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最後からの二番目の真実

編集期間突入4――朝帰り

午前7時半に朝帰りした。一本原稿が届かず、未明まで待ったからだが、さすがにげっそり無精ひげ。久しぶりだけど、こりゃ命を縮めますなあ。

花粉と風邪の両方で、いちばん忙しいピークに、鼻水がとまらなくなって、編集長席の横のごみ箱はティッシュの山。忙しくて耳鼻科で花粉症の薬ももらえず、うるうる目に鼻水ぽたぽたの最悪の日となった。

しかも間の悪いことに、テレビ局のクルーが来て、追い込みの編集現場を撮りたいという。カメラを向けられると、それだけで何も考えられなくなるタイプだけに、とほほだった
。どこかで放映されたら、洟をすすりながら仕事中だったということをご承知おきください。

くしゃみを繰り返しているうちに声もおかしくなった。電話で人に「どうしたの?」と聞かれる始末。出稿遅れだけでなく、スタッフにも無理を強いて、心理的には追い詰められています。

睡眠は2時間。なんだか声をはりあげないと、まったく通らない声になっている。昼過ぎに霞が関1-1-1でインタビュー。テープに入ってしまわないよう、咳をこらえるのに必死だった。

その中でも陣中見舞いにいろいろな人が来てくれるのが有り難い。席を離れられずずっと自宅に帰っていないスタッフもおり、差し入れのお菓子は貴重な食料になっています。謝謝。

編集期間突入3――女刺客が消える?

わっさかわっさか出稿しているうちに、私の弱点である腰が痛くなってきた。これはいかん、と銀座8丁目に出かけて、侃々諤々の議論をした。この忙しいのに、ではない。忙しいからこそ、息抜きでなく、別の空気が吸いたいのだ。

さて、相手はもと霞が関にいた人である。一致したのは、緊急入院した小池百合子環境相のことである。大丈夫なのだろうか。私の古巣の系列テレビ局で女性キャスターをつとめていた人だけに、無関心ではいられない。安倍晋三官房長官は、3日ほどで退院できる程度の軽い症状であることを強調していたが、そう楽観できないという。

ヒントは環境相の代理。すぐ復帰するなら副大臣がつとめるはずだ。今夜会った人も「それが霞が関の常識ですが…」と口を濁した。代理に任命されたのは二階経済産業相である。これは官邸が彼女の早期回復を想定できず、とりあえず近しい省の大臣に兼任してもらって、あとで正式に後任を決める前兆とも思える。

確かに彼女もすでに53歳。実は脳梗塞でもおかしくない、といううわさが流れている。中東に思い入れのある私にとって、カイロ大学出身の彼女といい、カイロにあった日本飯屋といい、異色の経歴には脱帽する。小林興起氏の選挙区に「女刺客」として乗り込み、「ポスト小泉の女宰相」かとも擬せられただけに、このまま消えてしまうのはちょっと寂しい。

それに彼女は、色香とオーラを勘違いしている多くの女性政治家の1人でもあった。どう考えても、あの野心満々がセクシーとは思えなかったが、今後どうなるかを観察するうえでも、対象を失ってしまうのは残念である。永田町はしょせん動物園なのだから、珍獣が消えては困るのだ。

編集期間突入2――クラッシュ

きょうからこのサイトのフロント・ページが衣替えした。荒木経惟氏の写真を使わせてもらった。じかにこのブログ・ページへ来たかたは一目見てほしい。

さて、P・K・ディックの幻の翻訳本を進呈しよう、とこのブログで書いたら、たった1日で注文がどっときた。申し訳ないが、じきに締め切りにせざるをえないかもしれない。販促の一助とはいえ、ひたすら感謝申し上げるほかない。

実はほかにも当時、翻訳していた本がある。が、出版社から出すにいたらなかった。思い入れが多少あるのは、ジェームズ・ジョイスの「スティーヴン・ヒーロー」とJ・G・バラードの「クラッシュ」である。前者は「若き芸術家の肖像」の土台になった作品だが、「肖像」では割愛された家族の死のくだりは貴重だと思う。まだちゃんとした訳本として出版されたことがないのが残念で、無謀にも試訳してみた。後者はペヨトル書房から訳が出て、出版は断念した。そのころ新聞記者だったから、翻訳専業になりたくなかった。版権を独占したいならどうぞ、という気持ちのほうが強かった。

「クラッシュ」は英語で読むとほとんどメタリックなポルノグラフィーで、自分の文章がこういう観念的な、つまりは劣情を刺激できないポルノについて行けるかどうか、という実験だった。今だから言えるが、ペヨトル版はそういう意味でやさし過ぎて、原文の晦渋が薄れ、傷痕と金属が融合するエロスが感じられないと思った。

「クラッシュ」の舞台はヒースロー空港周辺とロンドン近郊である。ロンドン赴任当時、現地を歩いてみた。作品よりはるかにつまらない地域で、バラードの想像力の過激さを思い知らされた。異端のD・クローネンバーグ監督が、「ピアニスト」の女優ホリー・ハンターをつかった映画「クラッシュ」も見てみたが、ミスキャストだと思う。あの役はもっと冷たい美人でないと、バラードにならない。

別のアメリカ映画で「クラッシュ」という同じタイトルの映画が公開されている。「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本家ポール・ハギスが、製作・監督・脚本を一手に引き受けていて、今年のアカデミー作品賞を受賞したという触れ込みである。でも、テーマが娯楽向けでないせいか、もったいないことに映画館はがらがらだった。

でも、畏友のフリーラーターが、「ああいう映画をつくるアメリカの底力は素晴らしい」と勧めてくれた。気の滅入るような人種差別のエピソードが続くが、いつしか巧妙に織りあわされた複数の主人公の人生の種々相に絞られていくプロットには感嘆するほかなかった。「輪舞」や「マグノリア」など、オムニバスのようでそうでない群衆劇は、脚本あるいは演出にとって醍醐味だろうが、多くは焦点が拡散して駄作になりやすい。この映画では奇跡のように絞りこまれていくラストが、微かな救いを漂わせて傑作である。

望むべくは、こういう現実を巧みにコラージュした雑誌をつくりたいと思う。編集中もあの映画のことが頭を離れそうにない。自分を励まそう。ハギスに負けるな!と。

編集期間突入1――幻のディック本を放出

そろそろ、この「ほぼ毎日」ブログが綱渡りになってきた。この土日は休み返上で、創刊準備のため出社である。社員も同じく朝から深夜まで勤務となった。まだ何かやり残しているのでは、と不安ばかりがのしかかってきて、とてもハイエクどころではない。書きたいことはヤマとあるが、ここらで現在進行形となろう。

このホームページの表紙も近く改訂し、風神雷神から写真を切り替えて、直近バージョンにするつもりだ。恥ずかしいけど、ワールドカップ並みに「創刊まであと××日」とやろうと、ウェブサイト管理者にお願いしたところである。

さて、ひとつ提案をする。このブログも多少なりとも新雑誌のセールスに貢献しなければならないから、FACTAの年間予約購読申込者の中で希望する方にだけ、今は絶版となっている私の「幻の翻訳SF」本をおわけしよう。

このブログのタイトルが「最後から二番目の真実」となっているのは、アメリカのSF作家フリップ・K・ディック(1928~1982)の作品から借用したからで、恥ずかしながら私自身も彼のSFを2冊翻訳したことがある。

1972年に発表された「あなたを合成します」(We can build you)と、1964年に発表された「ブラッドマネー博士」(Dr. Bloodmoney)である。前者の翻訳本刊行は85年、後者は87年で、いずれも今はなきサンリオSF文庫から世に出たが、サンリオ自体が出版事業から撤退したため、在庫のほんの一部が私の手元にあるほかは稀購本になってしまった。

「あなたを合成します」は2002年に創元SF文庫で平易な佐藤龍雄訳(「あなたをつくります」)が出たが、私の訳本は候文の文体模写などちょっと遊んだ部分があり、もうああいう翻訳文体を試みる人はいないだろう。「ブラッドマネー博士」にいたっては文中にサリドマイド薬害を連想させる設定が出てくるため(当時も訳語に苦労した)、新しい訳本はまず出ないだろうと思われる。

いずれも「日本の古本屋」サイトでも見つからない「幻のディック本」で、以前、古本屋で後者に3000円と原価の5倍の値がついているのを見て驚いた記憶がある。私は80年代前半までに当時入手できたディックの全作品を英語で読んだが、そのころはまだマイナーだった。しかし、「ブレードランナー」から「マイノリティ・リポート」まで、彼の作品を原作とするハリウッド映画が次々にリリースされ、一部マニアだけでなく幅広く知られるようになったのは隔世の感がある。

とにかく、上記の2作品をそれぞれ30冊ずつ無料で放出しよう。ま、若書きの翻訳で青臭い本だが、いずれも初版、手つかずの美本で、20年たっているから紙が少々黄ばんでいる。ディックがお好きな人はFACTAの購読申し込み用紙か、このサイトの「ご意見・お問い合わせ」欄に希望の本とお名前、郵送先の住所などを書き込んでください。先着順だが、翻訳本だけのご注文には応じないので、念のため。

このサイトを改訂したら、翻訳本の表紙とともに詳細をバナーで告知する。いずれは中公新書「イラク建国」や、デジタルメディア研究所のオンデマンド型出版社オンブックに出版してもらう予定の「有らざらん」も、販促の一環としてこのサイトで紹介させていただこう。

別の顔のハイエク5――清水幾太郎のデジャヴュ

衛星放送「朝日ニュースター」の番組前の打ち合わせで、木村忠正キャスターが「ウェブ進化論」について「私にはデジャヴュ(既視)ですね」と語っていた。戦後、何度も繰り返された「アカルイ未来」の最新版に見えるという。未来学、機会社会、知価社会……バラ色の明日を語って、苛烈な暗部に目をつぶる。人は見たいものしか見ない、というウィッシフル・シンキング(希望的観測)の典型で、これもハイエクが発見した「無知のブラックボックス」のひとつと言えるだろう。

そのアンチテーゼというべき「国家の品格」にも、私はデジャヴュを感じる。結局、筆者の藤原正彦氏が言いたいのは、倫理のないところに品格はないというごく当たり前のことで、それを日本人論というかたちで訴えたのだと思える。よくある老成世代が若者を叱る小言というだけではない。倫理や道徳、惻隠の情といった古めかしい言葉に、ああ、またかというデジャヴュを覚えるのだ。だが、倫理とは何なのか。藤原氏のように今さら武士道を持ち出すなんてアナクロだ、と言ったとたん、それに答えることは容易でなくなる。

思いだすのは、1968年から5年近く、岩波の「思想」という雑誌に断続的に連載されていた論文シリーズである。「倫理学ノート」という奇妙なタイトルで、筆者は清水幾太郎だった。戦前はマルクスボーイで三木清の昭和研究会にも加わった人だから、その「哲学ノオト」を意識したのだろう。60年安保で全学連支援のアジテーターとして一世を風靡し、学生運動が退潮すると「右転回した」と言われた。毀誉褒貶の多いインテリである。知らない人もいるかもしれないが、才気が勝ちすぎて脱線した勉強家の岩波知識人、とでも評すればいいのだろうか。

当時も学園紛争の時代だから、なぜことさら倫理を持ち出すのか、と違和感を覚えたが、その書き出しが奇妙な場面から始まったので、いつまでも気になった。「雇用・利子および貨幣の一般理論」の経済学者ケインズと、「チャタレー夫人の恋人」の小説家D・H・ロレンスの、生涯一度きりの邂逅というエピソードである。

邂逅は第一次世界大戦が始まる1914年、ケインズの本拠である英国のケンブリッジであり、哲学者のバートランド・ラッセルが立ち会った。炭坑街出身のロレンスは、ケンブリッジの鼻持ちならない特権知識人に虫酸が走ったらしい。ケインズはその権化と見えたから、ロレンスは憮然としてろくに言葉も発しなかった。困ったケインズとラッセルはとりとめもない話で間をつなぐ。その気まずさはケインズの側にも忘れがたい記憶を残した。

藤原氏が心酔したあの蝋燭ゆらめくディナー・ルームに、英国人ですら誰もがうっとりするわけではないことの証明である。ロレンスの手紙は呪詛に満ちている。



彼らは、自分自身の堅い小さな殻に閉じこもって、そこから喋っているのです。一瞬の感情の発露もなければ、一片一粒の敬虔な気持ちもありません。私には我慢ができないのです。(中略)彼らは蠍(さそり)のように咬みつく油虫を思わせます。しかし、私は殺してやりました。――非常に大きいやつです。私が潰したら、逃げました――しかし、追いかけて殺してしまいました。



もちろん比喩である。この「大きい奴」が実はケインズではなかったかと思う。ケインズの知人にあてた最後通牒でも、画家のダンカン・グラント、ケインズ、F・ビレルらがみな「油虫」扱いされている。ロレンスはケインズとの邂逅を「苦痛、敵意、憤怒で私を狂気のようにさせた」と述懐しているのだ。清水幾太郎はそこから、当時のケンブリッジ知識人が信奉していたG・E・ムアの「倫理学原理」批判に論をひっぱっていく。巧みな書き出しで、アジテーターの面目躍如である。

