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最後からの二番目の真実

ウェブ進化論6――出会い系の「冬ソナ」入門編

グーグル幻想の「毒消し」のために、ネットの「あちら側」にご案内する。この世界のからくりを知らない人のために、ちょっと説明しよう。まず無料サイトと呼ばれる表のサイトに携帯で登録する。たとえば「誘惑の人妻」とか何とかのドメイン名で、そこに自分のニックネーム、年齢、プロフィールを入力する。



♪業界屈指!無料ポイント10倍大サービス進呈中♪
誘惑の人妻から新着メールが届きました
※注メッセージの枠内が『xxxxx』と為って居る場合には、
お相手の方が連絡先を通知して来た可能性大です、
是非、開封してご覧下さい。



このページで登録された情報をもとに、女性からメールが来ることもあるが、もちろん頻度は極めて低い。実は二重底になっていて、「誘惑の人妻」のサイトに登録したはずなのに、類似名のサイト、たとえば「誘惑の微笑」からどんどんメールが届く。



xxxxx様おめでとうございます!!
『東京』在住の女性会員
『Hな女医』様から
件名『面倒みますよ~!』
本文『xxxxx』と言うメールが届きました。
『Hな女医』様の簡単プロフィールは以下の通りです。
【年齢30代後半、血液型O型、未婚、職業は医療関係】
もっと詳しくご覧になるには、下記のURLにアクセスして下さい。



1時間に5~10通来るのだが、こちらの方は有料サイトなため、受け手側は警戒して「無料お試しポイント」だけで逃げ切りたい。ところが、お試しポイントを有効にするには「携帯電話の認証」が必要だ。ま、しかたないな、と受け手は考える。目的は出会いだし、携帯で会話しなければ、らちがあかないからだ。するとサイト側は、携帯電話の電話番号を登録して、下記の電話番号(これは国内)に非通知モードを外してかければ、1万円の無料ポイントが使えるようになると迫る。その通りにすると、いよいよメールが届きだす。



06年2月x日x時x分=佐藤美紀31才さんからのメール☆
もしかしてもう相手が見つかっていましたか?私は相手が居る方でも構わないので会えることが出来るのでしたら嬉しいです。無理なのでしたら一言いただきたいのですが今はお忙しいですか?



スパム・メールでなさそうなのに返事を書くと、すぐにメールが返ってくる。「ありがとう!」「今頃運命のであい!?」などなど。熱くなる人はすでに「お歳は?」「どんなお仕事?」と1行しか書いて来ないメールのやり取りでポイントをどんどん減らされていく。相手は巧みに話をあわせてくる。たとえば、ゴルフが好きだというと、



06年2月x日x時x分=美紀31才さんからのメール☆
ゴルフが好きなんですよね?NEW XXIO PRIME IRON (8本 SP300)が余っているんですがプレゼントしますよ。それで会ってはもらえませんか?



という具合である。「じゃぁ、いつお会いできるんですか?」と、何とか約束を取り付けて「さあ、明日はデートかも知れない」と思わせる仕組みになっている。もちろん名前は恐らく偽名で、人格はまるでわからない。たぶん「あちら側」にいるのはグーグルのようにPh.D5000人ではなく、もっとしょぼたれていて大きく分けて3種類だそうだ。



1:普通の参加者(極めて少ない)

2:ヤラセ君(クリックさせるだけのネットオカマ、女性または男性のバイト)
たぶん人間。受け答えはするが、とにかく一言メールを次々送りつけ、クリックさせて相手のポイントを食べてしまう。知り合いでこのバイトで稼いでいるバンドマンを知っている人がいるが、「女言葉で劣情をそそるメール」をぽんぽん書くだけで、「一度やったらやめられない」おいしいバイトだそうだ。

3:恐らくプログラム
一発目のメッセージを自動生成しているのではないかと思われるほど類似のスパム・メールが大量に届く。驚くことに24時間(いつ寝ているのか)、 素晴らしいペースでメールを投げてくる。



2も3も、とにかくポイント減らしのためにある。たとえば「Subject:大至急連絡下さい」だけ。あわててURLを開いてメールを閲覧すると、「確かに今日でしたっけ?」などとつまらない用件でしかない。かくて「あちら側」の出会いは遅延に遅延を重ねるのだ。

デートの当日も、メールでドタキャンされるかも、とやきもきする。新着メールを調べたら案の定、「大至急!どうしても連絡したい事が!」ときている。さぁ、どうする。無料ポイントで会おうというのががめつすぎた。これは事実上、追加ポイント購入の請求なのだ。えいやっとクレジットカードで最低限の3000円分を購入してみる。

そこで不思議なからくりが透けて見えてくる。サイト側は、利用者に会員番号(恐らくクレジット側の決済整理番号)を通信させ、提携するクレジット決済代行のページに行かせて「ドル建て」で決済させる。このてのサイトはクレジットカードの決済を自ら行うと、すぐ足がつくため決済代行会社を通すのだろう。円建てでないのは海外のトンネル会社にいったん決済させ、海外で資金をプールするためと思われる。ささやかながらマネーロンダリング(資金洗浄)であり、出会い系サイトに詳しいライブドア幹部が香港を使った資金還流操作を重ねたのも、こういう素地があったからだろうと思える。

とにかくランデブーに至るまでが大変だ。自称「美紀」から次々にメールが届く。



「帽子だけじゃわからないと思います。私の方の目印を教えておきますのであなたから声をかけてもらえますか?私はそこは行った事がないので、連絡取れるようにしてもらえますか?」

「場所はナビで分かると思うのですが、中が分からないので会えるか心配なんです。広いんですよね?」

「わかりました。では14時に入り口右の方のソファでいいんですね?先に受付してるんですか?」

「わかりました。あと、逆援希望でしたか?金額の事について聞きたいんですけど・・・」



さて、いよいよ正体を現したかに見えるが、この「冬ソナ」ゲームの結末やいかに。それは次回に……。

ウェブ進化論5――ひとりシリコンバレー

「R30」というブログサイトが、いち早く2月7日に梅田望夫氏の新著「ウェブ進化論」書評を書いている。そこでは「この本は、おそらく梅田氏が日本に来るたびになんども口を酸っぱくして説明している日本のエスタブリッシュメント層の人々、なかんずく大手メディア企業の幹部を想定読者として書かれたものだろうと思う」とあって、「ネットで梅田氏のブログや講演録をリアルタイムで読んでソーシャル・ブックマークしているようなネット住民」に対して書かれたものではないと言い切っている。

要は、遅れたオッサンのための啓蒙本といいたいらしい。かつて新聞メディアに属していて飛び出した私のような人間も、この「想定読者」に入っているのだろう。R30さんのような「ネット住民」からは、遅れた人間=エスタブリッシュメント層とみなされているのかしらん。ちょっと心外である。いくら口を酸っぱくされても腑に落ちないからといって、エスタブリッシュメント層と等号で結ばれるのは納得がいかない。おいら、もう権力でも何でもないぜ。

さだめしR30さんも、ご本社から買い戻し条件付きでやってくる落下傘サラリーマンの上司に辟易して、反エスタブリッシュメント感情に駆られた経験をお持ちなのだろう。さて、彼の書評の着眼点はとても示唆的なのだけれど、我田引水である。梅田氏の「ウェブ進化論」は「ある非常に重要な一点のことが、なぜかこの本には書かれていない」というのだ。



書かれていないこととは、Googleの本当の功績が、「ネット上での情報の組織化の効率性を現実世界よりも高めるイノベーション競争に火をつけた」ことにあるという点だ。



噛み砕いて言えば、シリコンバレーで花咲いた90年代ネットブームは、所詮はカリフォルニアのカフェ・サロンや友人のネットワークに依存していて、技術革新とカネの「順列組み合わせ」の猛烈なスピードとミスマッチを起こした。ところが、グーグルとブログの登場で「個々の技術者やビジネスマンの持つ、無数の技術とアイデアの順列組み合わせ、つまり『情報の組織化』が、ある日突然現実世界を介さずともネット上だけで効率的にできることを、人々が発見してしまったのだ」という。

そこから彼の得意のマーケティング論に話題をひっぱりこんでいく。しかし、梅田氏の本にも同じことが書いてなかったろうか。マイクロソフトやヤフーはじめ大企業がいくらネットの「こちら側」を囲いこんでも、「あちら側」では「ありとあらゆるリソースが自在に融合され始めている。それがWeb2.0の核心だ」と論じているから、その限りで二人は軌を一にしている。だが、R30氏は「こちら側」で行われていた順列組み合わせが「あちら側」へ移行し、グーグルという仮想空間が「ひとりシリコンバレー」に変じたと見るのだ。



社内に5000人ものPh.D取得者がいて研究開発を行っており、情報共有をしてイントラネット上で「順列組み合わせ」を試す。いけると直感したら小さなチームで猛スピードの開発を進め、 それらの中から「マーケットにインパクトがありそうなもの」を順番に“上場”(サービスリリース)していく。

これって、「シリコンバレー」の仕組みそのものではないか。かつて多くの技術者とキャピタリストが集まっていたサンノゼのカフェは、今や Googleのイントラネットの中、そしてGoogleが提供するインターネット・アプリケーションのプラットフォーム上に移ったのだ。恐ろしいことである。



この「ひとりシリコンバレー」の発想は面白い。でも、「わいがやカフェ」があちら側にいって出会いのスピードが上っただけなのに、何をそんなに恐れることがあろう。こちら側には「遅れたニンゲン」が取り残され、縁台で詰め将棋でも打っているしかないのだろうか。大企業の列強に支配された不毛の旧世界を離脱した「あちら側」には自由人のベンチャーの新世界が待っているのだろうか。

前回書いたように市場は夢からさめつつある。市場のグーグル像はすでに、金の卵を産み続けられるかどうかという金融の論理に試されている。にもかかわらず、梅田氏のように夢を追ってグーグルを偶像化すると、世人を惑わしかねないと私は危惧する。挑発的に言えば、「ウェブ進化論」を3回で中断して「ウルトラ・ダラー」論を連載したのも、FACTA(事実)が「こちら側」にしかなく、グーグルでは永遠に到達できないことを示すためだった。

手嶋氏のノベルだけでなく、その基盤になった情報収集(インテリジェンス機関から大手メディアまで)は、すべて「こちら側」に属している。検索語がみつからなければ、グーグルではファクツをかすめることすらできないだろう。なるほど、引用したウォールストリート・ジャーナル(WSJ)やBBC、フィナンシャル・タイムズ(FT)の記事は、ウェブでも有料または無料で探せる。だが、「100倍楽しむ」で書いたような道案内がなくて、あなたはワシントンの省庁横断チーム「北朝鮮作業グループ」(NKWG)の包囲網工作をあぶりだせましたか。

どんな国のインテリジェンス機関でも、クリックして機密情報が入手できるなどと安易なことは考えていない。それと同じく、機密を包む巨大な「影の構造」もまた、ウェブを検索して走査する素人たちには感知できない。ネットに棲息する膨大な数の陰謀史観論者、新聞や通信社の垂れ流す断片情報に無用のコメントを流すブロガーたちの存在が、その不可能を証明している。

が、直ちに反論が来そうだ。そういうお前がブログに書いたからには、もう検索できるではないか。だから「グーグルの勝ち」だ、と。その通りかもしれない。オープンソース(公開仕様)という雑食獣は、そこに出入りして書き込んだり、足跡を残すだけで、それ自体が情報のデータバンクになってしまう。ミイラ取りがミイラになる世界である。

しかし「こちら側」と「あちら側」でマーケティングのヘ理屈を言いあってもしようがない。「あちら側」の出会い、その順列組み合わせのスピードが高速化しただけでなく、組み合わせの質が変わったのだ。その変化とは、出会いの不可能性である。そこで思い立った。ひんしゅくを買うかもしれないが、ホリエモンのような渋谷ビット・バレー族を生んだ日陰のアダルト、「極悪」の出会い系サイトを探訪してみよう。

ケータイのメールだって立派なインターネットである。R30氏が言うように、Web2.0で「出会い」の場があちら側に移行したのだとしたら、出会い系サイトも同じはずだ。だが、Ph.D5000人が背後に控えるグーグルの「ひとりシリコンバレー」には比ぶべくもないとはいえ、この「ひとり欲望ランド」の向うにも「見えざる手」が隠れている。それゆえ、韓流のすれ違いドラマ「冬のソナタ」のように、どこまで行っても現実に遭遇しない。

さあ、梅田さん、出会い系という思いっきり貧相な「あちら側」を見れば、グーグル幻想もさめるのではないか。それに、日本のネットビジネス戦略がダメだとしたら、大企業の無理解だけでなく、アダルトの尻尾をいつまでも引きずっているからだと思える。次回からご案内しましょう。題して、出会い系の「冬ソナ」――。

ウェブ進化論4――グーグルの株価急落

3月1日の手嶋龍一氏の出版記念パーティで、何人かから梅田望夫氏の新著「ウェブ進化論」について書いたシリーズのコメントをいただいた。

「いいかげんにしないと、梅ちゃん、気にするぞ」
「野次馬として読めば、面白いけどね。『知のネオコン』なんて、痛烈なことを書くから」
「ふふふ、彼のミケンのしわ、思い出しちゃうなあ」

これには困った。彼の大胆な問題提起に、オッサンが精一杯背伸びして応えているつもりだったが、新米ブロガーが年齢も省みず、年下の先輩ブロガーをいたぶっているかのように思われちゃいけない。若造をいじめるなんて気持ちはないからご安心を。朝日やITproなどで彼自身がインタビューに出ているので、異論を唱えて少し盛り上げ、エールを送ったつもりだった。こちらも本気で書かないと失礼、と考えたまでである。所詮は年寄りの冷や水だから、あれで矛を収めようと思った。でも、そうもいかなくなった。

理由は梅田氏もお分かりだろう。彼にとっては「偶像」であるグーグルの株価が急落しているからだ。2004年のナスダック株式公開(公開価格85ドル)からほぼ一直線に高騰、この1月11日には475ドルの高値をつけた。それからである、坂道を転げ落ちるように値を下げだしたのは。現に「ウェブ進化論3」をこのブログに掲載した翌日の2月28日、グーグルのCFO(最高財務責任者)、ジョージ・レイエスの発言を材料に急落し、一時、前日比1割安の340ドルを割りこんでしまった。

さあ、この落とし前、どうつける?私は金融記者育ちだから、この相場の現実と梅田氏の描くグーグル像の落差を見逃すわけにはいかない。梅田氏が株価をどう説明するかにそもそも興味があったのだが、一時の「相場のアヤ」と一蹴するなら救いがない。私は、レイエス発言はグーグルにとって本質的な問題を露呈させていると思う。



「とどのつまり(At the end of the day)、成長は遅くなるだろう。だしぬけに来るか、って?そいつは疑わしい。私はすっかり弱気になったわけじゃないよ。これから先もすごく成長すると思う。伸び率の問題なんだよ」



ファンドやアナリスト業界にも数多いグーグルの“信徒”たちには心外かもしれない。たったこれだけの言葉でグーグルの神話が終わったかのように言われるのは、市場の過剰反応ではないかと。SEC(証券取引委員会)などのファイリングにグーグルが提出している書類でも、成長の鈍化見通しに触れているのだから。だが、すでに新聞でも報じられているが、そんなに根は浅くない。株価が急落した経緯のおさらいのために、熊本日日新聞と新潟日報に寄稿した自分の記事を引用しよう。



急落のきっかけは、ブッシュ政権がインターネットのポルノを規制するため、グーグルなどに数百万件の検索記録の開示を求めたことだ。MSNやAOL、ヤフーは応じたが、グーグルは「プライバシーを侵害しかねない」と突っぱね、市場は司法省との対決を危ぶんだ。

