百間外伝 第4話
畸人の子に『スヰート』な「恩借」
借金王、百鬼園には、証文なしで何度でも貸してくれる有り難い同郷の恩人がいた。明治製菓の社長になった中川蕃だが、催促なし返済なしの鷹揚さ。 =敬称略、約9900字
「返すよ」なんて言えない借金
恩借、という言葉がある。
厚意を得て金品を受け取ること、である。
昭和15年に冨山房から刊行された『大日本国語辞典』にも、「人のなさけによりて、金銭又は物品を借り受くること」とある。
だが内田百間の「恩借」は、少し趣が異なる。「貧乏生活やりくり話の会」と題する座談会では、こう話している。
「借金で、一番困るのは恩借といふ奴ですね。利子の付く金はいゝが、証文のない借金それが一番困る。自分の境遇が変つてお金があつても、返すことが相手にひどく失礼になつて返すことが出来なくなる、詰り結局有難く頂戴してその恩を着なければならぬやうな借金ですね。こいつはまつたく貧乏の産物です。今これだけ金が出来たから返すよなんて云へない借金が沢山ありますよ」(『話』昭和13年12月号)
これに対して「株屋」の古居七三郎が「なるたけさういふ借金にしたいもんですね」と応じ、笑いを誘っている。
ここでは「恩借」は返すことができない借金、言い換えれば、返さなくてもよい借金というニュアンスになる。むろん、百間流の「恩借」の理解である。
実際に百間の日記では、昭和17年に入ってから「恩借」が出てくる。
「タクシーにて明治製菓に中川さんを訪ひ三百五十円恩借した。那珂書店の件なり。漸く安心したが誠に申訳なし」(昭和17年3月25日)
1年後に再び出てくる。
「中川さんを訪ひ三百円恩借す。誠に申訳なし」(18年3月8日)
「明治製菓に行き中川さんに三百円恩借す。誠に申訳なし」(18年6月24日)
相手はほとんどが、岡山中学の一年先輩の中川蕃であった。
昭和24年7月に中川は亡くなり、12月になって百間の追悼文が新聞に掲載される。
「恩誼は筆紙に盡くせないのだが、蕃さんが亡くなられてから既に半年近くになる。思ひ出を草しておきたいと思つたけれど、文士や変人が死んだのなら新聞に寄せやすいが、社長を弔する文は遠慮で書きにくい。書きたい事を殺し殺し、やつとこれだけ纏めた」(「蕃さんと私」『毎日新聞』12月4日号)
大正期に百間の借金苦を救ったのは星島二郎だが、戦争末期には中川蕃がその役を引き受ける。中川蕃がいなければ、再び借金地獄に引き込まれたかもしれない。
だが衆議院議長となった星島二郎については多く語られているが、企業人の中川蕃については、あまり知られていない。百間が書かなかったからでもある。恩人をそのままというわけにもいかないので、せめてその半生でも紹介しておきたいと思うのである。
岡山の畸人、中川横太郎
中川蕃の父、中川横太郎は「健忘斎」と号し、岡山では奇行の人として名高い。
もともとは「金次」であったが、のちの大分県令森下立太郎が隣に住んでいて、折り合いが悪かったことから、向こうを張って「横太郎」と改名した。しかも子供が生まれると長男には「竪一」、次男には「斜」と名付けたというから、早くから畸人変人の噂が立っていたのだろう。
中川家は、池田光政に仕えた漢学者中川謙叔を祖とする藩儒の家柄だが、横太郎は「目に一丁字なし」と称したように、読書を苦手とした。逆に記憶力は抜群で「祖先の学は目より入り、吾の学は耳より入る。入る所異なりと雖も心に得るは一なり」と嘯いた。
明治4年、県の学務衛生主任となった横太郎は、小学校新設のために県内各地を遊説してその必要性を訴えるとともに、県立病院に外国人医師を招聘し、薬学校や看護婦産婆養成所を設置するなどして衛生の近代化にも力をつくした。また士族のために実弟の杉山岩三郎と語らって微力社を結成し、児島湾干拓事業を進め、岡山紡績所を創業するなどして、岡山の文明開化を語るには欠かせない一人となる。
横太郎は講談師の鑑札を受けたほどの話し上手で、街頭演説はわかりやすく人気を呼んだ。