しかしロレンスの異常なほど激しい反発は、今日では理由がわかっている。ケインズやグラントらはホモセクシュアル(後に結婚してバイセクシュアルになるが)であり、ケンブリッジ内に漂う妖しい雰囲気にロレンスは耐えられなかったのだ。チャタレー夫人のモデルと言われたフリーダと同棲し、「血と性のミスティシズム」にのめりこんでいた彼は、扉越しにちらりとみた男と同衾するケインズの姿に吐き気を催したらしい。

1960年代末のケインズはまだ神格化されていたから、清水幾太郎もそういう機微は知らなかったろう。今読めば退屈で読むに耐えないムアの「倫理学原理」が20世紀初頭に果たした役割は、後年のケインズが言うように「私たちの文明を内部から蝕み、今日の道徳的堕落を招いた蛆虫」であるベンサム主義(功利主義)からの解放だった。

善=美的享受というムアの唯美主義的倫理によって、ケインズらの世代は慣習、道徳、伝統を踏みにじり、義務も制裁も存在しない「インモラリスト」になることができた。ホモセクシュアルもそういうインモラルの実践である。しかし第一次大戦を経て間戦期のケインズは政治的に不遇のエコノミストとして成熟し、「一般理論」を書いたあとの1938年には、当時の唯美的インモラルの危うさを自覚するにいたる。



野性的パッションのリアリティも価値も無視して、溶岩の表面を跳躍する皮相な合理主義……。1914年、ロレンスが自分たちのことを駄目だと言ったのには一片の真理があった。



「国家の品格」は、総需要政策によって資本主義の危機を救おうとしたケインズのこの自省を見ていない。功利を追求する「快楽機械」(pleasure machine)として人間をとらえるベンサム主義は、ホモ・エコノミクスというモデルを根源に持っている。そこからの脱出を夢見た若きケインズらの「インモラリスト」が、所詮はビクトリア朝のスノビストの延長線を出られなかったという反省の上に「一般理論」があるなら、藤原氏の考えるケインズ像はベクトルが逆ではないか。

蛆虫を嫌った油虫。その油虫を嫌った野人。「国家の品格」が片方をこきおろして片方を賞賛するのは、的はずれと思える。むしろ、ロレンスの単なるホモ嫌いを、20世紀の倫理の問題に敷衍しようとした清水幾太郎の強引な論法のほうが、いまは切実に思えないか。それが私のデジャヴュである。

アメリカ番外――サイバーエージェントを「村八分」

ついに、というべきか。3月21日にこのブログで書いた「アメリカ6――ウェブスパムにお灸」が、とうとう日本でもすえられたらしい。先に書いたのは、ドイツの高級車メーカーのBMW本体と、日本の複写機メーカーであるリコーのドイツ法人のウェブサイトが、突如、最大手検索エンジンのグーグルによって検索不能、つまり検索対象から削除された事件である。今度は日本で「お灸をすえられる」会社が出てきた。インターネット広告代理店のサイバーエージェントである。

インターネット空間の覇者であるグーグルが、ユーザーに「全知」を標榜しながら、実は「無知」の空間をつくる検閲作業を始めたことを意味するのではないか、と私は書いた。それは故江藤淳の書いた「閉された言語空間占領軍の検閲と戦後日本」と同じことではないか、という危惧である。戦前の大日本帝国の検閲が、伏字という国家意思を明示する形式だったのに比べ、マッカーサーGHQ(制度としてはCCDの事前検閲)が行ったのが、どこが削られたのか分からない隠微な検閲であり、やがてそれは言語を去勢する自己検閲として定着したという指摘だった。



米国は、かかる憲法(言論の自由を保障する第21条を含む現行憲法)を日本人に採択させ、そのことによって少なくとも建前の上では、日本の言語空間を、合衆国憲法修正第一条の保障する言語空間と、ほぼ等質なものに改造したはずであった。しかし、その当の米占領当局が、みずから大規模かつ徹底的な検閲を実施し、しかもその事実を秘匿しつづけているというのは、どう考えても辻褄の合わぬ話というほかない。



江藤淳がそう書いたように、アメリカの“偽善”は何ほども変わらない。3月28日、「SEMリサーチ」というサイトで報じられた「検索エンジンスパムと判定か?サイバーエージェント系のWebサイト、Google検索結果から削除される」のニュースは、まさにそれを立証する。サイバーエージェント(CA)は、藤田晋社長の「渋谷ではたらく社長のBlog」で知られるインターネット広告代理店である。それが何の事前通告もなく、その運営するサイトの大半(以下の通り)が“抹消”されたとしたらコトである。

bank.cashing-loan.com
blog.melma.com
cashing.affiliate-net.jp
cashing-hikaku.com
consumer.cashing-loan.com
ecnavi.jp
keitaiclick.ne.jp
www.all-navi.jp
www.broadband-navi.jp
www.careerup-navi.jp
www.cashing-loan.com
www.cashing-navi.jp
www.creditcard-hikaku.com
www.e-cashing.net
www.franchise-navi.jp
www.hikkoshi-navi.jp
www.hoken-navi.jp
www.hosting-navi.jp
www.lifemile.jp
www.livein-tokyo.com
www.loan-navi.com
www.provider-navi.jp

これは大量虐殺にひとしい。「SEMリサーチ」によれば、



2006 年3月28日23:00現在も、例えばECナビ( ecnavi.jp ) や eキャッシングネット( www.e-cashing.net )、メルマ ( melma.com )、クレジットカードカード比較ドットコム ( www.creditcard-hikaku.com )、CAガイド( www.ca-guide.jp )など同社及び関連会社が運営していたWebの多くがサイト名で検索してもGoolgeに表示されなくなっている。該当するサイトのドメインで検索しても ( site:ドメイン名、link:ドメイン名)全く検索結果が表示されない状況で、該当サイトのPageRankもすべて0と表示されている。一方で Yahoo!検索では問題なく検索エンジンに登録されており検索可能だ。



問題はSEMリサーチも指摘する通り、「検索エンジンに登録されていない原因についての本当の原因はGoogleしかわからない」ことなのだ。しかし、ドイツの例を見ても、グーグル内部にはCCDのような検閲チームがある。CAはリンクの人気度を操作するため、自社サイト間で双方向で大量のリンクを張っていたと見られる。それをウェブスパムとみなしたグーグルが、「みせしめ」としてCAの村八分に踏み切ったのではないだろうか。

藤田社長の3月29日のブログは、大阪で行った社員採用面接の話で、一見平静を装っているかに見えるが、伊丹空港から帰京する際の言葉が、この村八分で消耗したことをうかがわせるのだ。



疲れた。

今日はもう誰とも会いたくなく、誰とも話したくありませんでした。

一人になりたい。

そんな日があるとすると、こんな日なのかも知れません。



その後、30日午前2時現在、CAのサイトはグーグル上に復活している。だが、この一時“抹殺”によって明らかになったのは、寡占のグーグルがすでにマッカーサーになっているという現実である。

別の顔のハイエク4――「国家の品格」の品格

3月28日夜、衛星放送「朝日ニュースター」の生放送番組「ニュースの深層」に出演させてもらった。キャスターの木村忠正・早稲田大学理工学部教授(4月から東京大学助教授)のご指名である。私はお喋りは苦手で、顔もテレビ向きではないが、インターネットとメディアについて語れというので、冷や汗をかきながらのトークとなった。中身が雑誌の宣伝みたいになってしまったが、木村教授はこのブログを愛読しているらしい。一段と冷や汗である。

さて、オーストリア生まれの自由主義経済論者F・A・ハイエクを論じるのに、なぜケンブリッジ大学の勉強会の話から始めたかを語ろう。

私より10年以上前に、ケンブリッジのクィーンズ・カレッジで1年ほど暮らした日本人数学者がいた。アメリカで3年間教鞭を取った体験があり、理屈で押しまくることに慣れていただけに、古ぼけた英国の伝統が新鮮に見えたようだ。ニュートンの時代と同じように薄暗いロウソクを灯した部屋で黒いマントをまとってディナーの席につくことを、無上の喜びとする幽霊のような英国人学者たちを見て感激したらしい。彼は論理より情緒とか形とかに重きを置くようになった。それから20年近く経って、この数学者は市場原理によって「アメリカ化」した日本を呪詛するベストセラーを書いた。

藤原正彦氏の「国家の品格」である。

飛ぶ売れ行きらしい。11月の発売から5カ月、販売部数は公称110万部に達し、同じ新潮新書の「バカの壁」より大台乗せは速かったという。新潮社は「2匹目のドジョウ」をつかまえたことになる。担当した編集者、横手大輔君は「フォーサイト」編集部時代に勉強会の幹事をつとめてもらったこともあり、慶賀に耐えない。昨年暮れにパーティで会い、「絶対売ってみせますから」と本を頂戴した恩もある。

ただ、他人のベストセラーにケチをつける気はないが、本の腰巻の「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本人論」という惹句に値するだろうかというのが正直な感想である。およそ数学者が書いたとは思えない雑な記述がある。



アメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクやフリードマンといった人々がケインズを批判し、再び古典派経済学を持ち出しました。もし経済がうまくいかなければ、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているからだ、とまでいう理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、新古典派経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。



ハイエクとフリードマンは同じではない。新カント主義を出発点とするハイエクは、「無知の発見」という独自の社会理論の帰結として後期の経済理論を形成したのであって、ケインズ批判を始めたのはずっと前だ。アメリカの経済が傾いてからではない。ハイエクやフリードマンの論文を仔細に読んでいないと思われる藤原氏が、ここまで断定的に決めつけるのは知的退嬰ではなかろうか。



デリバティブは確率微分方程式というかなり高級な数学を用いた経済理論にのっとっています。論理の権化とさえ言えるものです。それが現状では最大級の時限核爆弾のようなものとなり、いつ世界経済をメチャクチャにするのか、息をひそめて見守らねばならないものになっています。



素人をあざむいちゃいけない。確率(偏)微分方程式はそれほど高等な数学ではない。大学理系程度で、藤原氏もよくご存じのはずだ。モルガン・スタンレー元社員の書いた「フィアスコ」は確かに面白い本だが、あれでデリバティブのすべてが語り尽くされているわけではない。



グローバリズムの中心的イデオロギーである「市場経済」は、社会を少数の勝ち組と負け組みにはっきり分ける仕組みなのです。だからこそ、最近我が国で「失敗してもやり直しのきく社会」「弱者へのいたわり」などのリップサービスが、やたらに唱えられるのです。

経済改革の柱となった市場原理をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭至上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。



ここには明らかに小泉政権への反感がある。規制緩和、市場原理、アメリカ化、勝ち組負け組……が、ひとからげにされて指弾される。最後のくだりは、今や塀の中に落ちたホリエモン率いるライブドアが挑んだフジテレビ・グループ買収への言及だろう。藤原氏が産経新聞の寄稿コラム「正論」でもてはやされるのも無理ないことなのだ。この本をベストセラーに押し上げたのは、我慢が臨界点に近づいた「反小泉」派のカタルシスになったからに相違ない。

「ならぬことはならぬものです」。藤原氏は会津藩藩校日新館の「什(じゅう)の掟」を引く。このぞんざいだが、有無を言わさぬ「問答無用」が喝采を呼ぶのだろう。よほど小言爺さんが懐かしいらしい。しかし「王様の耳はロバの耳」と、地面に掘った穴に叫ぶ床屋みたいな気分になる。そして「究極の競争社会はケダモノの社会です」。おいおい、それじゃケダモノさまに失礼だろう。自然界は弱肉強食だけではなく、共棲もある無限に複雑な構造を持っている。それを一蹴して省みないなんて、どうして誰も苦言を呈さないのか。

彼の本は何冊も読んだ。「若き数学者のアメリカ」「遥かなるケンブリッジ」……英国渡航前に読んだし、「天才の栄光と挫折」に描かれたインドの夭折した数学者ラマヌジャン(1887~1920)には心底あこがれた。いや、彼の父、新田次郎の本だって愛読した。でも、「国家の品格」はいけない。ジョン・ロックもカルヴィニズムも一緒くた、あげくに新渡戸稲造の「武士道」に帰れ、では情けなくないか。

「国際貢献など不要」「英語より国語と漢字」など、この本は随所で思考停止のキャッチフレーズを用意する。皮肉なことに、ものを考えない、という点では小泉首相とそっくりである。そしてグーグルを「アメリカの権化」として礼賛している人々と「国家の品格」は対極にいるように見えるが、前回書いたように「無知」をブラックボックス化してしまう点で双方ともハイエクの手のひらを一歩も出ていないのだ。

