バブル前夜の「怪紳士たち」

藤兵衛伝 第Ⅰ章 2

バブル前夜の「怪紳士たち」

鎌倉の霊園開発で巨利を手にした「怪僧」のもとに、辣腕弁護士や「地上げの帝王」らが信者として集まってくる。ときに1980年代半ば、バブルが起動し、金融機関が巻きこまれていく。同和の名のもとに恐喝で荒稼ぎしていた尾崎清光の射殺事件を機に、第一相互、平和相互銀行などで「政」と「暴」がリンクし始め、スキャンダルが多発して自民党系同和団体の組み換えの動きが浮上した。<敬称略>=1万2800字

 

第Ⅰ章起点〈後編〉

 

上田藤兵衛の「起点」となった1983年は、日本の政治経済がどんな状況にあったのか。

政治的には中曽根康弘政権の時代である。1970年代初頭に高度経済成長は終わり、その終焉間際に登場したのが、日本列島改造論の田中角栄だった。が、金権批判を受けて退陣し、その後は三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸と続いた後、1982年11月、第一次中曽根政権が誕生する。「三(三木)・角(田中)・大(大平)、福(福田)・中(中曽根)」といわれた実力者の最後に満を持して登場する。ただ、ロッキード事件で刑事被告人となった角栄が「闇将軍」として控えていたために、「田中曽根内閣」と揶揄された。

しかし「戦後政治の総決算」を掲げて登場した中曽根は、国内外で高い評価を得て、政権は87年11月まで5年の長きに及んだ。

国内的には行財政改革を推進、国鉄、電電公社、専売公社の3公社を分割民営化させた。規制緩和と民営化は、グローバリゼーションが加速するなか欠かせないもので、国鉄がJRとなることで「親方日の丸」の赤字体質から脱却、電電公社はNTTとなって世界をネットワークで結ぶ通信革命に備えることになった。

1983年11月、東京・日の出町の茅葺き屋根の山荘にレーガン米大統領(左)を招いた中曽根首相

国際的には、79年5月に誕生したサッチャー政権の英国、81年1月発足のレーガン政権の米国と歩調を合わせ、新保守主義の道を歩む。サッチャリズムは、労働運動が活発で「英国病」に喘いでいた経済を再生させるもの。規制改革と民営化を推進、84年、BT(ブリティッシュテレコム)の株式を公開した。レーガノミックスは、市場原理と民間活力を重視する包括的な経済改革で、なかでも航空業界、通信業界の自由化政策を徹底、通信帝国を築いていたAT&Tは分割される。

中曽根が政治的には新保守主義、経済的には新自由主義の流れに沿う政策を採ったのは、先見性よりむしろ「風見鶏」と指摘された時代と国際政治の流れを読み取る嗅覚だったのだろう。サッチャー、レーガンの次に登場、規制改革と民営化の流れを受け継ぐことができたし、日米安保体制のなか「ロン・ヤス」と呼び合う関係をレーガンとの間に築けたことが、長期安定政権につながった。

また、バブル経済の発端が85年9月、米ニューヨークのプラザ・ホテルで開かれた先進5ヵ国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議で、「先進5ヵ国が強調してドル高を修正する」とした「プラザ合意」であることは定説だ。ただ、土地に関しては前段があった。中曽根政権が83年1月に掲げた「アーバン・ルネサンス」である。中曽根政権は、この宣言で都市再開発を積極的に進めるようになり、宅地規制の緩和、市街化調整区域の見直し、建築基準法の緩和と、次々に具体策を打ち出す。同時に中曽根は83年6月、旧大蔵省に国有地の有効活用の検討を指示。84年には具体的に国有地の払い下げも始まり、こうした流れのなかで土地は動き出し、東京の地価は上昇を始める。特に都心3区(千代田、中央、港)の商業地は急上昇、83年の1年間で21%も上昇した。

