藤兵衛伝 第Ⅵ章2
「闇からの使者」が談合封印
「金竹小」が地元に築いた「土建王国」という選挙マシンの岩盤が、父ブッシュ政権の米国に突き崩される。海外資本が狙った新関西空港、そして京都崇仁地区の再開発。利権を奪い合うアングラとの一触即発に「国策」が絡む緊急事態。「談合のドン」平島栄の告発を、野中と藤兵衛と山口組五代目はどう封じたか。=敬称略、約1万2,400字
第Ⅵ章相克〈後編〉
自民党副総裁として権勢を誇った金丸信が失脚するのは、1992年8月、第Ⅰ章で述べた「バブル経済史」に残る東京佐川急便事件で、東京佐川急便からの5億円のヤミ献金が発覚し、東京地検特捜部が、その追及過程で約10億円の脱税を把握、93年3月、逮捕・起訴したことだった。捜査の過程で「山梨土建業界ルート」が暴かれた。
山梨は「まんじゅう代」が決め手
山梨県建設業協会に加盟している業者は、1993年3月末時点で約600社。そのうちの約9割が、金丸の選挙マシンである「建信会」に所属していた。「建信会」とは、読んで字の如く「建設業界の信ちゃん会」である。ここが、盆暮れになると、企業規模に応じて、50万円から500万円の上納金を出し、幹部会社がまとめて金丸、あるいは金庫番の生原正久秘書に届けていた。これとは別に、選挙の際には「応援名目」で徴集され、1億円以上のヤミ献金となっていた。
山梨の土建業界には、「コーヒー代」「まんじゅう代」という用語があった。「コーヒー代」とは談合経費で、1回、数万円が徴収され、落札企業が負担する。「まんじゅう代」は、談合の際の金丸、あるいは金丸周辺企業へのバックリベートとなる。1個100万円で、まんじゅうを何個出したかが、落札企業の“決め手”となった。
このシステムをまとめていたのが、金丸の地元後援会「久親会」の幹部である山梨県建設業界の重鎮たちである。頭文字を取って「YKI3人衆」と呼ばれた。金丸が代議士になったのは、58年5月の第28回衆議院議員総選挙。山梨全県区でトップ当選を果たした。同期に竹下登、安倍晋太郎がいて、特に竹下とは肝胆相照らす仲となり、長男・康信が竹下の長女・一子と結婚したことから、両家は親戚となった。
ただ、昭和の自民党政治家は当選回数がモノをいう。金丸が土建支配システムを築くのは、建設相、国土庁長官、防衛庁長官を経て有力政治家となった79年、県知事選において望月幸明副知事を支援、4選を狙った田辺国男を破ったことだった。以降、中央のゼネコン業界に影響力を発揮するのはもちろん、山梨県で金丸土建王国を確立した。
山林王の下で「きさらぎ会」体制
金丸同様、竹下も島根県に「王国」を築いた。中心となるのは後援会組織の「きさらぎ会」で、島根で「だんさん」と呼ばれる日本一の山林王・田部長右衛門との関係において大きくなっていった。田部家は、歴代、長右衛門の名を継ぐ。竹下より18歳年上の23代長右衛門が、竹下を「登」と呼んで可愛がり、自民党県連会長として1958年の衆議院選に出馬した竹下を後押しした。
竹下が代議士になると、長右衛門は翌59年の県知事選に出馬して県知事となり、1971年に知事を退任するまで、「田竹体制」という名の支配体制を確立。もちろん力のあるのは「田」の方だったが、竹下は71年、長右衛門の引退に伴う県知事選で副知事の伊達慎一郎を擁立。反竹下派の推す候補を僅差で破ったことで、竹下支配体制となっていった。
県知事を押さえるということは県庁幹部職員を味方につけるということであり、竹下事務所は公共事業関連の事業情報や入札予定価格などを入手しやすくなった。それらは談合に欠かせない情報であり、県内の有力土建業者は竹下事務所に取り込まれ、後援会である「きさらぎ会」に入会する。
島根県の土建業者は、その実績と事業規模により、特AからDランクに分けられていたが、小は数百万円から大は数十億円の規模に至るまで、受注業者は業者間の話し合いで決まる。談合場所は、昼は県内各地の建設業会館、夜は業界御用達の料亭だ。竹下事務所が関与するのは特Aクラスの県内大手が受注する工事で、入札情報が竹下事務所からもたらされ、それをもとに談合が行われる。
談合組織は「研究会」と呼ばれ、県内大手建設業者がまとめ役となり、竹下事務所、「きさらぎ会」と連携する。こうした支配体制は、1989年4月、竹下がリクルート事件で首相退任を表明、表舞台を下りるまで続き、工事額の規模にもよるが1~3%が「きさらぎ会」にもたらされたという。
小沢「陸山会」は検察の標的に
小沢一郎もまた、岩手県の公共工事を次のように支配していたという。
岩手県下の公共工事については、遅くとも昭和50(1975)年代の終わり頃から、小沢議員の事務所が影響力を強め、前記談合において、小沢事務所の意向がいわゆる「天の声」とされ、本命業者の選定に決定的な影響力を及ぼすようになった。