トンデモ本すれすれのこの本に品格はあるか。それが最大の逆説だろう。もっとも、藤原氏には「メチャクチャなことを言う数学者はたくさんいます。『お前が一番そうじゃないか』という声が多方面から聞こえてきそうな気がしますが」と自分を笑う諧謔精神がまだある。それが救いである。

別の顔のハイエク3――ブラックボックスの効用

ハイエクが発見した根源的な「無知」(ignorance)とは何だったのか。そして、それは市場メカニズムを通じてよりよい均衡を達成できるのか。英国ケンブリッジ大学のローソン勉強会にいたフリートウッドの説明をもう少し引用しよう。



価格が特定の生産投入物の稀少性などの事柄に対して個人の注意を向けさせることによって、価格メカニズムは情報伝達システムのように作動するけれども、価格は個人にすべてを知らせるわけではないから、個人は他の多くのことについて無知である。実現しうる見込みがかなりある計画をたてるうえで個人を助けるのは、ふるまい(conduct)の社会的ルールという形態における、社会構造の高密な網を頼りにすることができるという点である。(フリートウッド「ハイエクのポリティカル・エコノミー」)



その解釈に従うなら、ハイエクは計画経済による人為の全能(前衛党の全能)を否定したばかりではない。市場の全能をも否定していることになる。市場は価格という言語によって需給の情報(生産投入物の稀少性など)を伝達する「テレコミュニケーション・システム」とハイエクは考えている。しかし価格だけが情報のすべてではない。人脈やトレンドといった数量化しにくい「他の多くのこと」の情報を持たない個人が、それでも立ち往生しないで行動に踏み切れるのは「ふるまいの社会的ルール」、つまり市場とは別に存在する「社会構造の高密な網」に依存しているからだという。



ルールは無知の状況下で行為を導く。これらのルールを頼りにすることによって、個人は進化する社会の集合的英知の一部を利用し、これが知識の発見・伝達・貯蔵を可能にする。しかし、これらのルールが知識を扱う能力は完全からほど遠いので、計画と行為の調整は完全、効率的、最適などからほど遠く、ある種の定義でいわれるような均衡をけっして生み出さない。いかなる時点においても、無秩序の状態にいる個人が存在する。(中略)彼らは誤りから学び、計画を再考し、行為をもういちど開始する。これらの修正された計画は、結果的に予期した帰結をもたらすものもあれば、そうでないものもあるだろう。(中略)重複する失望の連続的な流れを経て、秩序が無秩序から生成する。(同)



このハイエク像は的確だと思う。ウィキペディアの創始者ウェールズは、分散された情報を集積すれば新しい知が生まれると信じ、それをハイエク的な市場原理と考えている。そうではない。無知はいくら集めても知を生まないが、自生的な秩序を生みだすのだ。ウェールズの誤読は、おそらく日本のにわかづくりの市場原理派も同じだろう。談合や寡占、政府の干渉などで歪んだ価格シグナルを是正し、需給の最適均衡の疎外要因を取り除くのが自由市場の長所だとナイーブに信じる連中は、ハイエクが離脱し放棄したものにいまだにすがりついているにすぎない。

なぜなら、自己の利益を最大化するために必ず最適な行動をとる「ホモ・エコノミクス」(経済人)の前提を、1960年以降の後期ハイエクは信じていないからだ。彼が見ているのは文字通り「ホモ・サピエンス」(知識の人)であって、ソクラテスが言う「無知の知こそ賢さのはじめ」という人間のパラドクスである。市場秩序もその無知の上に築かれるにすぎず、市場そのものが「全知全能の存在」だとはひとことも言っていない。晩年のハイエクはこう書いた。



私が確信するようになったのは、説明すべき対象である市場秩序の目的は、(中略)その秩序を規定する特定の事実のほとんどについて、すべての人が無知であるという免れがたい状態にうまく対処する点にある、ということであった。(ハイエク「知識、進化、社会」)



ハイエクのいう知識は、価格、数量、期待といった経済モデルの要素よりはるかに広く、生活に必要なあらゆる実際的なトリヴィア(豆知識)から、暗黙の行動ルールや伝統的慣習、さらにゲームの規則まで含む。しかし、社会経済システムに内在する知識の総体は、ひとつの場所に集めることは不可能だし、また単一の主体が知りうるものでもない。世界最大の検索エンジンであるグーグルもその例に漏れないのは、市場がそういう全知全能のトポスたりえないのとまったく同じである。

たとえば自動車を運転するとしよう。ドライバーは車のメカや製造工程をすべて知らなくてもいい。アクセルやブレーキ、ハンドル操作のコツを習得するだけでいい。前者は知識の「内実」であり、後者は「方法」である。内実をブラックボックスにして方法だけ知っている例は、現代生活では枚挙にいとまない。パソコンやiPodといった機器のマニュアルに限らず、作法も制度も由来を知らずに人は従っている。

所与の諸条件を組み合わせて、規律命題のアルゴリズム(計算手法)に従って、まず結果を計算したうえで行動に移すことを、人間はしていない。だが、ホモ・エコノミクスの前提は、そういうインプットとアウトプットの連鎖として経済行動を定義している。ハイエクの発見は、その目的論的、因果論的な世界を捨てて、「無知」を認めたところに出現する宇宙なのだ。数学者クルト・ゲーデルの不完全性定理(自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない)とよく似ていると言っていい。

人は「無知」であるがゆえに、ブラックボックスである社会的ルールに従って、この無知をカバーする。社会的ルールというのは、ニュアンスとしてはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」(Sprachspiel)に近い。それは内面化され、暗黙知の深層構造となるが、国家や企業あるいは共同体などの有形無形の自生的な社会経済秩序(ハイエクは交換のニュアンスが強い「エコノミー」という言葉を廃し、敵を友にするという意味の「カタラクシー」と呼ぶようになった)として出現している。



人間は目的追求的な動物であるとともに、ルール遵守的な動物でもある。そして、人間が成功しているのは、(中略)人間の思考や行為がルールによって支配されているからである。人間が部分的にしか知らない世界においてうまくふるまうという問題は、こうしてルールを固守することによって解決されてきた。(ハイエク「法と立法と自由」Ⅰ)



市場「原理主義」者、グーグル「原理主義」者がともに見えていないのは、自由市場やグーグル的民主主義がけして「あちら側」のユートピアではなく、「無知」を手なずけるためのブラックボックスでしかないことである。例を挙げよう。市場の透明性と競争入札ではなぜ談合が駆逐できないか。それはライバル業者がいくらで応札するかわからないという「無知」を、社会的ルール化した談合が手なずけ、それを固守することで業者が生き延びているからだ。官製談合である防衛施設庁の事例がいい例だろう。

別の顔のハイエク2――無知の発見

ハーバード・ロー・スクールのキャス・サンスティーン教授が仕掛けた「ハイエク的な市場とブログ圏はどこまで類比が可能か」という設問は、すくなくとも日本では消化難だったようで、まともに考えたブログに残念ながら出会えなかった。日本のブロガーたちのほとんどが、ハイエクなど読んだことがないからだろう。

もちろん、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」も一顧だにしていない。後期ハイエクの「自由の条件」(The Constitution of Liberty)は、春秋社版の全集でも在庫切れのまま、再版される兆しもないから、ま、無理もない。ただ、サンスティーンがゲスト・ブロガーになったローレンス・レッシグは、スタンフォード大学のロー・スクール教授であり、アメリカのインテリならハイエクくらいは“常識”に属するのではないかと思う。

娘とボブ・デュランのコンサートに行くような教授であるサンスティーンはしかし、ブロゴスフィアで実現される直接民主制について手放しで楽観していない。彼の書いた「インターネットは民主主義の敵か」(Republic .com)を読んでも明らかで、集団の知――分散情報の集約によって必ずしも知識が改善されるとは限らないと見ているのだ。彼のブログのなかで挙げる「コンドルセの陪審定理」(Condorcet Jury Theorem)がいい例だろう。



ある集団の成員ひとりひとりの正答率が平均して50%以上であるとき、答えの平均が正解である確率は集団の規模が大きくなるほど 100%に近づいてゆく。(中略)コ ンドルセの発見が関わってくる行為は多岐に渡るが、ビジネス・法律・政治の世界で十分に活用されてきたとはいいがたい。

しかし、ここにも困った問題がある。成員それぞれの正答率が(平均して)50%を下回る場合、答えの平均が正解である確率は集団が大きくなればなるほどゼロに近づいてしまうのだ(中略)。コンドルセはこの点をはっきりと意識しており、成員の大半が偏見を持っていたり誤っていると思われるときは、集団平均の知に頼ることはできないと強調している。



サンスティーンが例に挙げるのは、昨年もめにもめた米最高裁判事の人事で、ブッシュ大統領が誰を指名するかをネットで予測したが、実際に指名されたロバーツ判事は予測ランキングではずっと下位で、指名を撤回したクレメント判事が独走するなど、まるであたらなかったという。インターネットによる予測市場は、2004年の米大統領選挙でブッシュ勝利を正確に的中させたほか、映画の興行成績やオスカー(アカデミー賞)の票読みなどで劇的な成功を収めたという。「ウェブ進化論」はそれを大いに自慢しているが、最高裁判事人事のような都合の悪い反証に一言も触れないのはフェアではない。サンスティーンは予測の失敗をこう解釈している。



オープン・ソース・ソフトウエア(OSS)の場合、分散した知識や創造性は豊富に存在しており、それが成功の大きな理由となっている。Wikipediaについても同様のことが言える (集約のプロセスはやや信頼性が低いとはいえ)。一般の商品の市場についても、製品の性能や人々の好みに関しては豊富な情報が散在している。(中略)

なぜ予測市場は時として失敗するのかという問いへの手がかりはここにある。首席判事がどのように行動するか、あるいは大統領が実際にどの一人を選ぶのかに関する広く分散した情報などそもそもあまり存在していなかったのだ。この考えに従えば、予測市場によってテロリストの攻撃を予測できるという(多くの人が信じている)話は信用すべきではないことが分かる。総体として見 た場合、市場参加者はおそらく従来の知見をしのぐ判断ができるほどの知識を持ち合わせていないからだ。



つまり、無知から知は生まれない。集団の知が改善されていくには、暗黙裡の既知の集積がなければならない。知とは想起(アナムネーシス)なのだ、とプラトンの「メノン」でソクラテスが語っているが、あたりまえのことだ。大統領選の支持率といった隠れた数字はネットの予測で精度をあげることができるが、いつどこでテロが起きるかといった本来知りようもないことは、予測をどう組み合わせてもあたらないのだ。日本には「烏合の衆」という便利な言葉もある。

しかし、ハイエクはそれを見通していた。ウィキペディアの創始者も、ハーバードやスタンフォードの法学教授たちも、そこになるとハイエクを誤読している。前回書いたように、ケンブリッジ大学のトニー・ローソン月曜勉強会ではっとさせられたのは、自分も含めたその誤読だった。研究会に参加していたスティーブン・フリートウッドは、ハイエクが正統派経済学から離脱したことを以下のように要約する。



ハイエクが使う理論とは、制約下で一群の諸目的を最大化する合理的主体を含まない。それは関数的関係を伴わないため、需要・供給関数のような基礎的道具が存在する余地がないし、均衡の概念を使用するわけでもない。(中略)数学もしくは統計をともなうわけではないし、仮説演繹法(あるいはなんらかの類似物)を採用するのでも、回帰分析や仮説検定を行うのでも、非現実的な公理や仮定を利用するのでもない。(フリートウッド「ハイエクのポリティカル・エコノミー」)



ありきたりのエコノミストが使う小道具はいっさい使わなかったのだ。それでも、市場経済の基本的メカニズムを説明できたのはなぜなのか。肝心なことは、どんな個人や集団でも根源的な「無知」(ignorance)を抱えていることの発見だろう。フリートウッドはこう書いている。



個人(ないし集団)が計画を立て、行為を始めるとき、その計画に続いて起る他人の行為が自分の計画に影響を与えるはずだが、他人の計画については無知なのだから、自分の計画が完了するというなんの保証もないであろう。知識の全体は一ヵ所に集めることはできないし、一個人ないし一組織が知りうるものでもない。なぜならば、それは断片的で分散的であり、そして多くの場合、暗黙知的(したがって明示不可能)であり、この無知の状態はいたるところに存在するからである。(同)



もっとも、恥ずかしながら私だって、ハイエクの毒にあたっていたことを告白しておこう。反ケインジアン革命の支柱となったシンクタンク、IEA(The Institute of Economic Affairs)の獅子奮迅を書いたリチャード・コケットのThinking the Unthinkable を読んで、IEAに取材に行き、ハイエクの確信犯的なイデオローグぶりに感心した記憶がある。このウィーン人爺さん、なかなかしたたかだな、と。

