遺影発見、百間の「悲劇のヒロイン」

百間外伝 第5話 長野初の青春1

遺影発見、百間の「悲劇のヒロイン」

見つかった、何が、永遠が。関東大震災の紅蓮の炎に消えた百間の愛弟子、長野初の遺影をついに入手した。彼女は才色兼備の綺羅星たちに囲まれていた。百間伝の画期的なブレークスルー。=敬称略、約10,000字

谷中安規「作品13天使と裸婦」(木版、15.0×18.8、制作年不詳)=京都国立近代美術館所蔵

 

日本女子大学校英文学部

 

その新聞のコピーを手にしたとき、思わずつぶやいた。

「長野初さん、見つけましたよ」と。

長野初の遺影と略歴が載っていたからである。

長野初は、百間にまつわる物語の最大のヒロインといってもいいだろう。

関東大震災で長野初を喪ったのちの百間の悲しみは尋常ではなく、しかも長く続いた。そのためか、愛弟子以上の思いを抱いたのではないかと問い詰める旧友もいたというし、じっさい戦後になって取り巻きとなった雑賀進なども、「私はこれは明らかに先生のひそやかなる恋情であると推定する」と言い切る。

憶測が生まれるのも、その場にいた者たちが何も伝えなかったからだろう。長野初に接したといえば大正期の法政の学生たちだが、一番弟子の菊島和男は早くに亡くなり、書生だった内山保は遠ざけられ、北村猛徳の遺稿集『めぐる杯』でもほとんど触れられない。最も古くから側にいた多田基は、ひたすら沈黙を守っている。

かくして百間が書いた「長春香」「塔の雀」「素絹」「アヂンコート」などから憶測が生まれる。さすがに評伝については憶測だけでは難しく、『桜楓会会員名簿』から日本女子大学校の卒業年度を確定し、野上彌生子日記なども参照しながら『百間、まだ死なざるや』を書き上げた。ただ他に手がかりはなく、長野初の物語もそこまでかと思っていた。

送られてきた新聞

そんなときに、遺影が掲載された新聞が送られてきたのである。驚いたというか、感動したというか、突然視界が開けたような感じだった。「史料は出てきたいときに出てくる」のだとしたら、もう少し調べることを長野初が望んだということだろうか。

送られてきたのは『家庭週報』であった。日本女子大学の卒業生の組織である桜楓会が発行した週刊の新聞で、大正12年11月30日号の10面と11面の半ばを使って、長野初、再婚した森初を追悼する。

●被服廠跡で一家惨死の森初子氏遺影小伝

○森さんのこと義永哲子

○幼き日の追憶大橋了介

日本女子大卒業生の新聞「家庭週報」に載っていた長野初の遺影

義永哲子は帝大聴講生時代の親友、吉岡喜久子の仮名であり、大橋おおはし了介りょうかいは台湾時代の幼友達で、のちに洋画家となった。
少し前に妻君が、大学時代からお世話になっている元日本女子大学学長・理事長の後藤祥子先生に拙著をお送りし、長野初についてお知らせしたところ、先生が桜楓会にいって探してくださったものだった。

『家庭週報』は国会図書館で見かけたが、明治期のものしか所蔵されておらず、そのため大正期に関しては完全に意識から外れていた。迂闊であることを思い知るとともに、ならば大正期の『家庭週報』には、ほかにも長野初に関する記事があるのではと考え、後藤先生にお願いして閲覧させていただく。

驚いたことに大正期の『家庭週報』に載っていたのは、記事だけではなかった。長野初の翻訳もあれば、小説もあった。級友への追悼文もあれば、『冥途』の紹介文もあった。それらを見ていると次第に、ドイツ語を習いにきた勉強熱心な女性というイメージが薄れていく。かわって、知識はもっと広範で、すでにある程度の地歩を築き、さらに意欲的に時代に関わろうとする女性の姿が浮かんでくる。
おそらく長野初の全体像を描くには、もう少し史料が必要だろう。とりあえず本稿では、大正期の『家庭週報』をもとに、非命に斃れた百間の愛弟子の青春を掘り返してみることにする。

台湾時代の初子さん

長野初は、明治30年(1897)1月14日に生まれている。『山梔くちなし』の野溝七生子や宇野千代と同じ年にあたる。

父の長野悟は、熊本は天草下島御領村の出身で、明治29年の東京医術開業試験の及第者として『中外医事新報』12月5日号にその名が掲載される。初が生まれる直前のことであった。

長野悟はその後台湾に渡り、台北の士林地区担当の公医となった。公医は明治29年に台湾で創設された制度で、担当地区で開業しながら、衛生部門の補助や伝染病流行の際の検疫、警察の監察業務を行う医師のことである。明治36年3月の『台湾総督府文官職員録』から名前は出てくるので、前年の35年あたりに採用されたのだろう。

「台湾の首都台北を去る一里半、淡水河の畔りに士林と云ふ小さな美しい街があります。古から台湾の文化の地として学者が多く住んでをりました。領台後、伊澤修二先生がはじめての学堂を建てられた土地であります。此の士林で初子さんは大きくなられました」(大橋了介「幼き日の追憶」)

長野初の幼友達だった大橋了介の自画像
(2021年にサンパウロで開かれた展覧会より)

大橋了介は、小学校教員だった大橋捨三郎の長男として、明治28年に滋賀彦根に生まれている。やがて捨三郎は台湾に渡り、明治37年開校の国語学校第三附属学校、のちの台北第一高等女学校の教員となり、その後も台湾の女子教育に力を尽くした。住まいは女学校の中にあり、広い校庭には草花が咲き乱れていたので、近くの子供たちの格好の遊び場となった。長野初もそこで、同級生である了介の妹たちとよく遊んだという。

「遠足の時はいつも私の妹とお弁当の取り換へをするのでした。家族の多い妹のお弁当にはおいしい漬け物が入つてゐたのです。初子さんは卵焼きやお魚が嫌ひだつたのです。近所の台湾人の子供等も初子さんのお友達で、おはぢきをしたりお手玉を教はつたりしてをりました」(同)

明治41年6月、長野悟は、港町である基隆へ異動となり、さらに翌42年6月には、台湾の最南端、恒春での勤務を命じられた。明治40年から台湾総督府は、総督府医学校出身の台湾人を積極的に公医に採用する。給与が日本人の半額だからで、それによって公医の絶対数を増やそうとしたのであった。

初はすでに高等女学校に通っており、今後の教育のことを考えると、ここらが潮時と長野悟は考えたのだろう。明治43年12月の『台湾医学会雑誌』には、次のような記事が載っている。

「長野悟氏台湾公医(恒春在勤)同氏は十月二十五日附依願免職せられたり」

東京に戻った長野初は、日本橋高等女学校に編入ののち、大正3年3月に卒業すると、日本女子大学校英文予科に進学した。

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