藤兵衛伝 第Ⅴ章2
八鹿の禍根と許永中の「侵食」
暴力的な「糾弾行動」に有罪判決が相次いで解放同盟が力を失い始め、その空隙に乗じるように同和利権を食って伸びてきた新興勢力、「在日」の許永中らが京都を「侵食」する。イトマン、住友銀行、竹下側近まで巻き込まれる過程で、山口組五代目にツテのある藤兵衛が重宝がられた。=敬称略、約1万2300字
第Ⅴ章躍進〈後編〉
共産党を敵に回し、行政に対峙する存在となった部落解放同盟は、部落排外主義ゆえの強さを持つ。だが、差別排除を同対審答申で高らかに謳ったヒューマニストの磯村英一が、その行き過ぎを地対協で強くたしなめ、個人的にも反発するなど、理解者を敵に回し、しだいに孤立していった。それは、最も激しい確認・糾弾闘争として同和史に刻まれる1969年の矢田事件(大阪市)、74年の八鹿高校事件(兵庫県)での法廷闘争で、民事も刑事も解放同盟が敗れ、刑事事件では暴行した同盟員の有罪が確定したからでもある。
事件発生時から八鹿高校事件の高裁判決が下される1988年3月までの間、裁判所もマスコミも同和問題に対して、糾弾闘争に対して、明確なスタンスは持てないでいた。裁判で地裁と高裁の判断が異なり、揺れ動くのは繰り返されたこととはいえ、矢田、八鹿の両事件では、糾弾権に踏み込み、その中途半端さが禍根を残すことに繫がった。
朝日新聞に解放同盟への忖度
八鹿高校事件は、兵庫山間部の養父郡八鹿町(現養父市)で起きた。集団下校する教員47人に解放同盟員らが襲いかかり、暴行を加えつつ校内に連れ戻し、12時間半にわたって監禁、29人に無理やり自己批判書を書かせ、一連の暴行過程で教員の大半が1週間から2カ月の怪我をしたという前代未聞の集団暴行事件だったが、マスコミは1974年11月22日に発生したこの事件を、直後はほとんど報じなかった。全国紙はいずれも県版で扱い、本紙での掲載は事件から数日経って、しかもベタ記事扱いだった。
19年後、朝日新聞(1995年7月1日付)は「戦後50年メディア検証21」というシリーズのなかで「八鹿高校事件」として取り上げた。報道に怯んだのはなぜなのか。当時の記者が語っている。
神戸支局から原稿を受け取った大阪本社通信部デスク栗本嘉之(68・掲載時、以下同)は、社会面に出すか、兵庫県内の読者を対象とする県版に出すか、判断に迷った。通信部長古西武史(71)の指示は、県版、2段。「この種の事件は抑制しよう」と古西は思った。それが編集局の一般的な空気でもあった。
「もみあい10人のけが」の2段見出しで兵庫県版に72行の記事が掲載された。その日の県版トップは「豊岡のコウノトリが一般公開される」というものだった。
共産党機関紙の赤旗は、この日「学校で血の集団リンチ」として一面トップで凄惨な暴行事件を報道。以降、続報が紙面を埋め、共産党は連日、記者会見を開くのだが、朝日はこれを取り上げない。初めて社会面で長文の記事を掲載したのは、6日後の28日、事件が国会で取り上げられたからだった。しかも事件の背景は、解放同盟の主張に沿ったもので、学内で繰り広げられた暴行事件にはほとんど触れなかった。
一報を県版で処理したことにつき、神戸支局長の永尾辰弥(67)には、次のようなためらいがあったという。
部落解放のための糾弾を普通の暴力事件のように報じたら、「解放同盟イコール暴力集団」という誤解を招きかねない。
そうした空気は大阪本社全体にあったというのである。
「差別に立ち向かうのはある程度激しい糾弾も許されるという考えが、一部に批判もあったが、大阪本社内で強かった」と当時を知るOB、現役記者は指摘する。
これでは、糾弾闘争の激しい実態は伝わらない。朝日新聞だけでなく他のマスコミも大同小異だった。解放同盟への忖度により「報道自粛」を行ったことになる。
「社会的に廃人になることもあるぞ」
集団暴行の八鹿高校事件がこうである。その前に発生した矢田事件は、解放同盟系出版物と赤旗など共産党系出版物が伝えるだけで、事件の詳細はまったく報じられていない。発端は1969年3月、大阪市教職員組合東南支部書記次長選挙において、候補者の共産党員の教諭が出した「立候補挨拶状」だった。
組合員のみなさん、労働時間は守られていますか自宅研修のため午後四時頃に学校を出ることができますか。仕事においまくられて勤務外の仕事を押しつけられていませんか。進学のことや同和のことなどで、どうしても遅くなることはあきらめなければならないのでしょうか。またどうしてもやりたい仕事もやめなければならないのでしょうか。
この後も、教育の正常化に名を借りた締め付けや管理がないか、といった問いかけが続く。これだけ読めば、どこが問題かわからないが、当時、矢田地区では生活の困窮、住環境の劣悪さ、それによる越境入学の常態化などで解放同盟矢田支部を中心に、打開策が模索されていた。挨拶文は、そうした解放同盟の取り組みに対する共産党の攻撃だとして、解放同盟は「差別文書」と断定、立候補者と推薦人となった13人の教員に対する糾弾活動を行った。
糾弾は69年4月9日、解放同盟員が勤務中の3人の教諭を数人がかりで連れ出し、矢田市民館に連れ込んで、午後4時から10日午前2時20分まで行われた。75年6月の地裁判決文によれば、3人を数十人の同盟員が取り囲む形で、次のような激しい言葉が浴びせられたという。
解同は差別者に対しては徹底的に糾弾する。糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ。差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけてでも探し出してみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ。そう、覚悟しとけ。
大阪地裁は、こう恫喝、不法監禁した事実を認めつつ、起訴された2人の解放同盟員に対して無罪判決を下した。判決は、文書が結果的に差別を助長することに繫がる内容を包含しており、差別に対する糾弾は「その手段、方法が相当と認められる限界を越えないものである限り、社会的に認められて然るべきものと考える」というのである。朝日新聞が報道を控えた「差別に立ち向かうための糾弾は許される」という発想に通じる。
「被告人は両名とも無罪」
この判決に、解放同盟を中心とする傍聴席からは、歓声と拍手が沸き上がったという。「糾弾権の正当性」が認められたのだから当然だが、高裁では逆転する。81年3月、大阪高裁は一審判決を破棄、一人の被告(もう一人は公判中に死去)に懲役3月、執行猶予1年の有罪判決を下した。判決では、地裁同様、挨拶文が差別を助長することに繫がりかねない内容を包含する、としながらも次のような理由で有罪とした。
被告人らの行為の動機、目的の正当性を十分考慮に入れても、その手段・方法が法的秩序に照らし相当と認められる程度を明らかに超えたもの。
被告人らの行為は、社会的に相当と認められる程度を明らかに超え、法秩序全体の見地から、いまだ可罰的評価に値しないとは到底いえない。
こうして拉致監禁して、集団で糾弾する行為の違法性が確認された。