だが、それだけではない。偏在する無知。そこに彼の発見があると思わなければいけない。

別の顔のハイエク1――ウィキペディアと市場

私にとって、ネット空間とは何かという問題に先立って、市場空間とは何かが常に先にあった。そこで思い浮かぶのはオーストリア生まれの経済学者フリードリッヒ・A・ハイエク(1899~1992)である。価格メカニズムのことを「テレコミュニケーション・システム」と呼んだのは彼なのだ。今思えば奇妙な呼称である。しかし経済学の根幹を情報理論として組み換えたかに見える彼の試みは、「ウェブ進化論」や「はてな」のようなナイーヴすぎるネット信仰が跋扈する今、再読するに値すると思う。

自分の経験を語ろう。

英国にセジウィックという地名がある。ケンブリッジ大学の学部キャンパスがあるところで、モダンなコンクリート建築の校舎が並んでいる。学生や教師が暮らすカレッジ(学寮)の多くがレンガ造りや石造りの伝統的な建築なのに比べると、薄っぺらで趣がない。しかし、多少なりとも古生物に興味を持つ人なら、19世紀前半の地学者、アダム・セジウィック(1785~1873)の名をつけたことくらいすぐわかる。ウェールズで三葉虫の化石などを発掘、その地のローマ名から「カンブリア紀」と命名したのはセジウィックなのだ。ダーウィンの進化論はその素地の上に生まれた。

7年前の今ごろを思い出す。イースター休暇でセジウィックのキャンパスはひっそりしていた。当時、客員研究員の私が通っていたのは経済学部図書館である。「経済学原理」のアルフレッド・マーシャル(彼もケンブリッジ大学教授だった)の名を冠した割にはぱっとしない建物だったが、重厚で広大な中央図書館に足を伸ばすよりは手近で、気軽に経済学の本が借りられるので、数式だらけのアーヴィング・フィッシャー全集などはここで読んだものである。

生涯であんなに必死に本を読んだことはないが、メモをとりながらの一人ぼっちの読書は正直退屈だった。ブンヤの性癖か、ものを理解するには人の話でないとつまらない。で、ときどきカレッジをぶらつき、教官が開いている私的な勉強会をみつけてはのぞいてみた。そのひとつが経済学部講師(レクチャラー)トニー・ローソンの月曜勉強会だった。たまたまハイエクをテーマにしていたが、最初は何の議論かわからず面食らうばかりだった。

今も昔もジョン・メナード・ケインズの文体が好きな私は、その最大の批判者であるこの現代オーストリア学派の雄は、レーガンやサッチャーの偶像に祀りあげられたリバタリアン(自由主義者)、市場主義のイデオローグに過ぎないと思っていた。ベストセラー「隷従への道」の決めぜりふである「どんな種類の集産主義的体制にも共通している特徴とは、あらゆる学派の社会主義者がこれまで愛好してきた言い方をするなら、ある決定的な社会的目標に向けて社会全体の労働を計画的に組織化することだ、と言えるだろう」という言葉は、耳にたこができるほど聞かされたからだ。

が、ローソン勉強会で交わされていたハイエク論は、そうした「反共の哲人」像とはまるで毛色の違うものだった。彼の経済学の根幹に横たわるカントの超越論的実在論だの何だのチンプンカンプンだった。なるほど、ハイエクはケンブリッジの特別研究員(フェロー)となった哲学者ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインと同じくウィーン生まれである。ナチスの圧迫を逃れてロンドンに渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)でフォン・ミーゼスの衣鉢を継いだ。戦時中はLSEごと空襲を逃れてケンブリッジに疎開し、戦後の1950年代はシカゴ大学に在籍したのち、欧州に帰っている。

反ケインジアンとしてともに70年代にノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンとは同僚だったはずだが、このいかにも出世志向のアメリカ系ユダヤ人とはどうも息があわなかったらしい。シカゴを去る1960年にハイエクは「自由の条件」を書いて面目を一新するのだが、リバタリアンの守護神としか見ない従来のハイエク像はその理論的な変貌を見落としてきたようだ。

ローソン勉強会で話題になっていたのは、ミュルダール賞を受賞したスティーブ・フリートウッド(現ランカスター大学講師)の「ハイエクのポリティカル・エコノミー」だった。読んでみたが難しくて辟易し、あらためて後期ハイエクの大著「法と立法と自由」を読まなければならなかった。それきり忘れていたが、いつだったかケインジアンの宮澤喜一元首相にインタビューした際、ハイエクの翻訳者、西山千明氏に言及されて、ケンブリッジでかいま見た「別のハイエク」のことが脳裏をかすめた。あのテレコミュニケーション・システム論は単なる市場万能論ではない。

たまたま昨年7月、シカゴ大学ロー・スクールの教授で「インターネットは民主主義の敵か」の著者であるキャス・サンスティーンのブログを読んで、その参加型百科事典ウィキペディアの創始者ジンボ・ウェールズが、「ウィキペディアに関する自分の考えはハイエクの価格理論が中心だ」と述べているのを知った。



ハイエクを理解せずにWikipediaを理解することも不可能ではないかもしれない。Wikipediaに対するわたし自身の理解が間違っているかも知れないから。しかしハイエクを理解せずに、Wikipediaに対するわたしの考えを理解することは不可能だ。



サンスティーンによれば、そうした見解はウェールズに限らない。彼はある判事のブログを引用している。



ブログは……知識とは人々の間に広く散在しており、それを集積する仕組みを作りだすことが社会の課題であるというハイエクの主張に対する鮮烈な実例といえる。ハイエクの著作、あるいは経済学者一般が注目する強力な仕組みは価格システム(市場)だが、もっとも新しい仕組みが「ブログ圏 (blogosphere)」だ。すでに400万のブログが存在している。インターネットは、ブロガーによって生みだされたアイデア、意見、事実や画像、報告や研究の即時的な集積(ゆえに訂正、洗練、増幅)を可能にする。



サンスティーン自身はこうした市場とブログ圏との安直なアナロジーに懐疑的で、CNetのローレンス・レッシグ・コラムへの寄稿でこう書いている。



ハイエクの大きな主張は、価格システムは広く分散した情報や好みを集約するというものだった。ハイエクはこれを「驚異」と呼んでいる。これまで情報を集約するその他の仕組みについて触れてきたが、Wikipediaから話を進めることは有益だろう。(中略)

Wikipediaはまさに分散情報の集約をおこなっている――それも驚くほどに。広い意味で、これは間違いなくハイエク的プロセスだ。だが Wikipediaと価格システムには少なくとも二つの違いがある。まず、Wikipediaは経済的インセンティブに基づいていない。人々は品物や金銭のために参加するのではないし、取引もない。次に、Wikipediaは基本的に「後手必勝」のルールで動いている。最後の編集者、すなわち一人の人間が大きな力を持つ。ところが価格システムでは、最後の購入者は普通大きな影響力を持つことはできない(中略)。つまりWikipediaは、分散した情報を独特の、比較的信頼性の低い方法で集約する点で価格システムと異なる。

ただし書きが二つ。1) いずれにしろWikipediaは機能する。すくなくともほとんどの部分では。 2) 価格システムも、ときに野火のように拡がる誤情報が暴騰・暴落を招くという意味では常に機能するとは言えない(だから行動経済学者が示したように、ハイエクはあまりに楽天的すぎたといえる)。



この論争は市場論とネット論の接点になりうる。そう思いませんか。

問題少女

しだいに創刊号編集の重圧が高まってきて、ブログを書く時間をつくるのが困難になってきた。自分でもしだいに目がつりあがってくるのが分かる。しばらく長文は書けない。掲載はスタッカートになるので悪しからず。

桜の開花宣言が出た1日後(3月22日)の東京の夜は雨もよいだった。新宿三丁目で待ち合わせがあり、地下鉄の駅を出たら、もう春の雨に肩が濡れた。飲み屋の二階のバーを指定されたが、まだ看板の明かりが灯っていない。連れの記者がいたから、目と鼻の先の焼肉屋で軽くレモンサワーをあおり、焼肉をつつきながら、店があくのを待つことにした。

話に夢中になっていて、ふと窓から外をふりあおいだら、青い看板のライトが灯っている。おう、開店したか。そそくさと勘定を終え、階段をあがってバーの扉を押しあけた。女性がひとり、背を向けてスツールに座っている。携帯で話しこんでいて、身をよじらせて流し目。「あ、お客さん、今きたわよ」。待ち合わせの相手が、少し遅れると電話をかけてきたらしい。こちらもスツールに腰をのせた。

窓が少しあけてあって、雨の匂いがバーの暗がりに漂う。うらぶれた、というと失礼だが、なんだか昔の日活の映画に出てきそうな場末の感じだ。懐かしき時代の新宿がまだあったか。水割りをこしらえながら、ママが「雨でタクシーがつかまらなくって。とうとうびしょ濡れよ」とぼやいているうちに、「よっ」と威勢のいい声で新たな客が飛びこんできた。

天才アラーキー、こと写真家の荒木経惟氏である。彼と待ち合わせたのだ。バーの壁には刺青の男と女がからむアブナイ写真のパネルが飾ってあるから、行きつけの店なのだろう。彼に頼みたいことがあって、熱烈な口説きの手紙を書いた。硬派の雑誌を創刊するが、ぜひあなたの写真を表紙に使いたい、と。大股びらきのアブナ絵ではない。どんな風景を撮っても、どこか無常を漂わす、あのタナトスを凝視した写真を載せたいのだ、と。

思いが通じるかどうかは賭けだったが、幸い通じたらしい。忙しい合間を縫って、いきなりこのバーで会うと指定されたのだ。気難しい芸術家を想像していたが、会ってみると声こそ甲高いが繊細な人だった。「ふーん、今どき雑誌を始めるの?」。酔狂、あるいは殊勝、といわんばかりに励まされた。休刊した「噂の真相」の話が出る。

「岡留(編集長)、どうしてるかな」
「ときどき東京に来てるみたいですよ」
「沖縄にいられないのかな」
「乞食と編集長は三日やったらやめられない、と言いますからね。とにかく『噂真』は端倪すべからざる雑誌でした。取材の突破力では戦えても、荒木さんの写真が載っていると、あの衝撃力には負ける。もう今は心置きなく掲載を頼めます」

というわけで快諾を得た。「がんばってな」と肩をたたかれる。あまりショッキングな表紙ではビジネス・ユースに合わないという声もあるけれど、それはアラーキの写真の全貌を知らないからだ。昨年11月にロンドンのバービカン(アートセンター)で大回顧展を開き、えらい人気だったという。どんな表紙になるか、お楽しみに。

さて、せっかく新宿に遠征したのだから、ネット空間と市場空間を論ずるのは少し先延ばしにしよう。日本経済新聞の女性記者だったが、私と同じころ退社してフリーランスになった長田美穂さんから新著が送られてきた。これまで「ヒット力」(のち改題して「売れる理由」)など、主にビジネスライターとしてあちこちに寄稿してきたが、まるで趣の違う本だった。題して「問題少女」。副題が「生と死のボーダーラインで揺れた」とある。摂食障害に苦しみ、薬物とセックスに依存し、自殺未遂を繰り返した末に縊死を遂げる「境界性人格障害」の少女のドキュメントである。

「ハッピードラッグ」と呼ばれた抗欝剤プロザックの取材で出会ったらしいが、他人の無意識を異常なほど感知する鋭すぎる頭脳とそのどうしようもない心の弱さゆえに、少女はついに立ち直れず破滅していく。長田さんは取材者の閾を越えてその死の立会人となった。読み進むにつれていたたまれなくなる。ありきたりの記者はここまで肉薄できない。自分が壊れてしまうからだ。防衛本能が働いて、途中で安全無事な会社の日常へ引き返す。

だが、長田さんはそうしなかった。ジャーナリストというより、同伴者としてともに危険な淵に近づいた。故高橋和己の妻だった高橋たか子の小説に、大島の三原山噴火口で投身自殺する人に同伴する不気味な物語があったが、ああいう感じである。

暮れに久しぶりで彼女に会ったとき、すっかり面がわりしているのに気づいたが、それが何かを踏み越えたせいなのだと得心がいった。変哲もない家庭に育ちながら、ゆえ知れぬ不安に苛まれるこの少女の日常に接することで、まぎれもない地獄を見ることができたのだ。この地獄に鬼はいない。下北沢のお好み焼き屋、新宿の紀伊国屋前の雑踏、そして薄汚れた歌舞伎町の風俗店があるだけなのだ。寥々として誰もいない。耳元で囁くのは自分に潜むメフィストフェレスの裏声なのだ。

少女はカッターナイフで何度もざくざくと手首に切りつける。理由は?本人も分からない。フィンランドの歌手ビョークが主演した悲惨な映画「ダンサー・インザ・ダーク」のように、自分も死にたいと訴えるだけだ。

もしかすると、取材者もその誘惑に駆られたのではないか。無意識のうちにこの頭のいい少女は取材者に憑依している。この本自体、少女が書かせた遺書なのかもしれない。少女の自殺後、筆者は原因を求めて取材をつづけるが、医師もカウンセラーもそれぞれの分析を語るにすぎない。どこにも救いはなかったのだ。