「カマキリママ」が暴いた内幕

この流れを不動産屋としてつかんだのが、最上恒産の早坂太吉だった。規制は緩和されても借地権、借家権は残り、都心の利用度の高い土地ほど権利関係は複雑で、それをうまく解きほぐすにはノウハウが必要だ。1970年代から浮沈を繰り返してきた早坂にはそれがあった。また、資金源もつかんでいた。千代田区神田神保町に本店を置く第一相互銀行(のち第二地銀に転換、太平洋銀行に商号変更し、96年に債務超過となり営業譲渡して清算)である。

この金融機関との関係は、1984年に社長に就く小林千弘が常務の時代からで、二人の関係は早坂の内妻・安達洋子が、離婚後の91年3月に上梓した『冬の花火――地上げの帝王・早坂太吉との二千日』に詳しい。

安達は銀座の高級クラブ「トワ・エ・モア」のママだった。1983年2月、初めて出会い、前年に妻を亡くしていた早坂とほどなくして同棲に入るものの、女出入りの激しかった早坂と、88年9月、内縁関係を解消する。早坂好みの細身の和服が似合う美女だが、妖艶に男に取り入って“食べる”ということで『週刊新潮』の名物コラム「クラブ欄」に「カマキリママ」という怖い異名で書かれたこともある。

『冬の花火』で早坂太吉と別れるまでを書いた安達洋子ママ

当時のバブル紳士の内実を知るには欠かせない本で、その派手な私生活に加え、事業のことも書き加えられていた。

どうして小林社長と早坂が強く結びついていたのかは、そのスタートにあったと思う。早坂と国粋会の亡くなった八木沢由雄さんとのつきあいからで、小林社長が現場にいた頃、彼の担当した融資が焦げついたのを早坂が肩代わりして処理した。これで助かった小林社長と早坂の関係が生じたのだ。(安達洋子『冬の花火』)

「反社の窓口」の代役から地上げ王

かつて体面を気にする金融機関の周りには、スキャンダルを嗅ぎつけては脅し、揺さぶり、関係を築いて融資を引き出そうとする勢力が絶えなかった。商法改正があったとはいえ、80年代はまだ総会屋が元気な頃で、暴力団の企業舎弟なども虎視眈々と狙い、それを防ぐ暴対法など法的整備もされていなかった。

その対応は総務部に任されており、第一相銀で長く総務担当を務めたのが小林である。その小林が「反社の窓口」として交通整理を頼んでいたのが、日本国粋会という広域暴力団の八木沢だった。だが、小林が出世して、社長の目が見えてきた時、現役のヤクザが金融機関に出入りしていたのではマズいので、双方と親しい早坂が、仲介して八木沢の出入りを差し止め、代役を務めたという。

安達の言うように、早坂が焦げつきを肩代わりして処理することもあっただろうが、第一相銀にも実利はあった。高い金利の確保である。80年代に入ると第一相銀との関係を確保した早坂は、各所で不動産事業を活発化、83年7月、「地上げの帝王」の異名を取ることになる東京都庁近くの西新宿6丁目の地上げに着手する。85年3月までにメドはついたものの資金繰りに窮し、それまでに買い入れた約4800平方メートルを、第一相銀系不動産会社に売却。そのうえで、他の金融機関から資金を借り入れて買い戻す複雑なスキームの末、最終的に86年1月、新たに地上げした分と合わせ、約470億円でゼネコンのフジタ工業に売却した。

その結果、約186億円が最上恒産にもたらされ、86年5月期の法人申告所得は松下電器など名だたる大企業を押しのけて第3位となった。最上恒産の伸びは第一相銀の伸びでもある。81年に2700億円だった資金量残高は、86年に5500億円と倍近い伸びとなる。銀行の儲けの厚さを示す総資金利ざやは2%以上で、相互銀行平均を大きく上回った。

西新宿の金利は、スキームの複雑さもあったが約9%ということで、第一相銀の利益率の高さのかなりの部分を最上恒産が担った。だが、当然、痛手も負う。88年春の大蔵省検査で、最上恒産向け融資は約800億円だったが、その後、利息などが加わって約1000億円に膨らんだ。第一相銀はそれを不良債権として処理したのである。

では、1983年時点に舞い戻ると、上田を「簀巻き」にした尾崎清光という人物は、同和運動にとってどんな存在だったのか。

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