EDITOR BLOG

最後からの二番目の真実

ソニー19――人種差別広告

久しぶりにソニーの話題。というより、もう編集作業が始まっているから静かにしておいてほしいのに、勝手に欧州できわどい広告をのっけてお騒がせをやっているから、困ってしまう。人種差別に敏感な人々を刺激して、欧米のネットは大騒ぎになってしまった。

ま、とにかくご覧あれ。写真のように、白いセラミック製のプレイステーション・ポータブルのビルボードに、グラマラスな白衣のヘソだし白人女と、顎をつかまれた黒人女性を登場させて、「PSP、白が来る」とやったのだ。オランダでの話である。

この白人女性の顔、コワソー

こりゃ、いかん。そう思いませんか。いくら比較的人種に寛容なオランダでも、スキンヘッズがいないわけじゃないし、排外主義の同性愛の政治家が数年前に射殺された国ではないか。あまりに鈍感すぎる。

オランダだけではない。たちまち世界に飛び火して非難囂々、多くのサイトで広告撤去の声があがった。しかしソニーのスポークスマンは例によって自己中なのだ。「ゲームズインダストリー・ビズ」のサイトでは、あっけらかんとしている。



The marketing campaign for the launch of the White PSP in the Benelux focuses on the contrast between the Black PSP model and the new Ceramic white PSP model."

"A variety of different treatments have been created as a campaign to either highlight the whiteness of the new model or contrast the black and the white models. Central to this campaign has been the creation of some stunningly photographed imagery, that has been used on large billboards throughout Holland."



デザイナーの自己陶酔はまた、ソニーのひとりよがりでもある。ほかのバージョンもあって、黒人のほうが白人にまたがる図柄もあるようだけど、これじゃお目こぼししてもらえないだろうな。

有名サイトでも取り上げられて、コメントは100以上の盛況ぶり。万事休すだぞ。予感としてこの広告は撤去に追い込まれると思いますね。

ほんとに懲りないなあ。音楽CDのスパイウエア問題のレッスンがまるで生きていない。ソニー広報部門は何をしているのかね。また、「海外の話ですから」とネグるつもりだろうか。今度はちゃんと日本語でコメントを出しなさいね。ストリンガー会長さん。

バーキアン

ジタバタすまいと思っても、つい慌てるのは人のならい。進行中の取材から、降ってわいたようなテポドン発射まで、あれこれ取り紛れて、ブログが書けないでいるうちに、次の編集作業が目前に迫ってきた。

ポルトガルも敗退したので、もう私にとってW杯は終わった。

乱雑に引き出しをあけて、床一面に資料がちらばった、家宅捜索後の部屋みたいなもので、どこから手をつけていいか、一瞬分からなくなるときが編集にはある。ちょうど、今はそんな端境期。心もとなくなって、道しるべがほしくなる。最近、人にいただいたエドマンド・バークの本が、しばしその役をつとめてくれそうな予感がする。

中野好之訳の「フランス革命についての省察」(岩波文庫版)である。英語の原文はお手本のような名文で、かなり歯ごたえがあって、この忙しいのに読み直す気はない。邦訳では中公版(水田洋ほか訳)でお世話になったが、訳がこなれてないし、原文を読む前だったので記憶の彼方にある。この別訳で記憶を新たにしたい。

いまどきバークに何を学ぶのか。隣国の非常事態を自国の政治に置換するときの、彼の思考、いや、保守政治のリアリズムといったものである。たとえば、



我々が形而上学的な詭弁の迷路へ取り込まれることがない限り、確定した規則と臨機応変の方策との、つまりわが国の統治における継承なる世襲原理の神聖さと、極端な非常事態の際のその適用の変更に関する権限との両立は決して不可能ではない。あのような緊急事態に際してさえも(中略)、変更は、単に欠陥ある部分だけに、つまりこの止むをえない逸脱を生み出した部門に限定さるべきであって、この場合でさえ、それは決して市民的政治的な全機構の解体を通じて、社会の第一要素から新しい市民秩序を作りだすことがないように遂行さるべきである。



もちろん、彼はフランス革命を名誉革命になぞらえて英国の世襲王政を覆す危険に警鐘を鳴らしているのだが、同時に外患をもって内憂のアナロジーにする安易な連想を諌めているように聞える。これが安直な現状肯定、既得権に安住した怠惰と違うことは、バークの切迫した口調からも読み取れる。

私の若い知人に、いまどき珍しくバーキアンを自称する人がいる。バークを単純な「反革命」論者と見ているからではあるまい。バーキアンはカメレオンだが、このカメレオンには背骨がある。

「北」のミサイルの脅威は、直ちにショービニズムの引き金を引く。そして希望的観測の氾濫も。軍部内の対立や、ミサイル分離の失敗の観測……そこに一喜一憂しても始まらない。テレビ評論家やタレント教授たちの知ったかぶりは相変わらずだ。危機は危機だが、過大にも過小にも見ないこと。これに乗じようとする連中にも耳を貸さないこと。それしかない。

ジオポリティクスのいいレッスンである。日本の国家としての限界を見定めたい。ジーコ・ジャパンと同じだ。それが悔しければ、安逸にうかれていないで臥薪嘗胆を覚悟するしかない。

暗い日曜日

ぐやじい。イングランドまで負けてしまった。

でも、やっぱり単調な攻めで、不良面ルーニーをワントップでは無理。ベッカム君も不調で途中引っ込んだし、クラウチは相変わらず…。これまで見せてきたモタモタが何も解決していない。かろうじてPK合戦に持ち込んだけど、あれが精一杯だった。戦犯はランパートだな。イージーゴールを外すし、明らかに自信喪失している彼をPKの一番バッターにしたのが間違い。あれじゃ、国に帰れんぞ。

寂しいから、知人が応援していたポルトガル応援に鞍替えしよう。

さあ、そろそろ次の編集が迫ってきた。ワールドカップにうつつを抜かしている場合じゃない。


龍さまを悼む

危篤を知って、ほどなく訃報が届いた。また1人、竹下7奉行の一人が消えたと思うと、一抹の寂しさを禁じえない。竹下氏本人はもとより、奥田氏も小渕氏も梶山氏も逝った。残っているのは小沢、羽田、渡部の3人だけだ。

懐かしいだけではない。旧富士銀行九段支店の疑惑融資と小林秘書問題では、地団駄踏んだこともたびたびある。特金・ファントラ問題が国会で燃えさかり、大蔵大臣として歴史に残る食言答弁を残したことも忘れてはいない。日歯連事件では政界引退を余儀なくされ、晩年はあのてかてかの髪も肌つやも生彩を失っていた。

でも、絶頂期の彼の笑顔も間近に見たことがある。リヨンのサミットである。私は現地取材班のキャップだった。日程が終了した晩、日経の記者たちを慰労する打ち上げの慰労会を、当時の五つ星レストラン「ポール・ボキューズ」で開くという贅沢をした。キャップの気もしらないで、部下たちは威勢よくシャンベルタンの超高級ワインを次々あけるものだから、こちらの気分はだんだん暗くなった。

どう請求書を切ったらいいのか。決済は私のクレディットカードを使わなければならない。上限金額を超えるのではないか、と内心ひやひやした。そこへ颯爽とお助けマンが現れた。サミットに出席した橋龍その人である。

