君やいずこ、愛鳥家俳人の大橋古日

百間外伝 第9話

君やいずこ、愛鳥家俳人の大橋古日

小鳥好きの百間と相性のいい愛鳥家の俳人、大橋古日は、岡山同郷で誰からも愛された。百間の文章に泪して暗唱するほど惚れこみ、六高ゆかりの俳誌の編輯兼発行人となり、戦時中の百間を何くれとなく助けた。が、いつしか遠ざかり、千葉大津倉の草莽に消えてしまう。=敬称略、約1万2400字

谷中安規「鳥と子供達」(木版彩色、14.5×18.71936~39)京都国立近代美術館蔵

日記を読んでいると、後を引くというか、いつまでも気にかかるというか、そういう人物が必ず出てくる。

有馬頼寧よりやす日記でいえば鳥集とりたまり幸子だろう。

鹿児島の神主の家に生まれ、文学を志して上京し、有馬頼寧の秘書であった楠本寛の後妻に入り、楠本幸子となる。13歳も離れた夫のもとで、前妻や自分の子供の世話をしながら「男の愛情」「花簪」「雲の墓」「米」などの小説を書き続けたが、昭和15年に夫に先立たれると、みずからも病気にかかり、故郷に戻って19年に亡くなった。いまでは大原富枝が上京したとき身を寄せた家として名前が出てくるぐらいで、詳しいことはわかっていない。

古川ロッパ日記の飯田進三郎も気にかかる。

レストラン「アラスカ」の初代料理長で、食材に不自由した時期でも、大阪公演のときにはいつも夕食を届け、そのたびにロッパは「アラスカの飯田に感謝する」と日記に記した。飯田は戦争末期に満洲に渡ったので、戦後になってロッパは探し歩き、15年後にようやく再会を果たすと、その店でロッパ日記最大の大食を披露する。飯田進三郎の戦争体験にも興味は尽きない。

そして内田百間日記にも、後を引く人は出てくる。

大橋古日ふるひである。

俳誌『東炎』の発行人で、俳人としてもかなり知られていたのに、なぜか一冊の句集も遺っていない。百間の戦時下の日記『東京焼盡』にもたびたび出てきて米やお酒などを届けるも、戦争が終わるとその役を村山古郷や平山三郎に譲り、足早に百間日記から退場してしまう。その後は手がかりがなく、晩年をいかに過ごしたのか、皆目見当がつかない。

百間と同じく岡山出身で10歳若かった大橋古日

鳥集幸子や飯田進三郞の半生は定かでなく、大橋古日もその列に加わりそうで、「日記読み」としてはむずむずして後を引く。それを少しでも和らげるべくここでは、大橋古日に関して、わかっていることだけでも記しておこうと思うのである。

『東炎』創刊

大橋古日は、明治32年(1899)5月に生まれていて、年齢的には百間より10歳若い。

百間日記によれば、生まれたのは岡山市内だという。

「貞清さんから返事が来た。お城は焼けた。古日の生家の西中島の伏見屋は残つてゐるさうである」(昭和20年7月21日)

西中島の伏見屋は、明治から菓子製造を生業としていて、戦後に岡山市議会議長となる則武薫三郎が家を継いでいた。古日はおそらく大橋家に養子に出されたのだろうが、時期はわからない。

小学校についても、百間が教えてくれる。

「古日さんは昔、備前岡山で私の通つたのと同じ尋常小学校を出た。尤も私よりは大分遅れた後輩である。その学校は環翠尋常小学校と云ひ、校庭の南寄りに大きな桐の木があつた」(「『けらまなこ』再考」『小説新潮』昭和37年4月号)

そこから先は、はっきりしない。慶應義塾商工学校同窓会に名前は出てくるので、卒業生ではないかと思って『慶應義塾総覧』を調べたが、なかなか見つからない。

古日の足跡がたどれるのは、昭和7年(1932)11月に『東炎』が創刊され、その句会に参加してからである。

『東炎』創刊号の表紙(絵は小杉放庵)

俳誌『東炎』は、国文学者として名高い志田素琴を中心に、六高時代に素琴から作句指導を受けた大森桐明や内藤吐天などによって始められた。

志田素琴は、当時は成蹊高等学校教授で、東京帝大文学部でも俳諧史を講じていた。百間の六高時代の恩師でもある。

大森桐明は、東京帝大工学部機械学科を卒業、繊維会社から福井高等工業教授などを経たのち、第一高等学校の講師となる。古日と生年は同じだが、学年は1年上であった。『現代俳人名彙』の大橋古日の項には、「大森桐明の指導を受け」と記されている。

六高句会四人衆の一人、大森桐明

内藤吐天は、東京帝大医学部薬学科を卒業、医学部助手を経たのち東京薬学専門学校教授になった。こちらは古日と同学年だが、生年は1年遅い。

東京帝大薬学科出で『東炎』同人となった内藤吐天

創刊の翌年には、百間の親友土居蹄花が同人となり、翌々年には内田百間も加わった。六高俳句の黄金時代は、百間・蹄花が前期、桐明・吐天が後期だと素琴は述べるが、その4人が奇しくも顔を揃えたことになる。

百間(右上)の親友、土居蹄花(左下)も『東炎』に加わった(『東炎』昭和13年8月号)

百間が『東炎』に書いた最初の文は、昭和8年4月号に掲載された「素琴先生」で、六高時代の恩師の様子を活写する。

これに素琴は、同じ4月号の雑俎欄で応じた。

「私の方では之に対して『百間君』を書くのが本当かとも思ふが、それには百間君ほどの筆が必要で、私にはさうした筆がないのだから、どうとも仕方がない。百間君の筆は恐らくこれだけでは止むまい。一直線に進むか方向を転換するか。特に現に法政の飛行機部長だから、どんな放れ業を見せられるか解らない」

素琴の予測したように、この年の秋には「素琴先生」を収めた『百鬼園随筆』が刊行され、一躍人気作家となる「放れ業」が演じられた。

2月号の雑俎欄には、大橋古日の「さゝ子可愛や」が載っている。

「笹子は可愛いゝ。歳時記などにも、又一般にも、笹子、笹鳴は鶯の子のことになつてゐるが厳密には然うと限らぬ。二年三年と通した成鳥も春光を待つ間、同じく、ちやツちやツと鳴いてゐるので、あれは鶯の地鳴きなのだ。とまれあの舌もつれの如き鳴声や檜垣伝ひに往き回りする姿はいかにも鶯の子といつた感じで懐つこい。そこいらの腕白に捕まるなよ」

古日は無類の愛鳥家で、昭和11年に行われた日本鳥類研究所主催の第18回鳥類談話会では講師を務めた。

小鳥好きの百間との相性は絶好だったと言えよう。

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