これは、2009年に小沢の政治団体「陸山会」の会計責任者である大久保隆規を政治資金規正法違反容疑で逮捕、起訴した検察が、冒頭陳述で述べた言葉である。業界サイドを仕切っていたのは大手ゼネコン・鹿島東北支店副支店長。経験豊富で過去の受注経緯(業者間の貸し借り)を知る副支店長が、小沢事務所の了解をもらいながら談合を差配するという構図だった。
この事件は、西松建設のダミーの政治団体から献金を受け取っていたというもの。同社の外為法違反事件を端緒とする。ただ、これで事件は終わらず、特捜部は04年に睦山会が世田谷区の土地を購入する際、政治資金収支報告書に虚偽記載したという疑いで捜査に着手。ゼネコン、サブコン、地元業者などから徹底的に事情聴取し、準大手・水谷建設の会長と社長から、「04年、石川知裕秘書に5000万円、05年、大久保秘書に5000万円を渡した」という証言を引き出した。
検察は、悪質性が高まったとして両秘書と私設秘書の3人を政治資金規正法の虚偽記載罪で起訴。小沢については嫌疑不十分で不起訴処分とした。小沢は2011年1月、検察審査会の「起訴議決」により強制起訴されたものの、無罪判決が下され、秘書3人については有罪が確定した。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の反動
「金・竹・小」が日本の政治権力中枢にいたのは、6~7年のことでそれほど長くはない。ただ、バブル経済に日本が潤っている時であり、その溢れる資金で日本企業は、1986年のニューヨーク5番街のティファニービルを皮切りに、アルコ・プラザ、エクソン・ビルと、シンボル的な建造物を次々と買収、米の社会学者、エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになったこともあり、日本はユーフォリア(幸福感)に酔っていた。
だが、日米の相互依存が深まるなか、日本の輸出超過、米の輸入超過といった貿易不均衡は、日米経済摩擦となっていった。85年、G5の米、英、独、仏、日の5ヵ国が集って、為替市場への協調介入でドル高を是正することが決まった。会場のホテル名を付して「プラザ合意」と呼ばれ、日本の蔵相は竹下だった。プラザ合意の結果、日本は輸出が伸び悩み、円高不況に陥ったものの、それでも米の対日貿易赤字は解消しなかった。
貿易不均衡は、日本の社会制度、契約慣行、閉鎖市場などにあるとして、その解消が強く求められるようになる。結果、日本の経済構造に対する改善要求が生まれ、それは89年から90年にかけて行われた日米貿易不均衡を是正するための日米構造協議へと発展。対応するのは、1989年6月の竹下退陣を受けて登場した宇野宗佑内閣だったが、わずか60日強で終わったため、89年8月に発足した海部俊樹内閣が引き受けた。
ブッシュの「外圧」で日米構造協議
この時、自民党を仕切っていたのは47歳で幹事長となった小沢で、アマコスト駐日大使は竹下派主導で発足した海部俊樹内閣に権力がないことを見越したように、自民党の小沢のもとを訪れて、「系列」「談合」「大店法」など日本の構造改革を要求する。また、内需主導経済にすべきだと、10年間で公共投資430兆円の合意を引き出した。
日本はこの時、有力政治家と、話の分かる行政と、カネと票を提供する業界の三者が、一体となって国家を運営するゼネコン資本主義のまっただ中にあった。その談合という互助システムに支えられた「金・竹・小」が、ジョージ・ブッシュ(父)政権の外圧により、日本を変えねばならなくなったのは皮肉だが、流れは変えられない。一方で金融自由化は進み、カネは自在に国境を越え、グルーバル化が進んでいた。
米通商代表補代理のグレン・S・フクシマは、『朝日ジャーナル』(1991年3月27日号)に投稿した「日米経済摩擦の政治学」のなかで、新関西国際空港についてふれていた。
日米建設問題は、当初、新関西国際空港問題としてはじまった。(中略)1985年4月に私がUSTR(米通商代表部)に勤務しはじめる前に、私の後の上司であるマイケル・B・スミスUSTR次席代表は、この問題に既に注目していた。彼は、その年の春、松井和治運輸次官に書簡を送って、新関西国際空港プロジェクトの入札にあたっては、外国企業にも日本企業と平等な機会が与えられるよう、要請した。
運輸省航空審議会は、1974年、関西の浮沈をかけた新関西国際空港の候補地を「泉州沖」とする答申を出した。関西財界は、関空に難色を示す革新の黒田了一府知事を、79年の府知事選で一丸となって追い落とし、保守系で推進派の岸昌に替えた。
日米構造協議に先立つ個別要請として米政府は、1986年、関空プロジェクトへの国際競争入札を要求。要望を入れる形で空港ターミナルビル南ウイングには、竹中工務店を中心とするジョイントベンチャー(JV)に米オーバーシーズ・ベクテル、北ウイングには、大林組を中心とするJVに米フルーア・ダニエル・ジャパンが参加した。
日米構造協議やそれを引き継ぐ1993年からの日米包括経済協議などで日米が緊張を高めるという大きな潮流のなか、上田が図らずも関与した出来事がある。