渡辺五代目「謎の引退」の代償

藤兵衛伝 第Ⅶ章1

渡辺五代目「謎の引退」の代償

山口組組長交代で、上田藤兵衛との"蜜月"は終わりを告げた。京都崇仁地区をめぐる会津小鉄との銃撃戦が山口組の内部抗争に発展、宅見勝若頭が若頭補佐の中野太郎の配下に殺され、中野を二の腕としてきた五代目は病もあって引退に追い込まれた。六代目司忍の襲名で実権は神戸から名古屋に移り、京都の上田攻略に会津小鉄四代目の子、高山義友希が尖兵で乗り込んだ。これが「菱の代紋」全体を揺るがすことになった。 =敬称略、約11,000字

 

 

第Ⅶ章苦境〈前編〉

 

国内では、「郵政民営化」の是非を争点にした総選挙で小泉純一郎首相が率いる自民党が296議席を得て圧勝、海外では、英・ロンドン、エジプト・シャルムエルシェイク、インドネシア・バリ島などでイスラム過激派による爆弾テロが相次いだ2005年(平成17年)は、上田藤兵衛にとって「転換点」となる年だった。

バブル紳士の早坂太吉、エセ同和の尾崎清光によって“簀巻き”にされて暴行を受け、それが逆に功を奏して自民党に認知されて同和運動への歩みを確かなものとした1983年(昭和58年)は、第Ⅰ章で述べたように「起点」となったが、2005年は順調に推移してきた22年間の歩みを、一度止めなければならない「苦境」の年となった。

2005年を境に「三つの躓き」

躓きの原因は三つ。

ひとつは、「お前はその道で男になれ」と、同和運動への道を歩み始めた上田に信頼を置いていた五代目山口組組長・渡辺芳則の引退である。同和対策事業と「同和控除」に代表される税優遇は同和利権を生み、同和団体に暴力団など反社会的勢力を誘引させる結果となった。「エセ同和行為の排除」をスローガンに掲げる全国自由同和会(現・自由同和会)をスタートさせた上田が、暴力団との間に「相互不可侵」の関係を築くことができたのは、渡辺との関係により「上田さんはウチの親分が大切にしている人」という山口組幹部らの共通認識によるものが大きかった。

1995年の阪神大震災時の山口組五代目、渡辺芳則組長(左)と若頭補佐の司忍

そのつっかい棒が外れた時、さっそく上田は試練に見舞われる。これが二つ目で、渡辺五代目の後を名古屋で弘道会を立ち上げた司忍〔本名・篠田建市〕が六代目として継承。そのナンバー2である若頭の髙山清司が、傘下組織である弘道会系淡海一家の総長・高山義友希よしゆき〔高山登久太郎とくたろう・会津小鉄四代目の実子で、髙山清司若頭との間に姻戚関係はない。以後、「髙山」は清司若頭を指し、高山父子は基本的に父を「登久太郎」、子を「義友希」と表記する〕を窓口にして「上田囲い込み」を図ったのだ。これはすでに恐喝事件として終結、その過程は後述するが、五代目山口組時代に渡辺が上田を企業舎弟として扱い、同和運動で得た収益を「上納」させていた、という髙山と義友希の“誤解”から生じている。

三つ目は、全国自由同和会と上田が成立を悲願とする人権擁護法案の通常国会での上程見送りである。同法案は2002年の通常国会などで審議されたものの成立せず、廃案になった経緯がある。しかし05年は、現役時代にその成立に執念を傾けた野中広務・元自民党幹事長からバトンを引き継ぎ、与党・人権問題に関する懇話会座長、自民党・人権問題等調査会会長に就いた古賀誠が、反対派を制して“一任”を取り付けるなど、強引に中央突破を図ろうとして果たせなかった。それだけに上田らの憂色は濃くなった。

公式には「集団指導体制へ移行」

まず、渡辺組長引退の原因は何か。山口組の公式見解としては「組長に対する連帯責任を回避するための『執行部の合議制による集団指導体制』への移行」である。

引退前年の2004年11月28日、神戸の総本部に全直系組長が招集され、「臨時組長会」が開かれた。その席上、岸本才三総本部長がこう述べたという。

「親分はこれまで16年間にわたって組織運営に腐心してこられたが、親分の立場を守るために、今後は執行部で組織運営をやっていくことになった。親分はこれから長期休養に入る」

山口組の岸本才三総本部長(当時)