首相一行も同じレストランの2階で慰労会を開いていたのだ。たまたま、わが取材チームにかつて橋本番の記者がいた。VIPが上階にいると聞き、秘書にささやかせたのである。橋龍は帰り際、気安く階下に下りてきて、われらが席に立ち寄り、「ワインをおごってくれるかな」と切り出した。一同はどっと沸いた。

サッチャーとレーガンとゴルバチョフの一口話を披露して、えらくご機嫌だった。20分ばかりもおしゃべりしたろうか。たあいない内容で、記事にはならなかったが、一応は「サミット後の独占会見」である。私はしめたと思った。「これで請求書が切れる」と。

橋龍はぞろぞろとお付きを連れて去っていった。あとで聞いたら、VIPのお通りのためレストラン前の国道は通行停止。が、いつまで待っても、橋龍本人が出てこない。20分も交通遮断を続けたから、えらい渋滞になったとか。

いやはや、フランスに迷惑をかけたうえ、一国の総理をだしに「幻の独占会見」を取材費精算の口実にしたなんて、申し訳なかった。後輩記者諸君は、こんなこともう真似をしてはいけません。

わが家にはその晩持ち帰ったポール・ボキューズのサイン入りメニューと、橋龍の笑顔の映った写真が残っている。しばし眺めていよう。いい時代もあった。龍さまのご冥福を祈る。

電通サイトのリンク拒否

さて、きょうのFACTA無料公開記事は、竹島一彦公正取引委員会委員長のインタビュー。わが古巣、新聞業界の「特殊指定」問題に挑んだばかりか、電通の問題にも切り込んだだけに、その本音が聞きたかった。

ところで、電通のウェブサイトのリンク原則拒否が少し前からネットで話題になっていた。電通をからかう論戦をのぞいてみたが、これはかなり笑える話だ。

発端は、電通のサイトに載せてある居丈高のサイトポリシーにある。



リンクについて

当社サイトへのリンクは、原則お断りいたします。特に以下のリンクは固くお断りいたします。

● 当社の事業・サービス等を誹謗中傷、信用を毀損するおそれがあるサイトからのリンク
● 公序良俗に反する内容を含んだサイトからのリンク
● 違法なコンテンツを掲載したり、違法な活動に関与した、または関与した可能性のあるサイトからのリンク
● 営業活動もしくは営利を目的とするリンク、またはそれらの準備を目的とするリンク
● フレームやその他の方法で、当社のコンテンツであることが不明となるリンク
● サイトの管理・運営者が不明、またはハンドルネーム等により運営されているサイト、あるいは代理運営されているサイトなどからのリンク

また、当社サイトをリンク先とするサイトであっても、電通ならびに電通グループ以外による運営サイトである場合、そのサイトを運営する個人・団体との特別な関係は無いとともに、当該サイトを電通が推奨するものでもありません。



ネットで公開したものに「勝手にリンクをはるな」とは、これまた勝手な論理に聞こえる。家の外に出した看板に「勝手に見るな」と貼り紙しているようなものではないか。しかも、それをネット広告に積極進出している(しかも弊誌報道のように、積極的すぎてインサイダー取引疑惑まで引き起こしている)電通が、これほど頑なな「匿名排除」を打ち出しているのには驚いた。

すぐに次の疑問が浮かぶ。インサイダー疑惑を報じたFACTAのサイトは、この第一項目「誹謗中傷・信用を毀損するおそれがあるサイト」に含まれるのだろうか。さっそく私の個人名で、電通サイトの「問い合わせ」に書き込んでみた。この腰の軽さがブログの身上である。

さあ、どうでるか。上に稟議をあげるのか、シカトしてしまうか、興味津々で待った。6月23日午後6時すぎ、返答のメールが届いた。



阿部重夫

お問い合わせいただきありがとうございます。

当社ホームページは、広く多くの方に当社の概要、財務状況、事業内容、コンテンツ等をご理解いただけることを目的として作成、公開しております。アクセス数も多く、まことにありがたいこととご利用の皆様に感謝しているところでございます。

ご案内のように、インターネット上のプライバシーの保護や知的財産権の取り扱いに関する考え方は技術の発展に伴い変化しています。また、インターネット上の当社情報の不適切な利用、知的財産に関する権利侵害、フィッシング詐欺等に注意する必要性もあります。当社は多くのお取引き先があるところから、ご迷惑をお掛けしない配慮をとりわけ心がけているところであり、当社ホームページに「このサイトのご利用にあたって」の中でリンクの原則禁止のご注意をお知らせしている次第です。

さて、お問い合わせの「当社の事業・サービス等を誹謗中傷、信用を毀損するおそれがあるサイトからのリンク」条項は、基本的にはマスコミを想定しておらず、悪質な営業妨害に当たる行為者への防御的意味合いで設けているものです。リンクの申し出については、個別、具体的に対応させていただいておりますことをご理解いただければ幸いです。

電通コーポレート・コミュニケーション局メール担当



おお、ちゃんと答えているではないか。このサイトは「誹謗中傷」にはあたらぬらしい。電通の心の広さ、大いなる寛容に拍手を送ろう。でも、たぶん、広報の当事者は悩んだんだろうな。どうせブログで書かれると覚悟して。

ついでに申し上げておきます。電通内部からとおぼしき読者から「もっと暴け」と叱咤激励のメールをいただいたとき、「俣木盾夫社長のクビを取れということか」と気楽に書いたことが、電通内部で過剰反応を呼んだらしい。

誤解ですね。FACTAは首狩り族ではない。電通の首脳人事に介入する気はありません。それは株主総会で決めること、という自制心とトレランスはあります。

そんなに怖がる必要はないんだけどな。うっふっふっふ。

タルコフスキー4――ディラン・トマス

わが知り合いのポルトガル・ファンが怒っていた。オランダは汚い、と。退場だらけの荒れた試合で、おそらく次にあたるイングランドには負けてしまいそう。

本日無料公開するFACTA最新号の記事は、「進学塾トーマスが躓いた映像配信」。上場企業が蜜月だったベンチャー企業のシステムを採用したはいいが、そのあとでトラブルになっている事例は、いい教訓になると思う。

さて、誰かに言われたことがある。このブログの開始早々、書いていた旧ソ連の映画監督タルコフスキーの話、尻切れになっていますが、続きはまだですか、と。忙しさにかまけていたが、続きを書く前に、書き残したことにちょっと触れておきたい。

タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」のリメーク版「ソラリス」(スティーブン・ソダーバーグ監督)に失望したと書き、そこで引用された英国ウェールズの詩人ディラン・トマスの詩の引用がとってつけたようで納得がいかないと書いた。詩をくさしたのではない。挽歌として、あるいは弔辞として、あれはいい詩だと思う。ただ、それを得々と引用するソダーバーグの”クサさ”が嫌だったのだ。

詩はAnd death shall have no dominion「そして死は覇者にあらず」である。懺悔をこめて、ここに原文の初聯を引用しよう。以前、引用したタルコフスキーの父アルセーニの詩と読み比べてほしい。



And death shall have no dominion.
Dead men naked they shall be one
With the man in the wind and the west moon;
When their bones are picked clean and the clean bones gone,
They shall have stars at elbow and foot;
Though they go mad they shall be sane,
Though they sink through the sea they shall rise again;
Though lovers be lost love shall not;
And death shall have no dominion.



