野中広務が蓋をした「禁断の実」

藤兵衛伝 第Ⅵ章1

野中広務が蓋をした「禁断の実」

差別に憤りながら、権謀術数も辞さぬ野中広務の「政治」とは何だったのか。京都の土建業界を仕切り、保守政治家の王道を歩んだが、郷里への利益誘導には熱心でなく、飴を与えるだけの蜷川同和行政を批判した。藤兵衛と組んで解放同盟との橋渡しをさせるが、談合の横行に「やってられん」と怒り、周囲は苦慮する。人権擁護法案の理想と、政治のリアリズムには相克があった。=敬称略、約1万2,300字

 

第Ⅵ章相克〈前編〉

 

代議士になったのが57歳と遅咲きながら、自治相、内閣官房長官、自民党幹事長と瞬く間に権力の座を駆け上がった野中広務は、2003年9月9日、引退を表明し、12日後に開かれた自民党総務会で堀内光雄会長に挙手のうえで発言を求めた。

麻生太郎の「差別」発言を一喝

以下は、ジャーナリストの魚住昭が野中に迫った労作『野中広務差別と権力』(講談社)の一節である。

 立ち上がった野中は、

「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」

と、断わって、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生(太郎)の方に顔を向けた。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会(旧河野洋平派。麻生が継承して志公会)の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようがないはずなんだ。私は絶対に許さん!」

野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

野中が被差別部落出身の政治家であることは、政界で周知の事実だったが、そこに正面から切り込んでいったのは、2004年6月に上梓された『差別と権力』が初めてだった。また、野中は京都府議会や部落解放同盟の集会などで、部落民として差別を受けたことを明かしたことはあるものの、党の会合とはいえ、これだけ明確に、最大級の怒りをもって、特定の個人に対し、その差別発言を追及するのは初めてのことだった。

小渕恵三首相(右)とともに衆院本会擬で審議をみつめる官房長官時代の野中広務
(1999年6月11日)=Jiji Photo

野中は、“間合い”を読むのが得意なプロの政治家である。普段は、小柄な体に穏やかな表情を浮かべているが、怒りに火が付くと、顔に青筋を立てて、舌鋒鋭く攻撃する。当選回数がものをいう時代の自民党にあって、当選4回で自治相に就き、要職を歴任、ひと時代を築くことができたのは、先を読み緩急自在の対応をしてきたからだった。

その野中が、引退の直前まで公的には部落民であることを秘していたのは、日本には根強い差別感情が残っているという“読み”であり、公言することが家族、親族に及ぼす悪影響だった。

「私はナンバー2にふさわしい」

野中は、1925年(大正14年)、京都府船井郡園部町(現・南丹市)大村に、北郎・のぶ夫妻の長男として生まれた。約4反の田を持つ自作農で、貧しい小作農が多かった被差別部落のなかでは、例外的にそこそこの暮らしができる家で、北郎は農業のほかに郡役所で給仕として働いていた。野中は、当時として珍しく幼稚園に入り、旧制園部中学で剣道に打ち込むことができた。

初代園部藩主は、大阪夏の陣、冬の陣で徳川方として戦った小出吉親。小出家は、もともとは大阪・岸和田の城主で、支藩として但馬国出石を所領としていた。だが、徳川幕府は、西国強化のために、豊臣家にゆかりのある小出家の直系、吉親の兄・吉英を岸和田藩から支藩の出石城に移封。それに伴い、次男の吉親は、新たに出石城から丹波国園部に移され、1619年(元和5年)、2万8000石を与えられて園部藩を立藩した。この小出家の移封に伴って、皮革などで武具を生産する部落民も園部の大村に移動した。第II章で京都産業大学の灘本昌久教授が述べた「戦国大名に抱えられた武具専門職としての『かわた(皮多、皮田、川田)』」に重なる。

小出吉親は、園部の小麦山周辺に居宅を構え、園部陣屋とした。本来なら園部城と呼ばれてしかるべきだが、3万石以下は無城主格であるために城は持てず、陣屋である。ただ明治になって「帝都御守衛」という名目で明治2年(1869年)、築城許可を得て、小出家最後の藩主(藩知事)英尚は、櫓門と櫓からなる悲願の園部城を築城した。

現在、城内には野中が通った府立園部高校が建ち、城門は校門として利用されている。その東に南丹市役所がある。旧園部町役場で、かつて野中は町議(1951年~58年)、町長(58年~66年)を務めた。園部町は、野中が政界を引退した後の2006年1月、八木町、日吉町、美山町との4町合併により南丹市となる。その時点で人口は約1万7000人で面積は約616平方㎢。主な産業は農業で、著名観光地として日本の音風景100選の「るり渓」があるが、ひなびた、とりたたてて特徴のない、田園風景の拡がる、その分、落ち着いた町である。

町長の後、府会議員となって当選3回(1967年~78年)、それから副知事を拝命。83年に代議士となって、前述のように“出世”、麻生発言にあるように、2001年4月に退任する森喜朗首相の後任の「ポスト森」に名前が挙げられたこともあった。野中は「(首相など)200%ない」と、否定したものの、マスコミは信じない。