この「親分の立場」というのが、組長会の直前、11月12日に下された上告審判決である。1995年、京都市内で山口組の三次団体組員に、対立抗争の組員と間違えられて警察官(44)が射殺された事件があった。遺族である妻と3人の子どもが、実行犯とともに渡辺の使用者責任を求めて約1億6400万円の損害賠償訴訟を起こした。最高裁は組長側の上告を棄却。それにより「抗争は組の事業である資金獲得活動(シノギ)と密接に関連しており、組長には使用者責任がある」とした大阪高裁の判決が確定、約8000万円の賠償が決まった。

暴力団の使用者責任は初判断であり、暴力団社会には衝撃だった。判決は誤射行為を「実行犯の私的行為ではなく抗争」とし「抗争は暴力団の基本的事業もしくは密接に関連する行為」と認定した。抗争が事業ということになれば、二次団体、三次団体であっても、すべての行為が一次団体である山口組組長の事業ということになり、使用者責任が成立する。「それを避けるため」という理屈は成り立つが、そうなれば暴力団組長はすべて責任を取らされることになり、避けるためには「休養」するしかないが、それでは盃で結ばれた組織の連帯感、一体感はなくなる。実際、この判決以降、他の組織でも組長に使用者責任は及んだが、引退や休養などはなかった。

生体肝移植で感情の起伏荒く

実はこの時、渡辺は肝臓ガンで生体肝移植の手術を受けていた。海も山も好きなスポーツマンで、酒をたしなまず、頑健な体を誇ったが、60歳を過ぎてから腰痛、糖尿病と持病を抱えるようになり、C型肝炎の治療もうまくいかなかった。その過程の定期検査で肝臓ガンが発見される。その治療法を巡って渡辺は上田に相談していたものの、やがて意見を聞かなくなった。

「渡辺さんぐらいになると、体に不調があればいろんな治療法が持ち込まれる。一度、『風邪もひいてられへん』とグチをこぼしたのを聞いたことがあります。くしゃみをすれば、クスリがどっさり届けられる状況とか。肝臓ガンが発見された時、(臓器提供の)ドナー付きで移植手術を受けられるという話があるというので、『体への負担が大きいし、別の治療法のほうがいいんじゃないですか』と渡辺さんに言ったことがあります。でも、渡辺さんは生体肝移植を選択した」(上田)

移植手術そのものは成功した。京都市内の病院で、生体肝移植ではトップレベルの医師が執刀した。手術前、組織内の人間には知らせず、上田にも秘して手術のためのチームが編成されたという。

手配したのは、高野山の高僧で「炎の行者」「永田町の怪僧」という異名を持つ池口恵観の弟子筋で、京都の医療関係に幅広い人脈を持つ人物。「100万枚護摩行」を達成、「宿老」という高野山最高位に上り詰めた池口だが、清濁併せ呑む人物で、安倍晋三など大物政治家や、渡辺だけでなく、他の山口組幹部とも親しい関係にあった。池口は京都で弟子筋や信者を集めた「恵観塾」を定期的に開催。そんな関係で上田とも親しかった。池口は、上田が弘道会の「取り込み工作」に遭って苦境に立った時、解決には至らなかったものの、なにかと相談に乗っていた。

政界や山口組にも顔がきく「炎の行者」池口恵観の人脈に藤兵衛も頼った

渡辺が「休養宣言」を行ったのは、そうした事情からだった。ただ、術後の経過は良くなかった。肝臓ガンではなく糖尿病が悪化、手術前からその兆候が見られた認知症が進んだ。そのせいか、突如怒り出したりと、感情の起伏が激しくなった。

「本家責任者」として、渡辺が山健組組長時代から、引退した後の2012年12月1日に亡くなるまで仕えた原三郎がこう振り返る。

「手術で2カ月ぐらい、不在にしていたでしょうか。帰ってきて精彩がなくなりました。一方で、お客さんのいる前で声を荒らげたり、気持ちが不安定になっていきました。もともと16年も組長を務めて、疲れていたんは確かやし、引退の時は(組長の上の名誉職的な)総長などの身分を持たず、さっと身を退く覚悟は決めていました。それで復帰しないまま、当代(組長)を名古屋の司(忍)さんに譲ったんです」

喧嘩太郎「銃撃」から報復合戦

伏線はあった。山口組最高幹部の中野太郎若頭補佐が、1996年7月、京都・八幡市内の理髪店で会津小鉄(1986年から98年までは「会津小鉄」、その前と98年以降は「会津小鉄会」)系のヒットマンに銃撃され、その“返し”として中野会が行った97年8月の宅見勝若頭射殺事件である。中野が、会津小鉄の行った襲撃の報復を、組内ナンバー2の若頭に向けたところに、山口組という大組織に特有の複雑な内部事情があり、渡辺がトップとして治めきらなかったことが、その後の渡辺の求心力低下にも繫がった。

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