グーグルはしかし、海外で一見それと矛盾した決断を下す。1月24日に中国で中国語版の新しいサイトを開くと発表したのだが、共産党批判を極度に警戒する中国政府のネット検閲に譲歩し、反体制的な内容のサイトを除外したサービスを提供することになった。創業者2人が宣言していた「ネット直接民主主義」の原理への裏切りとみなされ、グーグル神話に傷がついてしまう。

1月末に発表された四半期(05年10~12月)の業績でも、慈善寄付などを除いた純利益が一株1.54ドルと市場の予想を大幅に下回った。グーグルは実効税率が高くなったことを理由にあげたが、客を奪われたマイクロソフトやヤフーなどライバルの猛追を市場は懸念し、広告収入の利が薄くなる前兆と読んだのである。



ここで話題になったのが、スイスのスキー・リゾート地ダボス(「魔の山」の舞台)で毎年1月に開かれる世界経済フォーラムである。政治やビジネスのセレブが一堂に集まるので、顔を売りたい俗物がぞろぞろ――今年は日本から中川秀直自民党政調会長らが馳せ参じた。私も90年代に取材で一度行ったことがあるが、あのスノビズムに吐き気を催した。ま、政財界人を集めた一種のカンヌ映画祭みたいなもので、媚を売るのはトップレスの女優の卵でなく、下心むきだしのビジネスマンばかりと思えばいい。

ほとんど常連となっているマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツは今年も現れた。グーグルの会長兼CEO(最高経営責任者)エリック・シュミットの前で痛烈な嫌味を口にする。グーグルの“黄金の十戒”の一つ「悪事を働かずとも金もうけはできる」は、「ご都合主義の戒目ではない」と言い放ったのだ。手を汚さずに稼ぐなんてええかっこしいをするな、というのだろう。マイクロソフト一人勝ちの強欲がたたって、「ITの旗手」の座をグーグルに奪われたウサを晴らしたのだろうか。「魔の山」の悪魔的な逆説家セテンブリーニの足元にも及ばない、彼の性格の悪さを物語るエピソードである。

マイクロソフト自身、法輪功などの浸透を警戒する中国に従い、反政府的な中国人ブロガーのサイトを閉鎖したばかりだ。ゲイツのこの露悪発言に、しかしグーグルは歯切れが悪かった。同じ“十戒”には順法もあるので、中国でも「郷に入れば郷に従う」という。制約があっても中国版グーグルがないよりはまし、という論理である。13億人の市場を前に背に腹は代えられないという判断は、ごく普通の企業だということの証明である。だから、先の2紙に書いた私の記事の結論はこうなった。



しかしこれは、グーグルが見ていた「夢」の終わりである。彼らは「ネット上で増殖し続ける情報のすべてを整理する」という神のような野心を持っていた。検索で最適の情報を探しあてるアルゴリズム(計算方式)が、記憶容量に限界があるうえに恣意の入る人間の頭脳よりましと信じていた。だが、この無私のアルゴリズムに「恣意」の検閲を忍びこませたら、グーグルの「神の死」でなくて何であろう。



梅田氏にとっても、グーグルの変貌は「神の死」ではないのだろうか。

「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ5――ひと筋の赤い糸

そろそろ、この「メイキング・オブ・ウルトラ・ダラー」もフィナーレにしよう。手嶋龍一氏のノベルとFACTA(事実)の比較考証を続けていけば、きりがなくなるからだ。最後は思い切って直近のトピックにする。

この1月26日、ブッシュ米大統領はホワイトハウスで記者会見に臨んだ。ひとりの記者から「昨年、あなたの政府は北朝鮮に対し一連の経済制裁を課しました。現在、北朝鮮はこの制裁が解除されない限り、核問題交渉のテーブルに戻らないと言っています。韓国もこの問題をめぐる議論に警告を発しています。北朝鮮を交渉に就かせるために、制裁を解除か中断、もしくはなんらかのジェスチャーを示すことを考えていますか」と聞かれて、大統領はこう答えている。



「実は、君の言わんとしていることは、我々がやろうとしていることなのだ――我々は不正活動によって偽造された貨幣の密輸を遮断しようとしている。誰かが我々の通貨を偽造しているなら、我々はそれをやめさせたい。だから北朝鮮に厳しく(aggressively)言っているのだ。要は――我々の通貨を偽造するな、と。不正活動を防ぐため、我々は他国と協力している。それは経済制裁とは別問題だ」



ここでいう経済制裁とは、昨年9月15日に米財務省が愛国法311条を発動、北朝鮮の資金浄化の出先機関とみなすマカオの「澳門匯業銀行」(Banco Delta Asia SARL)を同法の「第一級資金浄化組織」に指定したこと、さらに10月21日に大量破壊兵器拡散に関与したとしている北朝鮮関連組織8団体の資産を凍結したことを指す。が、大統領が「別問題」というのは、おそらく国務省主宰の省庁横断チーム「北朝鮮作業グループ」(NKWG)による偽札や麻薬、覚せい剤密造の摘発など包囲網工作のことだろう。そのチーフだったデーヴィッド・アッシャー氏が、この大統領会見の6日後の2月1日にそれを説明する講演を行ったのは偶然ではあるまい。

ワシントンのシンクタンク(American Enterprise Institute)で彼が講演した「ブッシュ政権の対北朝鮮政策」である。彼は昨年7月に国務省を去っていて、現在はNKWGの当事者ではないと前置きしながら、澳門匯業銀行のマネロン組織指定と、偽札を西欧に持ち込んだ「正統IRA」の摘発が北朝鮮を震撼させ、6カ国協議参加を渋らせたと指摘している。「ウルトラ・ダラー」でも、ダブリン経由の偽ドル札密輸とマカオのマネーロンダリングを結ぶ一筋の赤い糸が浮かぶが、手嶋氏の単なる想像力の産物ではないことをアッシャー講演は証言したにひとしい。

アッシャー氏は周到に進めてきた過去4年間の工作を踏まえて、自身を「タカ派」ではなく「リアリスト」と呼ぶ。そのリアリストの目で「5つのポイント」を提示するのだが、それはジグザグを繰り返す小泉外交、あるいは過去の日本外交への教訓ともなる。



1)北朝鮮へのアプローチは、こちらの願望に沿って相手国を見るのでなく、あるがままを直視する必要がある。

2)北朝鮮の大量破壊兵器拡散は単なる脅威ではなく現実である。彼らは越えてはならない一線などほとんど顧慮しないから、より攻撃的な防衛手段を講じなければならない。

3)パウエル前国務長官が指摘したように、「核では食えない」ことを北朝鮮に思い知らせなければならない。いかに濡れ手でアワでも、犯罪行為と大量破壊兵器拡散に手を染めていては長くサバイバルできない、とさとらせるのだ。

4)「主体」思想が破綻した北朝鮮に「大胆な戦略転換」を迫ること、それは金を与えて遠ざける(buy off)ことではない。指導層を肥えさせるのでなく、共産主義経済を根本的に資本主義に切り替え、国民のニーズ(産業や雇用)を満たすべきだ。

5)北朝鮮誘導策(インセンティブ)の構造が変らない限り、外交的進展もありえないということを、太陽政策を支持する人々は理解すべきである。北朝鮮指導者が「月光(密売)経済」に依存している限り、どんな誘導策も真剣に考慮するに足りない。



イソップ童話の「太陽と北風」から来た「太陽」(Sunshine)と、月夜の薄明かりで密造酒をつくる「月光」(Moonshine)とを対照させた洒落は面白い。これは間接的には金大中―盧武鉉と続く韓国の容「北」路線を認めないと言うにひとしく、6カ国協議など外交努力の枠の外側で資金洗浄などの拠点を一つ一つつぶしていくという決意表明だろう。その視線の先には中国がある。アッシャー講演では、北朝鮮の不正活動には通例、中国の協力者が絡むとしていた。「ウルトラ・ダラー」でも、英国人の主人公に日本の女性官房副長官が「中国の外交はため息がでるほど老獪」と語らせている。



「強大な力を持つ者とどう付きあうべきか、中国人の現実感覚からすれば、ここは慎重にと言うわけなのでしょう。それだけ歴史の風雪に鍛えられているんです。(中略)芸術的なほど老練な手口でしょう。スティーブン、全盛期の英国外交を見ているようじゃない」



しかしアメリカも負けていない。澳門匯業銀行に愛国法331条を適用した昨年9月の財務省発表では、03年のミャンマーの銀行、04年のシリア銀行、同年のキプロスのトルコ系銀行、ベラルーシの銀行、05年のラトビアの銀行と過去の331条適用例を箇条書きにしている。包囲網は確実に狭まっているのだ。そして日本――。



●1月23日、警視庁はヤマハ発動機が無人ヘリコプター「RMAXL181」を中国解放軍に近い北京必威易創基科技有限公司に輸出しようとしたとして外為法違反で摘発した。

●2月13日、警視庁公安部は川崎の精密測定機器メーカーのミツトヨが、核兵器開発可能な三次元測定機器を中国とタイに無許可で輸出したとして家宅捜索した。

●2月27日、門司会場保安部などは、韓国に無許可輸出した中古船舶が北朝鮮の不審船に転用されたとして、宮城の松島海運社長を外為法違反容疑で逮捕した。



これらは一筋の赤い糸で結ばれているのではないか。そして昨日(3月3日)、金融庁は韓国外換銀行に対し、「地下銀行」に関与したとして在日支店の海外送金業務を3カ月停止する行政処分を行った。それはクレディ・スイスとUBSというスイスの二大銀行が1月、 北朝鮮・イラン・シリアなど「ならず者国家」とは取引しない方針を決めたことと裏表の関係にあるのかもしれない。その先は「ウルトラ・ダラー」には書いてないが、ライブドア摘発も香港のマネロンが震源であり、その情報をアメリカから提供されたからこそ、東京地検も摘発できたのではないだろうか。ホリエモンを塀の内側に落としたのはNKWGかもしれないのだ。

では、アメリカの包囲網は北朝鮮を締め上げるだけなのか。アッシャー講演では、微かな希望は金正日総書記が1月の中国極秘訪問で経済改革を協議したこと、そして張成沢(チャン・ソンテク、朝鮮労働党中央委員会第1副部長)が復権したことではないかという。張成沢は金正日総書記の妹の金敬姫の夫で、金正日の側近中の側近だったが、03年10月以降消息が途絶え、分派活動を疑われて失脚したと伝えられていた。それがこの1月29日の朝鮮中央通信で復権が判明したのである。その謎解きは別の機会にしよう。

なるほど、「ウルトラ・ダラー」は続編を書くべきなのだろう。手嶋氏に尋ねたら、満更でもない顔をしていた。たぶん、もう続編の構想を練っているのかもしれない。

「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ4――ウクライナの風穴

「どうでしょう。主人公のBBC特派員は、『シネマ紀行』と題して映画の舞台を訪ねる番組づくりを口実にして、パリやモスクワへ出張する、という筋立てなんですが。パリはマルセル・カルネ監督の『北ホテル』。モスクワはどんな映画にしたらいいでしょう」

アメリカからの電話で、やぶから棒にそう聞かれたら誰だって面食らう。手嶋龍一氏のひらめきは時に飛躍するのだ。苦し紛れにニキータ・ミハルコフ監督を挙げた。だって、日本人はチェーホフが好きでしょ。「黒い瞳」「太陽に灼かれて」「シベリアの理髪師」。でも、いちばんは「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」かな。あとはどんどん通俗化していくけど……。

手嶋氏はいつのまにか主人公になりきっていた。「モスクワはどのホテル?」。バルチュグ・ケンピンスキー?メトロポール?いや、五つ星でなくていい?うーん、じゃ、設備は古くて快適じゃないけど「ウクライナ・ホテル」は?今じゃ平壌あたりでしか見られない、ばかばかしいほど壮大で愚劣なスターリン建築様式だけど、いかにもソ連っぽいよ。電話の向うの手嶋氏は、「ウクライナ」という名にぴくりと反応した。

彼の新著「ウルトラ・ダラー」では助言どおりの設定になったが、「ウクライナ」はキーワードだったのである。「オレンジ革命」を覚えているだろうか。2004年末、大統領選挙の不正に抗議するゼネストで再選挙となり、ダイオキシンを盛られて形相が一変した親欧米派の野党候補ユシチェンコが逆転当選した無血革命である。首都キエフを埋めたオレンジの旗を、西欧メディアは諸手をあげて歓迎した。

すぐさま、クチマ前政権の弾圧と腐敗の追及が始まる。この革命から約2カ月半、昨年3月18日の英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)の記事は、世界を凍りつかせた。スヴャトラフ・ピスクン検事総長が「前政権がX55巡航ミサイルをイランに12基、中国に6基売却した」ことを認めたという。中東と極東の軍事バランスが一変することを予見させるスクープである。親米欧政権誕生でウクライナに入った米国などのインテリジェンス(諜報)機関が、ウクライナ検察当局と協力して漏洩を確証したのだろう。



核弾頭搭載可能な設計だが、密輸出されたミサイルはどれも搭載してしない。しかし、日本とアメリカは、旧ソ連の兵器庫から重大な技術漏洩が起きたらしい事態に憂慮を表明している。X55は射程距離が3000キロあり、アジアで大陸から発射すれば日本を、イランからはイスラエルを射程内に収める。(中略)キエフの米国大使館は捜査の行方を「注視」しており、秘密裁判の中身の公開を求めている。日本の天江喜七郎大使も、(中略)巡航ミサイル問題は前政権によるジャーナリスト暗殺より一段と深刻であり、「事件を秘密のままにしておけば新政権は世界の信頼を失う」と述べた。



巡航ミサイルといえば、代表は米海軍の「トマホーク」だろう。湾岸戦争でもアフガニスタンやイラク侵攻でも、洋上の艦船から次々に発射されて、数千キロ先の標的に命中させていた。内蔵する誘導装置で軌道を修正しながら地表すれすれに飛んでくるため、対空兵力で撃ち落すのは至難の業だ。軍事超大国アメリカの他国との「圧倒的非対称」は、巡航ミサイルに負うと言っても過言ではない。

だが、その強みも“敵”の手に渡れば最大の脅威となる。ウクライナから密輸出されたX55グラナト(Kh55、またはAS15と呼ばれる)は、ソ連軍部がトマホークを模倣してつくった「そっくりさん」(写真)である。ソ連崩壊後、ウクライナに配備されていた1000基のミサイルのうち半分が廃棄され、半分がロシアに返還されたが、残っていた巡航ミサイルを入手したとすれば、台湾海峡を挟む軍拡競争がにわかに中国優位に傾きかねない。

中国外交部は公式には密輸を否定している。ウクライナのX55漏出を報じた「西貝軍事」(05年3月19日)の記事は削除されて読めなくなった。しかし、中国のサイト「博訊新聞網」(05年3月24日)の「鳥克蘭X-55遠程巡航導弾対中国的戦略意図」(中国の戦略意図にとってのウクライナのX55)では、X55の導入で開発中の国産巡航ミサイル「東海10号」の命中精度が上がると見ている。9・11の朝、ワールド・トレード・センターにいて逃れたという稀有な体験を持つ保井俊之氏の力作「中台激震」によると、記事はその戦略的意義をこう解説している。



「日本全土と米軍グアム島基地などにおける日米同盟の防衛システムにとって重大な脅威になる」。そしてこのミサイルが中国空軍の戦闘機に搭載されれば、「米国空母戦闘群の防空火圏の外からの、米空母に対する有効な威嚇となる」。「日米海軍が台湾情勢に干渉してくるのを防ぐ有力な武器となる」。