2-6行目は中原中也の詩「骨」を連想させる。



ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて
しらじらと雨に洗はれ
ヌツクと出た、骨の尖

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。



ディランの詩はは一連の反語が並べられている。気がふれたけど、正気にかえる。水底に沈んでも、身は天にのぼる。恋人たちは失われようと、愛は失われない。だから、死は覇者ではない、というのだ。

ここでリフレーンが利く。こういう辛い慰めの詩をジョージ・クルーニーが朗読しては幻滅する。それを前回言い忘れた。

点と線

京都へ出張したので、ブログが書けなかった。明日からは、FACTA最新号の一部記事の無料公開(フリーコンテンツ)が始まる(26日は「驕るトヨタのセクハラ訴訟」)ので、ブログも再開しよう。

往復の新幹線で佐野真一氏の「阿片王」と「旅する巨人」を読み直した。先日、平凡社の下中直人社長と会った際、同社が出版した「戦後戦記」を頂戴したからである。書き尽くされた中内論をここで評する勇気はないが、平凡社の本をぱらぱら目を通しているうちに、佐野氏の執念の上記2作を再読したくなった。

両作品のバックグラウンドとして出てくる戦前の民族学と軍事インテリジェンスには、私も興味があっていつか本格的に検証したいと思っている。取材先が次々に鬼籍に入ることによって、ほとんど佐野氏の取材は途絶を余儀なくされているのだが、取材先が日本に偏っているため、実はまだ広げる余地があると思えるのだ。

戦前上海の暗部については中国とアメリカ、およびユダヤ人社会に、まだ資料が埋もれているのではないか。もちろん、情報統制がなお続く中国で当時の資料が公開されるのは当分先だろうが、アメリカには戦後日本から押収した資料も含め、まだ材料があると思う。

そんなことを思ったのは三つほど理由がある。

第一は英国の戦史家アンソニー・ビーバーである。「スターリングラード」と「ベルリン1945」は邦訳もあるが、私が私淑するこの歴史家の書いた新作を読んで、彼の手法はデッドロックにいつか風穴があくという希望を抱かせてくれた。

戦史は書き方が難しい。ディテールにこだわって、正確を期せば期すほど人名と地名の羅列になって、退屈になる。大岡昇平の「ルソン戦記」など、1兵士として死線をさまよった執念が憑いているから許されているものの、そのトリヴィアの膨大な連続は正直退屈であり、忍耐を要するものだ。

ビーバーは違う。スターリングラードの消耗戦や、陥落直前のベルリンの崩壊の、ほとんど収拾のつかないカオスを、眼前に見るように描き出して間然するところがない。常識を覆すファクツの多くは、ロシア側から公開された膨大な新資料に基づいている。だから、目からウロコが落ちるような思いをさせられるのだ。

ビーバーは同じロシアの新資料に基づいて、旧著「スペイン内戦1936-39」(The Battle for Spain: The Spanish Civil War 1936-1939, Penguin Press)を最近書き直した。スペイン内戦はオーウェルやヘミングウエーら敗者の側から描かれてきた珍しい戦争である。が、「やつらを通すな」の美化された国際旅団の戦史の裏に惨憺たる人民戦線の内ゲバと無能があったことがちらほら指摘されてきた。ビーバーが従来の常識をどう覆したか、みなさん、ぜひ読んでみてください。

第二は「蒋介石のヒムラー」である。ビーバーはロシア語に堪能な欧州戦史家だが、カリフォルニア大学のフェレデリック・ウエイクマンJr.教授は中国語に堪能な歴史学者である。彼の大著「スパイマスター:戴笠と中国シークレット・サービス」は、蒋介石に影のように寄り添った謎の国民党情報機関長の伝記である。

中国語の英文表記と漢字表記を一致させていく作業がわずらわしく、私はまだ読了していないが、里見甫ら日本陸軍の工作機関と大戦中対峙しただけに、当時の中国共産党の工作機関を率いた周恩来の全貌(中国はまだ資料を公開していないが)とともに、立体的な視点から「阿片王」の謎を解く一助になるはずだ。

第三は土曜深夜、取材した先がたまたま東京・八重洲にあったアイゼンベルク商会に縁があったことによる。そこに常駐していたユダヤ人大番頭の謦咳に接したという。奇遇といえよう。

アイゼンベルク商会は知る人ぞ知る日本戦後史の裏面を飾ったユダヤ人企業で、創業者の故アイゼンベルクは戦前の魔都上海で身を起こし、戦後は日本に拠点を持って日本人の妻をもらい、米中国交回復後に再び中国に地歩を築いた立志伝中の人物だが、そこにシオニストのインテリジェンスの影を引きずっているのだ。私も彼の没後に未亡人に会おうとした(実現しなかった)。彼の会社に天下りした元国防相で、ナタニエフ首相の後ろ盾になった人物にインタビューしたことはある。

日本占領下の上海では、AIG創業者のアメリカ系ユダヤ人、コーネリアス・スターが地元新聞社をつかってアメリカの情報工作機関OSS(CIAの前身)の諜報網を動かしていた。青幇と結託した里見機関と彼らは暗闘を繰り返していたはずで、ゲットーに押し込められたとはいえ上海のユダヤ人社会と無縁であったはずがない。

それらはまだ点と線である。佐野氏の国内取材の執念には脱帽せざるをえないが、いつか彼のたどりついた先まで行ってみたい。そう、時間があれば……。

村上叩き第二幕4――福井火砕流

水面下の動きが速い。追うのに息せききって、このブログの執筆がついていけなくなり、数日空白ができた。

さて、少々手前ミソ。FACTA最新号で報じたスクープ「佐藤ラスプーチンの『爆弾証人』」が、21日にさっそく裏付けられた。鈴木宗男疑惑に連座した起訴休職中の外務省職員、佐藤優氏の控訴審に、一審では出廷拒否した元条約局長の東郷和彦氏が弁護側証人として出廷したのである。

証言内容はほぼ本誌報道どおり、裁判上そこにはらむ問題もまた本誌が先んじて書いた通りなので、22日朝刊の各紙の記事と読み比べていただきたい。それにしても、鹿取克章外務報道官に対し、霞クラブの記者の質問は甘いと言わなければならない。外務省のサイトによれば、一問一答は以下の通り。





(問)今日、佐藤優被告の裁判で、東郷元欧ア局長が決裁が組織的なものだったなどと証言されていますが、それについて外務省としての受け止めを聞かせて頂けますか。

(報道官)これは係争中のものですから、我々がコメントすることが適当かどうか知りませんが、我々としては、この裁判に対して、十分関心を持って見守っていくということです。

(問)外務省幹部の方が弁護側の証人に立ったということ自体はどうですか。

(報道官)この方は今は直接の外務省の職員ではありませんので、我々としてコメントすることは差し控えたいと考えています。

(問)組織的な決裁ではなかったという認識なんですよね、外務省としては。

(報道官)この問題については、我々としては組織的なものではないという認識です。

(問)佐藤被告が独断でやったという。

(報道官)基本的には、佐藤被告の考えで実施されたものと受け止めています。



ああ、条約、協定、国際約束等の「有権解釈権」の問題を突く記者はおらんのかね。そこがミソであり、「組織的」の定義をとことん問い詰めれば、スポークスマンは往生したはずなのに、情けないなあ。ちゃんと勉強してほしいと思う。

もうひとつのスクープは、19日に発表されたゼーリック米国務副長官の辞任。これは本誌で間に合わないと考えて、このブログで確報(第一報のフラッシュは英国フィナンシャル・タイムズ)を流したから覚えておられた方もいると思う。これくらいで欣喜雀躍するほどナイーブではないが、FACTAのニュース志向を強調するため、あえてここに書いた。