著書『老兵は死なず』(文藝春秋)のなかで、野中は、こう困惑してみせる。

たとえば『幹事長をやめてから五~六キロ太った』と漏らすと、『野中元幹事長、首相の座に向けて体調の良さをアピール』と書かれる。

地元の京都新聞主催の講演会で日米安保条約があって日ロ平和友好条約なしに来ている現状はおかしい。そうした議論がなされて然るべきだと思う」と話すと、「総裁選に向けての意欲を示す発言」と書かれてしまう。

野中の回顧録『老兵は死なず』(文藝春秋)

だが、「私にふさわしいのはナンバー2で、上の人間を助ける仕事である」という言葉通り、01年4月の総裁選には、所属する平成研究会からは領袖の橋本龍太郎が出馬。小泉純一郎と戦って破れた。

地元には利益誘導より福祉施設

ただ、「叩き上げの大物」にありがちな利益誘導の形跡が、園部町にあるわけではない。83年の衆議院補欠選挙に、町長時代から世話になった田中角栄の田中派から出馬。角栄は師であり、青年団活動時代からの付き合いの竹下登は兄貴分にあたるが、角栄の新潟、竹下の島根のように、「地元が公共工事で潤い、他の地区より環境整備された」という印象はない。役場の近くにあった自宅は、区画整理事業で取り壊され、隣接地にあり、応接室代わりに使って憩いの場でもあったという喫茶店も今はない。「野中広務生誕の地」という記念碑を建てようという話はあったが、「それを望む人ではなかった」という声で沙汰止みとなった。

「野中らしさ」を伝えるのが、地元で政界引退後も、亡くなるまで福祉に関与し続けたことである。

日本には成人の最重度身体障害者の施設がなかったため、カトリック障害者・病者の会「子羊会」が提唱して運動を始め、園部町に日本初の療養施設「こひつじの苑」が開所された。京都府副知事時代、施設を訪れた野中は、入園者が働く場所の必要性を痛感、1980年、作業所、授産施設を備えた社会福祉法人「京都太陽の園」を創設した。「最も援助を必要とする最後のひとりへの尊重」が基本理念。園部と舞鶴に施設を持つ。

創設以来、法人の全役職を務め、現在、理事長を務める内藤政博が振り返る。

「野中理事長は、忙しい体ながら2カ月に1度、施設で開かれる理事会に参加して、経営状態のチェックとともに入所者と交流していました。周年記念のような行事にも参加しています。91年(5月27日)には、平成天皇皇后両陛下が視察され、理事長が案内役を務めました」

銅像、記念碑、記念館のような類いを持たない野中だが、唯一残されたのが40年近く理事長職にあったことを顕彰する“小ぶり”の胸像である。事務所入口の正面で訪問者を迎えている。

社会福祉法人「京都太陽の園」に飾られた野中広務の胸像

重度障害者やハンセン病元患者など社会的弱者に寄り添う姿勢を見せる一方、永田町では「政界の狙撃手」という異名を持つこわもてとして知られたが、「つくられたイメージです」というのは、甥の野中一秀である。

「本人は凄く物静か。ふだん、家にいてもしゃべらないので、いるかいないかわからない。政治家にはむしろ向いていなかったと思うんですよ」

晩年、甥に言い残したこと

野中の男兄弟は、長男が広務で、次男が園部町長を務めた一二三。一秀の父・定雄は政治に関与しなかったが、一秀は「地域から日本を変えたい」と園部町議、南丹市議を経て、2018年、22年と南丹市長選に出馬した。

野中の長男が早世、ひとり娘も女婿も野中の選挙地盤を継ぐ気はなく、野中自身も身内を政治家にする気はなかった。一秀は、園部のしがらみのなかで生きていくことを嫌い、高卒後、一度はアメリカに渡り、シカゴで暮らしていた。しかし、「外から見た日本の良さ」を改めて知り、園部に戻り、父の旅行業を手伝いつつ、政治家となる。野中は、一秀が地方議員選に出馬すること自体、反対だったという。

甥の野中一秀・元南丹市議

「最初、園部町議になる時、伯父に相談に行ったんですよ。すると、『俺は前尾繁三郎先生(大蔵官僚を経て政治家となり、衆議院京都2区で当選12回。通産相、自民党幹事長、法相、衆院議長などを歴任し81年に死去)』に地盤を譲っていただいて、今こうして仕事をさしてもらってる。身内に、ということをしないのは俺も同じ。身内から後継者を出さんと。それだけはお前、理解しといてくれ』と言われました」

それでも一秀は「地方政界」への思いを語って町議となった。南丹市議を経て出馬した18年4月の市長選では、同年1月に92歳で亡くなる直前、野中はさらに反対の意見を強めた。

「『お前は甘い』といいよるんです。『お前はわかってへんと思うけど、俺と一二三の陰も陽も、ええとこも悪いとこも背負ってお前は出なならん。市会議員の選挙やったらええわい。でも首長はひとりで決めるんや。そういう時は必ず利害が出てくるんや』というんです。そのねたみひがみが私に集中する。だから、そんな苦労をせずに、(一秀の父の)定雄の会社を継いで、幸せになれというんですね。弱々しい声で…」

引退して15年が経過。年相応に弱気となっていたのはわかるが、1994年、自治大臣兼国家公安委員長に就いて以降の、与野党を問わず、策士たちと丁々発止のやりとりをしていた頃の野中とは、イメージが重ならない。それだけ、2003年10月に引退するまでの約10年間の活躍は華々しかった。

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