気がつけば簀巻きの「修羅」

藤兵衛伝 第Ⅰ章1

気がつけば簀巻きの「修羅」

日本の戦後史には、書かれざる死角がある。京都・山科の「夙」に生まれ、没落と反抗、暴力と抗争の修羅場を経て、自民党系同和団体のドンとなった上田藤兵衛の人生は、「バブル」の絶頂と崩壊の裏面史でもある。政治と組み、水平社—解放同盟陣営に対抗したその軌跡を、いま本人が語りだす。時代の最深部で差別と切り結んだ「包摂」とは何だったのか。<敬称略> =約1万1000字

 

第Ⅰ章起点〈前編〉

 

古都・鎌倉には、約150もの神社仏閣がひしめき、通年、観光客を集め、賑わっている。鎌倉幕府を開いた源頼朝が、国づくりの中心に据えた鶴岡八幡宮、「鎌倉の大仏さま」で知られる高徳院、日本最大級の木造十一面観音のある長谷寺、「紫陽花寺」の名で親しまれる名月院……。

それほど高名ではなくとも、歴史があって風情を残し、多くの檀家を抱えて賑わう寺も少なくない。鎌倉駅から逗子方面に歩いて約20分の長勝寺もそんな寺のひとつ。毎年2月11日、「水垢離みずごりの荒行」が行なわれる。修行僧が百日修行を終えた後、満願を祈念して真冬に冷水を浴びる。日蓮の教えに基づくもの。

日蓮は1260年(文応元年)、『立正安国論』を著わし、鎌倉幕府の権力者・北条時頼に奏信(権力者への意見具申)するものの受け入れられず、逆に伊豆に流された。3年後、日蓮が鎌倉に戻ってきた時、日蓮に帰依していたこの地の領主、石井長勝が、邸内に庵を建てて寄進してから760年近い歴史を持つ。本堂前には巨大な日蓮上人像(高村光雲作)と四天王像が立ち並び、信者や観光客を出迎える。

高村光雲作の巨大な日蓮像と四天王像が立ち並ぶ鎌倉の長勝寺の境内と本堂

歴史はあるが、ひっそりとした佇まいだった長勝寺が檀家数を大幅に増やすのは、戦後のこと。先代住職の久村諦道が、長勝寺の裏山を「鎌倉材木座霊園」として開発。宗教不問の墓地ではあるが、檀家数、信者数とも飛躍的に増えた。長勝寺の山門を出て、寺を巻くように登っていくと、大きく視界が開け、巨大な霊園が拡がっている。鎌倉の街並みと相模湾。遠くには富士山を望むことができる。

「地上げの帝王」早坂太吉の墓

2021年盛夏、その霊園で手桶を下げて生花を抱えたひとりの男が、「ある人」の墓を探しつつ歩いていた。容赦なく照りつける太陽に汗が噴き出してくるが、案内所でもらった地図は正確でも、同じような区画が並び、行き着くのが容易ではない。ようやく探し当てられたのは、霊園のシンボルともいえる「赤木圭一郎の墓の近く」という言葉を頼りに、周辺を歩き回ったからだった。

石原裕次郎の主演映画でデビューした赤木は、日活ニューフェイスの4期生で「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれたが、彼のことを知っている人も少なくなった。1961年2月、『激流に生きる男』の撮影中、ロケの合間にゴーカートで遊び、アクセルとブレーキを踏み間違えて鉄塀に激突。意識が戻らぬまま帰らぬ人となった。21歳の若さだった。

60年前の映画スターの死は耳目を集めたが、その近くにあって、場所は相模湾と富士山を視界から遮るもののない一等地にありながら、「早坂家の墓」と記された場所に眠る早坂太吉の死は、それほど注目されなかった。

「地上げの帝王」早坂太吉
森功『平成経済事件の怪物たち』より

「地上げの帝王」として1980年代後半のバブル経済を象徴する存在だった。社名の最上恒産にちなむ「モガミ」を冠した競走馬を数十頭も持ち、ホテル、ゴルフ場、病院を経営。小林旭、千葉真一ら芸能人のタニマチとなり、2機のジェットヘリコプターで全国を飛び回り、銀座クラブママと同居、愛人多数で「資産1000億円のバブル紳士」だったのである。

だが、転落も早かった。西新宿で展開して早坂に巨万の富をもたらした不動産取引に関し、国土利用計画法違反で書類送検されて、88年12月、懲役6月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。

事件を機に「早坂を育てた金融機関」として知られる第一相互銀行が、回収に入ったため彼は一挙に資金繰りに窮するようになり、93年、最上恒産の後継会社は倒産する。他の多くのバブル紳士同様、信用収縮の逆回転が始まると脱出はかなわず、01年、脳梗塞に倒れて意識不明となり、生命維持装置で生かされたものの、06年1月永眠した。享年70――。「最上・早坂」の名がしきりに伝えられたのは3~4年程度にすぎない。バブル史に名を刻んだものの、いまも記憶している人は数少ない。

その「忘れられた人」の墓の前で、男は黙々と草をむしり、墓を掃除し、水をかけ、花を生け、線香に火を付けて手を合わせた。しばし瞑目の後、立ち上がると、波頭がきらめく相模湾に目をやって呟いた。

「ここが、起点やったな…」

「鎌倉材木座霊園」はどのガイドブックにもない鎌倉の絶景が一望できるのがウリ

起点はプリンスホテル事件

自由同和会京都府本部会長の上田藤兵衛である。自由同和会は、政府が交渉対象団体としている同和3団体のうちのひとつで自民党系だが、上田は「京都のドン」と呼ばれ、自民党京都府同和会支部支部長、京都経済商工連合会最高顧問などの肩書を持つ。

京都だけでなく、長年、自由同和会中央本部副会長を務め、中央政界にも太いパイプを持ち、なかでも政界実力者の野中広務元自民党幹事長(2018年1月に92歳で死去)は「被差別部落出身の政治家」として、現役時代から上田と手を携える存在で、2003年の現役引退後、亡くなるまで京都府本部の最高顧問だった。

現在も中央政界への影響力は衰えない。2021年10月の総選挙で京都遊説に訪れた岸田文雄総理と。

事業面でも成功を収めており、同和運動のかたわら不動産、建設、警備、人材派遣などの事業を幅広く手掛け、上田グループを形成、総売上高約50億円で約500人の従業員を抱えている。事業は若手に譲って一線を退いているものの、上田の求心力でまとまっている状態に変化はなく、京都府本部の歳入(20年度2267万円)の多くは上田グループの協力会費や分担金で賄われており、上田が手弁当で運動を継続してきた。

京都と鎌倉になにか因果関係があるわけではない。与野党を問わず、「永田町」に太いパイプを持ち、同和と人権を担当する総務省のみならず、国土交通省や厚生労働省など「霞が関」にも人脈を築いてきた上田の運動家としての出発点が、鎌倉にあるのだ。上田はそれを「プリンスホテル事件」と呼ぶ。

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