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余秋雨「文化苦旅」5――酔っ払いの墓碑
恋と同じで、酒にも盛衰というか、ピークと下り坂がある。このところ、めっきりメートルのあがった知人がいて、落ち目の私なんぞはついていけない。酔態ひとつ見せず、長い夜にも背筋をぴんと伸ばして動じない。つくづく酒は体力だと思う。だが、もっと屈託する酒もあって、白居易ら酒豪詩人の多くは、やり場のない欝志を酒に託していたのだろう。
余秋雨がどれだけ酒を飲めるのかは知らない。でも、「文化苦旅」で私がもっとも好きな一編を挙げろ、と言われたら、迷わず「酒公の墓」を挙げたい。「酒公」と号するからには、故人はへべれけの酔っ払いだったのだろう。生前に頼まれて、余愁雨は「破天荒にも」はじめて墓碑を書いたという。
墓碑銘といえば、私の脳裏に浮かぶ風景はただひとつ。アイルランドのスライゴーを訪れた時だ。晩秋の荒涼とした無人の墓地で見た詩人イェーツの墓である。ああ、これがあの有名な墓碑かと思って、しげしげと眺めた記憶がある。
Cast a cold eye on life, on death, horseman pass by!
(生と死に、冷ややかな一瞥を投げ、馬上の人よ、過ぎ去れ!)
それを見てから考えを改めた。墓碑を一箇の文学にしていた伝統がかつては確かに実在し、けれども今は壊れて跡形もないのだ、と。英米の新聞には「Obituary」と題する評伝的な死亡記事があり、そこに墓碑の精神がなお脈々と流れているが、それに匹敵するような名文の追悼記は日本の新聞ではめったに拝めない。ニューヨーク・タイムズでもザ・タイムズでも、社内でいちばんの文章の達人がこの「Obituary」担当を命ぜられるのだ。
鴎外の史伝を見る限り、江戸や明治にはまだ漢学の素養が生きていて、すらすらと碑文を書ける人はいくらもいた。それが文人たるものの心得であり、また商売のタネでもあった。だが、今の日本で墓碑を頼まれて、二つ返事で応じることのできる文人はどれだけいるのだろう。戦後、すでに払底していたことは、全国に残る忠魂碑の愚劣な碑文が証明している。お手本を下敷きにしたことが明らかで、真率な独創がどこにもない。これもまた大戦に敗れた理由だろう。
だが、余秋雨は書けるのだ。「酒公の墓」は、現代中国が望みうる究極の「Obituary」だろう。碑銘は「酒公張先生之墓」の7字だけ。号と姓だけで名がない。それは故人が無名無用の人であり、もうひとりの阿Qだったことを暗示しているかに思える。
酒公が生まれたのは、浙江省寧波(ニンポー)の西南にある霊山、四明山の連なる低い山脈の一角である。宋の時代、そこで張という名の英才がいて科挙の試験で一番(状元)になった。その子孫は代々それを自慢にしてきたが、清末には村に字の読める人がいなくなるほど零落してしまった。が、このままでは状元の墓に申し訳が立たないと、張家の寡婦は休まず働いて息子の張老を、遠く離れた私塾に通わせた。
張老は勉学に励んだが、学業半ばで上海へ出て、商売に転じて蓄財に成功した。が、それだけでは状元の子孫の面目は立たない。そこで20世紀とともに誕生した一人息子にすべてを託し、中学を修了してからアメリカに留学させた。これが青年時代の酒公である。たまたま、胡適之が英語で書いた論文を読んで、論理学(先秦邏輯)の専攻とする。あいまいな中国の思考を論理化して国を救おうという志だった。
が、1920年代、帰国した彼を受け入れる素地が中国にはなかった。論理学の講座を持つ夢を一蹴され、しがない英語の教師の口しかない。が、状元の子孫という評判が上海の文人サロンにとどいて売れっ子になる。スノッブを演じること、つまり論理にお別れすることが、いまは論理にかなうことだった。
ところが、父、張老の死で彼の運命は一変する。郷里に帰って立派な葬儀で父を状元墓のかたわらに葬ったが、青幇(ちんぱん)ギャングの陳親分が現れて、箔つけに彼を師爺(書記係の師匠)に仕立てようとさらっていく。以来、陳親分の告示や書簡は秀麗な書法で書かれるようになった。が、意に染まぬ仕事に、張師爺はヤケ酒を重ね、ついに酒豪となってしまう。
だが、酒とて慰めにはならない。3度も脱走を試み、いずれも連れ戻された。4度目に捕まったとき、懲らしめに足腰が立たないほど痛めつけられてから青幇を追い出された。それきり行方知れずになったが、上海で細々と生きていた。足が不自由では働くのも億劫で、親の遺産はたちまち食いつぶす。
1949年に中国共産党が政権を取り、青幇の陳親分が追放されて、やっと故郷に帰ることができた。村では代書屋を営み、8つ年上の寡婦を嫁にもらう。ところが、酒に酔って「東風は西風を圧倒する」と書くべきところを「西風は東風を圧倒する」と書いてしまい、たちまち右派のレッテルを張られる。妻は彼のもとを去った。
4年後、やっと冤を雪(すす)ぎ、県の中学校で英語を教える職にありついた。県下で英語ができるのは彼1人だったのだ。アルファベットも知らない中学生を5カ月で大学受験レベルに引き上げるという無理難題だったが、4週目でつまずいた。テキストにWe all love Chairman Maoという一文があって、黒板に愛は人のいのちなりと書いたのだ。
教室の空気ががらりと変わる。女学生は真っ赤になってうつむき、男子学生はしかめ面で呆然と目を泳がせる。誰かが噴きだした。「笑い声が一段と高くなって、四十いくつかの若い口がすべて大きく開いて震え、耳を聾せんばかりに、彼を笑い、黒板を笑い、愛を笑った」。酒公は立ちすくみ、そそくさと中学校を去る。
ふたたび村に帰って代筆業をはじめたが、星の悪い彼のもとに結婚の祝辞などの注文は来ない。彼が書けるのはただひとつ、墓碑だけだった。状元墓のある山は風水では埋葬にいいとされ、山は墓で埋めつくされた。大半が酒公の手跡になる。
彼の字は柳公権を骨格にし、蘇東坡を肌に持ち、力強く円熟した、端正かつ活発なものなので、ひときわ人目をひきつけた。他郷からの旅行者は、この山を訪ねても、湖や山の景色をよそに、茂った木々や野の花々を打っちゃり、警告に流れる滝をそっちのけに、山のこの墓碑の一つ一つを愛でるのだった。
碑を書くときの報酬は、酒と肴だった。近隣に酒豪の評判が轟き、彼に「酒公」のあだ名がつく。余秋雨が墓だらけの山にふらりと立ち寄ったのはそのころである。「山一面のすばらしい書法に目を見張った。張先生の出自を聞いてから、再び山上の墓碑の間をさまよった」。それが酒公の墓碑を書く機縁になったのである。
北海道新聞は死んだか
熊本日日新聞(熊日)の日曜コラム「論壇」に月1回のペースで寄稿している。昨年12月にはこのブログの初回のテーマと同じ「ソニーを蝕むウイルス」を載せた。正月は特別紙面建てでお休みとなり、2月5日掲載の順番が回ってきた。熊日に遠慮して5日あけたから、もうここに載せてもいいだろう。
南と北で地域が違うとはいえ、同じ地方紙の報道への問いかけだから、掲載してくれた熊日の勇気に感謝する。見出しは「調査報道の復権を」だが、読めばおわかりの通り、北海道新聞または調査報道そのものに「死んだか」と問いかけるのがテーマである。
割愛した道新編集局長の名を復活させるなど、熊日版とはわずかな異同がある。これは「最後から二番目のバージョン」と言っていい。
ときどき、そのメダルを手にのせてみる。18Kだから少し重い。表に「賞」と「日本新聞協会」とある。古巣の新聞社で連載した企画が1994年に協会賞を受賞した際、取材チームの一員としてもらった。本物は一枚だけで会社に飾ってあり、本物と同じ仕様で銀座和光でつくらせたレプリカ(複製)が個々の記者に配られた。
自慢と思われるから誰にも見せない。自分より優れた取材力、文章力、統率力に恵まれながら、受賞の機を得られなかった記者は星の数ほどもいる。よほど自分は幸運だったと思うしかない。でも、ささやかな人生の誇りとしてきた。
それから10年。2004年の協会賞(編集部門)の一つは、北海道新聞(道新)の「北海道警裏金疑惑」の調査報道に与えられた。03年11月から600本以上の記事を載せ、ついに道警本部長が道議会で裏金の一部を認め、全国の警察の「裏金」問題に飛び火するきっかけとなった。私個人は記者として雌伏を余儀なくされていた時期であり、遠くから声援を送るほかなかったが、記者魂ここにありを示す立派な追及だったと思う。
多少とも新聞業界の事情に通じていれば、地方権力の頂点である警察を、地方ブロック紙の雄が追い詰める戦いが困難なことはすぐわかる。むしろ地方紙と県警が癒着してしまう例のほうが多いのだ。北海道新聞は1996年にも「道庁公費乱用問題」の追及で協会賞を受賞しており、調査報道の伝統が生きている数少ない地方紙だった。
しかし落胆した。この1月14日、道新は第一面に「おわび」の社告を掲載した。昨年3月に報じた「道警と函館税関の『泳がせ捜査』失敗の疑い」の記事について、道警から事実無根との抗議を受け、編集局幹部による調査の結果、「記事の書き方や見出し、裏づけ要素に不十分な点があり、全体として誤った印象を与える不適切な記事と判断し」たという。
社内調査の結果は別ページで掲載している。覚せい剤取締法違反で有罪が確定し服役中の元道警警部が、自分の公判で読み上げた上申書が発端だったことが分かる。裏金疑惑で警察の内部告発者になった元釧路方面本部長の著書にもこの元警部の私信への言及があり、複数の捜査関係者にあたって「矛盾しない証言」が得られたので記事を掲載したという。
しかし、社内調査によると、これら捜査関係者の「証言の多くは伝聞に基づく」もので、麻薬特例報に基づいた組織的な泳がせ捜査が行われたとの「確証は得られなかった」という。しかし一方で「泳がせ捜査がなかったという確証も得られませんでした」という奇妙な結論である。取材が不十分なら、社内調査も不十分というほかなく、「全体として誤った印象」というあいまいな結果に「おわび」はおかしい。
事情を知らないと思っちゃ困る。裏金疑惑報道後、警察の恥部をさらした報道への“みせしめ”に、道警は陰に陽に道新を締め出してきたではないか。会見や懇談から道新記者を外し、事件などのネタは他社に流したから、この一年半の道新は特オチ(特ダネの逆)の連続だった。嘆かわしいのは道新のシェアを食おうと、一部の全国紙など他紙が迎合したかに見えることである。通信社は何をしていたのか。どこもこの異常事態を書かない。
道新の新蔵博雅編集局長に問う。この奇妙な「おわび」社告が、道警に白旗を掲げたものでないことを証明しなければならない。裏金報道は日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞、菊池寛賞も受賞している。道警と“和睦”がなって警察取材が正常化したとしても、当時の取材班の首を差し出して賞に泥を塗ったら、新聞の自殺ではないか。
これは地方紙の危機でもある。友人の編集者、下山進氏がコロンビア大学に留学して書いた「アメリカ・ジャーナリズム」(丸善ライブラリー)を思い出す。九一年に調査報道でピューリッツア賞を受賞した地方紙が、なぜ二ヵ月後に取材班を解散、調査報道をやめたかが書いてある。資本の論理に忠実な「USAトゥデー」のような薄味の全国紙に食われて地方紙の地域独占が揺らぎ、リスクと費用のかかる調査報道が捨てられたのだ。
いまの日本の新聞は、読者数が頭打ちとなり。全体の数字から見ると広告媒体として弱体化の傾向となっている。「権力に挑む」などと格好をつけられなくなった新聞経営者にとって、摩擦の多い調査報道がお荷物になってきたのではないか。
調査報道は死んだのか?協会賞のメダルはそう問いかける。否、と答えたい。保身に汲々としない記者魂が、きっと新聞を復権させる、と。
2月5日の30周年記念日
「2・5会」という会合がある。1976年2月5日を記念して、毎年2月5日に一同結集する会である。曜日の都合で、それが今年は2月8日、つまり昨夜になった。
しかしその日付を言っても、何が起きたか覚えている人は少なくなった。私は忘れない。すくなくとも生涯一記者の原点となった日である。アメリカの上院外交委員会(チャーチ委員会)で、故田中角栄首相の逮捕などにつながるロッキード事件の端緒となった賄賂の話が飛び出した日なのだ。あの日は一瞬、きょとんとして、それからは地獄だった。
私は入社3年目で、国税庁記者クラブの最年少記者。右も左も分からぬまま、夜討ち朝駆けの日々に突入し、国税の方々には、ま、一言で言えばご迷惑をおかけしました。最前線で指揮をとる東京国税局長だった磯辺律男氏(その後、国税庁長官、博報堂社長から会長を歴任)を囲む会というのが「2・5会」である。
当時、最年少ということはいまだに最年少である。現役を退いて悠々自適の方もいらっしゃるが、まだ報道第一線にしがみつこうとしている私なんかは、往生際が悪いと言うべきだろう。とにかく主賓、磯辺氏のあとの乾杯の音頭は、なぜか最年少の私がやらされた。その後のみなさんのスピーチは孫の話や病の話、そして老父・老母の介護の話が多かったが、やはりもとはみんな「事件屋」。ついついライブドアの話になる。
たまたま隣あわせたのが磯辺氏本人だったから、つい聞いてみたら、やはり手厳しい感想が返ってきた。「ホリエモンって、やっぱり小泉政治の申し子だと思う」。いくら人物を見抜けなかったことに不徳のいたすところと恭順の意を見せても、日枝久フジテレビ会長を虚仮にした奇襲を是とし、あのあっけらかんとした拝金主義をあおり、、ワン・フレーズ政治で若い世代に勘違いさせたことは、罪万死に値するということらしい。
かつては毎日新聞社会部の重鎮で、いまはスポニチ専務の田中正延氏のあいさつがよかった。ヤフー系のブログで、「ロッキード30周年」について何か書けと言われているが、思い出すのは夜回り先の部屋の様子とか、そういうささいな記憶ばかり。「いま思えば茫々」と語ったが、それはまた私自身の感想でもある。
現在のスポニチは江東区越中島にあって、私も通りかかったことがあるが、ミラーガラスのモダンな建物だった。正延氏の話ではっと気づいたが、東スポも同じビルにあるそうだ。ということは、あのとき国税とともに追いかけした児玉譽士夫の秘書、太刀川恒夫氏の会社ではないか。ああ、因果はめぐる、か。