さて、村上氏は本日、インサイダー取引容疑で起訴される見通しだ。AERA大鹿記者の記事にあったような、ライブドア宮内被告(元取締役)が、当時CFOを一時外されていて、「ヒラではインサイダー取引の構成要件を満たさない」といった議論も通らないだろう。堀江社長に同行しているし、実質的なCFOだったという位置づけで、検察は難なく論理構成できると思うからだ。

村上叩き第二幕」ので書いたように、むしろ国家の恣意の問題こそあとあと尾を引きそうな気がする。なんとなれば予想通り、世論の矛先は事件の本筋からそれて、魔女狩りの様相を呈してきたからだ。

「六甲おろし」ならぬ「福井おろし」の風邪が吹いている。読売はネットの緊急アンケートを実施して、「福井辞任すべし4割」と事実上のキャンペーンを始めたし、週刊文春や週刊新潮を見ても、この火砕流はとめようがない。大衆雑誌に中央銀行総裁の「辞任勧告」が躍るようになっては、クレディビリティもへったくれもない。

一言でいえば、こういう状況下で福井日銀総裁が、ポストにとどまるのは無理である。ワールドカップに敗退すれば、フラストレーションはこちらに向かうだろう。要は打撃を最小限にとどめるダメージ・リミッティングしかない。

次期政策担当理事の稲葉大阪支店長は、すでに総裁の相談相手になっているのだから、そろそろ引導を渡すべきだろう。せめて、ゼロ金利を解除してから、クビを差し出してください、と。

村上叩き第二幕3――戦犯

もう応援はしないとはいえ、またもやトホホのドローだった。

他国選手のゴールシーンを繰り返しみせられると、日本って出場国でいちばん弱いのではないかと思えてくる。

わけても戦犯は柳沢だったと思う。肝心なときに役に立たない。絶好のシュートチャンスにも決められないふがいなさを、彼ほど堪能させてくれるFWはいない。わがニッポンの誇るべき象徴である。

さて、一夜あけて、サッカーの試合運びになぞらえて村上ファンド叩きを再考してみる気になった。

こういうときの学者の論というのはたいがい的外れだが、19日付日経朝刊の経済教室欄に書いていた小幡績慶応大学助教授の寄稿は、証取法の内実を論じているのでここで取り上げるに値する。

彼は不正取引を禁じた157条と、インサイダー取引を禁じた166条の2つで、証取法がグレーゾーンを許さない包括的規制の仕組みになっているとしている。これは学者らしい後付けの議論で、いわばゾーンディフェンスとマン・ツー・マンディフェンスを敷いているから、法的には万全なのだというにひとしい。

そうだろうか。このゾーンとマン・ツー・マンの二重性に、立法時の逡巡が潜んでいると私は思う。前回書いたように、立法時に検察や大蔵省はゾーン・ディフェンスに徹する自信がなく、マン・ツー・マンで仕留める「マス法」にしたのだ。今回の村上ファンド摘発のケースで、検察内部では証取法157条適用も検討されたらしい。が、結局、見送った。なぜか。角を矯めて牛を殺すな、というのだ。

157条なら確かに包括的規制が可能になるが、ゾーン全体に網をかけると証券取引を萎縮させ、日本の資本市場を窒息させてしまうことを恐れたからである。

しかし、一人一殺のマン・ツー・マンの最大の難点は、起訴するかしないかが検察や証券監視委員会の裁量に委ねられることである。法全体が地雷原のようになっているから、どこがフェアグラウンドでどこからがOBかが、市場参加者には分からない。

しかも恒常的な人手不足で、検察は常に「訴訟経済」、要は「一罰百戒」の効率性を狙わざるを得ない。その裏で法のもとの平等は等閑にされている。なのに一見、ゾーンディフェンスのような顔をしているから、よけい始末が悪い。この点で小幡論文の懸念は正しい。



実質基準で包括的に禁止し事後的に判断する構造にしないと悪意の取引を防止できない。いわば条文上は法の網の目を完全にふさぎ、事後的に裁判で判断するという構造を(日本の証取法は)とっているのだ。

(中略)
日本の行政当局や検察は、明示的な法令の規定でしか判断できず、確実に立件、有罪が見込めるものだけを告発してきた。明らかに違法なのに立証が難しい取引にグレーゾーンという名前が与えられたのである。

「一罰百戒」の悪影響はまさにこの点にあり、「捕まらなければ違法でも関係ない」と考え、一罰に偶然遭遇するリスクをいとわない投資家の不当利益の獲得を防止できなかった。



パラフレーズすると、市場行政あるいは取り締まりに罪刑法定主義はミスマッチだということだ。法務省も裁判所もこの原則は譲らない。インサイダー規制を課した1987年以来、手つかずである。

小幡論文は「証券市場の制度全体をデザインし直す」ことを求めている。ごもっとも。しかし法曹界の頑固アタマは、市場という融通無碍のアメーバを相手に金科玉条で立ち向かうことしか知らない。

そこに村上事件の不幸な根がある。世論上は「堀江貴文や村上世彰は運が悪かった」「目立ちすぎて出る杭が打たれた」という説明が説得力をもってしまう。しかしグリード(貪欲)の問題ではなく、制度の欠陥の問題なのだ。それでも検察は裁判で勝つだろうが、アンパイアの裁判官が肩を持つからである。

彼らの教条主義を支えているのは、月光仮面程度のちっぽけな正義感でしかないことがわかっていない。ほんとうはそれこそ恣意である。法の執行の恣意は司法の信頼を損ねるという意味で、市場取引の信頼を損ねるゆえに罰せられるインサイダー取引より、ある意味でもっと重大である。戦犯は彼らなのだ。

村上叩き第二幕2――ザル法ならぬマス法

村上世彰氏逮捕以来、新聞や雑誌に洪水のように流れた記事に目を通してみた。玉は少ない。月刊「文藝春秋」の記事をはじめとして、シンガポール移転を告げた村上氏の片言隻句以外、めぼしいファクツが見当たらないのだ。枯れ木も山の賑わいの焼き直しが多い。正直、編集者としては同情を禁じえない。お互いさまだが、時間のないなかでスケジュールと追いかけっこだった状況は、他人事ではない。

しかし、「ヒルズ黙示録」の著作もあり、知人であるAERAの大鹿記者が書いた6月19日号の記事「村上『無罪』への大逆転」には、ちょっと意表をつかれた。なるほど、そういう見方もできるのかと思ったが、すこし異論がある。敬意を表した上で、何に違和を感じたかを書こう。

この捜査が世にいう国策捜査であることを私も疑わないが、6月5日の「最後の会見」を、「彼ならではの計算されつくした仕掛けがふんだんに施されてある」として、しおらしく有罪を認めたことを「演技」とみなし、特捜部の描いたストーリーにあえて乗った上で、最終局面で「大どんでん返し」を狙っているというのは無理だと思う。

特捜のシナリオを妄信しているからではない。大鹿記者のロジック、あるいは村上氏側の期待するストーリーでは、この立件のはらむ問題は尽くせないと思うからだ。村上「死んだふり」論の難点のひとつは、1989年4月に制定された証取法のインサイダー取引規制の本質にかかわる。

証取法166条、167条の条文をじっと眺めてみよう。奇妙なパッチワークであることに気づく。これでインサイダー取引の構成要件が尽きているわけではない。もし、市場からインサイダー取引を一掃する規制を敷くというのだったら、日本の刑法が準拠する罪刑法定主義のもとではもっと詳細に列挙しなければならない。ところが、妙にまだらで部分的だから、中途半端な印象を与える。