本は思ったほど売れていない、と長田さんは言う。リストカッター(手首切り)の少女たちを描いた類書があるからだろうか。落胆することはない。妙にうすら明るく、空疎な今をこの本はよく描いたと思う。とってつけたような救いも、借り物の解釈もない分、がらんどうの魔が切々と迫ってくる。

新宿の雨の宵に、少女の後姿を思い浮かべた。かつて彼女はここを通りすぎた。どこにも逃げ場はない。

アメリカ6――ウェブスパムにすえるお灸

ライオンが後ろ足で立って威嚇する姿勢を、英語ではramp upという。グーグルのエンジニアであるマット・カッツが個人サイトでその言葉をつかっている。

「Ramping up on international webspam」(海外のWebスパムに警告)

Webスパムとは「迷惑ウェブ」というほどの意味で、擬似的なリンクを張ったり、他サイトへ転送したりして、検索エンジンを欺くサイトを言う。ドイツの高級車メーカー、BMWのサイトがそうした“操作”を行っていたとして、グーグルが排除を宣言したのである。2月4日付のブログでカッツはこう書いている。



覚えていますか。以前、(英語圏以外の)他国や言語でもウェブスパムにもっと目を光らすと述べたことを。今週、われわれのウェブスパム班は、bmw.de(ドイツのBMW社のサイト)をわれわれのインデックスから排除することで、スパム退治の警告を発しました。さらにricoh.de(日本の複写機・プリンターメーカー、リコーのドイツ法人のサイト)も同様の理由で排除されるでしょう。



何がそんなにグーグルを怒らせたのか。グーグルの検索で当時のBMWのサイトを訪れると、最初に「BMW Neuwagen(新車)」と題する字だけのテキスト画面が登場し、やがて自動的に切り替わって画像の多い別のURLが現れる。これはBMWが検索結果の順位を上げるため、「新車」などのキーワードの多い「入口ページ」(doorway page)を設け、そこからJavascriptを使って別ページに転送する二段階の誘導方法をとっていたことを示している。画像の多いURLは見栄えはするが、テキストが少ないため、グーグルのページランクでは順位が低くなってしまうからだ。カッツはこれがグーグルの品質指針「ユーザーを欺いたり、ユーザーに表示するのと異なるコンテンツを検索エンジンに見せない」に抵触するとし、見せしめとしてBMWとリコーの排除を決めたという。

BBC(英国放送協会)が伝えたBMWスポークスマンのコメントは、SEO(検索エンジン最適化)の手法の一つでグーグルに禁じられていた「入口ページ」の仕組みを使っていたことは認めるが、悪意はなかったと強調するものだった。



われわれは検索エンジンの検索結果と異なるコンテンツを最終ウェブサイトで流したわけではない。しかしグーグルが入口ページは違法だというなら、それを考慮に入れなければならない。



ほぼ全面降伏である。数日してbmw.deがグーグルのインデックスに復帰したのは、非を認めて入口ページを削除し、二度とこういう手法を採らないと約束したからだろう。では、わがリコーがどんなコメントを出したか、少なくとも日本のサイトには載っていない。ソニーBMGの“スパイウエア”搭載CD問題と同じく、海外法人のローカルなトラブルとして処理されたのではないか。海外の恥はかき捨て、が日本企業の常なのだろうか。

それにしても、すでにグーグルがひとつの「権力」であることがこれでよく分かる。カッツのブログの口調自体、ほとんど命令調である。彼が言わんとしていることは「グーグルボッツ(寄生虫)」を定義するのは、グーグルのウェブスパム班であり、その品質指針だということだ。その権力の源泉は寡占にある。ネットの「あちら側」の完全民主主義など幻影であり、マット・カッツが警告したようにグーグルが英語圏以外にも目を光らすとすれば、それは「世界の警察官」を標榜したアメリカの冷戦思考と何ほども変わらない。

その“違法”SEO(検索エンジン最適化)狩りは、シラク仏大統領がクァエロ計画で口にした英語以外の異文化をも膝下に置く「帝国支配」の影すらちらつくのである。中国語版グーグルを開くため、北京に対し検閲への協力に同意したことで物議を醸したが、これで見る限りグーグルの内実はその素地がすでにあったことになる。

しかし、グーグルの居丈高にはもっともな理由がある。クリック回数に応じて広告料が決まるペイパークリック(pay-per-click)広告のヒット数を不正に操作する「クリック詐欺」の横行である。オンライン広告費が急増しているため、その被害は深刻になりうるのだ。もっとも簡単なクリック詐欺は、日雇い労働者を雇って何時間もクリックさせる方法(クリック1回15~28セント)だろうが、手が込んでくると人間の動きをまねて設計したコンピューター・プログラムに大量のクリック動作を代行させるのだ。

偽クリックの洪水でライバル企業の広告費を法外に高くさせて困らせる「ダーティ戦術」にこうしたクリック詐欺は多く使われるが、グーグルにとっても詐欺とわかれば広告料払い戻しに応じねばならず、その広告モデル全体が信用失墜という窮地に立たされる。グーグルのネット広告ツール「アドセンス」を装う迷惑プログラムを開発したソフト開発者が、「スパム業者にこのプログラムをばら撒かれたくないなら10万ドル払え」とグーグルを脅して、シークレット・サービスに逮捕された例もある。

とにかくそれは、ネットの「あちら側」が梅田望夫氏の描いたようなユートピアではないことを示している。おびただしいブラック・ハット(悪質)SEO業者の輩出と、その退治に際限なき鬼ごっこが続く図は、清濁併せ呑む資本市場とよく似ているのだ。結局、グーグルが体現しているという理想は、アダム・スミスの「見えざる手」とどこが違うのだろうか。次回以降、ネット空間と市場空間を論じよう。

アメリカ5――最適化の“ウマバエ”

グローバルな資本市場を闊歩する金融資本の寄生性を形容するのに、資本市場のウマバエ(bots)という比喩をつかった。正確には牛や馬にたかるハエの幼虫(蛆)のことである。そういう金融資本論は別して珍しくない。ちょっと古典的すぎるが、オーストリア生まれで社会民主党の理論家だったルドルフ・ヒルファーディング(1877~1941) の「金融資本論」(Das Finanzkatial)をご覧ください。しかし、そういう「寄生」がインターネットの「あちら側」でも起きているとき、ネットのユートピアにうさん臭さを感じるのは私だけだろうか。

誰でも経験する実例をあげよう。

友人、手嶋龍一氏の新著「ウルトラ・ダラー」応援の書評を5回シリーズでこのブログに載せたら、彼のほうも「手嶋龍一オフィシャルサイト」というウェブサイトを店開きした。しかし、グーグル上ではキーワード「手嶋龍一」で引いても、オフィシャルサイトが先頭に来ない。常に「手嶋龍一ワシントン支局長ファンページ」に先を越される。もう支局長を辞めて今はその肩書きではないから、「何とかなりませんかね」と相談された。

これはつまり「検索エンジン最適化」(SEO、Search Engine Optimization)のことである。あるキーワードをグーグルで検索した際、1ページ目の上位にサイトが出てこないと、ユーザーはそれ以上めったに探してくれない。ネット広告に依存度が高くなるにつれ、これは企業サイトにとって死活問題である。そこでグーグルのアルゴリズム(計算方法)を研究し、上位にひっかかるようグーグルを“誘導”する裏ワザが工夫されるようになった。

たとえば、リンクを数多く張ると、グーグルでは上位にランクされるらしい。私もそういう助言を受けた。手嶋氏のケースも、過去にテレビに出ずっぱりになった際「テッシー」ブームが起きてファンサイトがつくられ、数多くのリンクが張られたので新参のオフィシャルサイトが追いつかないのかもしれない。これからは会う人ごとに「リンクを張って」と呼びかけないと追い越せない、ということになる。

が、これはグーグルの唱えたネットの「あちら側」の完全民主主義(人為でなくアルゴリズムがランクをつけるという意味だが)が、実は「操作されうるバーチャル・リアリティ」であることを如実に示している。プロ野球オールスターのファン投票で、ジャイアンツやタイガースのファンクラブなどの組織動員が行われ、はては故障中のスワローズ投手に投票が集中して出場辞退となったことは記憶に新しい。ファンの善意を信じてマニピュレーション(世論操作)に防御を講じなかった報いだが、これは完全民主主義という幻想のもとにSEOの操作を許してしまう構図と同じではないか。

ファミコンゲームに次々と裏ワザ本が現れたように、検索エンジン最適化を専業とする業者が雨後のタケノコのように生まれている。彼らのビジネスは「検索エンジン・マーケティング」(SEM)と呼ばれる。複雑なページ・アドレスを単純にし、テーマを絞ってキーワードでヒットできるようにし、「メタ・タグ」と呼ばれるテキストから見えない部分に追加キーワードを入れるなどして、検索エンジンにひっかかる工夫を凝らすのだ。

ボストンで結成された非営利の業界団体SEMPO(日本支部はhttp://www.sempo.jp/)によると、2005年1年間に世界でこうした業者が提供するSEOに企業は12億5000万ドルを投じるようになっており、今年はその1.5倍に伸びるという急成長ぶりだそうだ。The Economistによると、ミネアポリスのある米企業はクリック回数に応じて広告料を払う「ペイ・パー・クリック」広告に月5万ドルも投じていたが、効率が悪いとやめてしまった。代わりにSEOに月5000ドル払い、50の検索語でグーグルのトップにランクされるようにしているという。

グーグルとて手を拱いているわけではない。オープンソースを標榜する同社だが、このアルゴリズムばかりは「ブラックボックス」化して企業秘密にしている。高速正確な検索を実現したそのアルゴリズムを特許登録さえしないのは、「特許はいずれ公開される」からだという。しかしSEM業者とのいたちごっこは、ゲームおたくが裏ワザやバグを見つけ出すのと同じく果てしがない。そこで、年に数回、「グーグル・ダンス」が行われる。

グーグルがアルゴリズムを“シャッフル”し、ランキングの順位を変えてしまうのだ。せっかく蓄積された裏ワザのノウハウが無力化されるので、SEM業者にとっては「磁気嵐」に見舞われたようになる。そこでシャッフルが起きるたびに、ハリケーン並みに「バーボン」「ギリガン」「フロリダ」などと名称をつけられるようになった。最近は昨年10月に3波にわたって行われた「タイガー」だという。

だが、グーグルがどんな“ダンス”を踊ろうと、リンクの多寡が影響する構造は変わらない。リンク数がサイトの人気度の目安になるからである。人気ブログや大学などのサイトとのリンクを有料でレンタルしたり、プレスリリースを送ってリンクを増やすなどの工夫はまだかわいい。サイト管理システムの穴を探してこっそりリンクを埋め込むなどの「ブラック・ハット(悪質)SEO」が現れてきた。

彼らはリンクの虚像をつくるマニピュレーターである。「スプログ」と呼ばれる大量の偽ブログを自動的に流すサイトが生まれ、それがリンク数の計算を狂わせる。また、検索した人が見たサイトと違うサイトに転送させる「クローキング」、検索したキーワードと違うページに誘導する「キーワード・スタッフイング」など、アダルトサイトではおなじみのあの手この手を、この通称「リンク屋」(link farm)たちは動員している。

一昨年6月、アメリカで行われた「SEOチャレンジ」というこのマニピュレーションの腕を競うコンテストでも、1000人余の参加者が明かした勝つ秘訣は結局「膨大な数のバックリンクを仕掛けること」だったという。



「自分のブログの読者に頼んでリンクを張ってもらった。自由に制御できるサイトも、いくつか作っておいた。こうしたサイトはテンプレートを使っているので、たとえば、5分間で6万ページのバックリンクを簡単に作成できたりする」(ワイアード・ニュース)



これらの悪質業者を駆逐するためにも、グーグルはアルゴリズムのシャッフルだけでなく、悪質サイトを絶えず駆除しなければならない。ところが、駆除されたサイトだって黙ってはいない。3月17日、児童向けのサイト「KinderStart.com」が警告なしにグーグルのインデックスから駆除されたとして、サンノゼ地裁で損害賠償を求める民事訴訟を起こした。訴状では、グーグルに駆除されたサイトのオーナー全員を代表する集団訴訟の認定を求めている。

これがネットの「あちら側」の実像なのだ。完全民主主義の虚像は、完全市場の虚像とよく似ている。価格均衡点を実現する完全市場モデルが金融資本のウマバエを発生させてしまうように、グーグルの理想も悪質SEOのウマバエを無数に発生させてしまうのだ。この相似はおそらく偶然ではない。ネット空間と市場は通底している。ネット・ユートピアンはそれが見えていない。念のために言うが、グーグルおよびそのユーザーを欺こうとする悪質なSEO業者は、すでに「グーグルボット」つまりグーグルのウマバエと呼ばれている。意訳すれば、グーグル寄生虫である。