正延氏の当時の相棒が、いまはテレビ朝日「スーパーモーニング」でコメンテーターをつとめている元毎日の鳥越俊太郎氏だった。この日は娘さんのリサイタルがあるとかで出席できなかったが、事件のころはいまよりもっと長髪でえらくカッコマンだったのを覚えている。
隣にいた朝日新聞の常務(コンプライアンス担当)の小林泰宏氏が合の手を入れて「いやあ、なかなかスポーツ紙も大変。サッカーのファンをつかみきれていないのも苦戦の理由の一つだが、やっぱり若い人の活字離れが大きいなあ」とため息をついていた。
でも、あの「言葉はチカラです」のコマーシャルはインパクトがありますよと評価したら、にっと笑う。広告担当は昨年の不祥事のあとだからと腰が引けていたのをあえてやらせたのだという。「理想って馬鹿にされてるけど、それがなければ何もできない」
という具合で、最後は、すいすいお酒を飲んでいた磯辺氏の夫人、啓子さんに言われました。「アベちゃんて、ちっとも変わらないのねえ」。でも、あのロッキード事件当時のご主人より実は、今の私のほうが年上です、と告白するほかなかった。
病んで欠席されたり、物故されたりの人が、年々2・5会リストに増えてきた。しかし「事件屋」の繰り言でも、とにかく青春を“浪費”したあの日々は、常に私のジャーナリストとしての出発点であったと、いま改めて思う。
余秋雨「文化苦旅」4――敦煌千仏洞の「阿Q」
敦煌の仏教遺跡、莫高窟に、たったひとつ場違いな道士の墓が立っている。「文化苦旅」の冒頭に書かれたこの道士の生涯のスケッチは、悲しいまでに「阿Q」に似ている、と前回書いた。魯迅の「阿Q正伝」を読んでいない人、読んだが忘れてしまった人のために説明すると、姓名も原籍も定かでなく、行状すらもはっきりしない無用の人の伝記なのだ。魯迅の苛烈な筆はそれをこう書く(竹内好訳)。
阿Qには家がなく、未荘(ウェイチワン)の土地廟に住んでいた。きまった職もなく、日傭(ひやと)いとして、やれ麦を刈れ、やれ米をつけ、やれ船をこげ、言われるとおりの仕事をした。仕事が長引くときは、その時その時の主人の家に寝泊りするが、終わればすぐ帰された。そのため人は、手が足りなくなると阿Qのことを思い出すが、思い出すのは仕事をさせることで、「行状」のことではなかった。
阿Qは自尊心が強く、辮髪(べんぱつ)を切ってザンギリ頭になった洋行帰りの銭旦那の長男が嫌いだ。この長男、洋式学校へ行って後は日本へ留学したというから、魯迅の戯画化した自画像でもあるのだろう。阿Qは彼を「にせ毛唐」と呼んで軽蔑し、杖でしたたか殴られる。それでも阿Qは目を剥いて「おいらは、むかしは――おめえなんかより、ずっと偉かったんだぞ。おめえなんか、なんだってんだ!」と咆哮するような男だ。
それが1911年の辛亥革命で清朝が倒れ、阿Qも尻馬に乗ろうと思い、「革命党」のにせ毛唐に近づこうとして追い払われる。それどころか、革命シンパの家を襲った強盗の一味とみなされて、字の書けない阿Qはマルを書くしかない。わけもわからず、喪服そっくりの袖なしの白服を着せられ、幌なしの車で街中を引き回される。しまった、これは処刑だ、と悟るがもう遅い。銃砲をかついだ兵士と、物見高い群集が彼を待っている。
ヤケになって「20年すれば生まれ変わって男一匹」と引かれ者の小唄を口ずさむ。「いいぞっ!」と声がかかる。が、阿Qの目に彼らは狼の群れとしか映らない。「この眼たちは、すっとひとつに合体したかと思うと、もうかれの魂にかみついていた。『助けて……』」。阿Qこそ衰微した往時の中国、その救いようのなさを象徴する寓意的存在なのだ。
莫高窟に葬られた道士も「無用の人」の出である。阿Qと違って名は残ったが、「布製の綿入れを着て、目はぼんやりとし、おろおろしている」という湖北の農民の姿は、村の祠(土地廟)に住み着いている阿Qと何ほども変わらない。阿Qと違うのは、飢饉を逃れて甘粛にたどりついて道士になったことくらいである。余秋雨はこの漂泊の道士が、敦煌郊外の千仏洞で過ごした日常を想像してみる。
王道士は毎日、夜が明けないうちに起きる。農夫が我が家の庭を見まわると同じように、洞窟を散策するのが好きなようだ。彼は洞窟の中の壁画にいささか不満を持っている。薄暗く、目が霞んでいてよく見えない。ちょっと明るくすればいいだろう。そこで助っ人を二人探し出し、石灰を桶いっぱいに持ってこさせた。草で縛った刷毛に長い棒をつけ、石灰をつけて塗りはじめる。一回目の石灰塗りは薄いせいか、あざやかな色はまだかすかに見えた。農夫はやればとことんまでの気らしく、まじめにもう一遍、壁をていねいに塗った。この辺は空気が乾燥しているから、まもなく石灰がカラカラに乾いてしまった。唐代の笑顔、宋代の衣冠はもう何もかも消えた。洞窟の中は真っ白である。道士は手の甲で汗を拭って無邪気に笑い、ついでに石灰の値段を聞いた。
まさに文化破壊である。王道士は、値が張るので塗りつぶしは数窟でとどめたが、今度は中座の塑像が気になった。「彼女たちのあだっぽい姿態が仰々しく、その微笑みが、ちと眩しい」と金槌を振るったのだ。妖艶な姿態はあっという間に破片と化し、優美な微笑は泥に散る。かわりに道教の天師と霊官の陳腐な白像を据えてしまう。余秋雨はそこまで想像して思わず「やめろ!」と叫ぶ。
王道士はある朝、洞窟の奥の壁の割れ目から、おびただしい経巻をみつけた。世界を驚嘆させる門戸を開いた瞬間だったが、無学な彼は何ひとつわからない。県城に行くついでに数巻を携えて県長に見せたが、役人たちは辺境から省都に運ぶ隊商の費用を惜しんで放っておいた。祖国の遺産を守ることなどちらりとも頭をかすめず、ただ役人同士の贈答品にもっと持ってこさせろと命じただけだった。
だが、虎視眈々と中央アジアをうかがう西欧の探検家や学者たち――宝物簒奪(さんだつ)のインディ・ジョーンズの先祖たちが評判を聞きつける。夜を日に継いで万里の道を踏破し、彼らは敦煌へと急いだ。洞窟の前には煉瓦が積まれて施錠され、鍵は王道士の腰紐にぶら下がっていた。貧しく愚かな道士は、わずかな銀貨であっさり取引に応じる。
1905年にはロシア人オグデンブルグ、1907年にはハンガリー人スタイン、1908年にはフランス人ぺリオ、そして1911年には日本人吉川小一郎と合流した西本願寺の橘瑞超(大谷探検隊第三次西域遠征)が、ほくほく顔で膨大な経巻の写本や文書、絵画や彫塑像などをペテルブルクに、ロンドンに、パリに、京都に持ち帰った。みな中央アジア探検・研究史に名を残すヒーローたちだが、中国から見れば未開の民をだます悪辣な異人でしかない。とりわけ、「コータンの廃墟」で知られるオーレル・スタインに余秋雨は厳しい。
現にスタインは、自分は唐僧を崇拝し、今度は唐層の足跡に沿って、逆方向にインドから中国に取経に来た、などと言って彼(王道士)を騙し込んだ。外人の唐僧なら持ち帰りなさいとばかり、王道士は気前よく洞窟の門を開け放った。ここでは外交辞令が一切無用であり、口からでまかせの童話さえこしらえれば十分だった。
余秋雨がこの嘘を許せないのは、彼自身が「千年一嘆」で中東経由インド、ネパールからカラコルムに入る旅を経験したからだろう。魯迅が評論集「墳」に収めた「摩羅詩力説」で、バイロンやプーシキンなどの反骨の詩人の系譜にハンガリー詩人ペテーフィを列したことを、魯迅を研究した余は念頭に思い浮かべたかもしれない。
おびただしい経巻を積んで去っていく牛車隊への怨嗟。それをぺこぺこお辞儀しながら見送る道士。その想像裏の光景に、余は語りかける。「君たち(中国人)には研究する力がない、と彼ら(西欧人)は言うかもしれない。それなら、学問を比べてみよう、どこか場所を探して」。けれども、もし道士が慧眼の士で、異人に敦煌文書売らなかったとしたらどうだろう。暗愚で強欲な清末の役人たちはネコババに走り、やはり散逸を免れなかったろう、と余は認めざるをえない。
かくて、「敦煌の阿Q」である王道士の「無意識の売国」ゆえに、現代中国の敦煌研究者たちはいまだに悔しさをこらえて海外で敦煌文献のマイクロフィルムを買い、孜々として研究を重ねているのだ。
余秋雨「文化苦旅」3――中国人は多すぎる
もういちど言う。余秋雨の「文化苦旅」は半端な教養では歯が立たない。彼が多く紀行エッセイを書いていることから、司馬遼太郎の「街道をゆく」を連想し、「中国の司馬遼太郎」と紹介する出版社の売り口上にも首をかしげたくなる。教養の深さは司馬より格上だろうし、だいいち両人に失礼だと思う。
司馬ファンには申し訳ないが、「街道をゆく」はときに読むに耐えない。海外の紀行など、事前のお勉強をなぞっているだけで、行く必然性が感じられないものがあるからだ。「愛蘭土紀行」などがその例で、この程度の一口知識で感心してはいけないと思う。
たとえば、生前の司馬がアメリカの言語学者エドワード・サピアを引用して、さまになることが言えたろうか。余秋雨は「中国語コンプレックス」のなかでさらりと引用して不自然ではない。1946年生まれ、文化大革命で辛酸を舐めた世代だけに、これは驚くべきことと思える。サピアの名著「言語」第10章の章末からのこういう引用である(楊晶訳)。
言語は我々の知る限り、もっとも広大かつ該博な芸術であり、世代世代で無意識のうちに創造された無名氏の作品であり、山岳のごとく偉大なものである。
言語学者には天才が多いが、この一文からもサピアの怜悧(れいり)が読みとれる。彼はリトアニア生まれのユダヤ系で、20世紀前半のコロンビア大学で頭角を現した。「菊と刀」の文化人類学者ルース・ベネディクトと同窓で交流があり、ふたりとも同性愛者だから恋人になりようもないが、いずれも詩を書く柔らかな感性の持ち主だった。余秋雨が感応したのは、そういう理と情の葛藤である。
余秋雨は「言語が山岳のように偉大だ」という言葉に惹かれた。「よくぞ言ってくれた。どの言語だろうと、二十世紀には山岳のように積み上げられないものはない。中国語は疑いもなく、深山幽谷の最たる巨岳の一つに違いない」と胸を張る。が、「廬山の真面目をば知らぬも、ただこの山に身をおくが縁なり」という蘇東坡の詩を引いて、山が大きすぎて踏み迷う中国人の不幸をも忘れない。
明清期に西欧と接してから、中国人の心情にねじれが生じ、「敏感、詮索、自尊、嘆息が入り混じって、切れ目のない霧のように、二つの言語の置き換えの間を漂っていた」という事情は、日本でも維新以来の150年で起きたことである。余が「文化漂泊者」と呼ぶ海外華人の「恋母コンプレックス」もまた、必ずしも中国固有でないのかもしれない。
薄々として、やきもきした、褒めたと思えば貶め、遠ざけては近づく矛盾した心理、あの自分でも気恥ずかしい思いをするかというと、いざ往かむとばかりに奮い立つような極端な動揺……
こういう屈折を何と呼ぼう。訳者の楊さんも苦心している。この機微が日本人に通じるかどうか、表現を考えあぐねている。だが、わかります。どこまでもつきまとうデジャヴュ(既視感)。木村拓哉が出演したウォン・カーウァイの映画「2049」のように、アンドロイドとともに超未来のエクスプレス列車に乗っていながら、場末の廃墟のようなホテルの一室に閉じこめられている感覚。明日も昨日と同じ徒労感。出発は永遠に訪れず。無名の人々がつくった深山幽谷の迷宮から、どうしても抜けられない。
そう、中国人は多すぎるのだ。
日本人の中国恐怖――気分としての「反中」「嫌中」は、中国のGDP(国内総生産)が日本に追いつくことよりも、むしろ日本人が中国人と見分けがつかなくなることにあるのではないか。現に自国語と外国語のあいだを揺れ動く屈託はもう見分けがつかない。無名の人々の蟻集する中国のデジャヴュに、日本はついに飲みこまれていくのだろうか。
余秋雨の呻吟が他人事でないのは、中国がいう「歴史」の重さに、中国自身の背骨が折れかかっているからである。中国は悲惨なほど古すぎるのだ。それがよく分かるのは「文化苦旅」の冒頭の章「道士塔」である。敦煌の莫高窟を材にして、これほど人を震撼させる名文はない。井上靖の「敦煌」や平山郁夫の絵など、シルクロード好きの日本人の甘ったれたロマンが絶対に見えないものを、余秋雨は見ている。
敦煌は仏教遺跡である。莫高窟の前には崩れかけた僧の円寂塔(ひょうたん形の墓)が波を打つように並んでいる。が、幼いときから周囲の老女があげる念仏を耳にして育ち、「般若心経」を暗誦している余秋雨の目は見逃さない。ひとつだけ仏教徒のものではない新しい墓があった。20世紀の清末の道教の士、王圓籙(おうえんろく)の墓だ。彼こそ莫高窟の神秘の扉をあけたのに、「敦煌石窟の罪人」として後世に悪名を残した人間である。
ぼくは彼の写真を見たことがある。布製の綿入れを着て、目はぼんやりとし、おろおろしている様子は、あの時代どこでも見かけるありふれた百姓のものだった。もともと湖北麻城の農民だった彼は、飢饉から逃れるため甘粛にたどりつき、道士になった。いくたの曲折を経て、莫高窟の主として、中国古代のもっとも燦然たる文化を牛耳ったことは、なんとも不幸なことだった。彼は、外国の冒険家から、わずかばかりの金と金目のものを握らされただけで、おびただしい敦煌文物を箱ごと持ち去るに任せた。
痛憤が伝わってくる。これは余秋雨の「阿Q正伝」なのだ。西欧の文化の略奪に、唯々諾々と応じたのが、平凡な中国の農民だったという現実。あの時代の貧しい辺境の地では、二束三文で貴重な古物を叩き売った愚劣を責めることもできない。
敦煌を訪れるおびただしい日本人観光客のなかで、この道士を埋葬した塔に気づいた人がいたろうか。やがてこの憤怒の序章が、二葉亭四迷の墓を書いた終章と、ちょうど鏡像のように向き合っているのに読者は気づかされる。
ネット愛国主義の胚11――バイとドール
「The Economist」はわれわれが創刊する雑誌のお手本だが、見出しがなかなか難解で、そのもじりがときに分からない。試しに英国人に聞いてみたら、彼らでもお手上げの時があるそうだ。昨年暮れ、つまり05年12月24日号(クリスマス・イヴ号)にもそんな見出しがあった。
Bayhing for blood or Doling out cash?
