藤兵衛伝 第Ⅶ章2
弘道会の「万力」に恐喝告訴状
刑務所服役で六代目不在の山口組は、髙山清司若頭が徹底した強圧と情報管理の「弘道会方式」で支えた。一端が上田藤兵衛を「企業舎弟」扱いし、服従と上納を迫った京都。苛斂誅求にたまりかねて警察に被害届を提出、髙山若頭は下獄した。他方、「食肉のドン」や「飛鳥会の癒着」と同和利権が摘発され、野中・古賀・二階の執念にもかかわらず、人権擁護法案は保守系知識人やマスコミの反対で足踏みを余儀なくされた。 =敬称略、約13,000字
第Ⅶ章苦境〈後編〉
司忍六代目が収監されて不在の山口組を任された髙山清司若頭〔以下、髙山〕が確立した、といわれているのが「弘道会方式」である。
情報を徹底的に収集して厳重に管理。それをもとに、組内では内部統制を厳しくし、組外では敵と味方を峻別して素早く対応する。そのために組織化された部隊が「十仁会」である。かつては組織図に「十仁会」とその名が記されていた。系列組織から知力と体力に優れ、しかも前科前歴がなく、対立組織や警察にマークされていない優秀な「若い衆」を集め、盗聴、尾行などで情報収集させる一方、海外での武器訓練などを通じて鍛え実戦部隊とする。
情報を握り対警察で「三ない主義」
その後、組織としての「十仁会」はなくなったようだが、情報収集のノウハウは受け継がれ、弘道会の「三ない主義」を支えている。「警察に情報を売らない、付き合わない、事務所に入れない」というのが三ない主義。警察と徹底して距離を置くのは、情報を握っている強みであり、対立組織の所在地、電話番号、フロント企業などの組織情報、幹部らの自宅住所、立ち寄り先、行きつけの店などを押さえており、それは愛知県警幹部にまで及ぶものだった。首都圏にあって、警察当局の管理監督下に置かれてしまう関東の組織とも、オープンな関西の商都にあって警察や他の組織とどこか馴れ合う関西の組織とも違う。
2009年9月、安藤隆春警察庁長官は、「弘道会の弱体化なくして山口組の弱体化はなく、山口組の弱体化なくして暴力団の弱体化はない」と宣言、「弘道会壊滅作戦」を指示した。暴力団への締め付けが強化されるなか、情報統制を強め、厳しい上納金の取り立てによって離反を許さず、結束力の堅さを求める弘道会方式は、暴力団の延命策としては当然の統治かも知れず、「司不在」の山口組を託された髙山は、弘道会方式で締め付けて統制しなければならなかった。
だからこそ、上田への攻勢は激しいものになった。2005年3月から続いた淡海一家総長、高山義友希〔以下、義友希〕サイドからの電話は、7月末頃から実力行使となっていった。以下は公判での「上田の供述概要」である。裁判所は判決文のなかで「その他の弁護人の主張を踏まえ検討しても、上田証言は基本的に信用できるものと認められる」と「小括」で述べている。
「滋賀の仕事を取った」と難癖
上田証言で時系列を辿ろう。
淡海一家で「滋賀県問題」を担当する相談役の配下が05年7月29日、上田の会社に直接押しかけ面談を求めた。やむなく上田は7月30日、「義友希の兄弟分」を名乗る相談役と京都市内のホテルで面談する。前日の7月29日、山口組総本部で司忍の六代目就任が発表された。実力行使の原因のひとつだろう。「滋賀県の仕事」とは県下日野町の清掃工場のことだった。
「ワシがやっている仕事をお前が潰した。ワシの利益を取った。本来、命もらわなあかん話やけど、関係者もおるし取った分の利益は持ってこい」
相談役はこう激しく責めたという。続いて8月5日、人間関係が構築できていない相談役との単独交渉を避け、義友希との窓口となることを期待して、同じホテルで行われた相談役との再交渉の席に、旧知の不動産業者に同席を依頼した。だが、その業者にも厳しい言葉を投げかけられた。
「義友希さんが前もって電話してるのに応じひんから、こんなことになったんやで。時代も変わったし、軍門に下ったらどうや」