アメリカ4――つまんない2兆円買収

切込隊長の口真似をすれば「つまんない事態」になった。3月17日、ソフトバンクがボーダフォンの日本法人買収で合意したと発表したことだ。日本法人の株97%を1兆7500億円で買い、さらに2500億円の債務も引き受けるから実質2兆円の買収である。出来の悪いポルノでも見ているような、あっという間のクライマックス。「つまんない」と思うのは、あまりに「想定内」で意外性がないからである。

孫正義社長、やっぱり焦ったとしか思えない。17日夕の会見で「安くも高くもない、いい値段だ」と言ったが、どうみてもこれは強がりで、高値づかみだったと思う。危惧する質問に対して「時間を買った」と言い張るあたり、本人も内心それを自覚しているのだろう。孫氏と社外取締役仲間とはいえ、ボーダフォンCEO、アルン・サリーンは連戦練磨のインド系経営者である。すっかり足元を見られていたような気がする。

情報戦がそうである。ソフトバンクは負けていた。そもそも買収交渉第一報のリリースが出たのは日本時間3月4日土曜の未明で、ニュースが流れるような時間帯ではない。ロンドンでは週末の夜であり、どう考えてもリークはボーダフォン側だろう。ソフトバンクは交渉を内密にしたかったはずで、初動からボーダフォンに振り回されたのではないか。

そして英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)に載った、KKRやサーベラスなど米系ファンドによる対抗提案の報道。買収合意発表の17日にもその続報が載っていた。サーベラスはプロビデンス・エクイティ・パートナーズと組み、JPモルガンやモルガン・スタンレーが資金調達を助ける。またKKRは、テキサス・パシフィックかパーミラと組みそうだという。この情報リークがソフトバンクを焦らすためのものだとすれば、穴に隠れたイタチを煙でいぶりだすような手法である。

サーベラスの対抗提案が1兆8000億円という報道も流れただけに、ソフトバンクは焦ったろう。資金調達力の巨大なライバルに「漁夫の利」をせしめられるのではないかとやきもきする。こういうとき孫氏は一歩も退かない。ひたすら突進あるのみ。ついに穴をとびだして、ボーダフォンのぶら下げた餌をパクリとのみこんだ。そういう性分まで読まれていたはずで、だから「つまんない事態」なのである。

つりあげた値をあっさり呑んでくれたうえ、四の五の言わずに即合意だから、これほどおいしい客はいない。ほくそえんだのはボーダフォンのサリーンCEOと、情報戦を仕掛けた配下の情宣チームだろう。ソフトバンクの広報部門は、国内の新聞などのメディアは仕切れても、米英メディアを使ったゆさぶりには対抗できない。ルビコンを渡った孫氏が、この負担に耐えられるかどうか、資金調達が円滑にいくかどうかはこれからだろう。

とにかくこの「つまんない事態」は、夢のない買収劇であることにもよる。ソフトバンクが総務省から認可を得たばかりの1.7ギガヘルツの周波数帯といい、これまで進めてきたMVNO(仮想移動通信事業者)戦略といい、今回の買収と両立しないことは誰の目にも明らかである。買収に次ぐ買収でボーダフォンが図体ばかり大きくて空洞化した携帯電話の巨人(ユーザーは世界で5億人)になったとすれば、その日本法人を買うソフトバンクも変わり身の速さだけで、これまで打ってきた布石と買収には継続性がないことが、あらためて明らかになった。

KKRやサーベラスなど資本主義の権化ともいうべきプライベート・エクイティ・ファームなら、携帯電話会社運営のノウハウをもたなくても、会社の売り買いで巨利を得る成算が立てば買収の大義名分が立つ。しかししょせん資本市場に発生するウマバエ(bots)のような寄生的存在であり、携帯電話市場の本源的な価値とは関係がない。この買収が「つまんない」のは、ソフトバンクにも結局はメガロマニア(巨大化病)という資本の論理しかなく、NTTやKDDIと肩を並べるという寡占の欲望だけがあらわになったからだ。

もとからそうだった、と言えば言える。本源的な価値を生み育てず、てっとり早く企業買収でシェアを取るソフトバンクの寄生性は、鏡に映したように過去のボーダフォンとそっくりに見える。いや、RJRナビスコを切り刻んで250億ドル(2兆9000億円)の買収資金を回収したKKRも、マネーゲームの寄生性では同じ穴のムジナではないか。

稚魚が幸せそうに海底を泳いでいると、背後から鮟鱇(あんこう)のような怪魚がひと呑みにしようと迫ってくる。と、その後ろからもっと大きなサメががぶりと噛み付こうとしていて、さらにその後ろにクジラが大口をあけて飲み込もうとしている……。ディズニーの近作「ファインディング・ニモ」か、どこかのアニメにそんな場面があったような気がする。アメリカを中心に形成されたグローバルな資本市場とは、そんな弱肉強食の食物連鎖のうえに成り立つ。ソフトバンクもその連鎖に身を投じたのだ。

アメリカ3――孫正義が青ざめる「何でもあり」

携帯電話のことならこの人に聞け、というべき三田隆治君が久しぶりにオフィスに訪ねてきた。ダイエットしたのか、心なしか前回会ったときより痩せている。先日、ソフトバンクのボーダフォン日本部門買収交渉の報道があってから、彼の「ケータイAlternative」のブログサイトは果敢に買収反対論を展開、あちこちで評判になっていたのでさっそく聞いてみた。

「サイトの右肩で、アンケートをやってるだろ。ソフトバンクのボーダフォン買収、あなたは賛成?って。答えは、賛成、反対、どちらともいえない、わからないの4種類だけど、今のところ、どの回答が多いの?」

彼は困ったような表情を浮かべた。自身のブログであれだけ反対論を展開しても、「賛成」が多いのだという。へえ、そんなものかね。

「ええ、Jフォンが買収されてボーダフォンになって、不満を抱くユーザーがすごく増えたせいでしょうね。ボーダフォンの傘下より、ソフトバンク傘下になれば、少しはましになるかもしれないって期待値が、賛成って言わせるのかな」

ちょっぴり彼を慰めた。彼が指摘するような「寡占の弊害」ってなかなか大衆には理解されないものだ。市場経済の弊で、競争がなくなると価格が高止まりする。ユーザーがそれに気づくのはずっと遅れてからで、たいがいは後の祭りである。

マイクロソフトがいい例だろう。米司法省と連邦取引委員会がウォッチドッグとして睨みをきかせていたが、マイクロソフト分割に失敗してしまった(政治献金の鼻薬が効いた?)。おかげでパソコンの基本ソフト市場は、ソフト改良をさぼって巨額の収益をあげる「憎まれっ子世にはばかる」構図が定着したが、ユーザーは今ごろになって歯ぎしりしている。

「でも、ソフトバンクだって、トンビに油揚げをさらわれるかもしれないよ。KKRって強敵も登場したんだし」。驚いたことに、えっ?という顔をした。KKRは初耳らしい。ううむ、携帯の「ギーク」も金融の弱点を抱えていたのか。彼のサイトでボーダフォン日本部門買収の賛否に票を投じている人々も大半は携帯関連業界の人たちらしいので、彼らもKKRの正体をよく知らないのかもしれない。では、教えましょう。

KKRはプライベート・エクイティ・ファームと呼ばれる投資ファンドの一種で、私募で資金を集め、巨額のM&Aをやってのける投資銀行家、弁護士、公認会計士などを集めた頭脳集団である。KKRとはそのシニア・パートナーだった3人の頭文字で、正式には「コールバーグ・クラビス・ロバーツ&カンパニー」という。彼らの名を高からしめたのは、第一次バブル絶頂期の1988年にアメリカのたばこ・食品コングロマリット、RJRナビスコに敵対的買収(TOB)を仕掛け、250億ドル、2兆9000億円で仕留めたことだろう。この買収金額は今にいたるまで18年間、レコードホルダーである。詳しくは、日本でも翻訳され(邦題は「野蛮な訪問者」だが絶版?)、映画化もされたブライアン・バローらのThe Barbarian at the Gateをお読みください。

そのKKRが、ソフトバンクのボーダフォン日本部門買収に横ヤリを入れそうだというニュースは、3月12日付の英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)が報じた。KKRとサーベラスを含む複数のプライベート・エクイティ・ファームが、ソフトバンクに対抗して買収提案を検討中だという。私もよく知っている同紙東京支局の中元三千代記者のほか、香港とロンドンの記者が協力して書いた記事である。

ちなみに、サーベラスは地獄の犬ケルベロスを社名にしているいわゆるハゲタカ・ファンドのひとつで、日本でもさまざまな企業再建のM&Aを手がけており、ダン・クエール元副大統領が会長をつとめていることでも有名だ。サーベラス系列の不動産会社が東京・南青山の地上げで広域暴力団関係者が絡んだ疑いがある、と書いた毎日新聞に対し、名誉毀損で100億円の賠償訴訟を起こしたコワモテのファンドでもある。

ソフトバンクの孫正義社長にとって、KKRとサーベラスの名は不吉な響きだろう。ウォール街に轟くKKRの勇名の前では、新興ソフトバンクの影は薄れてしまう。その資金調達力はソフトバンクの比ではない。また、ソフトバンクが2003年に手放したあおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)株48%は1011億円でサーベラスに売却したのだから、なおさらよくない記憶が甦るはずである。しかも、FTが載せている「日本で活動的なアメリカの大型プライベート・エクイティ・グループ」(サーベラスだろう)の代表の言葉が不気味だ。



「われわれを含めて、多数(のプライベート・エクイティ・ファーム)が対抗買収提案をしようとしているようだ。こいつは完全に何でもあり(total free-for-all)だと思うよ」



どうする?孫さん。買収先の資産を担保に買収資金を調達するLBO(レバレッジド・バイアウト)方式を考えているようだが、それでもシンジケート(協調融資団)を組む要となるみずほコーポレート銀行(旧日本興業銀行)には、ソフトバンクを蛇蝎のごとく嫌うNTTから水面下で圧力がかかっているという。KKRやサーベラスなどアメリカのファンドが束になって対抗ビッドを出してきたら、金融機関の後ろ盾の弱いソフトバンクでは歯が立たないだろう。強敵がせりあえば値もつりあがる。

しかも、何でもあり、は金額やファンドの組み合わせだけではない。06年3月期に230億-280億ポンド(5兆円前後)という巨額の資産評価損を計上するボーダフォンは業績も足踏みで、アルン・サルーンCEOに対する株主の圧力は強まるばかり。日本部門の売却も配当原資を確保するためとされており、KKRなどの生き馬の目を抜くファンド勢はその足元を見透かして、日本部門だけでなくボーダフォン・グループをまるごと買収する提案が飛びだすかもしれないという。

そうなったら、ソフトバンクなどお呼びでない。世界最大の携帯電話会社を一口で呑み込むには下手をすると20兆円は必要だからで、1兆5000億円から2兆円といわれる日本部門買収でさえソフトバンクにとっては大きな賭けなのだから、ひとケタ違ったら涙を飲まざるを得ないだろう。社内からも「買えないかもしれない」という声がちらほら聞えてくる。先日報じられたAT&Tによるベルサウス買収(750億ドル)が実現すれば、ナビスコ買収の記録がとうとう破られると言われたが、どっこい、KKRは一打逆転、レコードホルダーの座を守る気かもしれない。

それにしても88年のナビスコ買収は、バブルの終焉間近の「掉尾の一振」、いや、「最後の花火」だった。長く記録が破られなかったのは、LBOとはいえ負債の負担が重すぎたからだ。今また同じ役者が1ケタ上をめざすとすれば、これこそバブルの証明であり、その「終わりの始まり」の証明だろう。アメリカも伸びきっている。これをアメリカ流資本主義の強さなんてもてはやしてはならない。きっと恥をかく。

アメリカ2――欧州版グーグル「クァエロ」

私のあこがれは、ポピュラー・サイエンスのライターである。「ビーグル号航海記」のダーウィンに始まって、「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス、「ワンダフル・ライフ」のスティーブン・ジェイ・グールド、「フェルマーの最終定理」のサイモン・シンなどみなほれぼれするような名文家である。数式や化学式など一行も使わない名人芸には脱帽する。

私もウェブ版Nature誌などをときどき斜め読みするが、こちらは専門の学者(ときどきイカサマもあるが)が投稿しているから、歯が立たないほど難解な論文に突き当たって、ため息をつかせられる。そこでThe Economist誌が年に4回、特集するTechnology Quarterlyに頼ることになる。経済誌だから数式から解放されるし、ニュース性にも敏感だから手ごろな鳥瞰図になる。なかなか手だれのライターがふんだんにいるらしい。

最新号(3月11~17日号)で「ユーログーグルの攻勢」という記事があったから読んでみた。フランスのシラク大統領がドイツのシュレーダー前首相とともに昨年4月に提唱し、進めているユーロ版グーグル「クァエロ」(どこかから情報を“くわえてくる”というような洒落ではなく、ラテン語で「われ求む」を意味するQuaero)計画のトピックで、またフランス得意の「欧州中華史観」かと思ったが、これがなかなか面白い。グーグル礼賛論者には見えないことの裏面が透けて見えるからだ。