大陸間弾道弾(ICBM)と違ってイージス艦でも追尾が難しく、日米政府が巨費を投じるミサイル防衛システムも無力化してしまう巡航ミサイルは、日米安全保障の根幹を揺るがす。すでに04年11月、ワシントン・ポスト紙が「中国は国産早期警戒機(AWACS)を試験飛行中」と報じており、ウクライナに一点だけ“風穴”があいたおかげで、北京が巡航ミサイルとAWACSの両方を手にする日は遠くないのだ。

台湾の陳水扁政権が「国家統一綱領」と「国家統一委員会」を撤廃して「一つの中国」を放擲しようとしていることも、イランの核開発にアメリカが戦争も辞さない強硬な姿勢をとるのも、ウクライナで漏出したX55の余波と見えなくもない。

手嶋氏はそれを踏まえて、「ウルトラ・ダラー」で大胆な仮説を持ち出す。北朝鮮は偽札製造によって得た資金で何を買おうとしているのか、と問われたシークレット・サービスの女性「偽札ハンター」にこう言わせるのだ。



「核弾頭を運ぶ長距離ミサイル。そう、人類を破滅に導きかねない大量破壊兵器を手にする資金に充てようとしている――私はそう確信しています。そして、北朝鮮が手にした核ミサイルの刃は、やがてここワシントンにも向けられることになりましょう」



中国のみならず、北朝鮮が核巡航ミサイルを手にしたら……戦慄する仮説である。日本は裸同然である。「偽札狩り」が実は「大量破壊兵器狩り」であることを手嶋氏は示そうとしている。このノベル全体がそのアレゴリー(寓意)なのだ。物語の背後にあるFACTA(事実)を読み取る人は、東アジア安保の柱石――キッシンジャーと故周恩来が編み出した米中「上海コミュニケ」と、台湾の地位をめぐる米国の「あいまい戦略」が空洞化する日が、眼前に迫っていることを覚悟しなければならない。

「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ3――女「偽札ハンター」

昨夜(3月1日)、東京の帝国ホテル桜の間で開かれた、手嶋龍一氏の「ウルトラ・ダラー」出版記念会は盛会だった。新橋の綺麗どころも顔をそろえ、物語の舞台をあしらったドラマ仕立ての映像や篠笛演奏、チャリティ・オークションなど盛りだくさんの内容だ。私も数多くの知己にめぐりあう僥倖にあずかった。

さて、本題に戻ろう。映画俳優クリント・イーストウッドは、「夕陽のガンマン」や「ダーティ・ハリー」のタフガイより、渋みのあるジジイを演じる老境の今のほうが味がある。監督・主演を兼ねた「ミリオンダラー・ベイビー」は、アカデミー賞にふさわしい傑作だと思った。もうひとつ思いだすのは、暗殺を防げず引退した元護衛官が、新たな狙撃犯の出現で老骨にムチ打って現場復帰する「ザ・シークレット・サービス」(1993年、原題In the Line of Fire「火線に身を挺して」)である。

大統領を乗せて徐行するオープンカーを囲んで、護衛官は並行して道路を走らなければならない。はあはあ息を切らし、脂汗を流す老残の姿は、青年の体力を失った自分も身につまされる光景だった。そうしたイメージからアメリカのシークレット・サービスは要人警護の専門家集団とばかり思っていたが、違うらしい。手嶋氏の新著でもうひとつの使命があるとはじめて知った。

実は「偽札ハンター」でもあるのだ。というより1865年の誕生時は「偽造通貨取り締まり」が組織の主目的で、大統領警護を非公式に始めたのは1901年以降だから、こちらのほうが本職と言っていい。長く傘下にあった財務省から「9・11」後の省庁再編で国土安全保障省のもとに移された。CIAやNSA、FBIなど連邦政府の巨大インテリジェンス(諜報)組織のなかではもっとも小ぶりだが、現在はクレジットカード不正使用や、コンピュータ犯罪、ID書類偽造なども手がけるほど対象範囲が広がっている。

もちろん、北朝鮮製の偽ドル札は彼らの主管である。BBCの調査報道番組「パノラマ」の取材班は、ワシントンに飛んでシークレット・サービスの捜査官にインタビューしているし、モスクワ―ダブリン経由で偽ドル札を持ち込んだ容疑でIRA分派の党首の身柄引き渡しを求めたのも彼らである。手嶋氏の「ウルトラ・ダラー」でも、シークレット・サービスの女性主任捜査官が重要な役をつとめる。ポトマック河畔のビルで開く各省庁横断の副長官会議で説明に立ち上がった彼女を、手嶋氏の筆致は魅力的に描き出す。



黒髪に、黒の瞳。スリムなボディにぴったりした黒いスーツ。時にハスキーに響くほどの低い声。左の袖口からは、大統領の警護官が持つミリタリー・ウォッチ、ルミノックスが覗いている。身長は百七十三センチ。かなりの美形といっていい。



作中ではオリアナ・ファルコーネという名だが、どうやら実在の人らしい。2004年9月、シークレット・サービス史上はじめて女性で副長官に指名されたバーバラ・リッグスがモデルかと思ったが、別人と重ねあわせてあるようだ。そちらの実名は明かせないが、不思議な名前だった。姓はラテン系(イタリア?)だが、名はドイツ風なのだ。グーグルの「イメージ」で検索すると、うーん、やわな男など撃沈させられそうな女性である。

ふと冬のドイツの空のした、大きく蛇行するライン川の難所「ローレライの岩」を連想した。川端の巌には魔女が棲み、金の櫛で髪を梳(くしけず)りながら歌を歌う。つい水夫が聞きほれると、水面下に隠れた岩礁に船底を切り裂かれ、渦に吸い込まれてしまう。そんな詩をハイネが書いた。偽札のローレライは、平壌の工作船を沈めるために何を歌うのだろう。

2005年6月1日、米経済紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)に「北朝鮮の偽造品に照準」(North Korea’s Counterfeit Goods Targeted)という見出しの記事が掲載された。見出しは地味だが、平壌は背筋が寒くなったろう。



北朝鮮の核開発危機が深まるにつれ、ブッシュ政権下の省庁間横断チームが、東アジア諸国政府とともに、平壌が手を染めていると目される偽造たばこ、偽薬品、偽造通貨の盛んな取引を封じようと動きだしている。

シークレット・サービスも、アジアの偽ドル札製造に関わっている疑いで、北朝鮮企業の犯罪捜査を行っている、と捜査関係筋は語る。捜査が進めば、北朝鮮企業が違法ビジネスの嫌疑でアメリカの法廷で起訴される初のケースになりそうだ。



この記事でコリン・パウエル前国務長官の側近が明かすのは、チームの目的が「金正日(総書記)が交渉のテーブルにつかないなら、北朝鮮経済の生命線をばっさり遮断できることを示す」ためのものであり、それが「不正活動イニシアチブ」(Illicit Activities Initiative、または北朝鮮イニシアチブ)と呼ばれていることだ。

チームは「北朝鮮作業グループ」(North Korean Working Group)と呼ばれ、国務省東アジア太平洋局が主宰し、財務省や国防総省、シークレット・サービス、CIAのスタッフが加わっている。そのチーフが国務省顧問の北アジア専門家、デーヴィッド・アッシャー氏である。アッシャー氏は1980~90年代に東京に住み、「北」系の在日朝鮮人のビジネスを調査していた。手嶋氏のノベルの主人公や、その友人のシークレット・サービス捜査官の面影には、その彼が投影されている気がしてならない。

WSJによれば、アッシャー氏はここ数年、朝鮮族が多く住む中国東北部(旧満州)の国境地帯などを視察し、北朝鮮の海外ビジネスを内偵してきた。9・11以後、パキスタン、イラク、イラン、リビアなどへのミサイル売り込みが困難になり、窮したあげく偽札から偽バイアグラ、ヘロイン、アンフェタミン(覚せい剤)まで何でもありの不正取引で外貨を稼がざるをえないと見透かして、包囲網を敷いたのだろう。チームが満を持して、ヒドラ(多頭蛇)の鎌首を一つ一つつぶし始めたのは、2004年の後半からに見える。これはBBC「パノラマ」の報道時期とも平仄(ひょうそく)があう。

2004年8月、アメリカのシークレット・サービスは台湾の偽物摘発特務班(タスクフォース)と協力して、14万ドル相当の偽ドル札を押収した。台湾の捜査当局者は、北朝鮮が流通させた偽札は総額2000万ドルにも及ぶとみられ、ごく一部が見つかったにすぎないとしている。また同年12月には、韓国の釜山港に北朝鮮経由で入港した中国船籍貨物船から偽造タバコ290万箱(590万ドル相当)が押収された。「マルボロ」「ステート・エクスプレス555」に混じって、わが日本の「セブンスター」も大量偽造されていたのである。

辣腕の女性主任捜査官も先陣に立って、じりじり北朝鮮を追い詰めているのだ。女傑ファルコーネは想像の産物ではない。FACTA(事実)である。

「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ2――マカオへの鉄拳

手嶋龍一氏の新作ノベル「ウルトラ・ダラー」の源流探しを続行しよう。

BBCが北朝鮮製偽ドル札の欧州流入を報じた2004年6月といえば、小泉純一郎首相が固い表情で二度目の平壌訪問を実現した直後であり、第三回の6カ国協議も打開の糸口を見出せず、拉致問題も核開発も進まない北朝鮮に日本はうんざりしていた。BBCのスクープも、1990年代に北朝鮮が製造した偽ドル札「Kノート」の二番煎じ、としか見えず、日本の反応は鈍かった。

だが、この一点の「影」がどれだけ大きな積乱雲となって天を覆うか、やっと知れたのは2005年9月8日になってからだろう。米経済紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が、ブリュッセル、マカオ(澳門)特別行政区、ワシントン駐在の3記者の共同執筆で「アジア系銀行と北朝鮮のリンクを米国が調査中国、マカオの金融機関が不正資金調達網への関与で調査される」という記事を掲載したのである。

WSJ記事の衝撃は、疑惑のアジア系銀行を名指ししていることだった。中国4大商業銀行の一つ「中国銀行」(Bank of China)と、マカオの「澳門匯業銀行」(Banco Delta Asia SARL)、「誠興銀行」(Seng Heng Bank)だった。背後には明らかにアメリカの意志がある。

日本のネット掲示板では、WSJを丸写した新聞記事をコピー&ペーストしたものだから、反中国、反朝鮮のブロガーらは「それみたことか」と喜んだ。でも、原文を眼光紙背に徹して読み、その恐るべき意味を掴んだ人は、どれくらいいるのだろう。

「ウルトラ・ダラー」では、BBC東京特派員の主人公スティーブンのもとに、アメリカのシークレット・サービスの友人が会いに来る。東京・新橋の料亭で2人が東アジアの地図を前に密談するシーンがある。



コリンズは地図の上に赤印のドットを打ってみせた。北の影が黒々と落ちていると思われるマカオ、香港、プノンペンの三都市だった。(中略)香港の商業銀行、マカオのカジノ、それにプノンペンの両替商の3ヶ所がマネー・ロンダリングの舞台になっている。これがコリンズ・チームの見立てだった。



この料亭のモデルがどこかは分かる。手嶋氏と座敷に参じたことがある。だが、書き写していても不思議になる。私の記憶では、このくだりは確かWSJ記事が出るより前に書かれていたはずである。しかし現実に起きたことは、手嶋氏のノベルをなぞるにひとしい。「ウルトラ・ダラー」が予言性を持っていることの証明である。

現実に帰ろう。中国銀行は2002年7月にはその香港部門の持ち株会社が香港で上場し、グローバル・オファリングによって野村證券が売りまくったから日本でも株主が多い。実は、、前行長(頭取)の不正融資がアメリカで暴かれ、米政府が難色を示したためニューヨーク上場の代わりに香港上場でしのいだのである。

2007年には今度こそNY上場の悲願を果たそうと、中国銀行は主幹事に米投資銀行ゴールドマン・サックスを指名した。しかし、北朝鮮の銀行や商社は海外取引のほとんどを中国銀行の口座に頼っており、アメリカは資金洗浄などの温床ではないかと疑っている。恐らく今度も調査に全面協力しなければ「中国銀行のNY上場を認めない」と強談判しているに違いない。

そしてマカオ。ポルトガルの旧植民地で、香港に続き1999年に中国に返還されたが、カジノの営業を許され、北京の“黙認”のもとに資金洗浄のオフショア都市になったと疑われている。名指しされた澳門匯業銀行とは、香港の匯業財経集団(Delta Asia Financial Group)のマカオ拠点である。その会長兼CEOの區宗傑(スタンレー・アウ)は香港金融界の雄で、マカオ特別行政区立法会議員や中国政府の顧問もつとめている、一見恰幅のいいお金持ちである。

ところがWSJによると、裏の顔は違う。1994年、米国のシークレット・サービスとマカオの警察は、共同で偽ドル札を使った北朝鮮外交官6人を逮捕(外交特権で国外追放)して以来、この澳門匯業銀行を米財務省のブラックリスト上位にマークしてきた。澳門匯業銀行も70年代から北朝鮮の銀行・商社と取引してきた事実を認めたものの、不正行為は否定したが、アメリカ財務省次官(テロ及び金融インテリジェンス担当)はWSJ記事の1週間後、この銀行は「マカオ経由で腐敗金融活動に従事する北朝鮮の志願した人質(a willing pawn)」だとして、その不正の数々を並べたてたプレスリリースを発表した。

唯一の超大国が「鉄拳」を振り上げたにひとしい。青ざめたのは澳門匯業銀行の預金者である。取り付け騒ぎが発生、殺到した顧客が長蛇の列を作った。銀行の試算によると、2日間で約3億元(1元=15円)を超える預貯金が解約されたという。マカオ特別行政区政府金融管理局は慌てて冷静を呼びかけ、匯業銀行も北朝鮮との取引停止を発表した。これに伴い、マカオにあった北朝鮮商社、朝光貿易公社(Zokwang Trading Co.)が撤収に追い込まれ、米政府とWSJが組んだ「蛇口閉め」作戦は成功したのである。

そして、もうひとつ誠興銀行。こちらはマカオ観光開発協会(Sociedade de Tourisom e Diversoes de Macau)傘下の銀行だが、何のことはない、船舶や不動産などを手がける信徳集団に君臨するマカオのカジノ王、何鴻栄(スタンレー・ホー)の銀行である。その一代記は波乱万丈だけに、どういう人物かは楊中美の「ゴッドギャンブラー」でも読んでほしい。

ホー自身はWSJの摘発に「身に覚えがない」と空とぼけている。しかし、北朝鮮の金正日一族とは長年にわたる親交を結んでいると言われ、その縁でホーのグループは1999年に金正日の許可を得て平壌にカジノを開くことができた。しかし、怒れる超大国アメリカの拳を中国がかわせないと、カジノ王の座が危うくなりかねないことは、彼もよく承知しているだろう。表向き平壌から手を引くふりは見せるのではないか。

とにかく「ウルトラ・ダラー」は、アメリカの壮大なマネロン網退治作戦とスクラッチ・レースをしているかに見える。今夜、東京の帝国ホテルで行われる「ウルトラ・ダラー」出版記念会にご出席なさる方は、それをよく念頭に入れておいてください。でないと、話題についていけませんぞ。

「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ1――BBC調査報道の真実

3月1日、畏友手嶋龍一氏のドキュメンタリー・ノベル「ウルトラ・ダラー」が刊行される。氏の長編ドキュメンタリーは「ニッポンFSXを撃て」(1991年)、「一九九一年日本の敗北」(1993年)以来だから、実に13年ぶり。彼の愛読者が長く待ちかねた作品で、しかも今回は、フィクションの要素を入れてエンタテインメント性を持たせながら、ぎりぎりまでファクツ(事実)を盛り込むという欲張りな趣向である。