それも道理、インサイダー取引規制誕生の時期を見てもわかるように、これは80年代末の第一次バブル末期に拙速でつくりあげられた規制なのだ。当時は暴力団の影がちらつく仕手筋が跳梁跋扈して、大蔵省証券局もさすがに座視できず、いわば苦肉の策、倉卒のうちにひねりだした妥協の産物なのだ。当時、証券局に出入りしていた大手4社のMOF担たちもこの規制の有効性に懐疑的で「ザル法」と陰口をたたいた。

何よりも証券取引等監視委員会という組織がなかったことが大きい。見本としたアメリカの証券取引委員会(SEC)が存在しないことが、最初から規制を局部的にしたといえる。そこで、インサイダー取引の監視には手馴れた業界の自主規制団体があたり、摘発は検察に任せることになったが、当時の検事で証取法のエキスパートと言える人材はほとんどおらず、法ができても現実に執行できるのか自信がなかった。しかも相手は市場である。包括的な網をかけては、いっぺんに取引が萎縮して元も子もなくなりかねない。

そこで違法のエリアを絞った。当時の業務課など法案作成に携わったスタッフの話を聞くと、「ザル法ではなくマス法」と言っていたという。ザルは目が粗く、落ちこぼれが多いが、このインサイダー取引規制は、法に触れるスイートスポットを狭くして、マス状の穴がぽつりぽつりと地雷のように仕掛けてあるという。それ以外は白地になっているが、いったんそのマスに踏み込んだら、ぜったい逃げられないようにした、というのだ。

2003年に経団連が「インサイダー取引規制の明確化に関する提言」をしているが、そこで「重要事実に係るバスケット条項」の問題(証取法166条2項4条)を指摘している。バスケット条項とは、個別の重要事実の列挙に加えて、その他の「上場会社等の運営、業務又は財産に関する重要事実であって投資者の判断に著しい影響を及ぼすもの」を重要事実とみなすとしている条項のことである。経団連はこう指摘した。



このバスケット条項の存在により、何が重要事実に当たるのか不明確となっており、罪刑法定主義に反するとの指摘がなされている。また、犯罪とならない範囲を画する機能(自由保障機能)が低く、投資家は保守的な解釈を余儀なくされ、株式投資意欲が殺がれるという弊害もみられる。



そこがミソだったのである。摘発する検察にとって便利な「なんでもあり」の条項がこのマスの中には潜んでいるのだ。マスの数は少ないが、いったんこのブービートラップはまったら(あるいは検察がはめる気になったら)たやすく抜けられないようになっている。

村上氏はその地雷原をひょいひょい歩いてマスに落ちた。重要事項を「聞いちゃった」なら、社内の報告制度でそれを申告し、翌日から売買停止措置をとらなければならない。ニッポン放送株ではこの手続きなしで、売買したケースが明らかにある。検察はスイートスポットにはまったケースを掴み、証拠も押さえたに違いない。

そう見ると、村上氏は「プロ中のプロ」とは言えない。彼が無罪を免れ難い理由はほかにもあるが、それはまた次回に書こう。

村上叩き第二幕1――村上ファンドのリストが出る

村上ファンド叩きは「フェーズ2」に入ってきたようだ。福井日銀総裁が1000万円出資していたと告白するなんて、参院財政金融委員会で質問に立った民主党の大久保勉議員も予想外の出来事だったらしい。

大久保氏は奇しくも孫正義氏や堀江貴文氏と同じ久留米市出身。東京銀行からモルガン・スタンレー証券を経た金融出身議員で、どちらかといえば地味な「金融オタク」だった。ごりごり暴露質問で責め立てる「爆弾男」タイプとは違う。ニセeメールで前原民主党前代表の首を飛ばした、オソマツな永田寿康前衆院議員のような山っ気はなかったのだ。

13日の質問でも大久保氏は淡々と、村上ファンドの応援団だった福井総裁の倫理的責任を問おうとした。ところが、総裁のほうから告白答弁。ざわつく傍聴席に、あわてて深入りするのを避けたほどだ。しかし、総裁はなぜ月央の政策会合が行われる前日に、クレディビリティを問われるような告白をしたのか。

察しはつく。村上ファンドの出資者リストが近く表沙汰になるのだろう。知らんぷりはできない、と観念したのだ。

役者の村上世彰氏がいまは小菅の住人なので、映像のほしいテレビとしては第2、第3の血祭り候補がほしい。オリックスの宮内会長らの名はすでにあがっているが、ほとんどノーコメントだし、映像にもなりにくい。そこで、新たに出資者を掘り出し、応援団叩きが始まるのだろう。

「もうけちゃいけませんか」。”最後の会見”で村上氏が言い残した通りである。まさしく村上ファンドで「もうけた」人々に、これからは矛先が向かう。それが第2幕である。

直感でいえば、福井総裁は辞めざるを得ないと思う。でないと、2年余もレームダックのままとなる。そう思った瞬間、彼は決断してしまうだろう。さはさりながら、当方は尻馬に乗りたくない。

そこで次回以降は、村上叩き論議のなかであえて「無罪」論を唱えたAERA大鹿記者に敬意を表しつつ、ちょっぴり異を唱えたいと思う。たぶん、どの新聞・雑誌もできない本質的なアングルから。

それがブーメランとなって返ってきて、おまえの雑誌は何じゃいな、と言われるのは覚悟しておりますが。

クローサー4――ブラック・フライアーズ橋

あらら、である。福井俊彦日銀総裁が、国会で村上ファンドに1000万円出資し、いまなお出資者であることを明らかにした。うーん、である。脇が甘いというか、よりによってこの時期に、責任転嫁の得意な永田町のセンセイの前で、むざむざ自分を好餌にさしだすようなものである。

ちょっと浮き世離れしたトピックを書いているうちに、だんだん風雲急を告げてきた。あすからは、なまなましい話題に復帰しよう。その前に「クローサー」の連載を本日で終えることにする。

さて、「クローサー」の意味は何だろう。シナリオのどこにも説明されていない。

つづりは同じでも、まさか野球用語の「クローザー」ではあるまい。最後のリリーフピッチャー、かの大魔神の役回りで、「締めくくり役」というほどの意味だが、野球と縁のない英国ではその言葉自体を聞かない。

それに「締めくくり」という意味だったら、「se」の発音がズと濁るはずである。やはりここは「近い」「親密」という意味の形容詞の比較級だろう。だが、何により近いのか?もつれる恋愛劇だから、恋人に誰がより近いかのゲームとしてこのタイトルが考えられたのだろうか。ずっとそう思っていて、違う含意があるのに気づいた。

ヒントは、この芝居の冒頭でアリスが事故にあう「ブラック・フライアーズ橋」だと思う。

セントポール大聖堂のすこし南、テムズ川にかかる実在の橋である。英国駐在時代、オフィスがテムズ河岸にあったから、この橋も、その地名を冠した地下鉄の駅もおなじみだ。が、直訳すれば「黒衣の修道士」で、なにか禍々しいイメージである。

邦訳では注がついていて、「かつて自殺の名所であった」とある。しかし、私の駐在時代、ここでテムズに入水したという事例は絶えて耳にしたことがない。が、思いあたる怪事件がこの橋で起きたことは知っている。