これに「知的財産」とヒントがついているが、見て分かった人はほとんどいないのではないか。「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルか、「フィネガンズ・ウエイク」のジェームズ・ジョイスばりの言葉遊びである。「Bay for」とは猟犬が獲物を追って吠え続けること、「Dole out」とは施しものを分け与えることを言う。それにアメリカの「バイ・ドール法」(Bayh Dole Act)――国費を投じて得た大学での研究成果を民間に技術移転して事業化を促す法律の名を引っ掛けたのだ。
「バイ・ドール法」はもちろん俗称で、1980年の成立時、超党派で提出した上院議員の代表者名――バーチ・バイ(Birch Bayh)とロバート・ドール(Robert Dole)の名から来ている。後者は1996年大統領選挙でクリントンに敗れた共和党候補だから日本でも知られているが、前者も二代つづけて上院議員という名門の出である。ちょっと珍しい姓で、イギリス人編集者の駄洒落ごころをそそるらしい。この見出し、柳瀬尚紀氏のように日本語の駄洒落で切り返す才能はないから、思い切って人名のもじりを切り捨てると、「ガツガツ貪るか、チビチビ配るか」くらいの意味だろう。
が、その文章が目を引く。「(大学の研究成果の事業化促進というバイ・ドール法の)アイデアは大学の懐を潤わせるのではなく、手付かずのままカビが生えていた研究成果を活性化させる理由を与えることだった。これは効いた。過去25年間で4500社以上の企業が、この法律制定の結果得た特許を元手にして、非営利研究機関からスピンアウトした」という。そこからMRI(核磁気共鳴映像)装置も、B型肝炎ワクチンも、原子力マイクロスコープも、グーグルの高度な検索機能も誕生したそうだ。いいことずくめのようだが、The Economistの記事は、ダークサイドに目を転じる。
それでも批判者の甲高い吠え声は、年々声高になってきた。多くの科学者、エコノミスト、法律家たちは、この法律が大学の使命を歪めてきたと信じている。拘束のない基礎知識の探求から、実践的かつ実業的な目的に沿った成果を得ようと焦点を絞った研究に方向を転じてしまったのだ。
ひとことで言えば、利に目がくらんでカネになる研究ばかり進め、基礎科学のような地味な学問は見捨てられているというのだ。アメリカの学問の府が、真理の中立的な審判からむしろビジネス機関に変貌したと指弾する。かつての「産学協同」路線批判と似ているが、現実に個々の研究者が特許権を得ようと競って囲い込みを図り、同学の研究者に手の内を見せまいとする「吝嗇」(りんしょく)に走りだしたことは、学の発展を害いかねない。
エモリー大学やジョージア工科大学の研究によると、大学や研究機関が許可したライセンスの4分の1以上に、事業のパートナーの意向によって研究論文から情報を消去する条項がついているという。また、公表を遅らせる条項を持つライセンスはほぼ半分に達している。大学と研究者の特許権やそのロイヤルティーをめぐる訴訟はざらなのだ。
すでに特許権で囲い込まれた分野では、他の研究者たちがトラブルを恐れて敬遠し、かえって競争が低下して研究が進まなくなるケースも出ている。悪名高いのはユタ大学のケースだろう。遺伝性乳がんをもたらす遺伝子に関する特許のライセンスを、ミリアド・ジェネティクスという企業に独占的に許可した結果、乳がん診断市場の独占を許した。皮肉にもユタ大学は、その後のフォローアップ研究(非営利目的)にライセンスを与えた技術を使ったため、当のミリアド社から訴えられる始末となった。
村の公有地(コモンズ)を蚕食して荘園を私有化した封建領主が、その地を単なる狩猟地にしか使わず、生産力の低迷から長期の経済停滞を招いたように、「知のコモンズ」の縮小と行き過ぎた事業化は、むしろ研究開発の停滞という副作用を持つ。ミシガン大学教授のへラーとアイゼンバーグの論文「アンチコモンズの悲劇」(1998年)は、いち早くその危険を指摘している。RNA干渉という新分野の旗手となり、東大の認可を得て「iGene」というベンチャー企業の役員となった多比良和誠教授の栄光と転落の軌跡も、「バイ・ドール法」が掘った落とし穴にまっすぐ通じていたのではないだろうか。
アメリカの大学や研究所は2004年だけでライセンス収入が合計13億9000万ドルに達し、1万件以上の特許が登録された。その“成功”を羨ましがって、日本やドイツは産学連携の制度化を相次いで実現したのだ。東北大の西澤昭夫教授(経済学研究科)が、そのイデオローグと言える存在だった。「日本版バイ・ドール」の旗を振り、東北大の技術移転機関「東北テクノアーツ」の創設にかかわって、05年にはアメリカの技術移転推進団体である米国大学技術管理者境界(AUTM)から「バイ・ドール賞」を受賞している。
だが、臆面もない「学問の商品化」は知的退嬰を招いたのではないか。多比良研究室が実験を再現できない論文をせっせと科学誌の権威ネイチャー誌に投稿し続けたのは、単なる名誉欲だけではなく、それによって遺伝子工学の最先端という虚像にカネが群がる構図を維持したかったからとも見える。多比良研究室が花形だったのは、産総研(旧工業技術院)の金づるを握り、自らの研究技術を事業化したベンチャー企業を持っていたからである。「学問の商品化」の典型であり、それを許してきた東大の小宮山宏総長(化学工学専攻)も、平尾公彦大学院工学系研究科長も、知らぬ顔はできないはずである。東大にも技術移転機関CASTI(先端科学技術インキュベーションセンター)があり、その売り込みの話はよく耳にするのだから。お買い得だよ、さあ、買った、買った、か。
ああ、工学部の罪。そういえば、官製談合で逮捕された防衛施設庁の河野孝義技術審議官も山口大学工学部出身である。技官人脈の狭い世界と、工学系研究者の狭い世界は酷似している。カネの匂いがすると、たちまち堕落が始まるのか。ある医師が言った。
「遺伝子工学?あんなもん、論文の8割はSFでしょう。実験だって定性的で、定量的なものは少ない。多比良研究室の問題論文は、それに乗じて空想を書いたものでしょう。どうせ誰も再実験なんて試みないとタカをくくっていた。ネイチャー誌の審査を通ってしまえばこっちのもん……と。相対性理論だって空想といえば空想。すぐ役に立つ発見なんてそう簡単にできるはずがない、というさめたニヒリズムを感じるな」
ネット愛国主義の胚10――知的退嬰の根源
このブログにいろいろな方の励ましをいただいた。お礼を申し上げます。「貴誌はきっと敵が多いでしょうけど。ホントにくれぐれも足元すくわれないようにね」との忠告もある。そう、ネット空間ではストーカーまがいの“刺客”がどこに隠れているかわからない。誰かがこのサイトを攻撃し、侵入を試みた形跡もあったそうだ。
このブログがトラックバックだけで、コメント機能を封じてあるのもガードの一種である。読者の批判に耳を貸さないつもりではないが、こちらは顔と名をさらしているだけ、匿名や偽名の暴力にさらされやすい。悪意のある「荒らし」から身を守る遮蔽幕が必要だ。それでもこのサイトには「お問い合わせ」のページがあり、ときにこんな書き込みがある。
前略御免下さいませ。私、研究者を子にもつ60代の母親でございます。昨年9月の多比良教授の報道までは平凡な生活を送っておりましたが、娘が産総研にいます事から、以降は手元のパソコンを時々開いて関連記事を追うようになりました。その中で阿部先生や柳田先生や2chタイラーズ記事等を目にし、心を痛める日々が始まりました。(中略)川崎さんは実際に精神科通院中だとか、私が彼の母親だったらと本当に胸が痛みますし、私の身近にもうつ病で苦しい生活を送っておられる方もいらっしゃいますので、病む人の生きる存在までも脅かしかねない事件なのかと疑念を抱く次第です。(中略)面白おかしく切れ味鋭く報道される反面で、傷つく人々もいる事も忘れずに、昔の日本にあった温かみのある血の通った記事、人を生かす記事を願う次第でございます。
名前と電話番号、メールのアドレスが書いてある。多比良研究室にいた研究者と同姓だった。これは抗議なのだろうか。一応、返事を書く義務を感じた。実験の真実が疑われている以上、それが証明できなければ、どれだけ本人が悩んでいて精神科に通っていようと、学者生命は絶たれる。そこに情の入る余地はなく、このブログは怨恨で書いているのではない、といった内容である。すぐ返事が来た。
ご多忙の中、早速の誠実なご返信に感謝いたします。
私は××の母親でございます。小さい時から明るく活発で他人思い、すごい頑張り屋だったあの子が、今こうして研究者の生命を絶たれようとしている、この現実をなかなか、 受け容れられなかった自分を恥ずかしく思います。
阿部様のおっしゃるとおりです。捏造体質の子を育てた親に大きな責任があります。真の意味で社会貢献できる賢明な社会人に更正できるよう、家族皆で苦悩しつつ考え、共に支え合いながら、今後を歩んで 参りたいと心が定まりました。
ピンと来た。事件取材でガセ(ニセ情報)にはさんざん苦い目を見たから、勘が働くのだ。こんな風にあっさり納得するのはいかがわしい。実の母親が「捏造体質の子」なんて書くだろうか。記入してある番号に電話してみたが、使用されていない番号だった。気持ちが悪い。なぜ他人になりすまそうとするのか。だいたい、60代でネット掲示板「2ちゃんねる」を丹念にのぞく人がいたとしたら、ちょっと寒い光景である。
無視したら、数日して馬脚を現した。いきなりとどいたメールに「独り言の悪夢物語『踊らされた東大』」とある。どこかからコピーしたとおぼしい文章。敵を喜ばせたくないから中身は引用しないが、要するに多比良教授を陥れたのは京都大学の学閥の謀略だとする典型的なコンスピラシー・セオリー(陰謀説)だった。
これは2ちゃんねらーのかかりやすいビョーキ、というか知的退嬰である。とても60代の悩める母親がやる仕業とは思えない。ひっかけてやろうという愉快犯の毛ずねがのぞいている。ふん、その手は食うものか。
こういう連中とつきあっている暇はない。前回、遺伝子工学の研究開発が、文字通り「医学」より「工学」的発想に染まり、「ビジネスの魔」に染まって倫理を忘れたのではないか、と書いた。日本医科大学の澤倫太郎講師の「医工連携」の言葉に触発されたものだ。
医工連携というより、医の換骨奪胎と言ったほうがいいのかもしれない。その根源はどこにあるのか。およそ四半世紀前の1980年、アメリカで制定された「バイ・ドール法」(1980年特許商標法修正法)である。その名は法案の提案者である民主党上院議員バーチ・バイとロバート・ドール(のちに共和党大統領候補)からとったものである。
内容を一口に言えば、連邦政府資金による研究開発から生じた発明は、その特許権などを民間企業や大学や非営利団体に帰属させることができるようにし、特許料収入を発明者や研究開発に還元することを義務づけたものだ。発明の事業化を促すことで、70年代に低下したアメリカ経済の国際競争力に活をいれようという狙いがあった。
この結果、アメリカの多くの大学では技術移転機関(TLO、Technology Licensing Organization)が設立され、連邦政府資金の援助を受けた研究成果が大学に帰属する特許になり、大学と企業間でライセンス契約して技術移転する道が開かれた。これによって新しいベンチャー企業が生まれ、米国経済は競争力を復活させたと言われている。
これを真似た「日本版バイ・ドール法」がある。産業活力再生特別措置法第30条で、長引く金融危機に業を煮やした小渕政権が、1999年6月に決まった産業競争力強化対策に日本版バイ・ドール法の制定が盛り込まれ、法案の閣議決定からわずか3カ月足らずの同年10月に施行されている。その中身は、政府資金を投じて行うすべての委託研究開発(特殊法人等を通じて行うものも含む)から生じる知的財産権は、以下の三つの条件を受託者が約す場合、100%受託企業に帰属させることを可能にするものだ。
(1)研究成果が得られた場合は国に報告する
(2)公益のために国に必要が生じた場合、その知的所有権を国に無償供与する
(3)知的所有権を相当期間利用していない場合、国の要請に基づいて第三者に実施許諾する
このどこにもチェック条項が盛られていない。金融危機脱出に「何でもあり」の小渕政権だっただけに、通産省(現経済産業省)主導で生まれたこの法案は、中身もアメリカの猿真似にすぎないなど粗っぽい。この法によって生じる大学の知的退嬰と倫理的退嬰をまるで考慮していなかったことが、多比良研究室のスキャンダルを発生させたと思える。
京大陰謀説は、ことの核心から世人の目をそらすだけなのだ。
ときどき代行1――私のビフォー・アフター
創刊準備を控えて、当ブログの書き手の阿部編集長がてんてこ舞いなので、ときどき代行してくれ、と頼まれました。きょうはその初舞台です。
でも、「締切りは5日後。あなたの文章力が問われます」といきなり言われたら、あなたならどうしますか。悩んだのは私だけでしょうか。先輩がたからは「根拠のない自信を持ちなさい」とか「映画の話題だけは絶対に勝てないのでやめなさい」とか、アドバイスをもらいました。ためになりました。