もちろん、シラク演説を見る限り、「西欧の没落」への危機感がこの計画の出発点になっている。「明日のパワー」を求める戦いで欧州はアメリカや日本、さらにブラジル、中国、インドなど新興のBRICsにも劣勢だというのだ。そこで巻き返しに、検索エンジンで世界を制覇したグーグルの対抗馬を欧州で独自につくろうという。



「われわれはアメリカの巨人、ヤフーやグーグルのグローバルな挑戦を受けて立たねばならない。(中略)文化は商業ではなく、盲目の市場の力に委ねることはできない。われわれは画一化の忍び寄る脅威に対抗し、世界の文化の多様性を断固として防衛しなければならない。われら欧州のパワーは窮地に立っている」



イラク侵攻でアメリカが見せた圧倒的な軍事技術への羨望とともに、せめてソフトパワーでは負けたくないという意志があらわである。イラクの泥沼にはまってアメリカのハードパワーにかげりが見える今、欧州がチャンス到来と考えるのも無理はない。旅客機分野で欧州共同開発のエアバスがついにボーイングと肩を並べ、抜き去ろうとしているように、「なせばなる」とシラク大統領は考えているに違いない。

この派手な花火のあと、肝心の「クァエロ」がどうなったか、寡聞にして知らなかった。が、パリにAII(産業技術革新局)を設け、17億ユーロの予算を投じているらしい。そのうちのどれだけが「クァエロ」にあてられているのかは不明だが、フランス・テレコムやドイツ・テレコムやトムソンなど民間企業の研究者も参加しての官民共同体(コンソーシアム)なので、そうは侮れない。

グーグルの高速高精度の検索アルゴリズム(計算手法)に対抗する秘策は、グーグルも開発途上である画像検索や音声検索で先行することだという。グーグルの検索は、すべてキーワードに依存している。グーグルの追加機能「イメージ」も、イメージに付随するキーワードを検索語として拾っていて、ウェブサイトに載った画像や音声を直接探すことはできなかった。

ということは、日本語や中国語、ロシア語などアルファベットに載らない言語のウェブサイトは、英語圏からの検索では洩れてしまうことを意味する。フランス語やドイツ語も「é」や「ä」など英語にない字は化けてしまう。中国のウェブサイトのなかには機械翻訳ソフトで同時通訳しているものもあるが、その質のひどさはサイトを覗けばすぐわかる。

結局、「グーグルにひっかからないものはこの世に存在しないも同然」と言われてしまうのが現状なのだ。それがあながち極論ではないほどグーグルが普及した結果、言語の壁は英語文化以外の「文化の抹殺」にひとしい、ということになる。画像や音声を直接検索できれば、こうした難を迂回できるだろう。だが、機械翻訳すらままならないのに、画像や音声の直接検索など可能なのだろうか。グーグル自身が最優先課題として「マルチメディア検索」を開発中なのにまだ姿を見せていないし、音声認識の頼りなさは私も車に搭載したナビで経験済みである。

The Economistによると、「クァエロ」の音声認識はドイツのカールスルーエ大学が開発中らしい。政治家の演説やラジオ番組を音声ファイルにして、それを欧州各国語に(機械?)翻訳してキーワードをテキストデータ化し、検索可能にするという。それに音声認識ソフト(声紋など)を加えて声の質からも識別できるようにする。ま、誰でも考えつきそうで、技術的には大した飛躍ではない。「クァエロ」がグーグルと違うとすれば、旧来型の巨大国家プロジェクトであるという点に帰せられる。

エアバス対ボーイングでも、アメリカが執拗に欧州を非難したのはそこだった。国家の補助金をもらっていては競争条件が対等でないというのだ。が、欧州は一貫して耳を貸さなかった。先行の利を生かして後発の競争力を殺ごうとするアメリカのエゴと見たからだ。ボーイングは軍産複合体の所産であり、アメリカの言う「民間」なんてマユツバと思っているのだ。日本でも経済産業省で日本版グーグル構想が練られているが、この国益の闘技場で勝ち抜く優位性がない以上、壮大な無駄に終わった「第5世代コンピューター」開発計画の二の舞になりかねない。

欧州の開発者は、クァエロが商業的プロジェクトでなく、政治的プロジェクトであることをとうに自覚している。The Economistが引用したカールスルーエ大学の研究主任の言葉が示唆的だ。



「欧州は、アメリカのテクノロジーを通過しなくていいアクセスを確保したいのだ」



耳を澄ませば、グーグルは純然たる民間企業と言えず、「黄金の十戒」でうたう善意も信じられない、と語っているのではないか。米英五カ国が世界の通信網に忍ばせる巨大傍受システム「エシュロン」と同じく、グーグルの検索アルゴリズムの背後には、ワシントンの監視の目が光っているからこそ、欧州は成否は別としてもクァエロ開発を急いでいるのだ。彼らは日本のグーグル礼賛論者のようにおめでたくない。

ときどき代行3――ビフォー・アフター3 (オフィスの風景)

ビフォー・アフターばかりでしつこいようですが、今回は自分を実験台にすることはせずに、この4カ月でずいぶん雰囲気が変わった弊社のオフィスをご紹介したいと思います。先週、新しく勤務しはじめた3名のスタッフのために机を増やし、事務所全体の模様替えをしました。配線作業の第一人者・相原さんと、中古家具のことなら誰にも負けない私、働き者の学生アルバイト・米田さん(3人とも女性)の連携が綺麗に決まり、約2日かけて超特急で事務所を大変身させました。

超特急といえば、私自身も一昨日、家の引越しがありました。これからの激務に備えて3月末の予定を2週間以上も繰り上げて、部屋探しから引越しまで2週間のスピード引越しでした。

自宅でも会社でもそんな劇的なことをしてしまうと、心身休まらずに落ち着かないものです。風邪やものもらいに見舞われて、ゴルフの師匠からは「化粧のノリが悪くなったんじゃない?」と黙っておいてほしいことを言われ、泣き面に蜂状態でした。

それにひきかえ、オフィスを最初に立ち上げた時は、ゆったりと時間をかけてコンセプトを考えて、不要な靴箱と裏紙で作ったオフィスの立体模型を持ち歩いてシミュレーションしていたものです。よく言えば初々しい、悪く言えば単なるひま人だったと今は思います。



いかがでしょうか。このアングルではオフィスの3分の2程度しか写りませんが、全体の雰囲気は感じ取っていただけると思います。社内では、「席が狭くなったものの、このほうがかえって落ち着く」と好評です。

ついでに、事務所で育てているブルーベリーと胡蝶蘭も並べてみます。いずれも右側が現在のものです。



お花は、昨年の秋頃までは元気だったのですが、この通り、みすぼらしい姿になってしまいました。でも、それで良いんです。花より大事なことがあるという意味では幸福の証拠かもしれませんから。もう少し麗しいお花の写真もあるのですが、またの機会に…。その代り、せっかくですので弊社自慢の借景を2つお見せします。


アメリカの没落1――寂寥の風景

リセットしよう。「ウェブ進化論」の売れ行きはベストセラー驀進中だし、これ以上(批判的に?)エールを送ることもないでしょう。「元気玉」(理解できますよ)などトラックバックをつけていただいた方々にも感謝します。これからすこし別の方向に舳先を転じたい。

アメリカに夢があると信じられない。梅田望夫氏との違いは単にそれだけだったと思う。アメリカというと私の思い浮かべるイメージは、荒涼とした平原に置き去りにされた無人のトレーラーハウスである。都市に林立するハイライズも、毒々しいラスベガスも、明るいカリフォルニアも、所詮は絵葉書の世界でしかない。

住んだことがないから、そんな変哲もない光景に「アメリカ」を感じてしまうのか。たぶん、欧州から来た異邦人ヴィム・ヴンダースがこだわり続ける感覚と同じなのだと思う。彼がアメリカで撮った映画は、常にロードムービーである。あのよるべのなさ、寂寥と虚しさと激情に、ヴェンダースは共鳴するものを覚えたのだろう。

「パリ、テキサス」という映画があった。1984年制作だから、もう20年以上前になる。失踪した妻を捜して4年間も置き去りにしてきた息子と出逢い、最後に風俗店のマジックミラー越しに妻と再会するストーリーだった。脚本は俳優でもあるサム・シェパードで、ちょうど同棲していた「キング・コング女優」ジェシカ・ラングと破局を迎えたころだったから、その筋立てを私小説的に重ねて見たことを覚えている。

妻を演じたのはラングではない。全盛期のナスターシャ・キンスキーだった。大きなマジックミラーを壁面にはった個室で、インタフォンで擬似対話しながら、姿の見えないマジックミラーの前で女が媚態を見せるのだ。匿名の客は窃視欲を満たし、女は密室で身の安全を保てる――という設定が、悲しいほど「新宿2丁目」的だった。インタフォンの声が、逃げ出した夫と知って狼狽する妻。見えないマジックミラーに向かって「あなた?あなたなの?」と問いかける場面だけで、この映画は成功していたと思う。

が、あの乾いた風景と断絶の物語は、脚本のシェパードにとっても逃れがたい原風景だったようだ。キム・ベイジンガーと近親相姦の兄妹を演じた「フール・フォア・ラブ」から、最近作の「アメリカ、ある家族の風景」に至るまで、彼の脚本はほとんどオブセッション(強迫観念)のように執拗に同じストーリーを繰り返している。「アメリカ…」にいたっては、かつての同棲相手ラングに捨てた愛人を演じさせているのだが、年齢が老けただけでほとんど「パリ…」と変わらない。「寂寥のアメリカ」は昔も今もそこにある。

福田和也が「イデオロギーズ」で書いたハンブルクのテレホン・バーは、このマジックミラーの小部屋の延長線上にある。テーブルに一台ずつ電話が置いてあって、来店した男や女は他のテーブルを物色して、気に入った異性がいれば電話をかける仕組みだ。会話だけのことも2人でどこかへしけこむこともある。先週紹介した現代の「出会い系」にむしろ近いのだが、当時のドイツには「i-mode」のような携帯電話のインターネット接続サービスはなかった。不特定の男女を居住空間や職場、家族などいっさいの属性から切り離して邂逅させる液晶画面は、「パリ、テキサス」のマジックミラーの究極のすがたである。

遮断するミラーがあればこそ、生身では怖くてできない出会いも実現する。「出会えないから出会える」と言ったのはその意味だ。仮に液晶に流れるのが、テキストであっても画像(近い将来きっと現れる)であっても同じことだ。電話ボックスのガラス壁に無数に貼りつけられていたチラシと同じく、フェイク画像が乱舞するだろう。携帯を持ったアダムとイブ。その遭遇自体が神話である。その神話はしかし、「寂寥のアメリカ」が容赦なく抽象化した「あちら側」に成り立っているのだ。福田和也が書いた通りだ。



現代社会を「出会い系サイト」によって象徴することも可能であるし、ペンタゴンの超情報戦略に象徴させることも可能である。それは、いずれにしろ同じことなのだ。コミュニケーションの高速化によって時間を制圧することにより、空間が無意味になったことには変わりない。もちろん、現在も空間は存在しているし、空間なしにわれわれは生きることができない。都市、田園、山麓、平原、湖水は、あるいは故郷や祖国はわれわれにとって貴重な空間であることにはかわりない。ただ、確認しておかなければならないのは、これらの空間は、時間の権力によって一度無意味にされた後に再構成された――デザインされた――場所にすぎないということだ。



しかり。グーグルを「神の視点」と崇めるのは「知のネオコン」だろうか、と評したら、えらくいきりたった人がいた。貶辞ではない。アメリカだっていったん漂白され、リセットされた大陸ではないか。第1期ブッシュ政権の誕生で台頭したイデオローグ群である「ネオ・コンサバティブ」も、民主党理想主義の転向者としてリセットし、反共にかわる目標としてデモクラシーの伝道を旗印にした人々である。

ワシントンという街は、世界の権力の臍(オムファロス)だから、そこで出世しようとする人々がどう豹変しようと正当化される。ネオコンも勝ち馬ならもてはやされ、負け犬になれば洟もひっかけられない。そう思えばいいだけのこと。ひたすらアメリカの善意を信じるのは、お人好しが過ぎるのだ。反米や嫌米を気取る必要などないが、ギブ・アンド・テイクなしに「アメリカ大好き!」と勝手に洗脳される連中には辟易する。

たとえば、グーグルを批判すると、「世代論」に置き換えてしまう。自分が理解できないものに対する中高年の苛立ちとされてしまう。よろしい、私は世に言う「ベビーブーム世代」あるいは「全共闘世代」である。しかしそんな「世代」など信じたことがない。戦後という時間はどこかで無化されたのだ。ジャーナリストとしても私は、新聞というマスメディアからリセットし、雑誌編集長としても月刊「FACTA」創刊を目前に控えてリセット中の身だ。しかし、そのリセットは「世代」のしからしめるところではない。