1982年6月18日早朝、このブラックフライアーズ橋の橋梁に一人の縊死体がぶら下がっているのが発見されたのだ。ローマ法王庁管轄の銀行、バンコ・アンブロシアーノ銀行の頭取ロベルト・カルヴィだった。

カルヴィはイタリアの政財界を揺るがせた秘密結社「P2」の一員で、その頭領ゲッリの命令でアンブロジアーノ銀行から巨額の横領を行い、そのスキャンダルが暴露されて窮地に陥り、行方をくらましていたのである。

P2はイタリアの大統領らエスタブリッシュメントに深く食い込んだ組織で、暗殺など手段を選ばず、カルヴィの死体も自殺にしては不自然(いくら深夜でも、車の通りの多いこの橋で首をくくるのは難しい)だったことから、他殺説が流れた(結局、自殺で処理された)。

しかし、のちにジャーナリストのデヴィッド・ヤロップが書いた「神の名のもとに」(In God's Name)で、この事件を1978年の法王ヨハネ・パウロ1世の急死と結びつけたことで評判を呼んだ。法王は即位わずか33日で死亡したのだが、アンブロジアーノ銀行のスキャンダル発覚を恐れたP2の犯行ではないかと書いたのだ。

中世のような法王毒殺ミステリーに、この本はたちまちベストセラーになった。法王庁はもちろん否定しているが、あとを継いだポーランド人法王、ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件も起きたことから、このバチカン・ミステリーはいまだに謎の影がついてまわる。

ちょうど今からおよそ24年前に起きた怪事件である。「クローサー」の芝居を流れる時間帯は、1990年代のロンドンだから、ロンドンっ子の記憶からもまだ薄れていなかったはずだ。訳者はそのエピソードをぼんやり聞かされていたのではないか。テムズ川に合流する、暗渠のフリート川の話もでてくる(新聞街フリート・ストリートはその上にある)。そこが屠殺場から逃げた豚の脱出路になるというユーモラスなエピソードも出てくるが、それは「死の都」を流れる三途の川なのだ。

この恋愛劇の彼方には、「死の都」ロンドンが透けて見える仕掛けになっている。少女アリス自身も、セントポールに近いポストマンズ・パークから現れる。人を救って自らを犠牲にした名もない庶民の墓碑銘がそこにあり、それはアリスの運命を暗示していると思えるのだ。

映画では省いていたが、アリスの脚には傷跡らしきものがある。それが皮膚科医ラリーの目を引く。その病名はラテン語なので舞台では聞き取れなかった。

Dermatitis artefacta

「自傷性皮膚炎」と訳すらしい。artefactaとはartificialなのだろう。わが雑誌のタイトルFACTAが、こんな単語にも紛れこんでいることにご注意。とにかくアリスは心中に屈託があって、自らの肌を傷つけたのだ。冒頭の事故だって、とっさの自殺衝動だったかもしれない。死亡記事記者ダンとの出会いも、だからこそ意味がある。

愛人ダンを奪った写真家アンナと対峙する場面で、アリスははっきりその衝動を口にする。



アンナあなたまだダンのことを?あんな仕打ちされても?
アリスあんたにはわかんないわよ。あの人、私を……葬ってくれるのよ。私をみんなから見えないようにしてくれるの。
アンナ(興味深げに)何から隠れようとしているの?
アリス(小さい声で)すべて。世の中すべてうそのかたまりでしょう。意味ないわ。
アンナ甘いわねえ。若いからそうやって現実から逃げちゃうんだ。
アリスそうかもね。あんたトシだもんね。



アリスが「死の都」の天使に見えてきませんか。「クローサー」には「死により近い」という意味があると思う。

クローサー3――惨敗

見て損した。ジーコ・ジャパンの1-3の惨敗はひどかった。

1点先制してヌカ喜びさせたぶん、罪が重い。ブラジルとクロアチアに勝てると思えないので、もう、応援するのはやめました。

さて、たびたび引用した「クローサー」の邦訳(海鳴社、岩井眞實・上田修訳)について。

訳者は98年4月から翌年3月まで、ロンドン大学の客員研究員だったらしく、つごう4回も公演を見たので、訳注つき地図つきという、いたれりつくせりの翻訳である。会話のなかに潜む、微妙な階級意識を明かしてくれる。

たとえば冒頭、病院のシーン。街角で少女がタクシーと接触、怪我をしたことを死亡記事記者のダンが説明するところは、タクシーの運転手が

Thank fuck, I thought I'd killed her.

という。この「fuck」はもちろん、行儀の悪い合の手みたいな単語で、舞台ではコックニー訛で発せられる。それに対し、失神から目覚めたアリスが口にするのは、

I'm very sorry for all the inconvenience.

「ああら、ごめんあそばせ」みたいな響きがあって、これだけで運転手と、アリスの出身の違いが分かるのだ。アリスは何か心に傷を抱えていて、ストリッパーになったりしているが、育ちはいいのである。これに対し、ダンのライバルである皮膚科医ラリーは、どこか下卑ていて、言葉の端々に階級コンプレックスが現れる。

フォト・ギャラリーに飾られた、自分の巨大なポートレートを眺めながら、アリスがラリーとかわす会話。



Larry Pricey. dou you like it?
Alice No.
Larry Well, you should. What were you so sad about?
Alice Life.
Larry What's that then?
(Alice smiles.)
Larry (gesturing to the photos) What d'you reckon, in general?
Alice You want to talk about art?
Larry I know it's vulgar to discuss 'The Work' at an opening of 'the Work' but someone's got to do it. Serious, what d'you think?
Alice It's a lie.



40歳になろうとする皮膚科医が、少女のようなアリスにいたぶられるのは、教養のなさを最初から見破られているからに違いない。画廊で芸術談義をしようとする俗っぽさに、アリスはうんざりしているのだが、ラリーはそれ以外に話の糸口をみつけられない。こういう微妙な言葉の力学は、英国人にしかできないだろう。サーの称号を授かり、漆のお祝いを送ったウェスカー氏も、英国人は微妙な方言で出身の差を意識するから、それを聞き分けなければいけないと教えてくれた。

そこまでは無理としても、邦訳はかなり健闘している。際どい卑語を乱発しながら、ハリウッド映画でも始終耳にする、「fucking」という単語はほとんどない。「I mean」や「I know」など、間延びする間投詞もないから、ビリヤードのように言葉が行きかう。それをよく日本語に移しかえている。

ストリップ小屋の個室で、ラリーと相対するアリスの場面。



ラリーここに大勢男が来るんだろ?そいつらおいおい泣くだろ?
アリスそれさえなきゃ、いい仕事なんだけど。
(短い間)
ラリーそいつらを見て、キュンとなったことある?
アリスあります。
ラリーボク、さみしいなー……どう?キュンとこない?ぶっちゃけた話、俺、今ときめいているんだけど。
アリスおたくが「ときめく」ってか。
ラリーちゃかすなよ。
(短い間)
アリスじゃあ言います。寝たくない。



「それさえなきゃ、いい仕事」とはOccupationalhazard、「キュンとこない?」はdesire me? である。あばずれを装う少女と、その客を装う男との丁々発止のやりとりは、日本語でもリアルに聞える。すくなくとも、「時代風俗を濃厚に映している1955年のロリータを、2005年のロリータにアップデートしようとした」という新訳「ロリータ」(若島正訳)よりは失望しないですむ。新訳ロリータは以下のようなしゃべり方をする。

