藤兵衛伝 第Ⅳ章1
脱税の温床に匕首「野中質問」
カストリ雑誌の「差別」糾弾闘争が昂じて、京都市長を突き上げ、同和対策費を増額させていく。勢いに乗る解放同盟は、大阪国税局に7項目確認書を吞ませ、"税のフリーパス”を勝ち取った。だが、自民党が下野した1993年、国会で質問に立った野中広務が、あえてこの長年の密約を明るみにだし「利権」の根を断とうとした。<敬称略> 約1万1000字
第Ⅳ章結成〈前編〉
「話はついた。心配なく開催せいや」
京都・山科で、全国自由同和会(現自由同和会)の結成大会の準備をしていた上田藤兵衛のもとに、こんな電話が掛かってきたのは、開催日前日の1986年7月19日の夜8時だった。
電話の主は、山口組若頭(当時)の渡辺芳則である。全国自由同和会は、前章で設立過程について述べたように全日本同和会を割って、「正常化」のために集った自民党系同和団体である。上田は、参議院議員で自民党地域改善対策特別委員会委員長として、同和問題に取り組む堀内俊夫に誘われる形で、新団体発足に走り回っていた。
だが、危惧すべき点があった。被差別部落問題解消のために、1969年、同和地区の生活環境改善などを目指した同和対策事業特別措置法(同対法、1982年から地域改善対策特別措置法=地対法)が施行されてからその時までに17年が経過し、同和団体による利権化が社会問題化していて、それが差別の再生産につながると指摘されるようになっていた。新団体設立による「正常化」には、全日本同和会などを通じて同和対策事業に絡む暴力団などの利権化集団を排除する目的があった。しかし、そうした勢力は、当然、既得権益を侵されることに反発する。結成大会前夜を上田が説明する。
「全日本同和会の県連幹部のなかには、暴力団と密接な関係を持つ人が少なくなかった。兄が暴力団の組長で弟が同和会の県連幹部、といったのはザラです。全国自由同和会の設立機運が高まったのは1985年やけど、86年に入ると、新団体メンバーの自宅や事務所へのガラス割り、ドア撃ち(拳銃を発射することによる威嚇)が頻発するようになった。その極めつきとして、山口組の直参(直系組長)で、大阪市内最大級の勢力を誇る組織が1500人を動員、大会を潰しに掛かる、という情報が入ったんですわ」
直参来襲の報に若頭を頼る
上田が頼ったのは、若頭として直参をまとめる立場の渡辺である。「全国自由同和会は、ただの分派活動とは違うんです。自民党が政府と一体となって後押しする。機動隊も500人が動員されています。ヤクザの抗争と違うので、そんなところを潰しにかかると、逆に山口組にとってもいいことない。それを(襲撃を準備している組織の組長に)伝えて欲しい」と申し入れたという。その結果が、冒頭の返事だった。
渡辺芳則は1941年、栃木県下都賀郡の裕福な農家に次男として生まれ、地元の中学校を卒業すると上京し、日本蕎麦店で働くものの、地道な修業は肌に合わず、17歳の頃には仲間を引き連れる不良グループのリーダーとなる。浅草の的屋組織から勧誘されるが、山口組系山健組幹部の誘いを受け、大阪に出て63年、「ヤマケン」こと山本健一の盃を受けて山健組組員となった。
69年に山口組の対抗組織・大日本平和会との抗争事件で、山本以下主だった幹部が凶器準備集合罪で逮捕された際、罪を背負って「銃はすべて俺のもの」と自首したのが、山本に評価されるきっかけとなった。1年半の実刑判決を受けて服役。出所後の70年、山健組傘下健竜会を立ち上げる。
暴力団社会も一般社会と同じく、実績、努力、運が出世の際、モノをいう。山口組若頭の梶原清晴が71年、硫黄島で溺死すると、田岡一雄三代目は後任に山本健一を指名する。山本は山口組若頭となって1万人を超える組織をまとめるようになると、山健組のことは渡辺を若頭に抜擢して、「全部、お前に任せる」と全面委任したという。実績は「身代わり懲役」ぐらいだが、健竜会の組員を積極的に増やした努力に加え、山本が山健組にナンバー2を置かなかったせいで、組を任せる人間が渡辺ぐらいしかいなかった、という運が作用した。
1978年7月、田岡三代目が京都のクラブ「ベラミ」で松田組系大日本正義団幹部に狙撃されると、山口組と松田組の間で第二次大阪抗争と呼ばれる事件となり、山口組は報復を繰り返し、松田組系組員の死者は計7人にのぼった。山健組若頭、健竜会会長として指揮を執った渡辺は、銃刀法違反容疑などで逮捕起訴され、懲役2年4月の実刑判決を受け、1979年2月から81年6月まで服役した。
上田と渡辺との出会いは、兵庫県明石市の神戸刑務所である。収容人数2000人の大規模刑務所だった。第一から第四まで4つの工場棟があり、木工、印刷、洋裁、金属、革工、自動車整備などを行う。懲役6年の上田は、渡辺より早く刑務所入りして、渡辺より4ヵ月遅れの1981年10月に出所した。
「神戸刑務所には、約10人の職業訓練生という特別枠の受刑者がいて、私はそれに選抜されていました。(浪速)少年院の時もそうやったけど、先生(刑務官)の仕事(入所者の管理)を手伝う分、自由が利く。特待生みたいなもんで、なんでか選ばれるんやね。IQ(知能指数)が高いんかな(笑)」
歴史書を好む飾らない大物
その特権を生かして、上田は渡辺と同じ工場に配属されるように工作する。後に山口組五代目組長に就いた渡辺は、精悍な面構えの写真が実話誌などを飾るようになり、その容姿はよく知られている。身長は170センチに満たないが、体重は80キロ近く、肩幅が広く胸板の厚いガッシリした体躯である。ボディビルで体を鍛え、ゴルフ、水上バイク、登山とスポーツ好きで、歴史書などを好んで読んだという。だが、基本的に直参以上の幹部にマスコミとの接触を禁じている山口組は、幹部らの肉声や人柄が伝わることはない。
渡辺芳則とはどんな人物か。
「フランクで飾らない人。それが第一印象で、最後まで変わらなかった。刑務所のなかには、渡辺さんより大物の組長は何人かいた。でも、みんな格好つけて大物ぶって、胸をそらして歩きよる。でも、話してみると中身がない。渡辺さんは、まだ山口組の直参にはなってなかったけど、2次団体の頭で、既に山健組には5000人からの組員がいた。それを率いているんやからモノが違う。刑務官も一目置きよったね」
上田が渡辺と同じ工場にいたのは1年ぐらいで、2人は製造ラインが問題なく流れるかどうかを監視する検査係のようなものだったという。特別なことを話すわけではないのに、話せばすぐに時間が経ち、会話がストレス解消になったというから気が合ったのだろう。