百間外伝 第12話 阿房列車の人模様【戦前/上】
中村武志・平山三郎ら「国鉄人」心酔
「阿房列車」は一日にして成らず。乗り物好きの百間の周辺に、作家志願の国鉄マンがいつのまにか集まって、雑誌から中村武志や平山三郎らが巣立っていく。食糧難や応召、そして空襲の苦難に耐えて名シリーズの素地ができた。=敬称略、約1万700字
乗り物好きの百間
戦後が始まってしばらくすると、百間を取り巻く人々にも変化が生じる。
側近ともいうべき法政大学の元学生たちは、ほぼ生き延びた。
昭和17年に岡保次郎が亡くなったが、戦地で亡くなったわけではないし、もともと法政騒動のときの言動から破門状態にあった。
俳誌『東炎』の関係者は、ほぼ姿を消した。
志田素琴は昭和20年に故郷の金沢に疎開して終戦を迎え、21年に亡くなる。大森桐明はそれよりも早く、16年に病死した。内藤吐天は18年に名古屋薬学専門学校に校長として赴任し、数年で戻るつもりだったが20年を超えた。大橋古日は終戦の年の秋に市川駅で事故に遭ってからは、日本郵船も辞め、次第に足が遠のく。わずかに村上古郷だけが、郵船に止まり、百間のもとからも離れなかった。
かわって、中村武志や平山三郎をはじめとする国鉄人たちが集う。国鉄人たちは比較的若く、しかも揃って文学を愛好し、百間文学に心酔していた。戦後の人気作である阿房列車シリーズも、この国鉄人脈を抜きにしては語れないだろう。
もともと百間は、鉄道に限らず乗り物が好きだった。
法政時代には、航空研究会の会長となって、学生による訪欧飛行という難事を成し遂げるとともに、みずからも何回となく搭乗し飛び回った。卒業後も、中野勝義や清水清兵衛、栗村盛孝などの航空研グループは百間の身近にいて、毎年ひよどり会を開いて旧交を温めた。
船の旅も好きで、日本郵船の嘱託時代には、しばしば乗船して関西を往復した。所用もなく船に乗って阿房航海と洒落込むこともあった。
もちろん鉄道も幼きころから好きだった。なにしろ鉄道は、飛行機や船と比べると日常的だからで、鉄道への愛着が国鉄人への愛着に広がるのも自然な成り行きと言えよう。その先鞭をつけたのはだれかといえば、のちに目白三平シリーズで人気作家となる中村武志だろう。
中村武志の『夢作随筆』
中村武志は、明治42年(1909)に長野県に生まれる。
大正15年に旧制の松本中学校を卒業したものの、成績不良のため就職試験を突破するのは難しいと見られた。そこで養父は、鉄道省東京鉄道局庶務課長だった遠縁の武居哲太郎に頼み込み、縁故採用となる。
経理部出納課に配属された中村は、最初は歌誌同人の先輩職員について作歌を学ぶが、4年も経つと飽きてしまった。ついで俳誌同人の先輩職員について作句を学ぶが、同じく4年経つと飽きてしまう。そこで出会ったのが百間の文章で、『百鬼園随筆』に『無絃琴』、『冥途』や『旅順入城式』などを読み終えたときは、すでに百間文学の虜となっていた。昭和9年ごろのことであった。
やがて中村の百間好きは部内に知れ渡り、月刊誌『運輸月報』への原稿を依頼される。東京鉄道局は業務用資料として100頁を超える小冊子を刊行していたが、その半分近くは随筆などで占められていた。中村は求めに応じて「窓夢作」の名で随筆を書き始める。出納課の部屋は東京駅の3階で、その窓際に席があったからだろう。内容としては、身辺雑記を百間風に書いたものが多かった。
12年6月、それらの随筆をまとめた『夢作随筆』が新日本社から出版された。
驚いたことに序文を書いた武居哲太郎は、中村武志の文章の本質を早くも見抜いている。
「夢作は役人としては高等官になれさうもないと諦めたらしく、十七字から三十一字随筆と、指の爪を齧り乍ら萬年筆を動かして、暖かい軟かいそして美しい夢を追つてゐる。……人を啓発する程の物では無いかも知れぬが、かみしも三百文の按摩の役位は勤めて呉れるだらうし、女房にやり込められたり、上役にとつちめられた後、数刻してから読んだら、のぼせの引き下げになる事妙なり位の讃辞を呈しても、吹き出す仁はあるまい」(「序」)
あとがきで著者は、次のように弁明する。
「夢作氏言行録、其他二三のものに於て、文章のスタイルが内田百間氏の模倣であることは一読直ちに看取されるところであらうと思ふが、それは私が百鬼園随筆を盲愛してゐる故である。その他のものと雖も多かれ少かれ誰かの模倣であつて、夢作独特といふべきものはないかも知れぬが、只内容に於ては私の個性といふべきものは出てゐると思ふ」(「後記」)
中村武志が合羽坂の百間宅を訪ねたのは、出版後2週間近くのちのことだった。小山書店の小山久二郎の紹介状を持っていったというが、懐には『夢作随筆』も忍ばせていたのではないだろうか。
「お国はどちらですか」
「はあ、信州、長野県でございます」
ほとんど会話はなく辞去する。
帰り際には面会日を教えられるが、足を運ぶことはなかった。