「マックーとこの女の子って?ジニー・マックーのこと?ああ、あの子ってキモいのよ。それにイジワルだし。それにビッコだし。小児麻痺で死にかけて」

この「キモい」はまったく現実感がない。訳者はこの年代の女の子としゃべったことがないのではないか。「thank you」を「どーもー」に置き換えたアリスのせりふに比べれば、これも完全な惨敗である。

クローサー2――スフインクスの謎

マーバーの戯曲「クローサー」論の続き。

当初、映画版に出演したジュード・ロウもアメリカ人かと思っていたのだが、彼もイギリス人らしい。知人から指摘してもらった。映画のよろず知識専用サイトによると、ロンドンのルイシャム出身。私の好きな怪優ゲイリー・オールドマン(少女時代のナタリー・ポートマンと「レオン」で共演)が住んでいた荒っぽい町、Deptfordのすぐ目と鼻の先にあるショッピングセンターや各種店舗や市場が立ち並ぶ繁華街である。

この知人によると、80年代後半のルイシャムは、そうとう荒れていたそうな。目の前でスリにあって、叫んでいる黒人の太ったおばさんや、カリブ系黒人やインド人の多い町だったという。「映画や小説を通して知る70年代のルイシャムは、ネオナチも暴れる人種差別の町でもあったようです」とか。

だとするとジュード・ロウもワーキングクラスということになる。ちょっとノーブルな顔立ちなので騙されるが、コックニー(ロンドン庶民方言、「マイ・フェア・レディー」のイライザが喋るべらんめえ英語)を喋るのかいな。

しかし、映画のロウは、しがないジャーナリストのダンを演じ、クライブ・オーウェンの成り上がり皮膚科医ラリーより、明らかに階級が上の英語を喋っている。この芝居で私ははじめて「obit」という単語を知った。「Obituary」の略で、新聞の死亡記事のことである。ダンは作家志望だが、実は書くことがない。いや、才能もなかった。それで新聞に入ったのだ。怪我をした少女アリスに、彼は聞かれる。その訳文(岩井眞實・上田修訳)を紹介しよう。



アリスどうやってこの仕事についたの?

ダン自分の死亡記事を書かされる。それが気に入られたら雇ってもらえる。

2人は近づき、みつめあう。



たったこれだけの会話で、これが優れた脚本であることがわかる。自分の死亡記事を書け、といわれたら、虚をつかれてはっとしませんか。私も新聞の入社試験の面接官をやったことがあるが、こういうしゃれた提案はできなかった。もしジャーナリストの方で、FACTAにチャレンジしたいという方がいたら、こういう設問にしよう。

過度に文学的なのはもちろんダメ。自己憐憫はジャーナリストにとって毒以外の何ものでもないから。かといって無味乾燥では困る。いいトレーニングになると思うし、こちらはいいリトマス試験紙になると思う。自信作ができたら、いつでも送ってください。

さて、そのせりふでこの2人は恋に落ちたのだ。なぜか。もちろん、2人とも死に憑かれていて、それがこのドラマ全体のライトモチーフなのだが、それは礼儀で黙っておきましょう。もうひとつ言えることは、メディア=媒体という意味から察せられるように、もとは「霊媒」という意味であり、あの世との交点に立つ存在だということ。だとすると、死亡記事はメディアのもっとも根幹の仕事ではないかということです。

有名なオイディプスの神話は、朝は4本足、昼は二本足、夕べには3本足になるものは何か、とスフインクスが問いかけた難問に、人間という正解を与えたがゆえに、母と近親相姦を犯すという運命を授かる。これはいったいなぜなのか、神話の世界を数学の群論を動員して「変換の体系」とみた構造主義の文化人類学は、その変換のCPU(中央演算装置)として「トリックスター」という概念を持ち出すが、メディアもまさにこのトリックスターであり、
生と死を変換させるCPUとして機能している気がします。



ダン旦那や奥さんに死なれて死亡記事を頼みに来るのがときどきいるけど、しつこいんだ。「頼むから載せてくれ」って。載せないと大切な人を軽く扱ったと思われるんだ……でも……たいていはまあ……そんなスペースはない。
で、6時には3人でコンピューターのまわりに集まってゲラを読んで、最終調整をして、あとは文章に味付けをして遊ぶ。

アリスどんなふうに?

ダン 「生前は社交的な男性だった」。これはアル中。
「生前は私生活を重んじる男性で」……ゲイ。
「私生活を大いに楽しみ」……女装マニア。



もちろん、この言い換えは、スフインクスの謎を解くオイディプスと同じなのだ。ダンは自らがトリックスターであることを明かす。そこにアリスは惹かれるのだ。

我田引水でいえば、FACTAの誌面で死亡記事(というよりは追悼記)「ひとつの人生」を定着させようとしているのは、そういう魂胆があるからです。しかし、このトリックスターは危険なマージナルマン(境界人)なので、しだいに冒涜的な極悪人的発想になる。つまり、死人を待ち望む気になってくるのだ。

――きょうは、死ぬにはいい日だ。だれか、いいホトケさんは出ないかね?

――どう、あなた、死んでみません?いい「obit」を書いてあげるからさ。

てな、具合です。

クローサー1――ふがいなしイングランド

つゆ空だが、いつのまにか夏が近い。頭が貧血状態ですっからかん。先週1週間は、むち打ちのあとで間なしに、嵐のような編集作業に明け暮れたせいで、ほとんどブログを書けなかった。ようやく編集作業が一巡した土曜は整体に行って昼寝して、夕方から出社した。W杯もどこか遠くのできごとである。

それでも、土曜の開幕戦はヘトヘトで見逃したので、この日のイングランド戦からテレビ観戦。ベッカムさまのミーハー的なファンではないが、しばらく駐在したのでイングランドを応援することにしている。試合開始早々、ベッカムのFKでオウンゴールを誘った1点を入れたのはいいが、そのあとはフラストレーションの連続だった。

ジーコ・ジャパンみたいにもたもたして、シュートが打てない。前評判では優勝候補というが、これで勝ち抜けるのかね。観客もやけっぱちみたいなゴッド・セーブ・ザ・クイーンを歌っていた。ふがいなし、イングランド。

口直しに思い出話を書こう。

9年前のロンドンのテムズ川南岸。ロイヤル・フェスティバル・ホールの向かいにロイヤル・ナショナル・シアターがある。97年は5月の総選挙でブレア労働党が勝ち、この界隈でも未明まで支持者が歓声をあげていた。うっすらと明け初めたロンドンの東雲で、興奮冷めやらぬ人の群れを追って取材したことを思いだす。

記憶では、劇場で近く公演される予告の看板が立っていて、誰かが蹴飛ばしていた。芝居のタイトルは「Closer」。もう接近どころか、政権はとっちまったぜ、といったジョークを口にしていた。実はそれがパトリック・マーバーのこの傑作の初演(97年5月)で、その夏の評判をとった。私も観客になってみたが、食肉市場のスミスフィールドや、テムズ川にかかるブラック・フライヤーズ橋だの、ごく近所の地名がでてくるのは、初演の劇場の場所を意識したものだったのだろうか。

この「クローサー」という芝居は、現代版のラクロ「危険な関係」というか、惚れたり、浮気したり、奪ったり奪われたりの4人の男女の濃密な愛憎劇なのだが、小道具につかわれる「ニュートンのゆりかご」(一列の金属球が糸につり下げられて並んでいて、端の球をはじくと反対側の球がはじかれるオモチャ)が象徴になっていてなかなかしゃれていた。

驚いたのは、パソコン通信のチャットを舞台に掲げたビデオ・プロジェクターで再現したことである。「テレホン・セックス」というのはあるが、「eメール・セックス」というのを舞台でみたのは始めてだった。ネット通信の匿名性を利して、片方の男が女性を装い、きわまっていく文章を猛スピードで書いていく。

くすくす笑いが漏れていた観客席が、いつのまにかしんとしてしまった。もちろん、フェイクなのだが、新しい文体の誕生に息をのんだのだ。邦訳はあるが(海鳥社、岩井眞實・上田修訳)、卑語を引用するのはためらわれるので、原文でいこう。



i lik it off like the dirty slut I am. Wait, have to type with I hand…I’m cumming right now…
ohohohohohohohohohohohohohohohohohoho
ooooooooooooooooooooooooooooooooooooo
oooooooooooooooooooooooooooooo
+_)(*&^%$£”!_:)&%^&!”!”£$%%&~%&&*&*((*(*)&^%~*((£££

was it good?

