百間外伝 第6話 長野初の青春2
東大「女子」パイオニアの焦燥
帝国大学が女子の聴講生を受け入れ始めた。長野初もその1人で、東大正門から銀杏並木を颯爽と通った。社会学を科目に選んだが、「勉強しよう、勉強しよう」と焦りが募る。伊藤野枝と競うように、米国の女性アナキストの本も翻訳した。再婚して母校の同窓会新聞の編集部に身を置くが。=敬称略、約8800字
帝大婦人聴講生
「どこまでですか?」
「大学正門前まで」
東京帝国大学の初の婦人聴講生となった島田富士子は、電車の車掌にそう答えたとき、今日から帝大の聴講生だと感じ「軽い喜びと共に何となく辱しい様な気分を呼びました」と記している。
大正9年9月13日のことであった。
正門前で下り、校内に足を踏み入れる。
「予め検べて置いた校内の地図を頭に浮べながら正門から真直に進んで行きます。多くの異性が両側に立つたり、ベンチに腰掛けたりして笑話して居る中を行くのは、無関心に装うては居つても、女子大学の校庭を歩むよりは身体中が堅くなつた様に思ひます。多くの視線が自分の方へ向けられる様に思はれてなりませんでした。やつと敵の陣中を抜けた思ひで事務所に着きまして、同窓のY様を発見いたしました時は、どんなに嬉しかつたでせう。やつと味方を見つけた様な気持が致しました」(「帝大聴講生としての第一印象」『女性日本人』大正9年12月号)
日本女子大学校出身の島田富士子は、中條ユリ(宮本百合子)の入学世代で、この年の3月に英文学部を卒業する。同期で帝大の聴講生となったのは7名で、そのうち「Y様」にあてはまるのは堀越保だろう。
この日は、専攻科目の申請のために登校したのだった。
記入が終わると島田は訊ねる。
「10時から吉田先生の倫理学概論があるのですが、出席してもよろしゅうございますか」
「15日の教授会で許可になるまではいけないのですが」と事務員は応じる。「そうですね、う~ん、まあいいでしょう。いらっしゃって構いませんよ」
吉田静致教授の講義を聴講した島田は、「数年来盛んに御唱道なさるゝ先生得意の同円異中心主義をこれから間のあたり拝聴出来ますのは何と云ふ幸ひでせう」と感激する。
かくして東京帝国大学でも、女子学生の姿を見かけるようになる。
『婦女新聞』はこれについて、次のように評した。
「吾等が多年唱道し来つた女子高等教育と男女共学は、こゝに漸く一端の実現を見たわけで、日本婦人発達史上特筆大書すべき事柄である。吾等は、文学部教授が、世界の大勢を察し、わが婦人界の進歩に鑑みて、この英断を敢てした聡明と雅量とに対し、深く敬意を表するものである」(大正9年9月19日号)
東大は大正9年から32人
帝国大学で最初に女性の入学を認めたのは東北帝国大学理科大学で、大正2年8月に4名が受験し、牧田らく、丹下うめ、黒田チカの3名が合格した。初代総長の沢柳政太郎は海外の教育事情に通じていて、文部次官時代から大学の女性への門戸開放を考えていたが、総長就任後はそれを実行に移し、2代総長の北条時敬が受け継いで実現する。ただその後は、文部省が消極的な姿勢をとったこともあって、大正11年まで空白が続く。
東京帝国大学では、大正6年から公開講座への女性の受講を許可する。その後は個別に教授のもとで研究をする女性も現れ、各方面からの要望も多くなったので、大正9年2月17日に評議会は聴講生制度を定め、女性への聴講を認めた。ついで文学部と経済学部は、9月の新学期からの「婦人聴講生」受け入れを表明する。
この年の婦人聴講生は、文学部が31名、経済学部1名であった。文学部31名の出身は、日本女子大学校12名、御茶ノ水の東京女子高等師範学校11名、津田梅子の創設した女子英学塾4名、奈良女子高等師範学校、女子美術学校、青山女学院、同志社女学校が各1名となっていた。
さすがに東京帝大の初の婦人聴講生だけあって、興味深い名前が並んでいる。
松平濱子は、明治14年に新田義貞配下の子孫、細谷徳太郎の次女として生まれる。日本女子大学校の第一回生で、在学中の明治36年には歴史学者松平太郎と結婚、聴講生になったときにはすでに三児の母であった。大正12年に聴講生を終えると、翌13年には豊多摩郡淀橋町、現在の新宿区に関東高等女学校を設立し、校長に就任する。群馬県太田市にある関東学園大学の前身である。
藤岡保子は、明治16年に旧土浦藩主土屋挙直子爵の四女として生まれる。祖父は徳川斉昭で、徳川慶喜の姪にあたる。女子英学塾を卒業後に東京帝大教授の藤岡勝二と結婚し、こちらも三児の母だった。かな書家としても有名で、皇太子妃時代の美智子上皇后にご進講したことでも知られている。
中井あいは、明治23年に大阪の料理屋「博多川」の娘として生まれる。同志社女学校在学中に京都市立絵画専門学校講師の中井宗太郎と結婚、卒業後は『みづゑ』に寄稿したり、翻訳を発表したりしていた。大正11年には聴講生を切り上げ、夫妻でフランスに渡り、ソルボンヌ大学で美学とフランス文学を研究した。戦後は京都にあって、部落問題に専心する。
谷森淳子は、明治30年に貴族院議員谷森眞男の次女として生まれる。祖父の谷森善臣は高名な国学者で、とくに和歌に優れ、淳子も早くから手ほどきを受けた。東京女子高等師範を卒業、国史の聴講生としての評価は高く、終了後は史料編纂所の嘱託となる。
このほかにも、のちの学習院教授で、高松宮妃の家庭教師となった吉村千鶴子、『宇津保物語』『土佐日記』などの研究で名高い国文学者の河野多麻などがいる。河野多麻は仏文学者河野与一との結婚後の名で、聴講生当時は「中村たま」といった。
ただ女性の調べは男性よりも難しく、見落としている人がいるかもしれない。女性は結婚すると姓が変わるし、名前も「子」をつけたりつけなかったり、表記も仮名だったり漢字だったりと変幻自在だからである。
社会学の聴講仲間
長野初は、同期の平山なをとともに聴講生となった。聴講科目は社会学を選ぶ。
当時の社会学第一講座担当は、貴族院議員となる建部遯吾教授、新設された第二講座担当は今井時郎助教授、のちの綿貫哲雄教授も講師として教壇に立っていた。
新入生には、吉野作造の明治文化研究会のメンバーとなる下出隼吉、毎日新聞編集主幹となる藤原勘治、1年上には、『日本農村社会学原理』の鈴木栄太郎、『横井小楠とその弟子たち』の徳永新太郎、組合論の森重太郎、そして『初夜権』の吉田九郎がいた。