でも、私にとって月刊「FACTA」は聖なる媒体です。練習台に使うなど自分にも他人にも許せない。いや、そんな思い込みは危険かもしれない。それこそ統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)かもしれない。それに、ブログと雑誌は違う……などと、あれこれ悩んだ挙句、「ま、いいか。言い訳はやめよう」という結論に達しました。
きょうのトピックスは「私のビフォー・アフター」。たまたま、あるフリー(無料)マガジンに、「やんばる雑誌」という1ページのコラムがあって、月刊「FACTA」にスペースをあげるから、自分で宣伝文を書いてくださいと編集長が頼まれました。
このフリー・マガジンは大手出版取次の日販が出しているのですが、彼らにとって書店ルートで売られていない雑誌は、商売にならない“アウトサイダー”です。そういう雑誌に勝手に「やんばる雑誌」と命名しているのですが、めったにお目にかかれない天然記念物のヤンバルクイナをもじったものですから、編集長は「売れない珍品雑誌を連想させるなあ」とぶつぶつ言って引き受けたようです。
月刊「FACTA」も基本的には書店ルートに乗りません。その宣伝文を書くという役目が私に回ってきました。午後9時から午前3時までかかりました。内容は以下の通り。
プロの情報マンが情報交換する時、「確実な筋」と言われれば、情報源が誰であるかを詮索しないそうである。信頼すると決めたら、いちいち詮索しない、疑わない。世界を動かすような重要な情報は、そういうネットワークの中でだけやり取りされる。
日本のマスコミ界にも似たような世界が存在することを、会員制月刊誌「S」を通して知った。「一体どこからこんな情報を取って来るのか」とワクワクしながら読んだものだ。そんな同誌の全盛期を支え、数々の伝説を築いた最強のコンビ、阿部重夫と宮嶋巌が05年11月に出版社を設立、4月に経済総合誌を創刊する。
これで全文ではありませんが、編集長に提出したら2時間後、返ってきた原稿は以下の通り。
真実は安くない。
フリー(無料)マガジン誌上では失礼かもしれないが、タダで得られる情報は、しょせん広告や幻影であって、ホンモノではありえない。カラフルなグラビアに、一瞬目を楽しませて、あとは忘れられていく「消耗品の情報」である。
プロは情報交換する時、信じられる情報源しか相手にしない。ウソかホントかのグレーゾーンで、うろうろと付和雷同するのは素人である。それがデイトレーダーなら大損、生き馬の目を抜くビジネス界では致命傷、インターネット掲示板なら野次馬で終わる。
さわりだけですが、もはや原形をとどめないほどの大整形でした。でも、編集長は添削するのに2時間もかけた様子がなく、私の見る限りほとんど数分の作業だったはず。文章はさらにこう続きます。
月刊誌「FACTA」(4月20日創刊予定)はフリー・マガジンの逆をいく。一冊1000円、それも年間予約(12冊分、1万2000円)と高い。ワクワクするような情報は、思い切って万札をフンパツしないと買えない、と知る人のための雑誌である。
原則、書店では買えない。キオスクにもコンビニにも置いてない。読者の自宅に直接郵送されてくる。ぎりぎりまで肉薄した真実は、深窓の乙女のようなもの。街なかで気安く触れられないのだ。毎月、胸を躍らせながら封を切る楽しみは、ひとたびクセになったらやめられない。
私の言いたかったこと、そのまんまです。忘れられていく「消耗品の情報」と、「深窓の乙女のような」情報。そうそう。それが言いたかったのだ。今回は自己紹介も兼ねて2つの文章をコピー&ペーストしてみました。私の恥をさらすようだけれど、編集者をめざす人にとってはなかなか良い教材になるのではないかと思います。
ちなみに今回登場のフリー・マガジンは「さらてん」(サラリーマン天国の略)といいます。東京・新橋駅周辺だけで6~7万部も無料配布するそうです。確かに月刊「FACTA」とは究極のミスマッチかもしれませんが、手に取る機会があったらご覧になってください。
ライブドア崩落7――安しんかい?
「突破モンに『あれは自殺です』なんて断定されちゃなあ、逆効果でしょうが。かえって、きっと他殺だ、と信じた人が多かったんじゃないか」。誰かがそう言った。ライブドア出身のエイチ・エス証券副社長が沖縄で遂げた「不可解な死」について、コメンテーターとしてテレビに出演した「キツネ目の男」のことである。
それくらいなら、一場のお笑いですむ。しかし、週刊文春、週刊ポストと「他殺説」が花盛りになってきた。このブログでも「崩落3」で「沖縄の死」にいち早く疑問を呈したこともあって、アメリカの有力紙記者から電話がかかってきた。なんだかクロフツみたいな本格ミステリーの「密室殺人」を思わせる。
メディアによって棲み分けができたらしい。沖縄ミステリーに血相を変える雑誌やタブロイド紙、さらにネット掲示板の野次馬たちに対し、新聞など大手商業メディアはバッジ組の追跡に目の色を変えている。先週は「投資事業組合の出資者に政治家の名がある」という情報に色めきたち、口の軽い民主党議員たちが未確認の議員名を流したものだから、当の議員が事実無根といきりたつ場面まであった。
いくら隠れミノとはいえ、政治家が無防備にそんなところに名前をさらすだろうか、という疑問がわく。やはり、いくつかトンネルを組みあわせるのが常識で、そんな分かりやすい出資者リストが簡単に入手できたら、誰も苦労はしないだろうと思う。各メディアとも手持ちのネタを使い果たした段階なのだろうが、こういうときは、ワイルドな妄想で色をつけたような憶測が乱れ飛ぶ。
私自身には確認できないが、事実ならいちばんショッキングなのは、週刊ポストが報じた「(沖縄で死んだ)野口英昭氏は安晋会の若手理事」という報道だろう。
安晋会とは安倍晋三官房長官の事実上の後援会(政治団体の届出がなく、安倍事務所では「有志の親睦会」と説明している)である。週刊ポストの記事ではっとしたのは、東京大手町のパレスホテルで開かれた安晋会のパーティーで、野口氏はエイチ・エス証券の親会社である旅行代理店HISの「澤田秀雄会長と演壇にあがり、理事だと紹介されていた」というくだりだ。HISも澤田会長が安晋会会員で、野口氏とともに安倍氏のパーティーに出席していたことを認めている。
この接点は貴重に見える。名前の出方自体が、ライブドア事件の「政争」的側面を物語っているからだ。ライブドア強制捜索と同じ1月17日、耐震設計捏造疑惑で国会証人喚問されたヒューザーの小嶋進社長が、同じ安晋会に所属していることを証言、安倍氏の秘書に国土交通省への働きかけを頼んだとわざわざ口にしたことと妙に符丁があう。神妙な顔の小嶋社長がさんざん圧力をかけられて、窮鼠ネコを噛むような脅しのメッセージを安倍氏および首相官邸へ投げ返したとも思えるからだ。
ライブドアが昨年12月に業務提携した不動産会社ダイナシティをめぐって同じような人脈がうわさされているのも、ポスト小泉レースの最有力候補の足を引っ張る「政争」の一環なのだろうか。妙にきな臭いのが気になるが、メディアはこうした接点の真偽を丹念に追うべきではないか。
ライブドアがキューズネットやロイヤル信販の買収に投資事業組合を使い、エイチ・エス証券子会社「日本M&Aマネジメント」(JMAM)がそれを運営していて、野口氏が運用役だったらしいことはすでに知られている。だが、この投資事業組合という隠れミノ、かつての一部商銀信組や朝銀信組のようなマネーの「洗浄機関」に使われたカラクリと同じではないのか。
もうひとつ、週刊誌はせっかく記者を沖縄出張させたのだから、県警やホテルだけでなく、沖縄で何が騒がれているかを事前調査すべきだったろう。週刊ポストが「沖縄の闇」として構造改革特別区の「情報通信特区」や「金融特区」を暗示しているが、ライブドア自体が純然たるIT企業とは言えないだけに、利権が情報や通信関連だと推定する必要はないと思う。
1月22日、名護市の市長選が行われた。岸本建男市長の後継である元市議会議長、島袋吉和(しまぶくろ・よしかず)氏(59)=自民、公明推薦=が52%の得票率で勝った。その日はまた、死んだ野口氏の通夜と重なった。
沖縄の鼻先にいまぶら下がっている最大の利権は「辺野古」である。住宅密集地に隣接する米軍普天間飛行場の移転は、小泉自民党の総選挙大勝を受けて10月26日、額賀福四郎・自民党日米安保・基地再編合同調査会座長(現防衛庁長官)とローレス米国防次官補のあいだで妥協が成立した。米側の主張する「浅瀬埋め立て」案と、日本側の推すキャンプ・シュワブ「内陸」案の折衷として、キャンプ・シュワブの兵舎地区に滑走路をつくる「沿岸」案を日本が提示、米国が歩み寄ったことになっている。
このほか、第3海兵遠征軍司令部のグアム移転などで海兵隊約7000人を削減し、米陸軍第1軍団司令部を改編して米本土から神奈川の座間に移設することなどを盛り込んだ在日米軍再編の中間報告で両国政府が合意し、地元の同意を得てこの3月に最終報告を出すことにしている。しかし稲嶺知事ら県側は、これでは恒久使用につながると難色を示した。
こうなると、小渕政権の沖縄サミットと同じで、国は大盤振る舞いで地元を黙らせるしかない。すでに平成12年度から「SACO(沖縄特別行動委員会)補助金」と呼ばれる北部振興策で約450億円を投入しているが、新たに1000億円を超す地域振興費がばらまかれるとの観測が出ている。おまけに辺野古沿岸の滑走路工事で巨額の建設需要が生じる。普天間移設は橋本内閣以来のびのびになっていた懸案だが、関係者によれば10月の沿岸案はあまりにも唐突で、前後の脈絡がつかないものだったという。
ラムズフェルド米国防長官の名代として、ローレス次官補が来日したときには、すでに何らかの力学が働いていた徴候がある。防衛庁内で交渉責任者だった山内千里防衛局次長と、地元との調整の中心である那覇防衛施設局長がこの1月30日、事実上更迭されたことも異常事態をうかがわせる。守屋武昌事務次官ら防衛庁上層部との確執が原因との説がもっぱらだが、地元建設会社や大手商社がワシントンで事前に動いていたらしいことと連動しているのだろうか。
しかも同じ30日、空調設備をめぐる官製談合の疑いで、防衛施設庁のナンバー3である技術審議官ら幹部3人が東京地検特捜部に逮捕された。かねてから噂されていたとはいえ、在日米軍再編最終報告を控えた額賀防衛庁長官の引責問題すら取りざたされている。「これで3月までに地元の同意を得られなかったら、守屋(次官)更迭は必至だな」とある森派幹部は言ったという。
「辺野古」の利権は政権中枢に直結する。そういえば、ライブドア事件中にスイスに外遊していた別の森派有力幹部は、自分の選挙区でもない沖縄でやけに後援会づくりに熱心だった。
これらはすべて単なる偶然と言えるのだろうか。
ネット愛国主義の胚9――ベンチャーの魔の沼
1月27日、東大多比良研究室の論文データ捏造疑惑は“ほぼ”ケリがついた。調査委員会は「現段階で実験結果は再現できていない」と正式に発表、会見で浜田純一副学長は「捏造同然と見える」と述べた。平尾公彦科長も「疑いは濃厚。いまいましい」、調査委員の長棟輝行教授も「遺伝子材料が(再実験の)直前につくられた可能性がある」と多比良和誠(たいら・かずなり)教授と川崎広明助手の捏造を色濃くにじませた。両人はなお「調査はフェアではない」「不正はしていない」としていて、懲戒免職などの処分が検討されている。
しかし両人を処分しても問題は終わらない。ここに潜むもっと本質的な問題は、多比良教授が事実上の創業者であるベンチャー企業「iGENE」(アイジーン)だろう。2003年3月に資本金2765万円で創業、多比良教授は取締役である。
事業目的は試薬、ライブラリー、創薬を三本柱とするバイオテクノロジー企業だが、そのホームページの紹介にもあるように多比良研究室が推進するRNA(リボ核酸)干渉(RNAi)研究を企業化しようとしたものであることは明らかだ。
RNAi技術の誕生とともに創業したiGENEは、「RNAiの可能性に挑戦」をテーマに、この革新的技 術の普及とその技術に基づく医薬品開発のお手伝いをしながら新時代の生活文化に貢献する企業となることをを目標としています。現在iGENEでは siRNA、shRNA、オリゴ、ベクター、ライブラリーなどお役に立つ商品開発を次々に行っており、また、新技術の開発とその応用に日々努力しておりま す。
だが、05年9月13日の東大調査委の発表で多比良教授の信用が地に落ちるとともに、iGENEにも問い合わせが殺到したらしい。9月28日に「9月14日付け新聞、テレビ等マスコミ報道の件につきまして」という釈明文を発表した。
この度の東京大学多比良和誠教授の論文に関する報道を受けまして、弊社にもお客様よりお問い合わせを頂いております。弊社は東京大学とは別組織でございますが、同教授は技術指導役員として弊社取締役を兼任しております関係上、顧客の皆様、関係者の方々には多大なご心配をお掛けして誠に申し訳ございません。
だが、謝るのはそこまで。データ捏造疑惑の中心人物で多比良研究室に属す川崎広明助手、鈴木勉助教授、さらに東大医学系研究科の宮岸真特任助教授(このくだりの記述が紛らわしいとのご指摘がありました。文中の「データ捏造疑惑の中心人物で多比良研究室に属す」は、川崎助手の形容句であって、以下の鈴木勉准教授(当時)、さらに東大医学系研究科の宮岸真特任准教授(同)の形容ではありません。鈴木、宮岸准教授は東京大学工学研究科多比良研究室に所属しておらず、東大調査委員会のデータ捏造疑惑の調査対象は川崎助手でした=2008年5月27日の注記)が取締役をつとめていたことには口をつぐんでいる。しかし、動かぬ証拠は東京大学が発表している。平成16年度下半期の「東京大学教員の役員等兼業の状況について」を見れば一目でわかる。