断髪令が出るといち早く髷を落とし、「女に嫌われるかと思ふたが、髪を切るともてること、もてること」と丁髷頭に語りかけた。電灯が広まらないと聞くと、法被に股引、鉢巻き姿で太鼓を打ち鳴らしながら電灯の効用を説き、コレラが流行したときも、鬼の面をかぶり、一本歯の高下駄をはいて衛生上の注意事項を触れ回った。
奇行の最たるものが、明治32年に行われた「生葬礼」、いまでいう生前葬だろう。
『山陽新報』には、「来る二十七日午後二時国富山少林寺に於て一応死去仕り」「香典の儀は成る可く多額に願上候」との広告を掲載した。当日は多くの人が見守る前で、大男の横太郎は素っ裸で登場し、芸者数名に湯灌してもらったのち、白装束を身にまとって棺桶の中に入り、寒さに震えながら葬式の終わりを待った。このとき集まった香典は全額、財政的な苦境にあった山陽女学校に寄付される。
元芸者、炭谷小梅の自立
キリスト教も、中川横太郎によって岡山にもたらされる。
明治8年、宣教師のテーラー博士を神戸から招き、自宅で説教会を開いた。このときのメンバーを中心に、明治13年には岡山基督教会が設立され、初代牧師として金森通倫が招聘された。
キリスト教の広まりは、思わぬ形で横太郎に返ってくる。
横太郎には、正妻とは別に炭谷小梅という馴染みの芸者がいた。小梅も熱心な基督者となり、横太郎の許しを得て、神戸の英和女学校に通い始める。学ぶうちに自立の重要性を痛感した小梅は、これまでの生活を牧師に懺悔し、横太郎には縁を切りたいと申し入れた。さすがの畸人もこれには驚き「キリストはおれのをんなを奪つていつた」と嘆きつつも、娘のトヨを残すことを条件に願いを聞き入れる。
小梅は洗礼を受けると、神戸女子神学校を卒業、その後は婦人伝道師として岡山教会を助けた。また石井十次が岡山孤児院を始めるとこれに深くかかわり、石井からは「信仰の母」として敬愛される。
炭谷小梅の自立は、かなりの衝撃を持って迎えられた。杉山岩三郎の妾だった杉山宇野も感銘を受けた一人で、学問を身につけたいと岩三郎に頼み込む。
宇野の息子で、毒舌評論家として知られる杉山平助は、次のように書いている。
「啓子は女学校にはひつて、かぞへ切れない口惜し涙の夜を過して、卒業した。そして、曾つては傑出した兄弟の妾であつた二人の女は、今は新生した精神的姉妹として、手をつないで、生涯を孤児の救済に捧げることになつた」(『一日本人』)
「傑出した兄弟」とは中川横太郎と杉山岩三郎、「啓子」は宇野である。
横太郎には、親しい女性がもう一人いた。中川家に縁故のある国文学者の松村緑は、こう述べる。
「横太郎はさらに『渡邊の後家さん』なる女性と交渉を持つて蕃といふ里子を得た。そこで士族としての中川家は長男竪一に相続させ、自分は隠居して新しく中川姓の一家を創立して、蕃をその家の後継者とした」(「大西操山雑記」『日本文学』昭和35年3月号)
長男の竪一は画家を志し、東京に出て岡山出身の洋画家・松岡寿に師事した。のちに岡山に戻って美術教師となるが、「洋画家としての技倆はともかくも、岡山中学、金光中学の教員を勤めてゐても経済観念はゼロに近かつたので、俊秀揃ひの一門では不肖の子と見られ」た、と松村緑は記している。
次男の斜は、知的発達障害のために早くに亡くなった。
横太郎は、53歳のときに生まれた庶子の行く末を案じたのだろう。母親は蕃が11歳のときに亡くなっていたので、名門の中川家は長男の竪一に継がせ、蕃のために新たに平民の戸籍を用意したのである。
明治36年、横太郎は、第5回内国勧業博覧会の視察に大阪に出かけ、脳溢血のため旅先で亡くなる。岡山の中学の3年だった中川蕃は、青木要吉先生から「お父さんがいけなんだ」と伝えられた。
青木は英語の教員で、百間から「青木先生の恐ろしさは圧倒的であつた。夢の中で、恐ろしい物にうなされてゐる様であつた」と怖がられる。小梅の娘トヨと結婚していて、中川蕃には義兄にあたるが、日頃から「青木のおじさん」と呼んでいた。