自らの意志による。洗脳などされるものか。戦後生まれの時代共有は認めよう。そこに共通感覚もある。だが、会社にへつらう奴もいれば、居つけない奴もいる。打算ではない。

ヴェンダースとウッディ・アレンが一緒に映画を撮ってから、ヴェンダースはドイツへ帰り、アレンはロンドンに移住して、二人ともアメリカを捨てた。偶然ではないと思う。何が許されざる「転向」なのかを、次回以降、アメリカに託して書いていこう。

ウェブ進化論8――ライプニッツの予言

いくら「出会いが不可能」だからといって、出会い系サイトを「聖なるグーグル」のたとえにつかうなんて……とお叱りを受けそうだ。梅田望夫氏の「ウェブ進化論」が、せっかく藤原正彦の「国家の品格」を抜く新書のベストセラーになりそうなのに、その勢いに水を差すけしからん冒瀆だと思われかねない。

ネットの「あちら側」では「出会い系は出会えない」。その例証に「出会い系の冬ソナ」を書くことが奇抜すぎるというなら、今度はぐっと品よくいきましょう。かつて数学にあこがれた私にとって、それからずっと尊敬の的である微積分学の祖、ゴットフリート・W・ライプニッツ(1646~1716)の引用ならお許しいただけるだろうか。

晩年の1714年、ライプニッツはウィーンにいて、フランスのオルレアン公の臣下である顧問長官に懇切丁寧な返書を書いている。かねてからプラトンに心酔し、数学の素養もあったらしいこの顧問長官が、ライプニッツの「弁神論」を読んで感激し、「あなたのような方の精神に照らされている世紀に生まれ合わせたことを神に感謝しない日はありません」と絶賛する手紙を届けたからである。その返書の写しが残っている。



私は又もう少し暇があるか年が若いかそれとも優秀な青年の助けがあれば、「普遍形相学」を立ててあらゆる理性的真理を一種の計算に帰することができると考えています。これは同時に一種の不変的言語ないし記法となるでしょう。かつ今まで企てられたこの種の言語とは全く違うものです。私のは文字や言葉が理性を導いて行くもので、誤りは(事実の誤りを除けば)ただ計算の誤りに過ぎないことになります。この言語もしくは記号法を造ること、発明することは難しいでしょうが、字引なしでも容易に覚えられるはずのものです。(河野与一訳「単子論」解説より)



ライプニッツは偉い!彼の普遍形相学(la spécieuse générale)こそ、約290年を経て出現したグーグルではないか。グーグルの創業者セルゲイ・ブリンとラリー・ページが唱えたことは、もう3世紀近く前に先達がいてちっとも新しくないのだ。たとえば「字引いらず」とある。まさにグーグルのクリックがごく当たり前になったことで、いちいち辞書や百科事典を引く人はめっきり減った。あらゆる「真理」はアルゴリズム(計算方法)に還元され、検索によるヒットが一種の不変的言語と考えられているいま、すべての誤謬は計算の誤りに帰せられ、事実の誤りはカッコにくくられてしまうのだ。

ライプニッツは、デモクリトスの原子論を突き詰め、「凡(すべ)て創造された、すなわち派生的な単子(モナド)はその生産物としていわば神性の不断な電光放射(les fulgurations)によって刻々そこから生まれて来るものである。しかもこの創造された単子は、本質上有限な創造物の受容性のために制限を受けている」という宇宙像を描くにいたった。

この比喩が美しい。電光放射は「創造された凡ての物がその各(おのおの)に対して、また各が他の凡てに対して持つこの連結もしくは適応によって、単純な実態はそれぞれ他の凡ての実態を表出する関係を持つ」という「予定調和」のコスモスを一瞬のうちに照らしだす。それは検索によって瞬時に全世界のインターネット空間をスキャン(走査)するグーグルの本質を言いあてた表現である。ライプニッツが呼ぶ「宇宙の永久な活きた鏡」こそ、梅田氏の目に映ったグーグル像に酷似している。

だが、ディスプレーの彼方で明滅している21世紀の「宇宙の鏡」は、けっして寡欲ではない。むしろその放射によって、検索という出会いが実は計算上の出会いにすぎず、「こちら側」の出会い――FACTA(事実)とは遊離した空中楼閣であることを隠してしまう。そのあいだユーザーは泳がせられ、お布施を献上させられる仕組みだ。それがグーグルの本質なら、出会いを永遠に遅延しつづけ、ポイントを浪費させて法外な請求書を送りつける出会い系サイトとどこが違うのだろう。

「Gメール」をご存じだろうか。2004年3月31日、グーグルが発表した無料電子メールサービスである。電子メールを保存するためのスペースとして、ユーザー1人あたり1ギガバイトという当時としては巨大なストレージを無償提供するというショッキングな内容だったものだから、関係者は「1日早いエープリルフールか」と目をむいた。その画期的な意味を梅田氏はこう書いている。



私たち1人1人がネットの「こちら側」(つまりPCのハードディスクの中)で保存している電子メールをすべて「あちら側」に移してしまおう、というのがグーグルの意図するところである。(中略)情報が「こちら側」から「あちら側」に移りさえすれば、グーグルは自分の土俵で相撲が取れる。情報発電所の機能を増強することで、さまざまな新しいサービスを自在に付加できるからである。



なるほど、Gメールのユーザーは過去の電子メールの内容を高速検索でき、スパム(迷惑)メールの除去、ウイルスの駆除も「あちら側」に用意してもらえる。いいことずくめのサービスを無償提供するかわりに、グーグルは個々人のメールの内容を自動的に判断し、最適な広告へのリンクを電子メールに挿入する。コロンブスの卵のようなビジネスモデルである。案の定、私信を覗かれてメールにひょいと広告を入れられるなんて「プライバシーの侵害」だという批判が起きた。が、グーグルは「人が覗くのではない。コンピューターが自動的に処理するのだから侵害にあたらない」と平然としている。ただ、問題はそれにとどまらない。

もし電子メールをすべて「あちら側」に移行させるとなると、他のプロバイダー(ネット接続業者)は壊滅するだろう。ヤフーなどの大手ポータルサイトも軒並み食い荒らされ、コミュニティ型ウェブサイトである「mixi」や「GREE」などSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)も、グーグルの「Orkut」以外は呑み込まれてしまうだろう。Gメールは、寡占または独占の出現を用意する「最終兵器」かもしれない。

R30氏が喝破したように、グーグルは「ひとりシリコンバレー」であるとともに、「ひとりプロバイダー」、「ひとりSNS」、「ひとりCGM(Consumer Generating Media、消費者創出型メディア)」等々になろうとしているかに見える。さすがにこれは競争条件の破壊だろう。

プライバシー侵害への反発を克服できないせいか、Gメールは発表から2年を迎えようとしているのに、いまだ試験走行中である。グーグル創業者2人の夢が反市場、反資本主義とさえ言えるからだ。株価乱高下のなかで、配当を考えなければいけないCEOやCFOら経営陣から「待った」がかかっているのではないか。グーグルが米証券取引委員会(SEC)のファイリングで公開していた「成長鈍化」の見通しは誤開示として撤回してしまった。8日には「必要以上にネット広告料金を支払った」という広告主によるクリック詐欺訴訟で、最大9000万ドルを負担する和解案に同意したとのニュースも流れた。矢継ぎ早である。

明らかにグーグルのビジネスモデルは変調をきたしている。梅田氏のような手放しの礼賛は、冷徹な株式市場とギャップが広がるばかりである。

ウェブ進化論7――出会い系の「冬ソナ」債鬼編

創刊前の編集長が出会い系なぞにウツツを抜かしている、と誤解されそうだから書いておく。有料ポイントの金を払って、体当たりで出会い系サイトの実験をしてくれたのは、私の知人であって私ではない。編集長が隠れてそんな隠微なことをしていたら、いくらなんでも同志の宮嶋君や小島君、それに「ときどき代行」の和田さんたち女性スタッフが許してくれない。ネットの「あちら側」がいかにしてカネをまきあげるか、という実験です。

さて、自称「美紀」さんとのデートは、直前に「大至急」のメールが入った。追加ポイント代3000円を払って、メールをのぞいてみると「今日でしたっけ?」とおとぼけ。ああ、まただまされた!君のような人とお会いしようと言うのが間違いだったんだ、とホゾをかむ。けれど、「じゃぁ、バイバイ!」と書こうものなら「規約」違反になる。「相手の女性の自尊心を著しく傷つけた場合は制裁ポイント500!」。こういうところだけハラスメントには厳しい。トホホである。

それを思い出すとコワモテもできない。このままずるずるポイント代を稼がれるのもシャクだから、「ちょっと用事が出来てしまったので、すみません」くらいに言い逃れて逃げようとする。「え?どういうこと?」ときて、そのメールを開けると、ドーン!とポイント追加。どうしたってまきあげられる「キャッチ22」の陥穽になっているのだ。

それなら、いっそ相手と会おうと思ってランデブー場所に出かけると、いくら待っても来やしない。で、再びネットにアクセスすると、例の「大至急!」というメール。何事かと思って、クリックすると「ポイントが足りません」。おかしいなと思ってトップページに帰ってポイントをチェックすると、さっきまで300ポイント(一通のメールを読むのに15ポイント、発信するのに30ポイント)あったはずなのに、10ポイントほどに減っている。もっとひどい場合は60ポイント以上あると表示されていても、メールが出せない。

やむなく「ポイントが足りません」というページに行って、ポイント追加をクリックすると、いつものポイント追加(銀行振り込み、カード、ビットキャッシュ)の画面は表示されずにメールの本文が表示される。で、5分もしない間にポイント貸し付けのメールがやってくるという状態になる。どういう文面かというと、



xxxxxxxxx様
ポイントの貸付処理を完了しました。
現在のポイントは513ポイントです。
貸付致しました800ポイント分の料金8000円を本日06年02月x日x時x分より3日以内に下記の口座にお振り込み下さい。
MTU銀行
田無駅前支店
普通xxxxxxx
オオムラタツヤ
※お振込の際には必ず振込人の欄にお客様ID番号【yyyyyyy】を記入して下さい。(英数字切替ボタンを押すと数字が入力できます)



さて自称「美紀」さんはどうなったか。追加ポイント支払いの請求なぞ知らんぷり、相変わらずランデブーの場所や時間を変更したりとのらりくらりである。

「わかりました。こちらからお誘いしたのでお食事くらいはご馳走させてくださいね。明日の午前中にメールもらえますか?」
「連絡。今日中にくれませんか?」
「先に会う約束をしてしまう方が早そうですね!でも待ち合わせ初めてでなかなかわからないけどどうしますか?貴方の指示してくれた場所にいきますよ!」

まさにすれ違いの「冬ソナ」である。「美紀」とは永遠の「君の名は」なのだ。かつてのテレビ番組「マックス・ヘッドルーム」のように、彼女は「あちら側」にいるだけで「こちら側」に降臨することがない「幻影」なのだ。このラビリンス(迷宮)でいたずらにポイントが消費されていく。そろそろ踏ん切りをつける時だろう。こう書いて連絡を絶った。

「おかしくないですか???明日、お会いする約束を今日の昼にしたじゃないですか??信用を失いました。さようなら。もちろん明日の件はなしです。では」

もちろん、こうなると敵は夜叉の顔の「債鬼」に変身する。こんなメールが届いて凄むのだ。

2006年02月x日に契約されたポイント購入代金のお振込みの確認が末だに取れておりません。このまま放置しますと選任弁護士を通じ法的処置に着手します。後払決済契約ポイント購入代金(8000円)を大早急にお振込み下さい。行き違いでお振込済の際はご容赦願います。

そのまま放っておくと、悪質な消費者金融の取り立てみたいになってくる。

xxxxxxxxxxの携帯電話から2006年02月x日に契約されたポイント購入代金のお振込みの確認が末だに取れておりません。貴殿の行為は契約不履行です。後払決済契約ポイント購入代金(8000円)を即刻お振込下さい。ご入金無き場合、誠に残念ですが当債権を回収専門業者に業務委託する手続きに移行します。

振込み先はいずれも「オオムラタツヤ」名義のMTU銀行田無駅前支店の実在の口座である(ここでは口座番号だけ伏せた)。MTU銀行の田無駅前支店長、および同行コンプライアンス部門に告ぐ。調べてごらんなさい。上記名義の口座は出会い系サイトに使われているから、閉鎖しないと恥をかきますよ。「お堅い銀行」の看板がアダルトに利用されているばかりか、顧客の身元確認がルーズだということまで、金融庁監督局の目にとまりますから。

ダイヤルQ2育ちのビット・バレー族がつくる「あちら側」の実像はここにある。出会い系は永遠に出会えない。「あちら側」の究極は、ひたすらマシン相手に出会いを夢見るどうどうめぐりである。グーグルの化粧板でいくら飾っても、この自分の尾を飲みこもうとするウロボロスの蛇は隠せないのではないか。