実は本の構想段階から、私も取材協力を頼まれた。彼がNHKを辞めて独立することは聞いていたから、一も二もなく請け負ったが、例によって頭の回転が速すぎて話がぽんぽん飛ぶ彼一流の会話術のなかで、意向をなんとか咀嚼(そしゃく)しようと苦労したことを覚えている。

昨夏の執筆の進行はうらやましいほど速かったが、最終稿に近いものをコピーで見せられたのは12月。おそらく本人ご夫妻と編集者以外では、もっとも早い時期の読者に属していたろう。一気に読んでメールであれこれ注文を送った。いま思えば汗顔のいたりである。私が寄与した取材部分などほんの一かけら、手嶋氏がその幅広い人脈と知見で得た「インテリジェンス」情報の深さと正確さが、ストーリーに迫真すぎるほどの迫力をもたらしている。素直に新しい才能の出現を祝したい。

著者には「阿部さん、FACTAのブログで書評を頼みます」と言われた。むろん断れない。しかしこれほど作品誕生に膚接していて、書評などという白々しいものは書きにくい。といって内輪ボメと底が割れてはこの傑作に失礼だろう。そこで、本人が気に入っているキャッチフレーズ「これを小説だと思っているのは本人だけ」に従って、彼がどんな現実のネタを素材にしてフィクションを紡いだかを明かす、というのはどうだろう。

ネタばれにならない種明かし――考えてみればちょっとした曲芸だ。でも、私が創刊する新雑誌「FACTA」の見本誌で対談に協力してもらった恩義もある。しかも虚構のはずのことが現実に追いかけられるという、稀有なことも起きた。この作品の予言性の証人として、ひとこと証言を残しておく義務もありそうだ。ま、それらのあれこれを知ることが「ウルトラ・ダラー」を100倍楽しむ方法だと思うので、ここに書くfacta(事実)と作品の比較対照とモデル探しは、読者のお楽しみに任せましょう。

作品の主人公はBBC(英国放送協会)の東京特派員スティーブン・ブラッドレーである。「手嶋龍一オフィシャルサイト」には、主人公スティーブンのファン組織「Stephen’s Club」のページを設けているようだ。が、この趣味多彩な独身男は、インテリジェンス(諜報)社会に半身を浸しており、そこから東アジアの緊張の渦中に身を投じる。冗談で私が「記者であり工作員であり恋人であり趣味人であるスティーブンって、英国人の装いをさせた著者本人?」と聞いたら、手嶋氏はにっこり笑って「いえいえ」とかぶりを振った。

が、BBC特派員を主人公に選ぶあたり、彼の周到な筋運びの伏線が引かれている。現実の事件でもBBCは深く関わっているからだ。紛らわしいのでここから先は、作品に書かれていない現実の記述に切りかえよう。以後のBBCは虚構ではなく、現実のBBCである。

2004年6月20日、BBCの調査報道番組「パノラマ」は、北朝鮮が製造した極めて精巧な偽100ドル札(コード名C14342)が、北アイルランドの反英過激派組織IRA(アイルランド共和軍)の分派である「正統IRA」(Official IRA)の手によって西欧社会に持ち込まれていると報じた。これが手嶋氏の作品の源流の一つであることは間違いない。

「パノラマ」は過去にも数々のスクープで知られ、私がロンドン駐在のときは生前のダイアナ妃との独占インタビューで、妃自身が「彼をお慕いしてました」(I adored him)と浮気を認める発言を引き出し、世を仰天させた。04年6月20日の放映分は、今でもトランスクリプション(台本)で読むことができる。これは下手なミステリーよりよほど面白い。



記者/過去10年間、世界の警察は莫大な利益を稼ぐ(with a licence to print money)犯罪カルテルを追跡してきました。彼らはこれまで製造されたなかでもっとも精巧な偽札をばらまいてきました。偽札は本物そっくりで、エキスパートですら見分けられないほどです。

刑事/あれなら銀行でも通用する。旅行用通貨交換窓口も両替店でも現金に替えられる。上出来でね、極めて精巧なんだ。

記者/この偽札は「スーパー・ダラー」と呼ばれています。

服役中の偽札の運び屋の声/こいつは(本物と)同じ紙、同じインク、同じ斑紋で紙に印刷されているんだ。やつら(北朝鮮)の経済にこんなにたくさんあるなんて、冗談としか思えないがね。

記者/何年にもわたって、スーパー・ダラーは英国中の銀行を気づかれることなく通過していきました。



これが冒頭のシーンである。調査は広範囲にわたり、随所に警察が盗聴した録音が挿まれる驚くべき内容だ。「北朝鮮にとってこのプロジェクトは核開発計画とおなじくらい重要だ」という北朝鮮亡命者の声も紹介される。そして2000年にバーミンガムで実施された警察の摘発作戦で、北朝鮮製の精巧な偽ドル札がモスクワからダブリン経由で英国に流入していたことが判明する。

そのルートの中心人物として浮かびあがってきたのが、旧ソ連の秘密警察KGBに属していたらしいバーミンガムのロシア人ギャングと、「ショーン」と呼ばれるアイルランド人だった。「ショーン」の正体は、マルキスト系の「正統IRA」指導者ショーン・ガーランドと判明する。1957年にIRAの仇敵RUC(王立アルスター警備隊)の兵舎を襲撃、同志を救おうと重傷を負った英雄だが、70年のIRA分裂で主流の「暫定IRA」(Provisional IRA、通称プロヴォ)と袂を分かち、77年に「正統IRA」の政治組織、労働者党(Workers Party)の幹事長、2000年に党首となった。BBC記者はその彼にマイクを突きつける。



記者/さあ、あなたについて言われている疑惑に応えるチャンスですが。

ガーランド/(無言)



ガーランドはロシア警察の特別チームに尾行され、モスクワの北朝鮮大使館に入ったことが確認されている。「パノラマ」取材班も、先の運び屋とガーランドが同じ日にモスクワにいたことを航空会社の旅客名簿で確認、モスクワのガーランドにバーミンガムの犯罪組織幹部が電話をかけた記録まで入手している。ガーランドはしかし、番組放映後に疑惑を否定した。それは、この番組の後追いで「サンデー・インデイペンデント」紙が書いた記事への抗議文でも明らかである。

「パノラマ」の内容は衝撃的だったが、この時点でガーランドは逮捕も事情聴取もされなかった。アメリカのシークレット・サービスから犯人引き渡し要請を受け、英国当局がベルファストで彼を逮捕したのは、それから1年4カ月近く後の昨年10月7日だった。輝かしい調査報道と言えるが、警察などの協力はもとより、情報機関のリークなしにBBC単独でこれができたのだろうか。

そして手嶋氏もまた、ガーランド逮捕の10月7日以前に「ウルトラ・ダラー」を脱稿し、そこでも偽札のIRAルートが登場する。これまた偶然の一致とは思えないのだ。

ウェブ進化論3――「離魂」のロングテール

梅田望夫氏の「ウェブ進化論」は、ネット社会の「三大法則」を唱えている。その第一「神の視点」については、前2回で書いた。第二法則「ネット上の人間の分身がカネを稼ぐ新しい経済圏」と第三法則「(≒無限大)×(≒ゼロ)=サムシング」については、いわば彼の福音の「経済学」と言っていい。一言でいえば、理論モデルでしかない「完全市場」がウェブの進化によって現実になりうるというにひとしい。

ケインズの総需要政策から合理的期待形成仮説まで経済学の諸流諸派は、どこかで完全市場を信じながら現実には成立しないというジレンマの上に立っている。だが、グーグルが拓く「新しい世界」(Brave New World)は、梅田氏が期待するように、ほんとうに利益の再配分を可能にする「完全市場」を成り立たせるのだろうか。第二法則を具現するものとして梅田氏があげるのは、グーグルの「アドセンス」である。



自前のウェブサイトを持つ個人や小企業が「アドセンス」に無料登録すれば、グーグルの情報発電所がそのサイトの内容を自動的に分析し、そこにどんな広告を載せたらいいかを判断する。そしてグーグルに寄せられたたくさんの出稿候補広告の中から、そのサイトにマッチした広告を選び堕して自動配置するのである。

そしてそのウェブサイトを訪れた人が、グーグルによって配置された広告をクリックした瞬間に、サイト運営者たる個人や小企業にカネ(広告主がグーグルに払う広告費の一部)が落ちる仕組みなのである。つまりサイト運営者は「アドセンス」に無料登録し、そのウェブサイトを粛々と続けて集客するだけで、月々の小遣い稼ぎができるようになるのだ。



いいことづくめに聞える。塵も積もれば山、微々たる集金も「持たざる者」にとっては小さくない。グーグルに集まる企業からの広告費を、流通機構を介在させることなく、世界中の零細ウェブサイト運営者に「広く薄く」ばらまこうというのだから、理論的には途上国経済格差是正の手段になりうる。その心意気はいいが、どこかうさん臭い。

ハードカレンシーを持たない途上国では、ドルでは少額でも自国通貨に換算すればそこそこの金額になるから、「アドセンス」で生計を立てる人が出てきたという。が、サイトを自力で設営・運営できる層ならそれほど低収入ではありえないから、中国の沿岸部やインドのバンガロールあたりでは、梅田氏が言うほど格差是正効果はないのではないか。

ひとつ大きな矛盾がある。ネットの「あちら側」に棲息する巨人グーグルが、「神の視点」を持つ非対称的な絶対の存在になりながら、そこで「富の分配」を標榜する善意の「神」を演じるのは無理があるということだ。創業7年で年間売上高(大半が広告収入)が5000億円を超え、純利益も1000億円以上という高収益会社が、その純利益をすべて吐き出して社会に還元するほどお人好しとは思えない。結局、「富の分配」という名のおこぼれにあずかるウェブサイト群は、グーグル経済圏という「帝国」の属国ではないか。

だが、梅田氏のオプチミズムはそれくらいの懐疑論では揺るがない。それは「グーグル的なるもの」が、ネット社会の第三原則を体現しているからだろう。市場価値がゼロにひとしいと思われているものも、「不特定多数無限大」の買い手を集めることによって何がしかの価値を持つことができる、という一種の「ニューフロンティア」論である。

「不特定多数無限大」の市場を彼は「ロングテール」(長い尾)というIT業界のジャーゴン(隠語)で説明する。草食性の首長竜ブロントザウルスをイメージすればいい。ごくわずかのベストセラーは「恐竜の首」にあたり、あとの大半はわずかしか売れない「ロングテール」に属す。本の流通関係者――出版社と流通業者と書店は、店舗や倉庫や在庫といった大きな固定費を抱えるため、売れる本、つまり「恐竜の首」で稼ぎ、売れない本、つまり「ロングテール」の損失を補うという事業モデルだった。

たとえば、老舗大型書店網のバーンズ・アンド・ノーブル(B&N)は上位13万位までの本しか在庫で持たない。ところが、ネット書店のアマゾン・ドットコムは「全売り上げの半分以上を13万位以降の書籍からあげている」とワイアード誌編集長が発表(のち「売り上げの3分の1」と訂正)して業界を驚かせた。アマゾンのサイトも書籍名を探す検索エンジンの機能を備えている。ここでも「塵も積もれば新市場」の発想が隠れた需要を開拓したのだが、同時に市場を破壊する可能性を示している。

本屋で本を買うとき、人はぱらぱらと立ち読みする。長っ尻で全巻立ち読みされたら本は売れない。アマゾンが始めた「なか見!検索」はそういう立ち見をネットで可能にする。が、「恐竜の首」派の出版社は本の売れ行き減を恐れて、いい顔をしない。ロングテール派の売れない本の著者は、何がきっかけでも中身を見てもらって、売れるチャンスをつかみたい。その対立のもとで、アマゾンの「なか見!検索」サービスは出版社との合意のもとで徐々に進めている。ところが、性急なグーグルは世界の図書館の本をすべてスキャンする検索データベース化を企てて、猛反発した作家と出版社から訴えられた。

とはいえ、アマゾンだって「こちら側」、つまり物流がどれだけ過酷な低賃金労働のもとに成り立っているか、人材派遣業者なら知らぬ者はない。物流と人事管理の徹底したその合理主義は、「もうひとつのウォルマート」とも言える。非対称性を除去してしまう「完全市場」とは、実は「市場の死」ではないかと言いたくなる誘惑に駆られる。

これは第一法則の「神の目」が、無限遠点から俯瞰する不可能な視線であるということと表裏をなしている。たとえば、哲学者ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」の5.6331で、視野とは目から風船の吹きだしのように前に置かれたものではないと図示したことを思いおこせばいい。ウィトゲンシュタインも論理的な写像という不可能な視線で世界を凝視していて、目と視野はなにも自明ではない、という懐疑を抱いた。

瀕死や仮死からよみがえった人が、自分がどこか宙に浮いていて、ベッドに横たわる自分を介抱する医師や家族の姿が下に見えたという自己客体視の体験を語ることがある。それが五条御息所のように「魂があくがれでる」という離魂や幽体離脱の根拠になっているのだが、吉本隆明によれば、この自己客体視にいちばんちかい体験が得られるのはCG(コンピューター・グラフィックス)の映像だという。



はじめて立体映像を視線の正面からの形象と、裏面や側面や上下からの形象とを、等価に等しい自在さと正確さで、またおなじ速さで現前させた。(中略)分解して意訳すれば、わたしたちが世界視線としてこの映像の内部に関与しながら、平面スクリーンに映し出された立体映像を、視覚にあたえられた対象として視ているのとおなじことになる。もうひとつの理解の仕方も成り立つ。(中略)たんなる立体画像がスクリーンに映しだされているのを、視覚像としてその外側から視ているのではなく、視られている視覚像と視ている視座との総体を、まったくべつの世界視線が俯瞰しているものとみなされる。(『ハイ・イメージ論Ⅰ』「映像の終わりから」)



第一次大戦の戦場で死に瀕した一兵士のウィトゲンシュタインは「5.632主体は世界に属していない。主体とは世界の限界である」と呟き、次項で「5.633世界のどこに形而上学的主体が認められるか。双方の関わりは完全に目と視野とのばあいと同様のことと君は言う。しかし君は、実際には目を見ることがない。そして視野にある何ひとつとして、目から見られると推論されるものはない」と書いた。それと同じである。死の切迫、あるいは精神の仮死は、彼を一種の離魂に追いこんだのではないか。

梅田氏の見た「完全市場」の幻影も、その仮死の所産と思える。

ウェブ進化論2――ラムズフェルドの民主主義

「ウェブ進化論」の筆者、梅田望夫氏といえば、思い出すのはすこし神経質そうに眉間にしわを寄せた表情である。あれは「9・11」のあと、東京・大手町のパレスホテルの一室だった。当時の三井物産副社長、福間年勝氏(現・日銀審議委員)を囲む会に彼と私も同席したが、彼の顔を一瞬よぎった微かな苛立ちの表情が忘れられない。

マンハッタンに聳える二本の直方体、WTC(ワールド・トレード・センター)の崩壊で隣接する周辺ビル群も被災し、債券売買などの決済がマヒして金融パニックが起きかねなかったのに、それを未然に防いだグリーンスパンFRB(連邦準備理事会)議長の手腕に称賛の声があがったときではなかったか。それまで「9・11テロですべてが変った」と二分法で語っていた梅田氏が、アメリカ人が震撼させられたのは自業自得であって日本人がことさら浮き足立つ必要はない、と考える(私も含めた)日本人の感受性の鈍さにあきれ、危機感を分かってもらえない、とサジを投げた瞬間だったかもしれない。