iGENEはなぜ隠すのか。釈明文では、東大調査委が実験の再現性が比較的容易なため追試およびデータ提出を求めた4論文のタイトルをわざわざ列挙し、問題とされた他の8論文も含め、すべて無関係と主張している。
(株)iGENEの開発商品につきましては、多比良研究室からの導入技術に基づくものがございますが、指摘を受けている論文に関与する商品および技術は扱っておらず、またこれら指摘を受けた主要論文以外の8報につきましても、その内容と弊社の商品および製品か技術には関係のないことも確認致しました。
しかし、データ捏造への関与が疑われている人々(このブログは、06年12月27日に多比良教授と川崎助手を懲戒免職処分とした東大の最終結論より11ヶ月近く先立つ時期に書かれているため、その後の結果を反映していません。最終結論では研究室の管理問題に言及しているが、研究室の捏造関与には触れませんでした。また同年3月3日に産業技術総合研究所の調査委員会が報告した「研究ミスコンダクトに関する調査結果報告」の要旨によれば「(4) 調査委員会でジーンファンクション研究センターの川崎氏以外の研究員について調査したところ、他の研究員は研究記録の保存や管理を適切に行っていた」と、捏造を川崎助手一人の責任としています=2008年5月27日の注記)をずらりと役員陣に並べ、うちの製品は問題論文を製品化していないので大丈夫、と言われて安堵する人はいるだろうか。製品化されなかったのはよほどの幸運としか思えない。あるいは、データが捏造だから製品化できなかった?とまぜっかえしたくもなる。しかも、多比良研究室を信用していなかったような文章が出てくるのにはあきれた。これではトカゲの尻尾切りではないのか。
加えて、製品化にあたりましては、多比良研究室からの発表論文の内容にかかわらず、すべて社内で品質チェックを行っており、今後もこの方針が変わることはありません。幸いなことに、これまで多数のお客様による評価と支持を受けて参りました。
会社の信用は多比良東大教授に依存していなかったというのだろうか。それは無理で、夢の「RNA干渉」を布教する多比良ベンチャーだからこそ起業できたのであり、iGENEのウェブサイトには「関連書籍」として多比良、宮岸、川崎氏ら役員が著者に名を連ねた「改訂RNAi実験プロトコル」を載せているではないか。「より効果的な遺伝子の発現抑制を行うための最新テクニック」というキャッチコピーがブラックユーモアに響く。
iGENEが多比良研究室の成果を製品化できないなら、それこそ企業化した意味がない。さしたるコア技術もないのに、国立大教授を役員に加えて看板にする「創薬メーカー」「バイオベンチャー」乱立の危うさの一端が、はっきり現れていると思う。
ここでも日韓データ捏造疑惑は「うり二つ」の顔をみせる。朝鮮日報05年12月20日によれば、ソウル大学の黄禹錫(ファン・ウソク)教授もAIDSワクチンを開発するバイオベンチャー企業の株主だった。韓国店頭市場コスタック上場のキュロコムは12月19日、自社が先月の持分100%を買収したワクチン開発業社のスマジェン(SUMAGEN)の株主のうち、一人が黄教授だったと明らかにした。
黄教授はスマジェン株(額面価格500ウォン)5000株、0.11%を持っており、キュロコムの関係者は、黄教授から保有スマジェン株の半ばを買い取ったため、黄教授が手にした現金はおよそ2300万ウォンだという。
日本医科大学講師の澤倫太郎講師から、メールをいただいた。「新年会で東大、阪大、筑波大の教授・助教授たちとデータ捏造に関する話をする機会がありました。結局は『医工連携』という言葉がキーワードになっているようです」とあった。
遺伝子工学というのは、医学というより、むしろ工学に重心をもつ学問です。遺伝子配列の解析は、4つの塩基の組み合わせによるデジタル情報解析なのは事実です。しかし、その過程で被験者が無償で生体情報を提供するという重要な個人の意志決定が含まれている。しかしなかなかこれが工学研究者にまで伝わらないジレンマを医者は感じるのです。
首肯できる。多比良教授も川崎助手も工学系研究者であり、多比良教授は産業技術総合研究所(旧工業技術院)のポストも兼任し、2つのRNA干渉ビジネスのベンチャーの実質の経営者であり、知財の扱いも極めてビジネスライクだったという。そこに医学系からは「ライフサイエンスの倫理面がなおざりにされているのではないか」という疑念が投げかけられる。貧しい山村の農家に生まれ、畜産工学から遺伝子工学のヒーローにのしあがったソウル大学の黄教授もまた、背景が共通している。彼らは「なりあがりの背伸び」というより、ビジネスの魔に憑かれてアモラル(無倫理)の底なし沼に落ちたのではないか。
熱心な読者からのご指摘を以下に載せる。貴重なご指摘に感謝する。
「ネット愛国主義の胚6」で書いた「日本の生命科学の権威に撤回メールを送ったA博士」は英国のR. Allshire博士のことで、当該論文はこれでしょう。筆頭著者が論文の撤回に同意しなかったという話も、このページに書いてあります。ちなみに2003年のサイエンス誌の論文はこれにあります。 興味深いのは、多比良研もこちらも同じRNA干渉という研究分野であることです。
もう一点、ご指摘に従い、「Blast(胚)」は「BLAST(米国国立バイオテクノロジー情報センターが運営している遺伝子・アミノ酸配列検索サービス)」と修正する。
余秋雨「文化苦旅」2――軍人、女人、文人
ソニーもネット愛国主義もタルコフスキーも、まだ書くことが残っているのに、なかなか行きつけない。寄り道ばかりして心苦しいが、もうすこし余秋雨のことを書きたい。
シンガポールのチュアン・ホー・アヴェニューにある、寂莫とした日本人墓地を訪れた余秋雨は、この墓地に「三相構造」があるのを見る。軍人の相と、女人(娼婦)の相と、文人の相である。
「軍人の相」は先の大戦で死んだ軍人軍属の墓碑で、そこは悲しいほどきっちり階級制が守られている。滅びた軍国をあの世まで持ち越そうとする不撓の意志の具現のように。大佐は大理石、少尉以上は石碑、軍曹、曹長、伍長らは木碑、それ以下の下級兵は1万人まとめて1本の碑といった具合である。
余秋雨はそれを黙然とみつめる。憎悪や怨嗟の言葉を発せられない。が、東の端にそれらを見下ろすように立つ大きな自然石の墓碑に目をとめる。日本の南方総軍総司令官だった寺内寿一元帥の墓である。降伏後に脳溢血で死んだが、彼が盧溝橋事件後に華北方面軍司令官として中国大陸で山西、陝西、甘粛、蘭州に侵攻したことを余は知っている。
ぼくは呆然と立ち尽くして、その墓にじっと視線を注いだ。さんざん探しまわってこんなところまで訪れ、これをしげしげと見た中国人はほとんどいないことを、ぼくは十分承知している。(中略)よくも君はこんな寂れたところにと思うが、ぼくのまなざしの背景には、果てしない華北平原の天空が控えている。
この碑を建てたのは、捕虜収容所で重労働を科せられていた旧日本軍の将兵たちだった。英軍の監視の目を盗んで密議を凝らし、捕虜の収容棟修理を名目に、マレーシアの激戦地ジョホールの血の染みた石を切り出し、人目を忍んで星空の下を運んで碑文を彫り、うやうやしく墓地に運びこんだのだ。「山道に、椰子林の中、低い叫び越え、傷を負った肩、筋肉に食い込んだ麻紐、よろけた足元、あたりを警戒する耳、とりわけ月光の下で罪に服することに屈しない無数の双眸……」と余はその情景を想像し、「恐れ入った」とつぶやく。
人類の精神にある、残虐できわめて恐ろしい部分をひしひしと感じるはずだ。ここに上下の序列が正しく整然と並べられた、不屈の闘魂がこもった遺骨は、いまなお何かの指令を待っているかのようである。
けれども余秋雨が感じるのは旧日本軍の執念への恐怖だけではない。元帥の墓が睥睨する先に、日本人公娼「からゆきさん」たちの墓が並んでいた。20世紀初頭から、ゴムとスズの開発でブームとなった南洋へ、国内の不況に追われて天草や島原から日本人少女たちが売られてきて、「千里をものともせず、南洋で屈辱の笑顔をふりまいた」。この墓地自体、女郎屋やゴム園などを経営した元締めが寄贈したものだ。西欧の中国侵略が、聖書のあとに阿片、そして軍艦と順を踏んで来たったように、日本のアジア進出が娼婦のあとを追って軍人が乗り込んできたことは、墓地の構成をみても明らかと余秋雨は考える。
彼は映画「サンダカン八番娼館」を見たらしい。映画では南洋で死んだ娼婦たちの墓がすべて故郷を向いていることになっているのに、このシンガポールの墓地では逆であることを発見する。娼婦たちの墓はすべて真西を向き、北を向いているものはひとつもない。
気後れなのか、そうしたくないのか、彼女たちは心を鬼にして別の方向に首をひねって横になった。もはや心にかけない、怨まない、毎日懐かしんだ方角に、眼差しひとつ向けないのだ。
故郷を一日千秋の思いで見ないどころか、このおびただしい数の彼女たちの墓碑に、本当の名前は一つとして残っていなかった。石碑に刻まれたのは「徳操信女」とか「端念信女」とか「妙鑑信女」等々、戒名ばかりだった。
悲しい哉、これがアジアに覇を唱えた大日本帝国の現実である。余秋雨はようやくそこに自国の屈辱を重ねてみることができるようになる。元帥の巨大な墓の後ろに隠れるように、古い文人の墓がひとつあるのをみつけたからだ。二葉亭四迷の墓である。
四迷はここの先住者だった。娼婦の多くや軍人よりもずっと早く、日露戦争が終わってほどない1909年にここに埋葬されたのだ。われわれが見知っている、眼鏡をかけて中国風の中折れ帽をかぶった四迷の写真を、余秋雨も見たらしい。さりげなく書いている一文から察するに、日本に縁の深い魯迅やその弟の周作人を研究した際、明治日本で言文一致体の文体を創出した四迷を知ったようだ。辛亥革命が白話文(口語文)の文体創出と並行していたことを思えば、当然の連想だったのかもしれない。
しかし余秋雨がこの墓地で四迷の墓に親しみを覚えたのは、彼を本物の文人として遇するからだ。かつて坪内逍遥が「柿の蔕」で評した「恐ろしく内省的(精神分析論の所謂内向的)で、何事に対しても緻密で、精刻で、批判的なのだが、決して容易に断定はしない、常に疑問的で、じれッたい程に慎重な態度であって、そうして其深沈な態度に一種不思議な魅力があった。(此魅力が所謂デモニック・インフルエンスというやつで…)」という人物像が、余秋雨の目にも映ったのだろう。
このデモニック(魔のよう)な文人像は魯迅の苦渋、いや、屈原に始まり司馬遷や陶淵明、柳宗元らに連なる苦悩の文人の系譜に近い。「二葉亭四迷は、この墓地に異次元と不協和音を与えた。軍楽と艶歌の渦中に、いきなり不調和な重い低音のだみ声が割り込んだ」と余秋雨が書くのはその意味だろう。最後の小説「平凡」を「破壊されて行く精神の可傷(いたま)しい形見」として未完に終わらせた生涯に、彼は満腔の共感を寄せている。墓地に眠る四迷の心をこう忖度するのだ。
彼には民族のプライドがあって、今世紀外国で客死した日本人は、ただ軍人と女だけではないことを、南洋人民に知らせたいに違いない。
「このわたしも、たとえ、ただ一人の文人だとしても!」
墓地を出ると、夢からさめたようにシンガポールのモダンな市街が待っている。この墓地の存在を知らない日本人観光客たち、アジア一の金持ちが闊歩している。余秋雨は喜色満面で人力車を乗りまわす彼らに訴えようとする。「是非そこ(墓地)に行ってあげてください」と。
なぜ私はそこを看過したのだろう。島崎藤村の追悼の言葉を思い出す。言文一致体の創始者は「殆ど自己を語る事すら出来なかった」。だが、言文一致体とは、ほかでもない、われわれが今使うこの文体である。言語がひとつの共同体なら、日本人誰もが「四迷語」の末裔なのだ。それゆえに、日本は「殆ど自己を語る事すら出来ない」のだろうか。
余秋雨はこの終章にいい題をつけている。「ここは実に静かなり」。
余秋雨「文化苦旅」1――くたばってしめえ
雑誌創刊を控えているので土日もない。やっと暇ができて、読みさしだった余秋雨「文化苦旅」(楊晶訳)の終章にたどりついた。
訳者は私が中国で通訳をお願いした女性で、素晴らしい日本語の達人だ。日本の要人が中国の党幹部に会うとき、よくそのかたわらで彼女の姿を見かける。北京の外国語学院を出て東大文学部に留学したことがあり、知人を通じて紹介された同じ著者・訳者の「千年一嘆」を読んだことがある。今回の本も同じ阿部出版(私の会社とは無関係)から邦訳が出たが、期待に違わなかった。いつか楊さんに「あなたの訳書の書評を書きます」と言ったが、今日ようやくその約束を果たす気になった。
悲痛が名文を生む。余秋雨もまたその中国の伝統に連なる。本物の士太夫の憂悶は、なまなかの教養では追いつかない。一見淡々とした紀行文だが、断腸とはこれを言うのだろう。脱帽したのは、この現代中国の第一級の文人が、終章で二葉亭四迷をテーマに選んだことだ。
えっ?日本ですら「平凡」など数冊の薄い岩波文庫があるばかりで、この薄幸のインテリゲンツィアは歴史の彼方に遠のいた。日本語を学んでいないはずの余秋雨は、どこで四迷の作品に親昵し、かくも深く彼を理解したのか。
