「法政騒動」敗者、森田草平の戦時下

百間外伝 第10話

「法政騒動」敗者、森田草平の戦時下

森田草平の旗色すこぶる悪し。漱石門下の後味の悪い「法政騒動」に巻き込まれた百間は、この宿敵を生涯許さない。『実説艸平記』の霊験あらたか、後世に草平の悪しきイメージがみごとに定着した。だが、家庭では正妻と別居、心中未遂やら三男の精神障害やらと火宅の人。大空襲や疎開など苦労の連続で、その戦中日記は読むに足る。=敬称略、約1万4400字

谷中安規「怪 その2」(木版多色、7.4×13.71933年)東京国立近代美術館蔵

収まらない怒り

昭和8年の法政騒動は、同じ漱石門下の野上豊一郎と森田草平の対立に端を発する。学監で予科長だった野上への反感は根強く、森田はこれに乗じ、年末には野上豊一郎の解嘱、年明けには内田百間など8名の解嘱、36名の辞表受理によって、とりあえずは野上派を一掃した。

この騒動について百間は、『実説艸平記』で次のように書いている。

「事の推移から見ると、草平さんが采配を振つた大将であり、結果から云へば草平さんが元兇であつた。しかしそれは表向きの形であつて、実は今まで草平さんと別につき合ひも関係もなかつた一味が謀議の上で草平さんに取り入り、草平さんをかつぎ上げて自分達の野望を遂げようとしたのである」(『小説新潮』昭和25年9月号)

弁護するかのようにも読めるが、前年に草平が亡くなったからだろう。

昭和24年5月の森田草平(長野県駒場長岳寺で)
『森田草平選集』第1巻理論社1956

たとえば昭和9年に編集者に出した手紙では、こう断言する。

「私はその原稿で正当な主張が容れられぬ為失職してなほ主張を枉げない同僚に代り、私の鬱憤を晴らす形式にて筆誅を加へるつもりだつたのです」

 「筆誅」の相手はもちろん、森田草平である。

戦後の日記にも、こう記している。

「辰野隆、豊島与志雄の外に森田草平の名を挙げたればそんな会合に出てもきやくそ悪き計りなれば、ことわる」(昭和22年5月12日)

百間の怒りは、10数年経過しても収まっていなかったのである。

当然ながら評伝を書く際には、百間の怒りに満ちた日記や手紙を、しっかり読むわけで、その結果森田草平を敵役として過剰に描いてしまう恐れはあった。それゆえ気を付けて書いたつもりだったが、終わってみると、どうも落ち着かない。意識を超えたところで、やはり無駄に悪く書いたのではという思いが拭い切れなかったのだろう。

そこでつらつら考える。気持ちを整理するにはどうしたらいいのかと。すぐに「日記読み」としてできることは、一つしかないことに気付く。その人の日記を「読む」ことである。そして幸いにも、森田草平の日記は抄出とはいえ、一部がすでに刊行されていることを思い起こす。

晩年日記は村上一郎が編集

森田草平の日記は、昭和9年4月29日に始まる。

いったんは法政の天下をとった森田派だったが、大学理事やジャーナリズムへの野上派の巻き返しは功を奏し、日記の始まりの4月29日といえば、そろそろ流れが変わるころだった。やがて草平は、8月には休職に、さらに10月14日には解嘱に追い込まれる。

漱石門下の森田草平(後列左)と阿部次郎(同右)、小宮豊隆(前列左)、安倍能成(同右)
『阿部次郎全集』第2巻、角川書店1961

この間、すなわち日記開始の4月29日から、解嘱を翌日に控えた10月13日までの分は、『法政大学史資料集』第13巻に収められている。法政騒動に的を絞っての抄出で、平成2年に出版された。

また昭和18年10月から日記の終焉の24年9月までの分は、『森田草平選集』第5巻として昭和31年に理論社から刊行された。まさに晩年の日記で、翻刻と抄出を行ったのは、のちに雑誌『無名鬼』を主宰する村上一郎であった。

晩年の日記(『森田草平選集』第5巻理論社1956)

村上一郎は、昭和18年9月に東京商科大学を繰り上げで卒業し、短期現役士官として海軍に入り、主計大尉で終戦を迎えた。

戦後は三菱化成を経て、昭和22年には日本評論社に入社、ルポルタージュなどを担当する。24年10月18日、19日には、伊那谷の長岳寺を訪れて病床の森田草平を取材し、『日本評論』12月号に「往事茫々」と題してその談話を記事にした。

平凡社嘱託ののち文筆活動に入り、昭和31年からは雑誌『典型』を、36年からは吉本隆明、谷川雁と共同編集で『試行』を、39年からは『無名鬼』を発行するとともに、『東国の人びと』『北一輝論』『振りさけ見れば』などを著し、昭和50年に自決する。

『森田草平選集』全6巻は、1巻、2巻、5巻が出版され、その後は刊行中止となる。村上一郎が関わったのは第5巻だけだが、日記翻刻に至った経緯ははっきりしない。ただ『新日本文学』昭和32年9月号に寄せた「森田草平ノート」では、「森田草平が文学の評論家として、高い水準にあったことを言いたい」と書いている。

草平の晩年日記についても、次のように評した。

「筆者が、意識無意識のうちに記録しえたこの年代こそ、日本歴史の中で最大の劇的な起伏にみちた部分である。その歴史の中で、私たちの一人一人がどんな姿であったかを、鏡のように見せるもっとも普遍的な役目を果してくれる点で、この部分はとくに貴重な国民的財産ではなかろうか」(編者解説)

じっさい「筆者」にも、その自覚はあったようだ。

「病後の疲労と我子の打撃との中にあって、日記を記けるのは実に苦痛なり。しかしこの苦痛を忍んで記けておくのが、戦時下の文筆業者の義務と心得てつけ行く」(昭和20年3月3日)

村上一郎が「国民的財産」と呼ぶのは、昭和20年8月15日までの日記だろう。ならばその間の日記を読み、戦時下の森田草平の動向を追うことで、少しでも気持ちの整理をつけたいと思うのである。

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