わずかな表情のゆらぎに、マスコミを含めた日本の大企業エスタブリッシュメントへの違和と反感が浮かんだかに見えた。私はその反応に違和を覚えた。彼のアメリカ流二分法思考は単純すぎると思ったし、2000年のITバブル崩壊の「洪水のあと」で、シリコンバレーの“錬金術”熱も潮がひくように冷めた時代だから、彼のコンサルタント・ビジネスも辛くなっているのかなとも推測した。私は内心つぶやいたことを覚えている。それとこれと一緒くたで、日本への欲求不満を語るなよ、と。

本書を読むと、日本企業のアドバイザリーをしばらく新規に引き受けなくなったというから、彼の側もかなりの閉塞感を感じていたにちがいない。ところが、2003年末あたりからシリコンバレーが復調するにつれ、彼の苛立ちも消えていった。検索エンジンの「グーグル」が台頭してきたからだ。本書「ウェブ進化論」もその延長にあると言っていい。なぜ、彼は愁眉をひらいたか。アメリカが、彼の予言通り変わったと信じたからだろう。だが、私のように懐疑的な中高年は、なお彼の「福音」に全幅の信を置けないでいる。

もういちど「神の視点」に話を戻そう。グーグル(Google)とは10の100乗を指す「googol」という数学用語が語源で、アメリカの数学者エドワード・カスナーの甥ミルトン・シロッタによる造語だそうだ。ウェブ上で使用可能な膨大な量の情報を組織化するという使命を反映した命名だという。なるほど「神」に自らを擬すにふさわしい名と言える。

しかし、念のために言い添えておくが、梅田氏は「グーグル・アース」だけを「神の視点」と呼んでいるわけではない。こんなものは「挨拶代わり」であり、「リアルタイム性や解像度もさらに高め、全地球上で何が起きているかを全部閲覧できるシステムをゴールとしてイメージしているに違いない」と断言する。そして「言語間の壁を取り払う」ための自動翻訳技術の開発も視野に入っており、人類の業苦、バベルの塔以来の多言語の苦労から、グーグルは解放してくれるというのだ。

「グーグルが発見した10の真実」というグーグルのマニフェスト(宣言)がある。その第四項に「ウェブ上で民主主義は機能する」がある。ここに引用しよう。



Google が機能するのは、どのサイトのコンテンツが重要かを判断する上で、どのウェブサイトの重要度が高いかを決定するために投票してくれる数百万のユーザーを頼りにしているからです。少人数の編集者が決定したり、用語の出現頻度だけを基準に決定するのではなく、PageRank™ という画期的な技術を使用して各ウェブページにランクを付けています。PageRank は、そのページにリンクしているすべてのサイトを評価して数値を割り当てます。評価の際、それらのサイトにさらにリンクしているサイトも考慮に入れます。 ウェブの構造全体を分析することで、Googleは、どのサイトがそのコンテンツに興味を持つユーザーから最高の情報源として“投票”されたかを判断します。この方法では、新しいサイトが増えるたびに情報ポイント、ひいては票数が増えるため、ウェブが拡大するにつれて効率が上がります。



グーグルはここで、その30万台のコンピューターが世界中のサイトの情報を自動的に取り込んで、日夜解析し続ける膨大な作業の一端を明かしているのだが、梅田氏がここに見るのは単なるシステムのメカニズム、あるいはアルゴリズムではない。



権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズムなのである。

リンクという民意だけに依存して知を再編成する「民主主義」。そしてこの「民主主義」も「インターネットの意志」の一つだと、彼らは信奉しているのだ。



恐らく反エスタブリッシュメントの梅田氏も信奉している。パレスホテルの一室で見た眉間のしわは、この「新聞社や出版社のお墨付き」に私も含めていたということだろうか。だが、ここでネットの「あちら側」から再編成される知とは何だろう。とっさに連想するのは、中東に「民主主義」をもたらすため、イラクに侵攻したラムズフェルド国防長官の不遜と誤算である。

その原点は、私がまだケンブリッジにいた1999年3月に始まったNATO(北大西洋条約機構)軍によるセルビア空爆にある。「民族浄化の蛮行を止める」という大義のもとで、国連安全保障理事会の決議なしで行われたこの空爆は、偵察衛星を中心とした情報システムによって完全に制御された史上初の爆撃だった。セルビア側の防空施設や対空砲はたちまち無力化され、巡航ミサイルや爆撃機は予めシミュレートされた航路を飛んで、ピンポイントで標的に命中させた。しかし、彼我の軍事力のあまりの非対称に、超大国アメリカが自らの力量を過信した結果が、イラク侵攻の惨憺たる現状なのだ。

なるほど2003年3月のイラク侵攻は、セルビアと同じくイラクの対空兵力を沈黙させ、サダム・フセインの誇る戦車師団もたちまち瓦解させた。だが、偵察衛星という「神の視点」を駆使した完璧な戦場制御という「ラムズフェルドの福音」は、イラク降伏後のテロの頻発と治安失敗とあいまって、2000人を超す米兵の死者を出した「戦場の現実」の復讐の前に色あせて見える。梅田氏が称揚する「ネット民主主義」の背後にも、ラムズフェルドと同じ「神の視点」が俯瞰していないだろうか。

無限遠点から垂直に“降臨”する「世界視線」は、しょせんアルゴリズムの幻影にすぎない。情報システムの「あちら側」に属したラムズフェルドの戦争が、「こちら側」との圧倒的な非対称ゆえに正義を幻影にしたように。隔絶した力の非対称のもとでは正義は存立しえない。17世紀の哲学者デヴィッド・ヒュームが「道徳原理の研究」で説いた通りである。

違いますか、知のネオコンよ。

ウェブ進化論1――梅田望夫氏の「神の視点」

暗いところで、段差を踏み外した。足の甲の靭帯(じんたい)を痛めたらしい。土曜の朝は、左足をひきずって中国式整体でマッサージを受けた。三週間休みなしの疲れがたまっていたので、半日こんこんと眠った。さあて、と。

この「FACTA」サイトを製作してくれた人が、私の机にちくま新書の「ウェブ進化論」をぽんと置いていった。作者の梅田望夫氏は顔見知りである。94年からシリコンバレーに住み、コンサルティング会社やベンチャーキャピタルを経営しながら、アメリカのIT社会の最前線をブログなどで発信し続けている人だ。このブログを開始したときもエールのメールをいただいた。お礼もかねて評を書こうと思った。

ただ、知人だからと言って遠慮はすまいと思う。異を唱えるところは唱えよう。彼の発想には、ものを二分して簡便化するダイコトミー(二分法思考)の特徴がある。223ページでは「これからのウェブ進化の方向」を図示しているが、横軸に「ネットのこちら側とあちら側」、縦軸に「不特定多数無限大への信頼と不信」を置き、それを二次元で組み合わせて4分法にしている。あれを見て、彼のモチーフは一語で言えると思った。

「beyond」、あるいは「越境」である。彼はインターネットの「こちら側」と「あちら側」を分けて、「あちら側」へ越えろ、と読者を誘惑している。あるいは「あちら側」へ飛べない人には明日がない、とやんわり脅している。リアル社会からバーチャル(仮想)社会への昇天。熱烈にそれを説くすがたはどこか宣教師に似ている。

彼は折伏しようとしているのだ。分水嶺の境界は検索エンジンの「グーグル」にある。梅田氏は「グーグルの福音」を説くグル(尊師)を自ら任じているかに見える。テクノロジーの急激な進歩とともに、インターネットとチープ革命とオープンソースの三大潮流の相乗作用で、ネット社会は「三大法則」のもとで発展すると彼は主張する。



第一法則神の視点からの世界理解

第二法則ネット上の人間の分身がカネを稼ぐ新しい経済圏

第三法則(≒無限大)×(≒ゼロ)=サムシング。あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積



面白い視点だが、二分法思考がもたらす錯覚と思える。反論されるのを承知で挑戦してみよう。第一法則はグーグルを「神」と見るようなものである。「神の視点」のイメージは、衛星から写した地上映像を提供する「グーグル・アース」だろう。誰でも自分の住所をどんどん拡大し、自宅を上空から写した映像を見た瞬間は愕然とする。自分の住んでいる場所がCG(コンピューター・グラフィックス)を駆使した細密な宇宙都市像に化けてしまったようなショックがある。無限の彼方から地球を俯瞰(ふかん)するかのような錯覚。だが、これがグーグルの発明かどうかは疑問である。およそ20年前、人工衛星ランドサットの映像を見てそういう驚異に気づいた文章がある。



ほんとは、わたしたちのいう世界視線は、無限遠点の宇宙空間から地表に垂直におりる視線をさしている。しかもこの視線は、雲や気層の汚れでさえぎられない。また遠方だからといって、細部がぼんやりすることもない。そんな想像上のイデアルな視線を意味している。遠近法にも自然の条件にも左右されない、いわば像(イメージ)としての視線なのだ。(中略)現実にわたしたちが手にできる近似的な世界視線は、航空写真によるものと、人工衛星ランドサットによるものとにかぎられる。(吉本隆明「ハイ・イメージ論Ⅰ」)



西伊豆で溺れて老けこむ前、鋭くかつ難解だった時代の吉本の「地図論」である。グーグルがもたらした「神の視点」とは、このランドサット映像の「世界視線」の衝撃に帰せられる。「世界視線から視られた(あるいは視ることができない)人間の姿は、無視や動物や植物みたいな他の生物とおなじように、地表上にもしかすると存在するかもしれない可能性を持った生物のなかのひとつにすぎない。そして可能性としてでなければ、像(イメージ)として思い浮かべることが無意味な存在だといえる。この無意味な存在だということの極限のところで、世界視線は人間の内部に像(イメージ)として転移される」と予言した吉本の分析は、いまも色あせていないと思う。

「世界視線」とは何か。吉本は映画「ブレード・ランナー」(1982)のCG画像から、その発想を得ている。フィリップ・K・ディックのSF「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を原作とするこの映画の未来都市ロサンジェルスを、吉本は「いままで見たこともない高次の映像」と見た。それは市街の高層ビル群を上空から俯瞰する映像が、常に無限遠点から垂直に降りてくる視線の束にとらえられていて、天空という別次元が見えない密集した地形の上を飛行するとき、そこに「ひとつの次元を加えられた(四次元的な)映像に感じとられる」ことにある。吉本は公理を立てる。



世界視線が加担した映像の次元は一次元だけ逓減され、世界視線を遮断した映像は一次元だけ逓増される。



難解な表現だが、そこから展開される都市論はひとまず置こう。梅田氏のいう「神の視点」とは、仮想空間であるネットから得られた地表の映像が、この「世界視線を遮断した」結果、感受された「一次元逓増された」という錯覚にすぎないのではないのか。梅田氏の「こちら側」とは、キーボードやマウスを通じた現実空間との接点を持つパソコンなど機器類や関連ソフトの世界である。つまり、脳から手を通してパソコンまでが「こちら側」であり、検索エンジンを通じてつながるウェブという仮想空間、グーグルのような検索エンジンで開かれる連想と応酬の世界が「あちら側」とされている。

けれども、それはどこまで行ってもリアルとバーチャルの境界に過ぎず、「神の視点」にたどりつけるとは思えない。梅田氏がグーグルに託した夢は、グーグルの創業者たちが唱えた「膨張していく地球上の全情報を整理し尽くす」というアメリカ的なオプチミズムにある。だが、検索エンジンが整理しうるのは、AというキーワードとBというキーワードを組み合わせて検索し、アルゴリスムの連想ゲームのなかでもたらされる近似値であり、神の全知全能などとうてい達成できないと思える。

むしろ「可能性としてしか思い浮かべられない世界視線の映像(の近似値)」が現実化したとき、人間が「無意味な存在」に転落するということが梅田氏の言いたかったことなのではないか。彼はしがらみだらけのリアルな世界を無化したいのだ。彼の「ウェブ進化論」が、ときに宗教的なミレニアム(千年王国)論者の熱を帯びて聞えるのはそのせいだろう。彼のなかにある反エスタブリッシュメント(日本の旧態依然たる大企業への反感)志向と、オプチミズムの衣を着た末世思想がそれを裏打ちしていると思える。

違いますか、グル(尊師)よ。

ネット愛国主義の胚14――ポスドクの寒気

SFとは便利な道具である。奔放に想像力を働かせても文句を言われない。だから、大量殺人を犯しながら死刑判決に「世界中を愛している」とうそぶいた本家「セカチュー」の怪物も、その狂気を1億年の未来に置くと、7頭のドラゴンの姿になってしまう。空間の果ての「世界の中心」である交叉時点のタンクに閉じ込められているのだ。

神霊のような二人がこのドラゴンを「排出」(抹殺)すべきかどうか議論している。このドラゴンの運命は審判で抹殺と決まっているのだが、一人がなんとかそれを避けようとして「科学は民衆の意志にしたがうものさ」とさとされるが、結局は「排出」を装って、まんまとドラゴンを宇宙に解き放ってしまうのだ。「わたしも同胞を愛しているから」と平然と言い放ちながら。爆弾魔ユナボマーを重ねたくなるのはそこである。

前回引用した「ユナボマー宣言」の一節はこう主張している。遺伝子工学の究極は遺伝的資質の選別になるほかない。民主的に選別が決められたとしても、大多数の判断基準を少数に押し付けることに変わりはない、というのだ。彼はまたこうも書く。



128テクノロジーの進歩全体がわれわれの自由を絶えず狭めていく一方、新しい科学技術のひとつひとつは、それ自体として良いものに見える。(中略)遺伝子工学もそうだ。遺伝的疾病をなくすような新しい技術に反対する人々はほとんどいない。それは一見無害であるばかりか、多くの人々を苦しみから解放する。しかしそうした遺伝子工学の進歩は、やがて人間を自然(または神でも何でも)の創造物ではなく、工業製品にしてしまうのである。



ユナボマーは、産業革命以来の全テクノロジーを呪詛し、その破棄を声高らかに主張する。彼はその主張を貫くために自家製爆弾によるテロを断行したが、爆弾装置というテクノロジーを使う矛盾になぜか気づかない。整然としていながら根本では矛盾するこの反テクノロジー思想はいったい何なのだろう。ユナボマーは、不可触で手つかずの自然、あるいは神に絶対の信仰を持っているナチュラリストだとは思えない。彼には「彼岸」を信じる敬虔さはかけらもなく、「此岸」としての自分、あるいは頭脳しか信じられなかったのではないか。

この自家撞着、いや了解不能のエゴセントリズム(自己中心主義)は、どこかに不遜さがある。テクノロジーというfactum(作られたもの)がいつのまにかverum(真実)に置き換えられ、自身がテクノロジーの傀儡、もうひとつのfactumに堕してしまうのだ――この倒錯を突き崩せないかぎり、テクノロジーのユートピアは、優生学や進歩史観の変種にすぎないとユナボマーにせせら笑われるだろう。

複雑系エコノミクスで知られたサンタフェ研究所のブライアン・アーサーは、産業革命以降の5大テクノロジー革命を列挙してみせる。紡織機による英国の産業革命、それに続く蒸気機関車による鉄道革命、第三はドイツの鉄鋼生産革命、第四はT型フォードなど米国で起きた大量生産革命、第五がコンピューターとインターネットの情報革命だという。その第五の革命によって人類は体外に神経系を持つに至ったことになる。