四迷の墓が東京の染井墓地にあることは知っていた。丈6尺に近い自然石の中央に、本名の長谷川辰之助と刻まれ、右肩に二葉亭四迷の号が添えられている。宋代の「中鋒」の書法でそれを記したのは、旧東京外国語学校(東京外大の前身)の同窓、宮島大八だそうだ。善隣書院を経営し、日本の中国語教育の草分けの人だったそうである。
が、この墓が空っぽかもしれないことに、つい最近まで心づかなかった。四迷は1908年に朝日新聞社特派員としてロシアの首都ペテルスブルクに赴き、肺結核を悪化させて翌1909年、英国経由で日本の賀茂丸に乗船、スエズを経てインド洋上を航海中に客死したのである。「平凡」岩波文庫本の解説(中村光夫)は、その最期をこう荘厳に描く。
5月6日、コロンボについたときはすでに絶望的状態であり、それから4日後の5月10日、シンガポールに向かう途中ベンガル湾の洋上に没した。臨終は午後5時15分と伝えられているから、インド洋の陽が西に傾き、甲板に吹き始めるさわやかな涼風が、苦熱の一日の終わりを告げる夕暮れ時のことである。
窓外に蒼く広がる海上には、朱をまいたような熱帯特有の美しい夕焼け雲が輝き、その余光は狭い船室の白い壁を赤く染め、そこに瞑目して横たわる二葉亭の病み衰えた横顔もかすかに彩ったことであろう。
美しい想像だが、中村光夫がそれを見たはずはない。北緯6度、東経92度30分。そこが死亡した地点だ。地図を指でなぞって場所を探したことがある。2004年末のスマトラ沖大地震の津波が通過していった海。船の慣例である水葬ではなく、賀茂丸がシンガポールに入ってから遺骸は荼毘(だび)に付された。それからあとはどこにも書いてない。四迷の伝記はたいがいここで筆をおくから、遺骨は日本に帰ったと思っていた。
が、ペテルスブルクで書いた「一家離散」の悲惨な遺言状を思えば、やはり遺骨は日本に帰りつけなかったのだろう。染井の墓碑は遺族が建立したのではあるまい。余秋雨が書き出すのは、まさにそこからなのだ。
寓話を思わせるような、神秘で、夢か幻かと思えるように抽象的な、とある場所に行ったことがある。
シンガポールに長年住む人でさえ、そんな場所のあることを案外知らず、僕の話にびっくり仰天する。
シンガポールに住む華人の新聞社主幹で、郷土史家でもある韓山元に案内されて、余秋雨はその場所を訪れる。墓地だった。多くのシンガポールの墓地は豪勢なつくりなのに、そこは入り口が狭く、「黒色の古びた鉄柵もみすぼらしい」。なかは広大だが、訪れる人影もなく、ひっそりとしている。日本人墓地だった。
私は過去にシンガポールにたびたび立ち寄った。仕事も観光もした。だが、マーライオンの立像にラッフルズ・ホテル、現代的な高層ビルに屋台料理は堪能したが、どこまでも小奇麗なショッピングモールを歩いているみたいで、あきたらない思いをした。そんな墓地のことなど耳にしたこともない。
余秋雨も目をみはった。918基ある小さな方尖碑の一つをのぞきこむと、「納骨一万余体」とわずか6字。東南アジアを「侵略」した皇軍の遺骨がそこに埋められたのだ。そして向こうには点々と無数の小さな石柱が林立している。日本人娼婦「からゆきさん」の墓である。余秋雨ならずとも、日本人なら衝撃を受けるだろう。彼はこう書く。
人間の生命とは、ここまでびっしり並べられ、ぎっしりと圧縮されてよいものだろうか。それに加えて、これまた何という生命だろうか。かつて、アジアを揺さぶった民族が、みずからの嬌艶媚態と残虐凶暴さを、こんな異郷の地でも存分に見せびらかし、そのあげくの果てにここで悲劇のピリオドを打った。いくたの嬌笑と雄たけびが、いくたの白粉と鮮血が、ついに黙し、凝結してしまったことか。都市の一隅に凝結し、逃避に凝結して、人目からも、歴史からも遠ざかり、ただひたすら茂る蔓草や鳥のさえずりを抱き、恥と罪名を背負ったまま、ぽつんとたたずみ、人を近づけようとしない。
ここまで書かれたら負けである。墓参をしていない日本人は恥じ入るほかない。それは中国への卑下でも優越でもない。二葉亭四迷はここに眠っているのだ。
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見本誌は1月末にお送りする予定でしたが、「陣中ブログ」に書いてある事情から少し遅れて2月20日刊行の予定となります。
ライブドア崩落6――もうひとつの統帥権干犯
「出る杭を打つ」となると、なぜみんなこう嬉しそうになるのだろう。そこで「正義」をふりかざすとなると、喜色満面、恥を知らない。あれほどホリエモンに媚びを売ったメディアが、稀代の悪党のごとく報じる変節には耐え難くなりませんか。「国策」捜査に違和を覚えるのは、その正当性を腑分けしていくと、最後にこのいやらしさが残るからだ。その隠れたねじれは、戦前に起きた「統帥権干犯」(とうすいけんかんぱん)と同じと思える。
電通のクリエーターだった方に吉田望という人がいて、いまは辞めて独立している。新潮新書で「会社は誰のものか」を書いた。80年代バブル崩壊時に、私も同タイトルの新聞連載企画に参加した懐かしさも手伝って、ぱらぱらと流し読みしてみた。昨年のフジテレビ対ライブドアへの言及がある。
ライブドアによるニッポン放送買収騒動で進んだのは、キャッチフレーズ的に言えば「事業の事件化」「会社の商品化」「経営者のタレント化」「産業のメディ ア化」です。経営そのものは、「見出し経営」であり「愉快犯経営」です。最期の結末が「経営者の犯人化」だった、ではしゃれになりません。(中略)
私の直感では金融とメディア資本主義の融合の上で自己投資を行うビジネスモデルは、ものすごく大きな利益相反の問題を抱えることになると思います。利益相反を起こさないためには、自己投資や自己取引を絶対に行わない、第三者を通じても行わないという高い信任能力と自制が求められます。
しかし堀江氏に対して信任を、いったい誰がどうやったら求めることが可能でしょうか。金融とメディアの融合企業が登場するとしたら、厳しい監視は当然のこととして、その経営者には無限責任を担うほどの覚悟が必要と思います。
いい予言である。吉田氏はいま49歳。東大工学部卒。広告の第一線でブランドを考えている人も、資本主義というヌエ的な存在を考えはじめたのだな、と思う。同世代の元官僚にそのブログを読んでごらんなさいと言われた。昨年9月、A級戦犯靖国合祀に正面から異を唱えた長文の記載「A級戦犯合祀は自らやめるべきである」がある(11月20日改訂)。
吉田望氏が実は「戦艦大和ノ最期」の作者、吉田満氏の子息と知って読むとき、誰しも粛然とならざるをえない。「男たちの大和」などというふやけた映画は見にいく気にもなれないが、戦後になって文語で書かれた「最期」はその格調の高さといい、何度でも読むに耐える悲痛なレクイエムである。その作者の子の渾身の立論は、リベラルだの保守だのというレッテルとは別次元から発せられている。
かいつまんでいうと、本来は「戦時に天皇のために命を捧げた戦死者」を靖国神社(旧招魂社)に祀るという条件がついていて、維新の元勲であってもこの条件を満たさない西郷隆盛や大久保利通は「英霊」から外され、戦死者でない乃木将軍や東郷元帥も靖国に祀られていない。なのに、戦死でなく刑死者(または病死者)であるA級戦犯を「昭和殉難者」として合祀したのは、東京裁判否定の軍人グループが牛耳った厚生省引揚援護局と靖国神社の「拡大解釈」によってその範囲を広げてきた結果であるというものだ。「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想を持つ平泉澄東大教授に心酔する松平永芳宮司のもとで、昭和天皇の意思(徳川義寛侍従長による「憂慮」の表明)をも無視して強行された合祀は、戦後に起きた第二の「統帥権干犯」であるとする論なのだ。
これは天皇を絶対視する平泉史観が、個としての天皇を否定する「機関説」を伏在させていることを示すもので、現皇太子夫妻と宮内庁の内訌にも通じている。合祀後、昭和天皇も今上陛下も靖国に参拝しないのは、靖国が逆説的に天皇制のタブーに抵触する存在だからであり、首相はじめ政治家を参拝させるのはその根本的矛盾を糊塗していると見る考え方なのだ。ここではその当否を論ずるわけではないからこれ以上詳細にわたらないが、ここまで靖国の矛盾を明示した勇気を称えよう。ちなみに、統帥権干犯とは1930年、海軍の反対を押し切ってロンドン軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に軍や政友会などが浴びせた非難の言葉である。その言葉がのちに、陸軍による大陸での戦線拡大に対する批判封じにも使われた。
しかし、戦後に起きた「統帥権干犯」が日本の戦後の本質なのではないか、と疑いたくなる。それがライブドアに対する「国策」捜査に端的に現れているように見えるのは私だけだろうか。戦後憲法では、主権者は国民とされ、天皇はその国民統合の象徴となった。検察の捜査も主権者たる国民を正当性の根拠とするが、この国民の合意たる「正義」が何かは無限に拡大解釈を許してしまう。司法検察は法務省に属す1機関に過ぎず、政府の意を体したものでなければならないが、政治の腐敗を正すという特殊な使命をもつために、「正義」を掲げて国民の意思を“詐称”することができるからだ。勧善懲悪的な正義感ほど危ういものはないのだ。
これを検察ファッショと決めつけるのはむしろ正しくない。総理大臣を頂点とする政府もまた「国民の付託」を無限に拡大解釈しようとするからだ。郵政民営化一本槍の総選挙で勝ったにすぎないのに、消費税から改憲、女帝等となんでも改革と名がつけば「国民の付託を受けた」と“詐称”する現政権とウリ二つである。政府は指揮権発動ができ、検察は国策捜査ができる。その限りではおたがいさまである。だが、ライブドアが一罰百戒の対象に選ばれたのなら、その根拠はどこにあるのか。
「会社が誰のものかを明確にしない不安定さゆえに、会社はここまで増長した。これはシニカルな言い方ですが、一面の真実です」と言う吉田望氏のひそみにならって、「国家が誰のものかを明確にしない不安定さゆえに、国家はここまで増長した」とまぜっかえしたくなる。しかし、ライブドア捜査がみせしめなら、誰が誰のためにこのみせしめの意思を示そうとしたのか。ざまみろと快哉を叫びながら、資本提携のライブドア株が大幅な含み損を抱えて憮然としているフジテレビの日枝久会長ではない。職務上は検事総長である。
現総長の松尾邦弘氏は、同じ東大法学部生、樺美智子が死んだ1960年安保世代だ。あれから46年、彼を「驚くほどナイーヴなリベラリズムに先祖返りしている」と評する人もいる。論語の「行くに径によらず」(小細工を弄せず)が彼の座右の銘だが、「粉飾」や「偽計」などの形式犯に問えるかどうかは「径」にすぎない。
「会社は誰のものか」と「国家は誰のものか」の不透明があわせ鏡になっているこの不幸な戦後の現状こそ、問われるべき「大道」ではないか。
ライブドア崩落5――国策捜査
ライブドア事件で、証券取引等監視委員会(SEC)の無能論が盛んだ。東京地検特捜部がSECの告発を抜きに、じかに摘発に乗り出したからだ。自民党内ではSECを「役立たずのカカシ」とみなす意見が出て、与謝野金融相も1月24日、SECの人員増と機能強化に言及した。
そうだろうか。そばで見たから言うが、特捜の内偵力なんて限られている。投資事業組合を使った隠れ蓑のスキームは、ライブドア内のディープスロート(情報提供者)とSECの協力がなければ見破れなかったと思う。SECが検察の植民地と化し、手柄を召し上げられているのではないか。
本来、証券監視委は事件になる前に「前さばき」で、こういう怪しい事案が出たら、会社幹部を呼んで警告し、暴走を食い止めねばならない。それが特捜出向のスタッフが来るようになって、特捜の得点にならない前さばきが疎かになり、事件化のための下請け化してしまったのではないか。一見、無能に見えても、実は捜査と行政のはざまに問題はあり、一方的な無能呼ばわりには歯軋りしているだろう。
で、それを含めてこのいささか歪んだライブドア捜査が、「国策捜査」と呼べると思った。すると、尊敬するある記者から電話がかかってきて、「国策捜査」と書いた真意を聞きたいという。
国策とは、捜査に国家権力の意志が露骨に発動されているということである。ライブドアの弁護をするつもりはないが、株高を利用してBS/PL(貸借対照表/損益計算書)をお化粧することといい、投資事業組合を隠れ蓑(それ自体としてはそう複雑でない)にした数字の操作といい、手を染めている企業は少なくない。規制緩和のおかげである。ホリエモンが違法性を意識してようがいまいが、そのグレーゾーンはライブドアしか見つけていない特別の抜け道だったとは思えない。
それでもライブドアを狙い撃ちにしたのはなぜか。法の平等を守るなら、同じような企業はいくらもあり、彼らは首をすくめてライブドアの行方を見守っているに違いない。が、検察のいう「一罰百戒」の「一」にどこを選ぶかは、検察のサジ加減ひとつだ。いやな言葉だが、「訴訟経済」ともいう。違法案件全てを特捜で捜査し起訴していたら検事の手が回らないし、国家的にも無駄が多いという論理である。一点だけ撃ってすべてに行き渡れば、これほど経済的なことはない。
しかし、いくら買収また買収で規模を膨らませてきた虚業に近いとはいえ、一時は時価総額8000億円を超え、株主23万人、グループ社員2000人以上の東証マザーズ上場企業である。上場廃止に追い込む容疑にしては、証取法の「風説の流布」と「偽計」は弱い。「粉飾決算」がついたとしても、ガサいれからわずか1週間で堀江社長ら3取締役を逮捕、「生きている企業」にいきなり死刑宣告する理由になるのだろうか。
