訪欧飛行の電報「Wahahahahahaha」の謎
            谷中安規「夜四題のうち街の本(ムーランルージュ)」(木版画、16.5×20.8 1933年)京都国立近代美術館所蔵

内田百間外伝【第1話】

訪欧飛行の電報「Wahahahahahaha」の謎

本誌にコラムを寄稿する山本一生氏が、2022年の読売文学賞(評論・伝記部門)を受賞した。実は受賞作、内田百間の評伝『百間、まだ死なざるや』は、紙数の都合で載せられなかった逸話秘話が数多く積み残されている。もったいない! 今のうちに「外伝」を編み、百間が愛した「風船画伯」谷中安規の版画と対面させたい。風来坊の谷中は戦後、焼け跡の掘立小屋で餓死したが、「これ、くん風到来」とは、彼を助けようと百間が贈った見舞い金への礼状の一節である。その百間のやさしい「薫風」をあなたにも――。(編集部)=約6,200字

 

谷中安規「瞑想氏」(木版画、14.9×21.21933年)=文化庁「文化遺産オンライン」より

 青年日本号の訪欧飛行

昭和6年(1931)5月29日、小型の複葉機が一機、開港前の羽田空港から飛び立った。法政大学の青年日本号で、シベリアを横断して欧州に渡り、現地の学生たちと交歓しながらローマに至る37日間の飛行が計画されていた。操縦士は、法政大学経済学部2年で航空研究会所属の栗村盛孝、教官として一等飛行機操縦士の熊川良太郎が同乗した。

青年日本号は6月2日にはハルビンを発ち、チチハルを経由して難所である興安嶺を越え、満洲里に着陸、翌3日にはソ連領に入る。

この当時、満洲には不穏な空気が漂っていた。

6月27日には、中国の張学良軍の一隊が、興安嶺の東側を調査旅行していた陸軍参謀本部の中村震太郎大尉らを銃殺し、遺体を焼き捨てる事件が発生する。続いて7月2日には、長春郊外の万宝山において、朝鮮人の入植農民と現地の農民との間でトラブルとなり、武装した日本の警官が中国人農民と衝突した。満洲での一触即発の状況は、法政大学にも知らされ、飛行計画にも影響を及ぼしたのだろう。

青年日本号は無事に満洲を通過したものの、イルクーツクとゴロホベツで不時着、なんとかモスクワまで辿り着くと、今度は栗村が寝込んでしまう。日程は大幅に遅れたものの飛行は続けられ、7月25日にはベルリン、8月1日ロンドン、10日には花の都パリに入った。

8月23日にはパリを発ち、発動機の故障からリヨンで3度目の不時着をしたのち、31日にようやく、ローマのリットリオ空港の上空に達する。

そのときの感激を、熊川良太郎は記している。

「私の目頭にじわ/\と熱い涙が湧き上がつた。そして興奮した熱い頬をほろ/\と伝はつて、拭けど拭けど留度がない。

『あゝ、一年有余の歳月、憧れ望んだ空だ。あゝ、シベリアの奥地の苦心惨憺も、今こそ豊かに酬はれる時となつたのだ』

栗村君も両手で頬を押へてゐた。その肩が激しく震へてゐる。男の涙だ。成すべきことを成し遂げた喜びと興奮に流す涙だ。重い責任も大いなる死命も果したのだ」(『征空一万三千粁』)

午後5時57分、飛行場の中央に着陸すると、嵐のような歓声が湧き起こった。ただちに、黒シャツ姿のファシスト飛行団員たちが青年日本号に駆け寄って、2人の飛行士を抱えおろし、そのまま肩に担いで歓迎会場まで運んでいく。

会場には日伊両国の関係者が詰めかけていて、万雷の拍手で迎えた。イタリア側は、ムッソリーニ首相秘書、バルボ航空大臣代理、大学関係者や陸海軍の将校たち、日本側は、吉田茂駐伊大使、小川昇書記官、池田人海軍少佐、法政大学航空研究会副会長の鄭審一教授、大使館員や駐在武官などであった。

その夜は大使官邸で、訪欧飛行達成の祝宴が大々的に催された。終了後、栗村と熊川は、鄭教授とともにグランド・ロイヤルホテルに投宿する。

その晩、東京に向けて電報が打たれた。『法政大学史資料集』第29巻には原文が残されている。

MICHISITOTSUROOMANOMIYAKONITSUKINIKERIWAHHAHATEIKUMAKURI

日本語にすると次のようになる。
「道しとつ、ローマの都に、着きにけり、ワッハハ鄭・熊・栗」
「道しとつ」は「道一つ」だろう。佐藤春夫作詞の「離陸の歌」には「羅馬に通ふ道一つ」なる一節がある。

電報は9月1日の午前9時にローマから発信され、午後7時57分に早稲田局で受信する。
東京からの返信は9月3日、ローマ公使気付になっている。こちらは頼信紙に書かれた控えである。
Wahahahahahaha  UshimiwasiniataU  shimi  wa  sinia  ta(U―Prof.E.Uchida, shimi―Shimizu, wa―Iwase, sinia―Petit et Grande Abysinia, ta―Prof.M.Tada)

「ワハハハハハハ、 UshimiwasiniataU  shimi  wa  sinia  ta(U―内田栄造教授、shimi―清水、wa―岩瀬、sinia―小と大のアビシニア、 ta―多田基教授」

返信にしては、いかにも奇妙な電報であった。

内田栄造は百間の本名、清水は清水清兵衛、岩瀬は岩瀬高次、ともに航空研究会の関係者だが、ならば「小と大のアビシニア」とはだれのことであろうか。さらに「ワッハハ」と「ワハハハハハハ」の秘密めいた応答は、何なのだろうか。

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