第六は何だろう。アメリカ流の楽観主義に従えば、バイオテクノロジーが有力候補だろう。遺伝子工学によって、人類は体外に生殖機能を持つことになる。それは人間の定義を変えてしまう。これを人間のfactumへの屈服と見るユナボマーは、そのテクノロジーの進歩のすべてを放棄せよと迫ったのだが、彼とてもその激烈なラッダイト(機械廃棄)運動に社会が一顧だにしないという推測はできたのだ。だから、爆弾テロなど何をしても許されると考えた。

ユナボマーに限らず、オウムの麻原彰晃、死刑が確定した宮崎勤、大阪教育大付属池田小の襲撃犯宅間守らのように、犯罪が了解不能のケースは枚挙にいとまない。そのたびに社会は彼らを精神鑑定にかけ、狂気という「閾外」に追いやろうとする。が、世に健常者と言われる人々の世界は、截然と狂気と隔てられているわけではない。

ソウル大学の黄教授のデータ捏造、東大多比良研究室の疑惑は、factumとverumの境界が曖昧になっていくなかで起きた。いずれも共通しているのは、ポスドク(ポスト・ドクター、博士課程修了後の研究職)の知的収奪システムが温床である。物理学者から投資銀行ゴールドマン・サックスの計量ファイナンス部門に転じたエマニュエル・ダーマンも「物理学者、ウォール街へ行くクオンツへの転進」で書いている。行き場のない博士たちが、わずかな収入で「踊り場」的に研究室に在籍するポスドクとはうそ寒い世界である、と。



ポスドクの生活は先祖帰り(アタビズム)、すなわち過去の遺物のようなものだった。(中略)カオス理論に対する貢献で有名なミッチェル・ファイゲンバウムが、この状況についてうまく言い当てている。「こうした2年間のポスドク職のおかげで、まじめな仕事をするのはほとんど不可能になってしまった。1年が経った時点で、次にどこにいけるかについて悩まなくてはいけなくなってしまったのだから。運悪くたった1年間のポスドク職しか得られなかった場合には(こうした状況も少なからずある)、職探しを継続して続けることになる。現在の仕事を始めるやいなや、次の仕事に応募しなければならないのである。ここから抜け出す唯一の方法――学問としての物理学を学ぶことを完全にあきらめてしまう以外の方法――は、評価の高い論文を書いて数は少ないが教授職のオファーをもらうことであった。



多比良研究室の疑われた助手も、そうした論文をネイチャー誌に掲載しつづけることが自己目的化し、実験データをパソコン上で“捏造”する誘惑に負けたのかもしれない。ミシガン大学大学院からカリフォルニア大学バークレー校の助教授になり、外見的にはその辺獄(リンボー)を軽々と脱したかに見えるユナボマーも、自分は無用の存在かもしれないというプレッシャーを感じていたのではないか。

ダーマンもまたその焦慮を経験する。ポスドクで1学期を終えたが、論文を1つも発表できず、発表にこぎつけられそうなネタもなかったのだ。



私は「論文を書くか、さもなければ学問の世界から去るか」という言葉の意味が理屈抜きに分かるようになり、自分がこの先どうなるか暗い予感にとらわれていた。



彼は自分の限界をさとり始める。大発見における自明性などというものはない。「どのように小さな発見でも、それは長時間の集中、重労働そして奮闘によってのみもたらされる」。彼がすがったのは詩人兼画家ウィリアム・ブレイクの言葉だった。



道は整えてはじめて直路となる。整わぬ曲路は天才のためにある道なり。



ここに落とし穴がある。天才ならぬ身は、曲路でなく楽な直路を行きたい。彼は世界を、そして科学を愛している、とうそぶける。そのためにすべてが許されるという不遜。捏造とユナボマーは紙一重なのだ。

ネット愛国主義の胚13――世界の中心で愛を叫ぶ

このシリーズで何度か触れた日本医科大学の講師、澤倫太郎氏が「新・先見創意の会」のサイトで連載していた「サブテロメア領域の刻印――染色体の片隅が叫ぶ真実」が完了した。初回はディズニーのフルCGアニメ「チキン・リトル」で始まり、最終回は「セカチュー」で終わるという、深刻なテーマの割にはしゃれた構成だった。

ただし、セカチューはセカチューでも、露骨なタイトルのパクリで映画化やドラマ化された片山恭一の駄作ベストセラーのほうではない。パクられた側のSF、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの(Beast that shouted Love at the Heart of the World)」のほうである。「新世紀エヴァンゲリオン」の作者、庵野秀明だけでなく、欧州にもこのSFのファンがいるらしく、ネーデルランド、英国、スイスの3人の遺伝子学者が臨床遺伝学の専門誌に書いた深刻な論文でも、エリスンをもじったタイトルをつけているらしい。

題して「Telomeres: a Diagnosis at the end of the Chromosomes (テロメア:染色体の片隅から診断されるもの)」。テロメアとは染色体の腕の末端にある小粒のことで、原因不明の精神遅滞児のうち数パーセントは、この部分の構造異常があるということが明らかになり、これにより羊水検査で生まれる前から胎児の遺伝子病が突き止められれば、当然ながら「自然淘汰」でなく、「人為淘汰」が可能になるというものだ。

欧州の遺伝子学者3人がエリスンのSFをもじったのだとすれば、その気持ちも分からないではない。「愛を叫んだけもの」とは、牛乳配達のあとをつけて牛乳びん一本一本に猛毒の殺虫剤を注射して200人を殺し、母親に時限爆弾を仕込んだスーツケースを持たせて旅客機に乗せ、爆発で乗客ら80人を殺し、さらにプロフットボールの試合場でマシンガンを乱射して44人を殺した大量殺人犯なのだ。それが死刑判決を受けたときの恍惚とした表情が、銀河系の果ての惑星に立つ彫像とそっくりという不思議さ。当の殺人犯は呟くのだ。「おれは世界中のみんなを愛している」と。

SFの不受理を極限までひっぱったエリスンのこの作品は1971年に世に出た。当時読んだ私にも、さっぱり意味が分からなかった。何を気取ってやがる、と思ったが、それから25年後にそれがフィクションでなくなる日が来ようとは思わなかった。この難解なSFは、一種の予言性を帯びていたのである。1996年4月3日、FBIの捜査員40人に包囲されたモンタナ州リンカーン郊外の山小屋で53歳の男が逮捕された。セオドア・ジョン・カジンスキーという。

16歳でハーバード大学に入学、20歳で卒業してミシガン大学の大学院に入り、数学の修士号と博士号を取るという天才型の男だった。数学の卒業論文は絶賛を浴び、カリフォルニア大学バークレー校の終身保証(テヌア)付の助教授に就任したが、わずか2年で職を辞し、そのままモンタナ州の荒地を買って“隠遁”してしまう。読書と自活のための野菜づくり、「1日1ドルの貧乏暮らし」だけなら人畜無害の変人ですむ。しかしカジンスキーはそれ以外に励んだことがある。爆弾製造と自家製爆弾をつかったテロである。

単独犯だった。爆弾入りの小包は1978年のシカゴ郊外のノースウエスタン大学を皮切りに18年間に16回も大学や航空会社に送られ、何の縁もゆかりもない3人が死亡、負傷者は23人に達したが、FBIはなかなか犯人が突き止められず、大学(University)や航空会社(Airline)ばかり狙うことから、その頭文字をとってこの爆弾魔には「ユナボマー」(Unabomber)のあだ名がつけられた。

1995年9月15日、ユナボマーは35000語におよぶ長大な論文を送りつけ、新聞に掲載しなければ新たなテロを起こすと脅して、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストの有力2紙に掲載させることに成功した。タイトルは「産業社会とその未来」(俗に言う「ユナボマー宣言」)で、そこでは徹底した反技術、反産業社会思想が語られている。結局、それを読んだ弟デヴィッドが兄ではないかと気づき、そのタレコミで足がつく。が、この「ユナボマー宣言」には、遺伝子工学への警告も語られている。

単なる狂ったテロリストの自己正当化のたわごとでは片付けられない。読みようによっては反グローバリズムの先駆、あるいは自由の国アメリカの狂気の権化である。しかも恐ろしいことに、この異様に歪んだ天才が実は正気であったこと、しかも「世界の中心で愛を叫んで」いたことを証明しているのだ。



124こうした問題において必ず登場するのが、「医学倫理」である。しかし医学の発展においては、倫理の法則は自由を守る手段とはなりえない。むしろ問題を悪化させるだけなのだ。遺伝子工学に適用される倫理の法則とは、実際のところ人類の遺伝的体質を規定する手段以外の何ものでもない。倫理的に「良い」遺伝子工学の適用法とはこうである、と誰か(おそらくは上流・中流階級の)が決定する。つまりその人物の価値観によって、その社会の構成人員全体の遺伝子的体質が左右されてしまうのだ。ここで倫理の法律が完全に民主的に決められたとしても、やはりそれは遺伝子工学において何が「倫理的」であるかという大多数の人々の価値観を、異なる意見を持つ少数派に押し付けることになる。本当に自由を守りうるような唯一の倫理の法則とは、人類に遺伝子操作をいっさい禁じることである。しかしテクノロジー社会ではそのような倫理はけっして受け入れられない。遺伝子工学を表舞台から下ろすような法律は支持を得られないのだ。



現在の遺伝子工学の陥りつつある陥穽が、早くからよく見えているというべきだろう。さきのテロメア論文の論点とほとんど見分けがつかない。常識人は、「だからといってテロを正当化はできない」と反論するだろう。しかし逆なのだ。この正論がテロと無矛盾的に両立する世界がある。いっさいの正論がイデオロギーとして無意味化され、いかなる非道の行為も指弾することができない領域、または空隙が生まれてしまう。そのジレンマを、人は「テクノロジー」と呼ぶのだ。

ユナボマーは4つの終身刑と仮釈放なし懲役30年の刑が確定し、ことしで10年目の服役を迎えた。自殺未遂を一回起こしており、「終身刑より死刑にしてくれ」と言ったことから、ハンニバル博士のように厳しい監視下に置かれている。

ライブドア崩落9――プロレス・ジャーナリズム

2月19日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」のトピックは、予想通り期待はずれだった。ホリエモンから武部勤自民党幹事長の二男に宛てたというメールの真贋に焦点を絞ってしまい、ライブドアと同じ監査法人に監査を依頼していたドリームインキュベータ(DI)の危機を取り上げなかった。このメールは、誰が見ても民主党に歩がない。功に逸って未確認情報にとびつくさもしさは、ライブドア事件だけで二度目だから、つけるクスリがない阿呆さ加減である。

おかげで「サンプロ」キャスターの田原総一朗氏は救われた。田原氏はDIの社外取締役をつとめており、市場が危惧するようにDIの経理に問題があれば氏自身が取締役の「善意の管理者による注意義務」(善管注意義務、民法644条)違反に問われかねない。それを自らテレビカメラの前で解説しなければならない場面を避けたことになる。東証一部上場企業とはいえ、財務諸表も読めない身で安易に取締役を引き受けると、とんだ目にあうという典型なのだが、カエルのツラにナントカで済まそうとしている。

昨年のフジテレビ対ライブドア騒動のさなか、田原氏がDIの堀紘一社長を出演させ、くそみそにけなす演出をしたことを覚えている人も多い。田原流の突っ込みが「プロレス・ジャーナリズム」と呼ばれるのは至言だろう。視聴率を稼げれば真偽などどうでもいいのだ。ヤラセすれすれの演出に出演者と出来レース、それも社外取締役の報酬つきである。この落とし前をどうつけるのか、ぜひとも聞いてみたい。

DIの株価は先週末に再び50万円を割り込んで47万5000円に値を下げた。DIが田原氏を起用したのは、有名人の顔見世とともに、その政治力に期待していたかもしれない。ストップ安をつけた2月13日には、堀社長が金融庁を、また井上猛代表取締役が日本公認会計士協会をそれぞれ訪れて、3月決算を控えて監査の引き受け手がないという異常事態打開へ善処を訴える要望書を提出した。

14日にも、公認会計士協会へ2度目の訪問をし、状況の進展を図った上、東京証券取引所へも訪問し、状況の報告を行っている。一日も早く監査を引き受けてくれる監査法人をみつけてくれ、という陳情である。背に腹が代えられなくなった堀社長は、10日の会見で主張した監査法人の「共同無責任」「ことなかれ主義」批判の矛先を収めたかに見える。

だが、田原氏が仮に後押ししたとして、金融庁や公認会計士協会はどんな救いの手を差し伸べることができるのだろうか。堀社長は14日、ロイター通信のインタビューに応じた。それによると、



会計士協会からは責任を持って対処するとの返答を得たとし、「協会が現在動いており、一両日中に返事がくることになっている。我々は、協会が自信を持って推薦できるハイレベルの監査法人による監査が受けられると安心感を持っている」と語った。



このロイター電で株価はやや持ち直したが、その「一両日」が過ぎた17日になっても返事は来なかったようだ。「監査法人の決定に関しては現在解決に向けて鋭意活動を進めており、遅くとも2006年3月7日までには発表いたしますのでお知らせいたします」と“つなぎ”の発表しかできなかった。株価はメッキがはげたが、それでもDIは強気を崩さない。14日の発表でも再三、「上場廃止」の観測を否定してみせた。



また、堀社長は「港陽監査法人の問題で財務諸表の信頼性に疑問が出ているため、できるだけ大手の監査法人に監査してもらうことが望ましい」としたうえで、「どこの監査法人からも監査が受けられないとは、はじめから考えていない。 監査法人不在で有価証券報告書が提出できずに上場廃止になることはありえない」と述べた。



いかにも自信ありげに聞こえる。だが、昨年、靖国参拝をめぐる日中関係打開のw私案を密かに首相官邸に持ち込み、小泉純一郎首相から「一任」を得たという“秘話”をあちこちで吹聴している田原氏のことだ。「評論家のノリ」を越えて公認会計士業界の監督官庁である金融庁の行政に、持ち前の強引さで干渉しだしたら大事である。事態は彼が考えているほど簡単ではないのだ。

市場が疑心暗鬼になっている裏には、DIが昨年9月に東証マザーズから東証第一部上場企業に出世したからである。コンサルティング業界で、この異例の3階級特進がやっかみを読んだのは事実である。一部昇格前の7月に売上高、経常利益とも7億円の上方修正、昇格後の10月にも売上高5億8000万円、経常益2億3000万円の再上方修正を行っている。

いかにも右肩あがりである。が、増収増益の内実をよく見ると、ベンチャー投資先3社の株式を売却した営業投資売上高の計上が大きく寄与しており、今期の第1~3四半期までは営業投資売上高の売上高全体に占める比率は64・5%に達した。DIはコンサルティング会社というより、ベンチャー投資ファンドに近い会社に傾斜しているのだ。その「ペルソナ」(仮面)の二重性がライブドアを連想させる。

昨年10月25日発表の中間決算短信の「企業集団の状況」でも明らかなように、DIもまた原則として投資事業組合「DI1号投資事業組合」(事業執行はDIの非連結子会社デライトが行っている)を通じてベンチャー投資を行っている。つまり、ライブドアはじめIT系の投資会社と似た構造を持っているのだ。その監査法人がライブドアと同じ港陽だったことで、市場や他の監査法人が神経質になるのも無理はない。港陽に代わって監査を引き受けるなら、目を皿にしてDIの有価証券報告書を精査し、経理処理が適正かどうかを判断しなければならないだろう。

金融庁は公認会計士業界の生殺与奪の権を握っている。そのグリップを締めてUFJ銀行や西武鉄道のケースでも首脳を総退陣に追い込んだ。その金融庁なら、DIの監査法人の代役をみつけることなどわけなく見える。が、そう一筋縄ではいかない。所管大臣の財政金融担当相が与謝野馨氏だからだ。「サンプロ」にたびたび出演したから、もちろん田原氏と顔見知りだろうが、堀社長も与謝野氏とは父親の代から浅からぬ因縁があるからだ。

