百間外伝 第14話 阿房列車の人模様【戦後/下】
乗り降り賑やか、才と運が交差して
「僕は汽車は好きだけれども、旅は嫌いですよ」とへそ曲がりの百間は、嬉々として阿房列車で全国を駆けめぐる。各地の駅長はもとより、詩人や作家ら国鉄文士と交わり、見知りの旧交を温める道中。弟子の中村武志は人気ユーモア作家に、平山三郎は百間の伝記作家へと巣立った。=敬称略、約1万5500字
取り出された地方紙
阿房列車の第4弾は、東北方面に向かった。
昭和26年10月21日、上野を昼過ぎに発つ準急に乗車する。上野駅にはもちろん、中村武志が姿を見せた。サンフランシスコ講和条約が調印され、1カ月余りのちのことである。
福島に一泊、翌日は仙台で乗り換え、夜の8時少し前に盛岡に着いた。ホームには百間が「矢中懸念仏」と呼ぶ法政の元学生、「弁当泥坊」の金矢忠志が待っていた。
金矢は昭和2年に法政大学経済学部を卒業、鉄道省に入省し、のちに満洲に渡ったが、終戦とともに郷里の盛岡に戻り、水産会社の支配人となる。盛岡中学時代に、中等学校野球大会で甲子園出場を果たしたこともあって、彼の地の名士だったのだろう。
小田島別館に旅装を解くと、ただちに宴となる。
「懸念仏がポケットから新聞の切り抜きを取り出した。見ると驚いた事に私の昔の写真が載つてゐる。昔と云ふのは三十何年前である。だから若い。シングルの立ち襟に中折帽子をかぶつて威張つてゐる」(「東北本線阿房列車」)
取り出したのは10月13日の『岩手日報』だった。阿房列車の人気が広まると、しばしば地方新聞に来訪が報じられたが、その最初であろう。
「私の写真の下に、懸念仏の今の写真が出てゐる。禿げると紳士に見え易い。堂堂たる支配人の偉容を備へ、若造の私とくらべて、どつちが先生だか解らない。本文は二段抜きの見出しで、四段の囲み物である。『教へ子たづねて』と云ふ題である。私は『教へ子』と云ふ言葉がきらひで、見ただけでむかむかする」(同)
百間について書かれた物にも、しばしば「教え子」なる言葉を見かける。そのたびに違和感を覚えるのも、この一節が思い出されるからだろう。
大坪孝二と『動物哀歌』
盛岡2日目の晩には、世話になった平山の知り合いを招く。その中には名高い国鉄詩人がいた。
「午後自動車にて出かけて駅前の鉄道管理局へ行き平山が友人大坪に会ひて明日の汽車、秋田の連絡等を打合はせた。……夕、金矢来。管理局の野村、大坪来、後からいさむ来。四人をお客に一献す」(百間日記・26年10月23日)
大坪孝二は、父から受け継いだ旅館を営みながら、盛岡鉄道管理局の機関誌『もりてつ』の編集に携わる。詩人として知られ、昭和29年には岩手県詩人クラブを結成、35年からは会長を務め、41年には第3回鉄道ペンクラブ賞を、64年には詩集「今日よりも」で第30回土井晩翠賞を、それぞれ受賞する。
また大坪が主宰した「Làの会」からは、多くの詩人が生まれた。近年注目されている村上昭夫もそのひとりであった。大坪は村上を、こう紹介する。
「彼は好んで、動物、とりわけ、すずめ、ねずみ、カラス、犬、牛、馬、象などを素材として、独特のきびしく悲しい無の世界を追求した。また宇宙の存在をとおして、純粋な生の意義を歌いつづけてきた。これは彼が最も尊敬してやまない宮沢賢治の四次元の世界への探究であり、日頃傾倒している仏教の影響によるものである」(「岩手地方の詩人たち」『詩学』昭和42年12月号)
あれは何時のことだったのか
犬が犬でなくなったその日は
その時から
ひとつの言葉が失われた
馬の言葉が
牛が羊が魚が虫が
とだえた河のように見えなくなった(「失われた犬」冒頭)
深海魚を見たと思う
生きていると言えばわずかに言える
陽にさらされた深海魚は
あれは魚ではない
日の谷間のかげろう
もっと暗いいのちの影(「深海魚」冒頭)
村上昭夫は昭和25年、23歳のときに結核に罹り、その後は闘病生活を送りながら詩作に励んだ。やがて病状が重くなると、大坪孝二などの勧めもあって初めて詩集を上梓する。昭和42年に出版された『動物哀歌』で、第8回土井晩翠賞と第18回H氏賞を受賞する。村上が41歳で亡くなったのは、翌43年の秋のことであった。
村野四郎は『動物哀歌』の序文に、次のように記す。
「私は、この詩集に、啄木より賢治より、もっと心霊的で、しかも造型的な文学を見る。おそらくこの詩集は、真に現代詩の深淵を覗きこみたいと思う、すべての詩人や詩の愛好家に、おそろしいほど新鮮な衝撃をあたえるのではないかとおもう」
秋田の国鉄文士
10月24日には盛岡を発ち、浅虫温泉で一泊ののち、青森を経て秋田に入る。
「夕秋田著、南、高橋、荻原出迎、局の自動車にて石橋旅館に入り三人をよぶ」(百間日記・26年10月25日)
萩原長雄は、農民文学の作家伊藤永之介に師事した国鉄文士であった。
「下田芙佐雄」の筆名で「猫」「米買い」「濡れ雪」「テケハ」などの小説を書き、「米買い」は23年刊行の『鉄路に芽ぐむもの : 国鉄作家十二人集』に収められる。
コラムの筆名は「萩原永生」で、百間の思い出もその名で書いた。
「麹町六番町にある百閒先生の雑門をくぐつたのは、かれこれ二十年前である。記憶に間違いがなければ、クリスマスの夜、昭和通りに近い『静』というバーで、平山と私は三角帽子をかぶつたりして、大分酔つ払つてから、招かれざる客としてであつた」(「『百鬼園先生雑記帳』評判記」『運輸界』昭和44年12月号)
20年前といえば24年だが、百間の日記にはそれらしき記述は見あたらない。前年の日記が11月から年末まで空白なので、昭和23年のことだろう。
萩原長雄は後年、市会議員となり、晩年には副議長などの要職を歴任したという。
こののち百間一行は、横手、山形、松島をまわり29日に帰京した。
浅虫までは「東北本線阿房列車」、青森以降は「奥羽本線阿房列車」として発表される。