上田は相談役と不動産業者に調査を約束、「そのうえで、もし関与しているようならカネを払う」と言明する。以降、上田は8月から9月にかけて調査をし「なんぼ調べても覚えがない」というのだが、窓口となった不動産業者は納得しない。
「証拠はあるんや。何を今さら言ってるねん。逃げられへんで。義友希さんと一緒にともかく仕事をやってくれたらええんや」
山口組ナンバー3に仲介を頼む
義友希サイドとは話が噛み合わないし、何を言っても認めてくれないので、上田は山口組内の別ルートに救いを求める。序列でいえば山口組ナンバー3の入江禎総本部長である。旧知の山口組直参に仲介を頼んだ。
入江は1997年に中野会に射殺された宅見勝若頭の右腕だった。事件後、宅見組を継承して二代目組長となって直参に昇格。司六代目体制のスタートとともに総本部長の要職に就き、関西の実情、山口組執行部の内情を知らない髙山若頭をサポートする。
入江は武闘派ではなく智将といったタイプだけに、相談はしやすかった。9月29日、上田は入江と京都市内の料亭で会い、一連の淡海一家のクレームを伝えて仲裁を依頼する。入江は「淡海は京都を取るものと見える」「頭も出張って何でもしようと思ってる」「なんで頭はそんなに焦ってるのやろ」などといい、仲裁を了解した。
上田と髙山の接触は偶然だった。10月5日、祇園のクラブで義友希が髙山を接待している現場に居合せた。義友希に髙山を紹介された上田は「こんばんは。ようこそいらっしゃいました。上田藤兵衛です。京都まで来ていただいてありがとうございます」と挨拶した。「どうも、髙山です」と髙山は短く返した。挨拶だけに終わったが、3月から揉めている清掃工場の件もあり、義友希らの支払いは上田が持った。
「たん熊」招待は企業舎弟の儀式
同月中旬、義友希から電話があった。
「藤兵衛さん、頭が一席設けるというてるから、日程が欲しい」
祇園のクラブの返礼かと思い、上田は軽く受ける。場所は京都市内の老舗料亭「たん熊」で、日時は10月26日午後6時だった。髙山と義友希、「滋賀問題」で窓口となった不動産業者が同席した。上座に座ったのは髙山と義友希で、下座に上田と不動産業者。髙山は、義友希と不動産業者を指し「日頃、これらがお世話になってる」「今後も仲良くしてやってくれ」「仕事も力合わせてよろしく頼む」と言った。髙山サイドとしては、上田を企業舎弟にする儀式のつもりだった。
この時から、「企業舎弟」と認定した義友希、その窓口の不動産業者から、上田に「みかじめを持ってこい」「1000万円以上や」といった強圧的な連絡が入るようになる。仲裁を依頼した入江に相談すると「京都ルール」を設定すると請け合った。
京都の土木建築業者が京都で仕事をする時には、会津小鉄会とその関係者に地域対策費などを支払えば仕事に介入しない、というのが京都ルール。その代わりに滋賀県は淡海一家が取り仕切る。京都ルール確立のために入江が汗をかいてくれたというので、11月14日、上田は大阪ミナミの宅見組本部に赴き、入江に事情を説明した。
京都ルール「堅気には関係ない」
これで解決できたと思う間もなく、淡海一家の窓口の不動産業者から電話が入る。
「藤兵衛さん、京都ルールはあくまで筋もん同士の話や。堅気の藤兵衛さんは関係ない。藤兵衛さんの貫禄やったら1000万円以上、持ってきてくれ。頭に届けるカネや」
上田は「でけたルールで解放されたというか、要求はないものと思ってたんですけど、またいうて来ました」と入江に報告する。入江は「ルールはルール。決まった通りや」と繰り返すものの、動こうとはしない。不安に駆られた上田はこのまま年を越したくないという思いで、窓口の不動産業者に1000万円渡すことを決める。12月30日、市内のホテル喫茶室で紙袋ごと1000万円を渡すと、業者は中身を確かめることもなく「確かに預かりました」と受け取った。