キナ臭い政局のなかで、金融庁が下手にDIに救いの手を差し伸べると、「火中の栗」を拾う形になって政局に火がつきかねない。

閉所恐怖の体験

月刊「FACTA-ファクタ」創刊まであと2カ月。見本誌が刷り上ったので、週明けから希望者のほか関係各位にお届けします。これと同時に、正式に葉書、電話、FAX、インターネットによるご購読予約の申し込みを開始します。

見本誌は単なるパンフレットでなく、「本番なみ」に記事を掲載したもので、手ぶらで「新雑誌」の夢を語るだけだったこれまでに比べれば、リアリティを持たせることができたと思います。近く処女作のドキュメンタリー・ノベルを出版する友人のジャーナリスト、手嶋龍一氏(前NHKワシントン支局長)とのインタビューも載せています。

見本誌は印刷会社と工程上のテストを兼ねたので刊行が予定より遅れましたが、掲載記事はダミーではなく、一足先にウェブサイトで12月から「記事プレビュー」として公開してきました。全文を載せることができなかったのは、スペースだけでなく、事態が動いてタイミングがずれたものもでてきたからです。これも「本番なみ」の宿命で、全文を御覧になりたい方は、本サイトの「記事プレビュー」をご参照ください。

さて、このブログにつけられたトラックバックのひとつで、筆者が衒学的とする文章があった。ありがたいご助言である。ときどきそう言われるが、うーん、これは文体の生理みたいなもので、なかなか直りません。小生には「高所恐怖症」とか「閉所恐怖症」などさまざまな「フォビア」(~恐怖症)の弱点がありますが、あの恐怖が他人には説明しにくいように、文章の癖も自分では弱点と分かっていてもなかなか治癒しにくいものです。

もっと生々しい小生の日常を書いてあげましょう。そんなことを思うのも、この土曜に「閉所恐怖症」に耐えた余韻が残っているからだ。久しぶりだった。桜田門正面玄関のホールを通って左手の階段をあがり、跨線橋のような通路を渡って突きあたりの鉄扉の前に立つ。天井が低く、圧迫感がある。

中からがちゃりと鍵をあけてもらうまで廊下で待った。黄ばんだ殺風景な壁の右手の扉の向こうに被疑者取調室、左の扉の向こうに参考人取調室である。もちろん、私は逮捕されたわけではない。被害者としての参考人である。左扉を入ると廊下にずらりと同じような扉また扉の列。中はまさに「セル」(細胞、独房)と呼ぶにふさわしい、窓もない壁と机とイスだけの三畳一間。入ったとたんに息苦しくなる。閉所恐怖症でない人には分からないだろうが、たまらんのだ、これが。

2年ほど前、私および家族は誰とも分からぬ人物から、自宅および勤務先に何通もの脅迫状を受け、自宅の電話や携帯に執拗に脅迫電話をかけられた。このため、2004年4月1日に警視庁に被疑者不詳(犯人不明)のまま告発する手続きをとっている。捜査は現在も継続中で、この日は警視庁組織犯罪対策部組織犯罪対策第4課――通称「ソタイ4課」の捜査員の方々のまえで、近況報告の調書をつくる日だったのだ。

脅迫の手法や電話をかけてきた声などから、昔で言うところの捜査4課、暴力団対策専従の部署が事件を担当することになった。近況報告というから、とりあえず会社のオフィスに近い駿河台の山の上ホテルで妻とともに会ったのだが、調書を作成するにはもう一日は必要だとのことで、やむなく警視庁に場所を移して、この日のうちに仕上げることを承諾した。が、狭い取調室の威圧感に後悔させられる。「不思議の国のアリス」のようにみるみる自分が萎縮していった。ああ、閉所恐怖症の再発……。

かつて、ここで延べ10時間余の事情聴取を受けた記憶がよみがえる。調書作成とは不思議なもので、ある定型パターンに従って書いていくから、実情を踏み外す表現になったときには、こちらから「添削」してあげなければいけない。今回もそうして3時間近くかかった。私の推測と同じくおよそ犯人の目星はついているようで、彼らが監視下にあることがわかったのは収穫だった。万が一、新雑誌に手出ししたら一網打尽だろう。

それが「衒学的」でない現実である。

余秋雨「文化苦旅」7――楊晶さんの手紙

このブログで余秋雨の「文化苦旅」の書評を書いたことを翻訳者の楊晶さんにお知らせした。知人から楊さんのメール・アドレスを聞いて、現代中国語は自信がないので日本語でメールを送った。折り返し彼女から、日本語で丁重なご返事をいただいたので、ここに再録する。




お久しぶりです。早くお返事しようと焦っています。

昨日まで中国の南の最果て、海南島三亜で中日の科学政策会議が開かれ、通訳に「動員」されていました。

昨夜遅く、家に帰ってから早速懐かしい、嬉しい名文を一気に読ませていただきました。二葉亭四迷から、阿Qまで、「中国語コンプレックス」での拙い訳者に対するご理解と励ましのお言葉。本当に有難うございました。

司馬遼太郎氏との比較に対するご見解はまったく同感です。

二人の違いはその拠って立つ歴史とアイデンティティに多分よるものと思われますが、それ以上に教養と人柄が滲み出ていると取れる部分があると感じました。わたしも『坂の上の雲』などを読んで感動したことを覚えていますが、ただそれは日本語を勉強するなかでの出会いでした。

余秋雨さんは幸いにも日本の「知音」と出会ったことがなにより嬉しく思います。忙殺されるなか、短時間にここまで深く読まれた方を存じませんでした。脱帽です。自分は訳したとはいえ、その鮮やかな読みにハッと気づかされたことが多く、目から鱗の思いです。



私が最初に送ったメールで、「文化苦旅6」で書いた「酒公」の墓の碑文の原文が、現代中国語なのか、古典的な漢文だったのかを問い合わせたので、それも書き送ってくれた。予想通り格調の高い名文で、多少漢文を読める人なら意味が分かると思う。書の造詣も深かった酒公は確かに、屈原に連なる不遇の士太夫だったのだ。日本風の句読点を添えて以下に引用する(訳文は「6」をのぞいてください)。



酒公張先生、不知籍貫、不知名号、亦不知其祖宗世譜、只知其身後無嗣、孑然一人。

少習西学、長而廃棄、顛沛流蕩、投靠無門。一身弱骨、或踟蹰于文士雅集、或顫懾于強人悪手、或驚恐于新世問詰、或惶愧于幼者哄笑、栖栖遑遑、了無定奪。釈儒道皆無深縁、真善美尽数失、終以濁酒、敗墨、残肢、墓碑、編織老境。一生無甚徳守、亦無甚悪行、耄年回首、毎嘆枉擲如許粟麦菜蔬、徒費孜々攻読、矻矻苦吟。

嗚呼!故国神州、莘莘学子、願如此潦倒頽破者、唯張先生一人。



さらに楊さんから第2信があった。翻訳された「文化苦旅」には載っていない日本版のための余秋雨の「自序」の一部を引用している。04年1月に書かれたものだというが、作者の気持ちの一端がうかがえるので紹介しよう。



本書は十数年前に執筆した旧作です。

当時、中国は文革の災難を終息させて間もなく、かつての政治的熱狂から覚めて、中華文化への再認識の機運が醸成されました。しかし、そのような願いは一連の実際の困難にぶつかり、当分叶えられそうもなかったわけです。

正直に言って、これはぼくの実験にすぎませんでした。本書のあとに、考察に一段と大きな精力を注いで、『山居筆記』を書きあげました。さらに中華文明の考察を一とおり終えてから、人類文明の考察をはじめ、それが『千年一嘆』と『行者無彊』(=行く者に国境線なし)などの著書によって裏づけられました。

中国人が心の奥深いところで思ったこと考えたこと、もろもろの大量の想念、コンプレックス、話題を、他民族の読者に理解させることは、文化の深い次元における根源的な相互探求にほかならず、なによりわずらわしいことに違いありません。この点において、『文化苦旅』の翻訳は、ぼくのほかの著書のそれよりも大変だったと思われます。



その翻訳者の楊晶さんは、この引用のあとで「『他民族』の文化の相互探求という意味でこんなに面白い書評を余秋雨さんにも読ませたいですね」と書いていた。そう、いつか彼に会ってみたい。楊さんによると「余秋雨さんはいま香港フェニックス・サテライトTVに『秋雨時分』というタイトルで一日五分間出演して、『大文化』について語っています」という近況だそうだ。

2月17日、第3信が届いた。「山居筆記」や「行者無疆」の1日も早い翻訳を願ってやみません、と書いた手紙に対するご返事である。



これは厳しいご注文。「山居筆記」は余秋雨さんの著書の中でも優れていると思います。いずれそのうち、と考えております。これをお読みになれば、彼が文革の中でどのように山の中の書楼を見つけてそこでうんと「栄養」をつけたかが分かります。「行者無疆」はミレニアムの旅に続いて、ヨーロッパの100都市近くを歩いた見聞です。日本の方はずっとヨーロッパに親しんでいるから、どうかなと思っています。そしてあまり欲張ってはいけないと思いますが。

二本ほど、ブログの書評を余秋雨さんに中文化してファックスしました。ちゃんと交流ができています。これは私の仕事なんです。

是非、お二人の出会いが実現できますように、願っております。


ライブドア崩落8――ドリームIから「逃げたい理由」

2月13日月曜昼には大阪・北浜の土佐堀筋にいた。黄味がかった花崗岩のどっしりした建築、住友本館(現三井住友銀行大阪支店)の6階役員食堂で“名物”のハヤシライスを食べ終えた時である。携帯が鳴った。中座する。まるで場違いな話題が飛び込んできた。

「ドリームインキュベータの株価がストップ安だってさ!」

同社はベンチャー育成というか、実質はベンチャー投資の東証一部上場企業で、おびただしいビジネス書を出版しているボストン・コンサルティング元社長の堀紘一氏が代表取締役社長をつとめている。前週末比10万円安の50万円と値幅制限いっぱいまで下げたのは、粉飾決算の疑いが出ているライブドア事件の余波をもろにかぶったといっていい。

ドリームインキュベータの監査法人が、ライブドアの監査法人で1月の強制捜索先となった港陽監査法人であることが発端なのだ。捜索直後の1月18日、「誠に遺憾に思います」とする「お知らせ」を発表した。そりゃそうだろう。経営指南を売り物にする企業が、粉飾決算に加担したのではないかと疑われる監査法人を選んでいたとしたら、その不明は致命傷になりかねない。そこでこう念押ししている。



当社の財務諸表等は、我が国において一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠して作成され、また、当社経営者による確認を実施した後に適正に開示しており、その適正性につきましては全く問題ございませんのでご安心下さい。

なお、今後につきましては、当該会計監査任の妥当性をよく見極め、必要に応じて変更を含めて検討いたします。結果は出次第速やかに開示いたします。



「全く問題ございません」と強調すればするほど、疑いたくなるのが人情である。1月25日には「当社会計監査人の変更に関するお知らせ」と題して「速やかな監査法人の変更を想定し、現在、大手監査法人を中心に検討・打診しております」と港陽からの乗り換えを強く示唆した。ところが、2月10日午後6時から堀社長らが会見し、「港陽監査法人から、2月8日付けで実質的にDI(ドリームインキュベータ)に対する2006年3月期の監査業務が遂行できない旨の書面が届いた」ため、監査法人を新たに選定せざるを得ない事態となったが、代役のあてはまだないと発表したのだ。



小規模監査法人の不祥事疑惑から飛び火した災難であり、DI自体には何ら問題ないと株式市場から信認を得るためにも、依頼するのは大手監査法人の3社(トーマツ、あずさ、新日本)と判断した。(中略)ライブドア事件発覚直後から3社に監査受嘱可能性を打診していた。残念ながら、3社共DI自体の初期評価等を行なうこともなく、「多忙」「期中変更」「港陽絡み」等を理由に結論は"No"となった。



これが13日のストップ安の引き金になったことは間違いない。会見で堀社長は「株主及び投資家の方達に安心してもらえる監査法人に会計監査を受諾してもらえないという前代未聞の状況に置かれている。このまま放置されて徒に時間が過ぎてしまうと、2006年3月期の決算の確定ができず、株主総会も開けないという事態に陥ってしまう」と憤懣やるかたない表情で訴えたが、逆効果だったようだ。



この機会に、私、堀紘一としては、監査法人のあり方及び社会的責任の問題を問いたい。監査受け皿がなくなった上場企業からの依頼に対し監査法人が当該企業の中身をレビューすることもせず、自身のリスク回避のためだけに不受嘱の決定を下したと捉えざるを得ず、このような共同無責任・事勿れ主義に対し大いに義憤を感じている。これは、DIだけの問題ではなく、日本の監査制度の不備、ひいては日本の株式市場の不信任につながる大問題と考えざるを得ない。そもそも、監査法人とは、本来株主のために仕事をしている筈で、こういう非常事態の時こそ、株主のためにプロフェッショナルとしての本領を発揮することこそが、社会的正義に適う道と考えるので極めて遺憾である。



同業のコンサルタント業界は、しかしこの窮状に同情していない。監査法人を「共同無責任」「ことなかれ」と断じた堀氏の異様な力こぶの入りように苦笑する。港陽を同じく監査法人としていたエフェクター細胞研究所(名古屋セントレックス)を見れば、監査の“甘さ”がすぐわかったはずだというのだ。エフェクターは東大名誉教授を社長にかつぎ、創薬ベンチャーとしてライブドア証券が初の主幹事をつとめたが、目論見書の紛らわしい表現や、公募株主に不利になりかねない方式が批判され、昨年3月29日の上場初日、売り気配で売買が成立しなかった。

その後もエファクターは「ライブドア御用達」の悪評がついてまわり、強制捜索後に遅ればせながらライブドア証券を主幹事から外したものの、今後、港陽の責任が問われることになれば、監査不信の連鎖に引きずり込まれかねない。ドリームインキュベータも「従来よりライブドアの経営及び株主に対する考え方・行動に疑問を感じており、一切係わり合いを持たないスタンスをとっていたが、無関係とはいえ同じ監査法人であることに不安を感じてはいた。但し、港陽自身のDI監査に関する問題はなかったので、港陽を他監査法人に変更する判断には至らなかった」としているが、言い訳とはいえ他人事すぎる。

昨年のニッポン放送株をめぐるライブドアとフジテレビの争奪戦のさなか、堀氏はテレビ朝日の「サンデープロジェクト」に出演、堀江貴文ライブドア社長(当時)をクソミソにこきおろしていた。監査法人がライブドアと同じことに「不安を感じていた」で済む問題ではなかろう。笑えるのは、社外取締役にセコムの飯田亮最高顧問と並んで「サンプロ」のキャスターである評論家、田原総一朗氏自身が名を連ねていることだ。やっぱり「堀紘一、ライブドアを叱る」は田原氏のヤラセだったのか。

それだけではない。田原氏の評論家生命が危うくなるかもしれない。そもそも、ドリームインキュベータが大手3監査法人に「逃げられた」のは、単に「ことなかれ」だけではないのではないか。監査法人はこのところ過当競争であり、東証一部上場企業から三拝九拝で監査を頼まれているのに、3社とも断るというのは異常である。多忙や期中変更、港陽がらみという理由はどれも口実に過ぎない可能性がある。

