郵船の閑人、根付と天水桶と新田丸

内田百間外伝 【第3話】

郵船の閑人、根付と天水桶と新田丸

浴衣一枚から背広姿になって、皇居前の日本郵船本社へ通う百間。社長の祝辞の文案だけでなく、根付本の翻訳手配やら、俳句本や天水桶の賛、新造客船の宣伝文やらと案外忙しい。=敬称略、約8700字

谷中安規「大川端」(新日本百景33)1933年、木版京都国立近代美術館蔵

社長発案、文章指南の嘱託に

昭和14年(1939年)4月に百間は、東京帝国大学教授辰野隆の推挽によって、日本郵船に嘱託として採用される。日曜に加えて水曜も休みで、週に5日午後だけ出勤すればよく、個室も用意されていて仕事は文書の添削だけ、それで月給200円の好待遇であった。すべては大谷社長の発案だという。

大谷登は明治7年に、旧福井藩士大谷麓の長男として福井市に生まれている。明治29年に一ツ橋の東京高等商業を首席で卒業、日本郵船に入社して本社業務を一通り経験すると、イギリス、オーストラリア、南アフリカなどの海外支店に勤務する。大正5年からはカルカッタ支店長、ついでニューヨーク、ロンドンの支店長を経て、関東大震災のあった大正12年末には専務取締役に昇任した。このとき大谷以外は、ほとんどが社外重役で占められていた。

百間を日本郵船嘱託にした大谷登社長
(ウィキペディアより)

昭和4年に日本郵船は、震災後の不況による業績不振を立て直そうと、東京海上保険会長で財界の重鎮の各務鎌吉を社長に迎えた。各務社長は、株式配当の減額、航路整理、職制の改革などを実施し、副社長に抜擢された大谷は、兼務で非常勤の社長をよく扶けた。大阪商船との合併問題で一時混乱したが、政府が助成に乗り出すと業績は回復し、昭和10年の創業50周年を機に各務は会長に退き、生え抜きの大谷登が社長に就任する。4年後、その社長の指示で文書顧問採用となったのである。
14年4月20日、初出社の日に百間は、村山古郷に葉書を出している。

「拙者儀来週より海運界を指導する事に相成居候間国家の為御承知置願度存候今日は社長にあひに行〼いきます
その後百間からは、郵船に遊びにくるようにと何度も誘われるが、3月に国学院大学を卒業した古郷は、4月から東京保善商業で国語の教員となっていて、なかなか時間はとれなかった。

7月8日になって、ようやく足を運んだ。

「内田嘱託室と書かれた扉を排して入ると、衝立があつて、その蔭に小机を置き、中学生服を着た少年が、リーダーを開いて勉強していた。郵船会社では給仕といわず、店童てんどうと呼ぶ。衝立の向うの、二、三十坪もある大きな室のまん中に机を据え、百閒先生は所在なさそうに椅子にもたれていた」(「百鬼園先生追懐記」『俳句』昭和50年7月号)

百間が通った東京駅前お濠端の日本郵船ビルは1978年に建て替えられた
(ウィキペディアより)

麹町の家では浴衣一枚だった百間が、背広を着込み、重役然として座っているのに驚き、日本郵船の文書顧問とは偉いんだ、と古郷はあらためて感心する。もっとも仕事はあまりなかったようで、「起案起草せず、添削のみという入社の条件であつたが、会社では、大嘱託に下らぬ文章は回すなという指示があつたそうで、先生はいつも閑であつた」と記している。

 そうは言いつつも、実際にはさまざまな仕事が持ち込まれた。

「午後、社長に頼まれた結婚式の祝辞の文案を二三作つて上げた」(日記・昭和15年11月24日)

日本郵船の社長ともなれば、結婚披露宴にはたびたび招かれ、そのたびにスピーチを求められる。話の種もやがて尽き、同じことを繰り返すしかないが、出席者も業界関係者が多く、同じメンバーに同じ話をするのは気がひける。すまないが祝辞の文案をいくつか作っておいてくれないか、と頼まれたのであった。

晩年になって、百間は振り返る。

「私の嘱託としての役目は、会社で作つた文書を見て直す事であつて、こちらで起案する事はしないと云ふ約束になつてゐる。だから社長の註文はその協定に違反するのだが、まあいい事にして引き受けた」(「青葉しげれる」『小説新潮』昭和39年6月号)

大谷社長から頼まれたのは、祝辞の文案だけではなかった。

「去年九月、永島常務より頼まれた社長の根附の翻訳は、藤田保二君の手にて漸く完了した。今日その筆耕も出来上がり、永島氏に渡した」(日記・昭和15年12月17日)

百間の文章には、これについて触れたものは見あたらない。

いったい「社長の根附の翻訳」とは、何なのだろうか。

この記事は有料です

会員登録・ログインして記事を読む

他の記事