その疑問点から「国策」と呼んだのだ。たまたま、90年代に経営破たんした長期信用銀行のOBと食事をしたが、東京地検特捜部が頭取ら幹部を逮捕するには、まず辞任させて後任が決まってから、とそれなりに企業存続に配慮したものだ。当時の地検は「いきなり社長や頭取を捕まえたら、生きている企業が立ち倒れしかねない。それは検察の望むところではない」と説明した。
それが今回は違った。のっけからホリエモンを撃沈させる直線的な手法は、ライブドアの株主も社員も考慮の外にある。虚業に「投資」した自己責任、ヒルズ族の幻影に目がくらんで就職した愚を思い知れ、といわんばかり。検察首脳にとっては「私益」にすぎず、資本市場の根幹を揺るがすルール破りを正す「公益」の前では、何ほどのことでもないらしい。が、路頭に迷う側からは、この「国策」に釈然としないに違いない。
くだんの記者は言う。「売り注文が殺到して東証が取引を全面停止したのは検察の想定外だったかもしれないが、せっかく回復しかけた株式相場を壊すだの、デイトレーダーを含めて広がった市場のすそ野が萎縮するだの、特捜はまったく考えていないでしょう。それが統治者の論理です。結局、問題は統治権力に判断する(あるいは無視する)権限が与えられているか、の統治権力論に帰する」と。
「しかし」と私は反論した。ヒューザーの証人喚問ばかりに目を奪われていた首相官邸は事前に報告を受けていなかったという。飯島秘書官には寝耳に水だったそうだ。総選挙で「刺客」としてホリエモンを応援したダメージばかりではない。官邸に知らせないのは「検察がバッジを狙っているから」で、官邸から漏れないようにしたのではないのだろうか。バッジとはもちろん議員バッジである。政界からはブーイングが出かねないが、小泉政権の末期を見越した「国策捜査」には意味がある。
もうひとつ、斧で切り倒すようにライブドアを根こそぎにしたのは、すでにアングラに汚染されていて、国家には看過しがたくなっていたとも考えられる。ライブドアが12月に買収した不動産会社は、昨年6月に社長が覚せい剤所持で逮捕される不祥事を起こしてキナ臭い。フジテレビとのニッポン放送株買収戦が終わったころ、潤沢になった資金を芸能プロダクション買収にあてようとしたこともあったという。気が大きくなった彼らが、アングラに食いつかれる隙はいくらでもあった。
いや、ヒルズ族の前身、(渋谷)ビット・バレーのベンチャー経営者の中には、ダイヤルQ2など風俗産業を出発点にしている人もあり、当初からアングラの影がちらつく。ライブドアに限らず、渋谷や青山で大手を振って歩いていた「若造たち」の錬金術も、かねてから広域暴力団が絡むとのうわさが流れている。その腐敗にメスを入れるところまで検察の捜査が及ぶなら、この「国策」捜査の公益性はあると言っていい。
だが、そこまで捜査は視野に入れているのか。検察は立件に自信満々らしい。しかし、それが「粉飾」程度でとどまり、ディープスロートがライブドアの実権を握って、潤沢なキャッシュフローをわがものにする手助けで終わるなら、この「国策」捜査は歪んでいると言わざるをえない。
ライブドア崩落4――本質的でないこと
23日夜は銀座の焼き鳥屋で飲んでいました。「ホリエモン逮捕」の報はそこで聞きました。で、早めに切り上げてテレビのチャンネルを回してみました。
ひでえ!たまたま映った画面で見たのが、「報道ステーション」の特別番組。延々と小菅に入るワゴンカーを追うって、オウムの麻原じゃあるまいし、あまりにも芸がない。そして、ホリエモンの携帯に電話する女性記者のアホさかげん。うん、うんと頷くばかりで何の突っ込みもできない。「東京地検が偽計とか言っているようですが、どうでしょうか」とアホな質問に、ホリエモンが怒りだすのは当然だと思う。
「こちら、フジテレビ本社前」だけ、鬼の首を取ったようなネーちゃん記者が出てくるのにはあきれました。
うんざりしてチャンネルを変えたら、日本テレビもあららでした。ヒゲづらの男の記者が、これまた、したり顔でホリエモンの携帯に電話している。「あなたのためだから」とかなんとか、おためごかしばかり。自分だけインサイダーの顔をして、その下卑た卑しさが顔に露骨に現れる。おうおう、エラソーじゃねえか、と言いたいですね。
テレビには「ツラ撮り」がある。業界の隠語だが、逮捕されそうな人間を、事前に待ち伏せして遠くから盗み撮りする、あの手法である。待ち伏せの努力は認めるが、しょせんは窃視と同じで、うすら寂しい世界です。携帯の番号を知っていて、そこに「あなたの味方よ」というネコなで声で電話するのは、この「ツラ撮り」と変わらない。
それに律儀につきあうホリエモンは、確かにカワイソーではある。あなたの周辺に群れる連中はかなりお粗末、人間にめぐまれなかったのですね。しかし今から申し上げる。この国策捜査はかなり無理がある。「あわせ技、有罪」は、もしかすると裁判で立証困難になる。それを指摘できないで、「あなたのためだから」はないでしょう。
テレビ・ジャーナリズム、恥を知るべし。
ライブドア崩落3――「沖縄の死」の不可解
日曜早朝だというのに、医者の資格を持つ知人から電話がかかってきた。「あの死に方、おかしいと思いません?」。1月18日、沖縄の那覇市のホテルで死んだ野口英昭エイチ・エス証券副社長(38)のことである。
沖縄県警の発表によると、野口副社長は18日午前11時20分ごろ、那覇市内のカプセルホテルに1人でチェックインした。それから約3時間後の午後2時35分、室内の非常ブザーが鳴ったため ホテル従業員が合鍵で入ったら、ベッドの上であおむけに倒れていたという。手首などに切り傷があり、刃渡り10センチほどの小型包丁が落ちていた。 病院に運ばれたが、午後3時45分に死亡確認、死因は失血死である。
ホテルの写真を見たが、耐震設計データ捏造のビジネスホテルよりもさらにみすぼらしいペンシルビルである。死に場所にミエもへったくれもないというものの、それにしても直感的に異様と思える。しかも、その後の報道によれば、前日行われた1月17日のライブドア強制捜索時には野口副社長の自宅やエイチ・エス証券のオフィスも家宅捜索を受け、野口氏本人も立ち会ったという。その翌日、何用あって沖縄に飛んできたのか。そして逃亡犯になるならいざしらず、死を選ぶのになぜこのホテルだったのか。
それだけではない。報道によれば、傷口が5カ所、喉の左右の頚動脈と、左右の手首、そして腹部だそうである。どの傷口が致命傷になったかは判然としない。電話をかけてきた知人が指摘するように、それが自殺だなんて「法医学的にはありえない」。
ためらい傷をいくつも残すことはありえても、それは左手首なら数ヵ所とひとつに集中する。左手首を切って次に包丁を持ち替えて右を切って、さらに首という順で死のうと人は思わないのだ。いわんや、左の頚動脈を切ったら、血圧が低下して右の頚動脈まで切る力がなくなる。そのうえで腹部を刺す?これは不自然である。
非常ベルは自分で押したと警察は見ている。とすれば、従業員が駆けつけたとき、野口氏は虫の息か、とにかくまだ死んでいなかった可能性がある。遺書はなかったという。それでも、現場に荒らされた様子がなく、家族に自殺をほのめかす言動もあったことから、県警は自殺と判断した。他殺の可能性には言及していない。なぜなのだろう。
野口副社長は証券会社勤務を経て、2000年にライブドアの前身「オン・ザ・エッヂ」に入社し、同社の東証マザーズ上場に携わった。その後、ライブドアグループの投資会社キャピタリスタ(現ライブドアファイナンス)の社長に就任し、堀江貴文ライブドア社長(33)や宮内亮治取締役(38)にその能力は高く評価され、一部新聞では「側近」と報じられた。
一理ある。02年6月に野口氏は旅行代理店HIS傘下のエイチ・エス証券に転じたが、それ以降もライブドアが手掛ける企業の合併・買収(M&A)で宮内取締役らと連絡を取り合っていたというからだ。ライブドアが消費者金融会社などの買収に使った投資事業組合は、エイチ・エス証券子会社「日本M&Aマネジメント」(JMAM)が運営しており、ライブドア側の指示で契約書の作成などを行わせていたという。
エイチ・エス証券は19日、野口副社長の死亡を確認するとともに、「JMAMサルベージ1号投資事業組合は有限会社キューズネットおよび株式会社ロイヤル信販への投資を目的として2004年5月に設立されており、その後、2004年10月に両者の持分を株式会社ライブドアに譲渡した」ことを確認する発表(「日本M&Aマネジメント株式会社」の運営する投資事業組合ならびに弊社代表取締役副社長 野口英昭 に関するお知らせ)を行った。
会見に臨んだ澤田秀雄エイチ・エス証券社長(HIS会長)は涙を浮かべ、その写真が英経済紙フィナンシャル・タイムズ(アジア版)の第一面をデカデカと飾ったが、あくまでも「投資組合の取引は適法に行われた」と強調した。しかし不自然な死亡状況が、野口氏の果たしていた役割について疑念をかきたてる。東京地検の伊藤鉄男次席検事は「誠に悲しいできごとで、ご冥福をお祈りします。東京地検で取り調べたり、呼び出したりしていた事実はありません」との談話を出したが、これまでよくあったように通り一遍である。
思いだすことがある。88年8月、一人の男が行方不明になった。大阪の仕手集団「コスモポリタン」の池田保次社長である。日本ドリーム観光、雅叙園観光、タクマなどの株買い占めで勇名を馳せた。東海興業株の33%が青木建設に渡った一件でもコスモポリタンが介在し、そのスポンサーの一人が三澤千代治ミサワホーム前社長であることがかいま見えたことがあった。
が、ブラックマンデー後に資金難がウワサされるようになり、コスモポリタンの子会社が倒産してから、周辺がきな臭くなってくる。仕手の原資にアングラマネーを入れていたと見られ、大損をさせて脅されていると言われだした。池田氏は新大阪駅から新幹線で「東京方面に向かった」まま姿をくらます。夜逃げか、殺されたのか。その後も何度か、彼を見かけたという情報は流れるが、真偽が確認されないまま今日にいたっている。
仕手を追っていた記者のあいだ(私を含めて)では、「きっと簀(す)巻きにされて、東京湾でコンクリート詰め。クワバラ、クワバラ」と半ば冗談で笑い飛ばしていたが、最近、池田氏の身近にいた人の話をじかに聞いたら、「当時は怖いから、東京方面に向かったことにしといたんや。ほんとうは反対のホームから新神戸方面へ向かった」んだそうだ。おお、菱の代紋だったのか。池田氏は神戸の海の底に沈んでいらっしゃるのか。
消えた池田氏と死んだ野口氏が重なって見える。ライブドアがアングラマネーとどうかかわったかを突き止めるキーパーソンを、沖縄で失ったのかもしれない。
東京が大雪に見舞われた1月21日、増上寺光摂殿で野口氏の通夜が営まれた。エイチ・エス証券関係者や野口氏の知人ら約760人が参列した。音もなくふり積もった雪は、故人が残した沈黙の重さを象徴していた。
ソニーの「沈黙」18――携帯オーディオ開発出直し
コニカミノルタからデジタル一眼レフカメラ事業部門を買収するという派手なニュースの陰に隠れてだが、ソニーが1月20日、ウォークマンAシリーズの音楽配信ソフトなどでトラブル続きだった開発組織「コネクトカンパニー」の機構改革と人事を発表した。このブログで昨年来指摘してきた携帯オーディオの開発立ち遅れを認め、体制立て直しに踏み切ったと見たい。ソニーにも「聞く耳」はあったと考えよう。
コネクトカンパニーは、ウォークマン復活を狙って日米にまたがる特命部門として04年11月に設立され、05年11月にAシリーズを発売したが、ソフトの欠陥(バグ)が相次いでライバル「iPod」追撃を果たせていない。
ソニーは今回の機構改革で同部門の名称を「コネクト事業部門」に変更、従来型音響機器の担当執行役であるデジタルイメージング事業本部長の中川裕EVP(エグゼクティブ・バイス・プレジデント)の傘下に置き、コネクト事業部門長は吉岡浩オーディオ事業本部長が兼任することになった。
これまでは、日本で主に機器周辺を、米国側でインターネットによる楽曲配信ソフトなどの開発を進めてきたが、開発責任者を解任し、昨年末にライバルのアップルから引き抜いたソフト技術者を起用するという。日米に1人ずついた責任者(日本側は辻野晃一郎コ・プレジデント)を替え、部門長1人体制にしたのは、要するに一からの出直しである。
中国浙江省で起きたデジカメ「サイバーショット」6機種の販売停止問題で販売再開のめどが立たない現在、デジタル一眼レフ「α」の継承について語るのはふさわしくあるまい。ソニーに差し上げた2回目の質問状(1月11日送信)に対する回答が届いたので、それをまず報告しよう。季節のあいさつなど定型部分を除く私の質問状の前文は、以下の通りである。
昨年はウォークマンAシリーズおよび、ソニーBMGのコピー制限ソフトについての質問状にご回答いただき、ありがとうございました。取材の申し入れに対し「係争中の案件」を理由にご辞退されましたが、ご承知のように昨年暮れに集団訴訟の代理人弁護士とのあいだで、和解案が成ったと報じられ、原告側弁護団のウェブサイトでは和解案の全文が公開されました。新たな事態となりましたので、法務担当者には和解案の解釈など、経営幹部には今後のソニーのDRM(デジタル著作権管理)をどうするか、またサウジの富豪アル・ワリード王子のソニー株購入検討の報道などについてお尋ねしたいと思います。よろしくご一考いただけますようお願い申し上げます。