大株主にはオリックスの宮内義彦会長、ソニーの出井伸之前会長、NTTドコモなどそうそうたる顔ぶれが並ぶ。“大甘”監査法人をつかって財務でやりたい放題ができたライブドアのように、ドリームインキュベータにも経理処理上の問題が浮上してきたら、社外取締役の田原氏自身も重大な責任を免れない。19日日曜の「サンプロ」で、田原氏がこの問題を取り上げる勇気があるかどうか、けだし見ものである。

ときどき代行2――私のビフォー・アフター2

編集長の多忙に拍車がかかり、急遽、2回目のピンチヒッターを命じられました。いつ来るかわからない執筆の依頼を待つのはなかなかのスリルです。

さて、今日は私のもう1つの「ビフォー・アフター」を披露したいと思います。最近、空いた時間を使って、ピアノ(クラシック)、ゴルフ、踊り、テニスなど色々なことにチャレンジするようになりました。絵はその中のひとつで、「趣味」という中途半端なコンセプトが嫌いだった自分が趣味を解禁するようになったきっかけでもあります。

昨年の夏、BNPパリバ証券で働きながら『エコノミスト』等で執筆され、ピアニストとしても活躍中の小田切尚登氏の才能に惚れこみ、“追っかけ”をしていた私は、小田切氏と、彼のご級友で洋画家の高橋光画伯とお食事をするチャンスに恵まれました。

お2人の共通点は多芸多才で話好きなこと。音楽、美術、哲学、文学、建築からグルメにいたるまで「なんでも来い」な方々です。その席で高橋氏がしてくれたのが、「絵は誰でも絶対にうまくなる。デッサンは製図と同じで、やり方を学べばすぐ上達する」という話でした。

小学生の頃から、画用紙を前にすると頭の中が真っ白になってしまい、いつも絵の具を塗るところまで行かないまま授業終了のチャイムを迎えてしまう――絵といえばそんな苦しい思い出しかない私も、高橋氏の断言に思わず心を動かされ、実験台になることを決めました。また、氏は東大を卒業後、6年間勤めた興銀を退職、フィレンツェの高名な画家に弟子入りをした異色の経歴の持ち主です。彼にエリート人生を捨てさせたものは何だったのかを知りたい、という好奇心もありました。

そんな経緯があり、土曜日の昼から夕方にかけて、画伯のアトリエで「巨匠の素描をデッサンする」訓練を受けることになりました。以下がその結果です。



左が巨匠の描いたデッサンです。お手本の通りに描けば良いのだから簡単、と思われるかもしれませんが、いざやってみると、なかなか思うように巨匠の絶妙なカーブ、陰影やメリハリが再現できず、難航しました。そんなときに先生が与えてくれたアドバイスが、「『これは鼻だ』『目だ』と思わずに、デッサンする対象を単なる光と影として見るように」というものでした。

そう言われて、スケッチブックを逆さまにしたり、目の焦点を遠くにしたりして眺めてみると、正面から見ていたときにはまったく気が付かなかった原画との「ズレ」がはっきり見えるんです。そこに直しを入れると、ぐんと見違えて、巨匠の絵に一歩近づきます。これがなんとも言えず楽しいのです。印刷してみると、パソコン画面では気付かなかった文章の誤りに気付く、ということと似ているかもしれません。

その後まもなく、ピアノの練習やカラオケをやる機会があったので、デッサンで学んだことをひそかに応用してみました。その結果は、驚くなかれ、目に見えてうまくなっていました。もちろん録音・録画などしていませんので、変化率をここで証明できないことが残念です。

ネット愛国主義の胚12――お粗末な「敗軍の将」

週末から月曜にかけて、大阪へ出張に行ったので、このブログがお休みになった。帰りの新幹線は、いつもなら缶ビールをあおって昼寝なのだが、今回は経済誌「日経ビジネス」を買って読んでみた。無聊を慰めるためではない。最新号のコラム「敗軍の将、兵を語る」で、多比良和誠(たいら・かずなり)東京大学教授(大学院工学系研究科)が登場しているからだ。

すでに書いたように1月27日、多比良研究室の論文の捏造疑惑に対し、調査委員会が「クロに近いグレー」の結論を出している。沈黙を守ってきた多比良教授がはじめて弁明に登場したのだ。一般の新聞や雑誌を避けてビジネス誌を選んだあたり、いかにも工学系らしい計算高さだ。だが、内容は「お粗末な釈明」の一語に尽きる。

論文の正当を主張するなら、その論拠を示せばいいのに何もない。これでほんとうに科学者かね、と思いたくなるほど、未練がましく実験を担当した川崎広明助手への恨み言を並べるばかり。助手が実験データをノートに残さず、入力したパソコンも「壊れて捨てた」という手順の非は認めても、それは指導教授としての監督責任にすぎないと思っているらしい。

あげくに「東大がまとめた最終報告書では明らかになっていない点」として明かすのが、日本RNA学会にはめられたといわんばかりの陰謀史観である。



世間の評判とは裏腹に、日本RNA学会では受けがよくありませんでした。産業応用だとかそんな社会に迎合することはけしからんという意見の人が結構いるからです。特に、RNA学会の主流派である理学部系の先生にはその傾向が強い。誰とは言いませんけれど、いまだに“象牙の塔”に閉じこもって「物事の真理を研究するのが学問だ」なんて言っている。



この程度の考えしかない人間が、教授さまでございとは、ちゃんちゃらおかしい。人を呪わば穴二つ。他人の陰謀を云々するのは、自分が学者というより単なる「政治屋」だったことの証左ではないか。年間予算額7億円の経済産業省の大型プロジェクトの対象になり、「これで数年間は安泰だ」と安心していたというのは正直ではある。しかしプロジェクトの詳細を詰める段になってRNA学会からクレームがついて外されたと主張する。さもしさ丸出しで、てんとして恥じないお人柄のようだ。

こういう貧弱な発想は、自分を鏡に映してしまう。陰謀があったというなら、その証拠をあげればいい。なのに、アメリカのキーストンのシンポで外国人研究者が問題にしたというのは誇張だとか、東大が調査した形になっていても「中身はRNA学会の思い通りになるよう仕組まれていた」とか枝葉末節にこだわっている。要するに陰謀の憶測ばかりで、実のある証拠がないのだ。

お里が知れる。いつもあなたは根拠がない。捏造疑惑が晴らせなかった共同論文と同じではないか。「私はこの分野の第一人者として注目を集めてきた」と自分で吹聴するのは噴飯ものだろう。その自負が致命傷なのだ。そうとう低レベルの学者であることが知れる。



一番残念に思うのは、川崎が実験に立ち合わせないことです。昔から夜中に1人で実験するタイプでした。けれど、今回は疑いがかけられているのだから、誰か立ち合わせろといいました。それでも「疑っている人が隣にいると実験がうまくいかない」と譲りません。だったら(中略)私の息子でもよいから実験をやっているところを見させてくれと。(中略)答えは「ノー」。そんなに俺のことを信用してくれないならおまえのことも擁護できなくなる。そういう気持ちにもなりますよ。



笑わずにはいられない。眉間にシワを寄せてやりあっているのだろうが、本人たちはそれがいかに滑稽か気づいていないのだ。加藤茶と志村けんが演じれば、いいコントか漫才になるかもしれない。とにかく「敗軍の将」を担当した「日経ビジネス」の記者とデスクも、教授にやさしすぎたのではないか。「再実験で6カ月はかかるのに、4カ月足らずしか時間が与えられなかった」という教授の言い訳に、RNA学会の問題提起から通算すれば10カ月も経っていることを指摘する程度では生ぬるいと思える。

反証の時間はあった。しかし反証できなかった。冷厳な事実はそれだけである。教授に言うことはひとつ。もう、学者なんておやめなさい。いま、象牙の塔に逃げこんでいるのはあなたのほうだ。「医工連携」を安直に履行した彼の倒錯を批判するには、17世紀ナポリに生まれた歴史哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668~1744)のデカルト批判の言葉――「真なるものは作られたものなり」(verum=factum)がふさわしいかもしれない。

清水幾太郎はそれをこう説明する。「私たちが幾何学において真理を知ることが出来るのは、幾何学の世界が、最初から私たちの作り出したものであるからである。verum=factum(真なるものは、作られたものである。)幾何学的方法が物理学で成功するためには、神でなく、人間が自然を作っていなければならない。しかし、自然を作ったのは、人間でなく、神なのであるから、神だけが自然の真理を知ることが出来る。人間が自然について知り得るのは、蓋然性に過ぎず、いかに深く知ったと思っても、神のみが知る大いなる残余が残る。神の作った自然に向って、人間はつねに謙虚でなければならない」。そして清水の『私のヴィーコ』は続けてこう書く。



人間の精神は、その弱さと狭さの極限において、神に似た地位へ上る道を発見する。人間は、諸要素を自ら作り出し、それらを無限たらしめ、これらの諸要素によって世界を作る。それを単に考えるのでなく、それを完全に知ることによって、人間は、彼に禁じられていた筈の真なるものを手に入れる。人間は神に似たものになる。しかし、(中略)これらの諸要素によって作り出されたのは、ノミナルな世界である。事実は、何ものかによって作られたものであり、作られたものの真実は、作った者だけが知っている。数学において、人間は、一切を作り、一切を知る。彼はフィクションの世界の王になる。そして神は、リアリティの世界の王である。



多比良教授のRNA干渉をめぐる“発見”は、こういうフィクションだったのではないか。作られたもの(factum)という自覚なくして真実(verum)は語れない。ジャーナリズムも同じである。「factum」とはまた「facta」の単数形なのだ。種明かしをすれば、このタイトルはヴィーコから借用してきたものである。

余秋雨「文化苦旅」6――無用無名無念の人生

いつか行ってみたい。中国江南の寧波(ニンポー)の近く、魚背嶺にある、地名も「状元墓」という場所に。無用無名無念の人生を送った「酒公」の墓がある。論理学を救国の具としようと志しながら、不遇に終わった彼の墓が見下ろす小高い山には、彼が揮毫した他人の墓碑が全山びっしり並んでいるという。その光景を余秋雨はこう描写する。



半世紀も前の論理救国論者が、世間からこれ以上なく落ちぶれていながらも、ユニークな形で、山ごとその生命で占拠していた。彼は平生、自分の学問ではいかなる人も征服できず、中国で千年も受けつがれた筆一本で、この世を去った人々を慰めるほかなかった。可哀想に、彼に慰められた人たちは、論理も書法もまるで不案内なため、墓碑の書法も限りなく寂しいものだ。このような寂寥を、逆に慰める者がいるだろうか。あのずらりと並んだ灰褐色の酒壜だけだろう、と思った。



荒涼として林立する灰色の石碑と酒の壜。余秋雨の文章は歴とした名文であって、楊晶さんの訳文も間然とするところがなく、くやしいけれど、引用でも切り刻みにくい。



思いがけないことに、その生涯の履歴の終結は、増える一方の墓碑である。人間はいずれ死ぬものであり、墓は容易に崩れないため、これがずっと続いたら、故郷の天地はどんなにか恐ろしいものになろう。墨汁をたっぷり吸って描いたのはどんな世界だろうか。推理が得意な論理学者である彼は、きっとその筆に度々恐れを抱いただろう、とぼくは信じる。



ここに至ってはじめて、余秋雨の紀行がすべて一種の挽歌であることに気づく。「文化苦旅」の「苦」とは墓参なのだ。シンガポールの二葉亭四迷も、敦煌の王道士も、余秋雨は常に墓から、喪失を語りだそうとする。彼にとって覉旅(きりょ)は常に死者への巡礼なのだ。司馬遼太郎の「街道をゆく」との決定的な違いはそこにある。

かつて私にも思い屈する日々があった。自分を無用と思った。「殺伐たる事象の継起に目を凝らせば、血のかよった人間の生き死にしかない。そこではもう感傷や理屈への低徊という逃げ道は失われている。それゆえこれは展墓掃苔(てんぼそうたい=墓に詣でて苔をはらうこと)の歴史書ではない」。そう自著に書きつけたことがある。

だが、余秋雨の紀行は、彽徊すれすれの展墓掃苔のほかのものではない。そのまま頭(こうべ)を深く垂れるObituaryなのだ。「文化苦旅」の「呉江船」では童話風に書いているが、彼は文化大革命の「下放」で徒刑囚のような辛酸を舐めたのだ。消えていった故人たちへの言葉にならない憂悶が、こういう文章を書かせるのだと思う。

そうしてはじめて、雑文集に「墳」と題した魯迅の屈折に身を寄り添わせることができる。魯迅はこう書いた。「せいぜい、この本が、大道露天に積み重ねられた本の中に、暫くでも横たわることができればと願う。ちょうど博厚なる大地が、どんな小さな土くれをも容れるのにやぶさかではないように。(中略)専ら皇陵(みささぎ)を拝むことのすきな人もあろうが、なかには荒れ果てた塚をとぶらって昔を偲ぶことを好む人もいるわけで、いずれにしても、まだ当分は一顧を惜しまぬ人も多分いるだろうと思われる」。この屈折は、文を書くことと自らを墓標にすることが、ひとつだと覚悟した人のものである。

その深刻な自己懐疑において、挫折した論理学者、酒公もまた、1931年2月7日に英国のケンブリッジで日記にこう書きつけた論理哲学者と何ほども変わらない。



もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである――あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者のごとくに。(ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン「哲学宗教日記1930-32」)



酒公は最後まで悲運につきまとわれた。たまさか目にした新聞で「笑いの懺悔」と題する随筆に目をとめる。いまや中年に達した筆者が、かつて「love」という英語を教えた教師に馬鹿げた哄笑を浴びせたことを悔いていた。自分も愛の苦楽を知り、人生の波乱に翻弄され、いまは子供とともに外国語を学び直している、と。

哄笑を浴びて教壇を去った教師とは、酒公自身であった。彼は記事を読んだあと、田舎の小学校へ行き、無償で英語の授業をしたいと申し出た。教鞭をとって3カ月、またも天は彼を愚弄した。台風で校舎が倒れ、生徒を救おうとした酒公は下敷きになる。足腰が立たなくなり、寝たきりになった。床に臥せった彼を余秋雨が見舞ったとき、酒公は余の手を握りしめ、自分の墓碑を書いてくれと頼むのだ。碑文はどう書くのか、と問われて酒公は沈思して口述する。こういう文章である。



酒公張先生は、現世基地も名号も先祖世譜も知らない。跡継ぎがなく、独り者の一事だけが知れる。少年時代に西洋に学んだが、長じてさらに用いられることなく、さすらいの身に落ち、頼る伝手もなし。弱々しい体躯をひきずり、文士の集いに顔を出したり、強盗の手におののいたり、新しい世代の難詰に恐れをなしたり、はたまた無私な少年の哄笑に慌てふためいたり、おろおろ右往左往したりと何一つ定かでない。



その苛烈な自己批評は、書き写していても息苦しくなる。



釈迦も、儒教も、道教も深き縁を結ばず、真善美を残らず失し、はてに濁酒に破れ墨、片輪の肢体に墓碑持って、老境を編まんとする。生涯を通して、特に徳目もなければ、また悪行もない。老いぼれた今、回顧するに、かくのごとき粟麦野菜を無駄使いし、勤めた勉学も、こつこつとして苦吟もあだになってしまう、と嘆かわしくなる。おお、故国神州の赤子たる学子どもよ、かくも落ちぶれた敗者なるものは、張先生一人にとどまるように、と願おう。



滂沱(ぼうだ)と涙を流す酒公に、余秋雨は「こんな悲哀の文言はとても書けない」と呟く。かくて酒公没後の墓碑は、「酒公張先生之墓」の7文字だけとなった。この評伝が余秋雨の創作であるにせよ、ないにせよ、これほどみごとな無用無名無念の人の碑文をほかに知らない。