藤兵衛伝 第Ⅴ章1
「糾弾権」封じのトライアングル
解放同盟の武器「糾弾闘争」の牙を抜け――社共対立の膠着を打破するため、上田は解同の上杉佐一郎委員長らと手を組む。地対協会長で生き字引の磯村英一、厚生省官僚の熊代昭彦、参院議員の堀内俊夫という気骨ある3人を強力なエンジンとして、「ポスト地対法」は「同和」から「人権」へと舵を切る。ヒューマニズムとキリスト教が階級闘争史観を乗り越えた。=敬称略、1万3100字
第Ⅴ章躍進〈前編〉
「全国自由同和会を立ち上げて、地対協(地域改善対策協議会)路線を歩むようになってからステージが変わりました」
上田藤兵衛は、1986年7月の結成大会後の人生をこう表現する。
同和問題に本格的に取り組む同和対策審議会(同対審)が1960年に設置され、その答申をもとに69年、同和対策事業特別措置法(同対法)は施行された。その結果、住環境などハード面はかなり改善したものの、積み残しの事業は多く、就労、教育・啓発などソフト面の課題は解消していないということで、政府は10年の時限立法を3年延長させた後、1982年、「同和」に限定しない「地域」という意味合いを持たせる地域改善対策特別措置法(地対法)を期間5年で成立させた。
この地対法に沿った同和行政の在り方を審議するのが地対協(地域改善対策協議会)である。それまでの同和対策協議会が地対協に切り替わり、初代会長を務めたのが東洋大名誉教授の磯村英一だった。
この地対法の期限が切れる1987年を前に、自民党は全日本同和会に暴力団など反社会的勢力とのしがらみがあり、それがエセ同和問題を引き起こし、スキャンダルが多発すると批判を強め、全国自由同和会の結成を促した経緯は前章に詳述した。
全国自由同和会の結成大会の4つのスローガンのうち、「地対法の充実強化と事業の完全消化」は、地対法の継続を願うその時点での方針だが、残る行政の主体的確立、相互理解と相互尊重、そしてエセ同和行為の排除は、現在も自由同和会(2003年に全国自由同和会から名称変更)がスローガンとするもの。上田が会長を務める京都府本部のホームページには、
1 自由な論議の場を!
2 行政の主体的確立
3 エセ同和行為の排除
を掲げている。
罵りあう解同と全解連の近親憎悪
政府の意見聴取団体は、1987年の段階で自民党系の全国自由同和会、社会党系の部落解放同盟、共産党系の全国部落解放運動会連合会(全解連)の3つ。このうち解放同盟と全解連の抜き差しならない対立は、窓口一本化と矢田事件(後述)を契機に始まっており、共産党系は1970年、部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連)を結成、76年に発展的に解消して全解連とした。さらに2004年、部落問題は基本的に解消されたとして終結大会を開き、人権問題に取り組む組織として全国地域人権運動総連合(全国人権連)を立ち上げた。
2つに割れた運動体が、過去のしがらみを引きずり、激しく対立するのは珍しいことではないが、解放同盟は全解連を「差別者集団」とののしり、全解連は解放同盟を「利権暴力集団」と断じて譲らない。その対立は1970年頃から半世紀も続くのだから修復不能となっている。
両団体が対立構図を抱えるなか、同和行政=地対協路線に活動方針を沿わせる全国自由同和会は、「政府の同和行政は民間運動団体の意見を参考にしている」という“建前”を保持するためにも必要な存在だった。
地対法の期限切れを前にした1984年、地対協は中曽根康弘首相に「意見具申」を行った。「同和」から「地域」と名称を変更させただけの同和対策ではなく、現行事業を抜本的に見直し、一般対策への移行を基本とし、行政が運動体に引きずられることなく主体性を確立、運動体の行き過ぎた確認・糾弾に苦言を呈し、目に余るエセ同和の排除を求めた。この場合の運動体は、行政に最も影響力を行使する解放同盟のことだった。
地対協は、86年に入ると「地対法後の在り方」についての審議を重ね、再度、中曽根首相に「意見具申」を提出。政府は、それを踏まえ、12月末、関係省庁の協議を経て、「今後の地域改善対策に関する大綱」として決定する。この間、自民党の方でも堀内俊夫参議院議員が委員長を務める地域改善対策特別委員会が、「地対法後の在り方」について、述べ9回にわたり審議を重ね、関係省庁や自治体との意見交換も行った。
地対協の磯村会長は、66年にスタートした同和対策協議会の第一期から委員を務めており、同和行政の生き字引的存在だった。また、行政で地対協路線を担当するのは、1959年7月に発足した総務庁地域改善対策室で、答申から大綱への流れを担ったのは厚生省出身の室長、熊代昭彦だった。
ポスト地対法は、地対協の磯村、地域改善対策室の熊代、地域改善対策委の堀内のトライアングルで進められ、総務庁を中心にした立案作業を経て、1987年3月、地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)として成立した。5年間の時限立法だが同和対策の最終の特別法で、以降は一般法で対応するという位置付けだった。結果的に5年では済まず、2002年まで継続するのだが、全国自由同和会は地対法路線に沿った運動体として、法案段階から積極的に関与することになる。
解放同盟は対照的な反応を見せる。
それも当然で、〈同和問題に対する疑問や不信感を持ちながらも、意見が意見として受け取られにくい状況があった〉(1984年意見具申)といい、その状況は、〈意見の潜在化傾向については、民間運動による行き過ぎたいわゆる確認・糾弾がその原因となっていることは否定できない〉(同)というのである。解放同盟の存立基盤といえる確認・糾弾闘争を批判しており、しかも成立した地対財特法が「同和対策の打ち切り」を前提とするだけに、激しく反発した。