これに対し、ソニー広報センターの回答の前文はこうだった。
前略、先日はソニーBMG者のコピー防止CD搭載のXCPソフトウェアに関する問題等につき、質問をお寄せいただき有り難うございました。いただいたご質問項目に対する回答を用意いたしましたので、以下の通りお届け申し上げます。ご査収ください。
【1】和解案について
まず冒頭、念のために一点明確にさせていただきたく存じます。ご質問にあるBMG販売コピー防止CDに関する訴訟はソニーBMG(ソニー(株)と独ベルテルスマン社の50:50の合弁会社)、コピー防止ソフトウェアの開発メーカーであるFirst4Internt社および米国のSunn Comm International社を被告としてニューヨーク州の連邦地裁に提訴されたクラスアクションです。
そしてこのたび、当該案件に関しては法廷審議開始以前に、当事者間における和解案が成立し、今後、NY州の連邦地裁の承認を得て後日、和解が正式に成立致します。
本訴訟への対応は一貫して直接の訴訟当事者であるソニーBMGの法務部門が対応しており、いただいたご質問もソニーBMGの法務部門に回付し、回答を得ました。以下の回答は当事者であるソニーBMGとしての正式回答であるとご理解ください。
私の質問状には、ソニー本体の経営幹部、または法務部門担当者にじかに会って質したいと希望したのだが、今回も実現しなかった。個別の質問のなかには、ソニー本体の知的財産権保護とアメリカでの訴訟はソニーBMGが対応していて、ソニー本体とは一線を画している。
しかし、20日発表のコネクトカンパニー機構改革でも明らかなように、ウォークマンAシリーズのつまずきの一因は、開発部門がハードとソフトで日米に分割され、ソフトをアメリカ任せにしていたという点にあった。携帯オーディオで起きたトラブルと、音楽CDのコピー制限ソフトのトラブルが、表裏一体だったことの証明ではないか。
その点で、いまだにソニー本体の経営幹部がインタビューに応じず、合弁会社であるソニーBMGにのみ説明責任を委ねているのは納得がいかない。すくなくとも私が通奏低音として訴えつづけているデジタル著作権管理の戦略は、ソニー・グループにとって「シームレス」に立てるべきではないだろうか。そこがiPodに追いつけない弱点だという自覚を機構改革でソニーが示したのだとすれば、経営陣も逃げ隠れする必要はなくなったと考えますが、いかが。
とにかく、次回から個別項目のQ&Aに移ろう。
ライブドア崩落2――いつかきたPKO
本日はいろいろあって(ソニーの方々ともお会いしましたが)、ライブドア関連でアングラとの接点を取材中。残念ながらブログは休みたいのだけれど、ちょっと一言。
19日の日経平均株価は前日比355円高。反発したと見るのは時期尚早だと思う。10年以上前の流行語大賞で「PKO」というのがあった。本来は湾岸戦争後の平和維持活動(Peace Keeping Operation)の略称だったが、ある日、知恵モノがとんだ駄洒落を思いついた。価格維持策(Price Keeping Operation)になったのだ。実際は底なしになりかけた株価を支えるために、簡保資金などをこっそり動員して売りに対し買いむかわせることを言った。1990年代はそれが癖になってしまった。
そして今回。せっかく脱したと思った90年代の癖がまた出てきたと思える。355円高の根拠がない。東証のシステムダウンで、日柄整理がまだできていない。信用取引のゆり戻しが個人投資家を青ざめさせたけれど、「ライブドア・ショック」と言うのはまだいいが、「ライブドア恐慌」なんか起きては困るのだろう。兜町の利害当事者およびご当局を含めて、なんとか一斉に下支えを図ったと思う。
たとえば、ネット証券のマネックス証券が、ライブドアとその関連5社の信用取引担保掛け目をゼロにしたことが轟々たる批判を浴びている。おかげで他のネット証券が追随しにくい。でも、それはライブドア株下落のリスクを、これらネット証券にかぶせていることになる。株価全体が下げ止まってもライブドア株は続落しているから、重圧は重くなるばかり、いずれ耐えられなくなるに違いない。
さながら「子供みこし」のように、みんなかついでいるふりをしていても、たいがいはぶら下がっているだけ。この不自然な相場は、個人株主のすそ野拡大を合言葉に信用取引が近年「規制緩和」されつづけてきたことから生まれた。かつてのように保護預かり資産2000万円を持たない小口投資家でも、ろくな信用照会もなしに簡単に信用取引が可能になっている。
しかしネット証券は、信用取引の追い証に耐えられず、懐をこげつかせた小口投資家からカネを回収する手立てを持っていない。相場が下がれば、ネット証券は不良債務者を多く抱えたサラ金業者と似た状況に陥るわけで、あぶなくて見ていられない。
90年代のPKOはことごとく失敗だった。それを思えば、この持ち直しもじきメッキがはげる気がする。インド洋沖の大地震と同じように、津波の第二、第三波はこれから、ということである。ちょっと値が戻ったということで安心は禁物。ほっと胸をなでおろした瞬間、自らの墓穴を掘っているのだろうと思う。
ライブドア崩落――「あっは」と「ぷふぃ」
語学というものは結局、記憶力がよく、労をいとわない若い時代に覚えたものしか残らない。最近、つくづくそう思う。あれこれ手をだしてはみたものの、英語を除けば第二外国語でとったドイツ語に、私はいちばん親近感を覚える。
で、故埴谷雄高ではないが、ドイツ語の感嘆詞「あっは」(Ach!)と「ぷふぃ」(Pfui!)の世界に、いまだに生きているような気がする。ちなみに、正確に日本語では翻訳できないが、「あっは」とは「わっは」でも「ありゃりゃ」でも「わお」でもいい。18日午後2時40分に東京証券取引所が、システムのパンクを避けるため、初めて全取引停止に踏み切ったことは、まさに「わっは」に属すと思う。
やはりマネックス証券が、ライブドアおよび同社と関連のあるライブドアマーケティング、ライブ ドアオート、ターボリナックス、ダイナシティの計5銘柄の代用有価証券掛け目をゼロに引き下げると発表、17日の引け後の評価から適用したことが大きい。つまり、 これら5銘柄を担保に信用取引をしている投資家は、18日以降は担保価値に見合う現金を差し入れるか、建玉の整理を迫られることになるからだ。
いたいけなデイ・トレーダーたちが狼狽売りに出るのは無理もない。その売り注文が殺到して、売買停止になったのだ。
もうひとつの「ぷふぃ」は「ふふん」とか「ふーん」とか「あ、そ」くらいだろうか。18日にそういう感嘆詞を投げられるのは、自民党政調会長の中川秀直のサイト「トゥデイズアイ」だろう。わが古巣(日本経済新聞)の先輩だけに、笑えることが二つある。
ひとつは結構長文なのに、“仇敵”朝日新聞の解説記事「ライブドア問題改革イメージ悪影響も」を長々と引用して、ほとんどコピーになっていることだ。この秀直ブログはいつから、グーグルみたいな「他人のフンドシ」路線になったのか、と思う。
もうひとつは、朝日解説記事への反論が、いかにも新聞記者的な支離滅裂、ああいえばこうも言える式であることだ。竹中平蔵総務相と組んで「小泉の影武者」を自任し、消費税から日銀の金融政策にまであれこれ注文をつけて、「ポスト小泉」に安倍晋三官房長官をかつごうとしているだけに、早めに火消ししたいという気持ちはわからないではないが、以下の文章、何かが決定的に欠けていると思えませんか。
この解説記事に、異論があるのは「ライブドア問題」が「改革イメージに悪影響」を及ぼすことはなく、民主党の反抗への一歩にはならないということである。理由は、堀江氏のような「勝ち組」であっても「自由競争」のルールを逸脱すれば、即、「負け組」になるという厳しい事実を民意に知らしめたことである。耐震偽装問題においても、「規制緩和」には当然護るべきルールがあり、それを逸脱することは許されず、そのチェック体制が不備であり、その盲点を悪用されたことが問題なのである。決して、自由競争、市場原理、規制緩和自体が悪ではなく、一定のルールを守らず逸脱することが悪なのである。
ルール逸脱?あなたにだけは言われたくない。官房長官時代のスキャンダルがあっても、「負け組」になるまいと踏ん張ってきたのは誰でしたっけ。実力者の貴殿が森側近から小泉側近に鞍替えしても、閣僚になれないのはなぜでしょうか。
日経時代、政治部デスクだった貴殿が、自由競争や市場原理を唱導したとは、寡聞にして知らない。まさに「ぷふぃ」である。
自由競争、市場原理、規制緩和の名のもとに、ルールを骨抜きにしてきたことを問われているのだ。誰も小泉政権がミルトン・フリードマンのシカゴ学派の正統な継承者だとは思っていない。勉強もしていないくせに聞いた風な口をきいちゃいけない。いま問われているのは、「盲点を悪用された」なんて受け身ではないのだ。
アネハ問題でもライブドア問題でも、「盲点を悪用した」のは森派=小泉政権自身ではなかったのか。自身のことを棚上げにしているのがその証拠である。ルール違反したら負け組?トカゲの尻尾切りがみえみえである。敵は前原民主党ではない。「安倍おろし」が始まった自民党内の抗争である。これは「あっは」ではなく「ぷふぃ」の世界なのだ。
ライブドア捜索――偶像破壊の季節
ライブドアに東京地検特捜部の強制捜索が入った。“テレビ芸者”のようなコメントや、それみたことか式の議論は趣味じゃないから、尻馬に乗るようなことは書きたくない。
潮目は変わった。直感的にそう思う。ちょうどシェークスピアの「マクベス」第二幕で、王を暗殺したマクベスとその夫人の耳に、突然、扉をたたく音が聞えるように。
「どこから響いてくる、あの音は。どうしたのだ、おれは。一つ一つの音にどきりとする。何という手だ、これは。ああ!両の目が飛び出しそうだ。みなぎりわたるこの大海原の海の水ならこの血をきれいに洗ってくれるか。いいや、この手のほうが逆に、うねりにうねる大海の水を朱に染めて、あの青さを赤一色に変えてしまうだろう」
その音は幻聴ではないのだ。
ライブドアのポータル(玄関)サイトにある「話題のブログ」は、いまだに平然と「堀江貴文」をのせている。17日のエントリーはさすがに「いろいろご心配&お騒がせしています」とあって、「今後の業務は通常通り行います。地検の調査に関しては全面的に協力していこうとおもいます。今後ともよろしくおねがいします」と殊勝だが、同日行われた堀江本人のわずか6分間の会見と同じくほとんど空疎である。
しかし「強制捜索は想定外ですか」という記者の質問はひどい。流行語大賞を意識して「想定外」と言わせようとしたのだろうが、阿諛としか言いようがない。受け狙いのこの記者には吐き気がする。
聞いた話。強制捜索2日前の1月15日土曜、新橋界隈で「ヒルズ族」社長たちの麻雀大会が開かれて、いまをときめくIT系企業の社長や芸能人に混じって、ホリエモンも出席者に名を連ねていたという。が、彼は当日ドタキャンしたらしい。すでにライブドア関係者との連絡がとりにくくなっていて、異変が起きたと思わせる兆候があった。先週末には想定していたのである。
それにしても、ホリエモン・ブログに寄せられた350本以上のコメントをのぞいてあきれた。「ホリエモンがんばって!」の連呼である。なかには「反権力」のヒーローにまつりあげようとする人もいる。慣性の法則というのか、幻想というものがいかに強固かを知らしめるいい例だ。
対象を突き放すには経験値が必要だ。経験から何が起きたかをとっさに感じる人だけが生き残れる。1990年代バブル崩壊と、2000年ITバブル崩壊の二度のガラを目のあたりにした経験からいうと、これは3度目のネットバブルの崩壊になるかもしれない。いま誌面があったら、とは思うが、いよいよ出番がきたと思えばいい。手前ミソだが、「FACTA」4月創刊というのは、案外タイムリーかもしれない。
いたいけなデイ・トレーダーたちに告ぐ。このネットバブルは壊れる。それを幻聴と思いこんでホリエモン賛歌を歌っている連中は、彼が逮捕されたら泣きを見るだろう。本命は海外に逃避させた資産の摘発で、イモヅル式にネット長者の「仕手筋」を一網打尽にするという説もある。焦点は「香港」と「京都」である。
昨年のフジテレビ騒動のころ、検察や証券監視委員会内部からは「いまは(ニッポン放送株争奪戦のさなかで)時期が悪いからやらないが、(ホリエモンの)錬金術は放っておきません。必ずやります」という声が聞こえた。当局が一罰百戒のタイミングを狙っていたことは確かだろう。私募CB(転換社債)からMSCB(転換価格下方修正条項付き転換社債)、そして株式1万分割などなど……何でもありの資金調達や株価釣りあげが、株式市場をなめたような投資家や企業を増長させてきたことは明らかだった。
恥ずべきは、日経平均株価の回復をはやしたて、市場のゆがみに目をつぶってきたうえ、小泉自民党圧勝後は「2005年体制」などと舞い上がって世迷言を吐いていた経済評論家たちや、彼らをもてはやす新聞、テレビなどのマスメディアだろう。「市場の解」が聞いてあきれる。
モーセの「十戒」は「偶像をつくってはならない」が第二の戒である。アイコノクラズム(偶像破壊)の季節がきた。土地や株の仕手戦の追跡は取材冥利に尽きる。武者ぶるいがするから、仕手および仕手周辺のみなさん、首を洗って待っててください。