3月、京都・岡崎公会堂で開かれた全国水平社創立大会に出席、山口県水平社の創立メンバーを務めた運動家だった。だが、叔父の影響は受けず、同和運動にのめり込むきっかけは、部落解放全国委員会山口県連合会幹部が、1946年3月の県連合会設立の直後、柳井のもとを訪れ、「参加してくれ」と頼んだからだ。

柳井は最初断わった。だが、「差別への怒りはあんたも同じやないんか。委員長職を用意してある」と熱心に口説かれ、引き受けた。解放同盟側の思惑は、柳井の統率力、戦闘力と事業で蓄えた資金だったという。この頃の運動は「手弁当」が基本だった。

柳井政雄は47年5月の改選期に委員長に就く。以降、防府市向島漁業組合長差別事件、小野田高校結婚差別事件などを先頭に立って糾弾する。だが、次第に、運動の主体を担う人間や、それを中央から指揮する本部との間に溝ができ、前述のように分派を率いることになった。そうした柳井に目を付けたのは自民党だった。

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