No.



こういう文章、いまは「2ちゃんねる」でいくらでも見ることができるが、当時は目新しかった。そのせいかどうか、この芝居はみるみる出世した。ニューヨークのブロードウエーでも公演して「定番」となり、昨年はついにハリウッドの映画になったのには驚いた。映画でもこのチャットのシーンが出てくる。

ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、クライブ・オーウェンが演じたから、映画はご記憶の方もいるだろう。しかし、英国生まれの戯曲だけに、英国人にしかわからない微妙な出身差のせりふがちりばめられていて、アメリカの俳優ではそこが演じわけられない。美人のポートマンはほとんどヌードになって力演(ゴールデングローブ助演女優賞)していたが、原作の辛辣と残酷と、そして悲しみを表現するには荷が勝ちすぎた。ジュリア・ロバーツも同じハンディを背負っていた。

それを免れていたのは、英国出身で初演時にも別の役で出ていたオーウェンだろう。さすがに地元の人間が演じると、ワーキング・クラス出身の屈折といやらしさがくっきりと出てくる。彼の演技が私の記憶に残っていたのは、労働党勝利の余韻があったのかもしれない。

チャットだけでなく、この芝居はヒットしただけに、飛び交うせりふが素晴らしい。次回以降もその話をしばらくつづけよう。

電通を撃つ12――失語症

日本に留学していた中国のジャーナリスト王建鋼氏(月刊誌「経済」主筆)に、「中国新聞週刊」6月5日号の「グローバルダイジェスト」(名刊要覧)欄で本誌を紹介していただいた。

本誌が亀鑑とする英国のThe Economist、アメリカのTIMEとNewsweek、そしてドイツのDer Spiegel誌と並んでいる。まだよちよち歩きの本誌としては、名だたる雑誌と肩を並べるのは面はゆいが、ま、心意気はこんなところにあります。大志をくんでくれた王さんに感謝します。

さて、編集もピーク。どれだけ他誌および新聞にリードを保てるか、厳しいところです。

電通疑惑報道<下>の続きとして、再度チャレンジした広報室長とのQ&Aをご覧ください。<上>で恐れをなしたのか、官僚並みに前例踏襲答弁ばかり。この不誠実、この会社の体質でしょうか。



Q1)『FACTA』が発刊された4月20日以降、御社では幹部社員の株取引の全面自粛を決めたということですが事実でしょうか。事実とすれば、その内容はどのようなものですか。

A1)そのような事実はございません。


A2)指摘した発表前株価急騰の3社は、いずれもIC(インタラクティブ・コミュニケーション)局のご担当です。その責任者である長沢秀行局長は、ご本人の希望もあって他の社員と同じ執務スペースで業務を行っていると聞いております。その結果、厳重な情報管理をしなければならない「M&A案件」が、局内に周知されてしまっているという指摘を取材の過程で受けました。電話は「筒抜け」で、重要書類のコピーを派遣社員が行うといった状況は事実でしょうか。局内の情報管理における「取り決め事項」があれば教えて下さい。

Q2)重要な案件は全て会議室で行っており、情報管理を厳格に行っている。BS7799の認証を全社、グループ会社が取得しており、毎年、実施状況についてサーベイランスを行い管理水準の維持・向上に努めている。


Q3)「確認書」への署名だけでは、インサイダー取引の防止にならないと思いますし、『FACTA』5月号でもそう指摘しました。今回、東証も注目する明らかな疑惑があったわけですから、改めて詳細な社内調査を実施すべきではないかと考えておりますが、「調査をしない方針」に変わりはありませんか。

A3)前回のお問い合わせにお答えしたとおりです。


Q4)御社のモバイル広告戦略は、3月16日に開催した「電通グループのインタラクティブ領域における成長戦略」と題した事業説明会において、森隆一常務取締役、杉山恒太郎常務執行役員、長沢IC局長が講演していらっしゃいますように、3人の縦ラインで重要事項が協議され、投資案件については「投資委員会」で機関決定、重要案件については「常勤取締役会」に付議されると聞いております。前回のご回答では「然るべき機関決定」とありますが、それは上記の段取りだったと理解してよろしいでしょうか。

A4)前回のお問い合わせにお答えしたとおりです。


Q5)これらの前提を踏まえ、『FACTA』では創刊号で指摘したインサイダー疑惑についてどうお考えかを、情報管理のあり方と合わせておうかがいしたいと思っております。森常務、杉山執行役員、長沢局長のうちのどなたか、あるいは御社のコンプライアンス担当役員の方にインタビューできませんでしょうか。

A5)ご取材には広報室でお答えさせていただいております。


Q6)03年2月に出資、森常務が社外取締役に就任しているインデックスについておうかがいいたします。御社はD2C、cciと布石を打ってきたモバイル広告戦略のなかでインデックスをどのように位置づけられているのでしょうか。昨年12月9日、インデックスが博報堂グループとモバイル広告部門において業務・資本提携したことと、創刊号指摘の3社との業務・資本提携がどういう文脈の上にあるかに関心があるからです。

A6)業務・資本提携した案件についてはこれまで当社のニュースリリース、HPで公表させていただいております。事業シナジーの創出・発展を図っているものです。


「逃げなかった」村上会見は立派

4日の日曜から実質的に編集期間が始まったので、またこのブログは綱渡りになる。体力をどこで使うかは難しい判断だ。5日午前4時まで仕事したので、家に帰って寝たのは5時近くだったと思う。

それから6時間後、懐かしの東証兜クラブ会見室で村上氏の会見が行われた。さすがに現場には行けなかったが、睡眠を切り詰めてテレビで見守った。

目の周りにすこし隈があったが、「娑婆の光をふり仰ぐのも今日限り」と覚悟してふっきれたのか、すっきりと論旨明快、責任を明らかにし、進退も潔く、一世一代の会見だったと思う。もともと能弁な男だが、あすこまで整理された言葉を、この屈辱の日になかなか吐けるものではない。日本に逮捕されに戻ってきたのも見上げた度胸である。彼は最後は逃げなかったのだ。

「聞いちゃった」発言には苦笑したが、「キャッシュマウンテン」という言葉には実感がこもっていた。4000億円のファンド資金は現実には大きすぎて、運用難に陥っていたということだろう。ニッポン放送やTBS,西武鉄道や阪神など、ファンドマネジャーとしてはいかがかと思われる銘柄に深入りしたのも、その巨額資金の重圧があったからと思える。

塀の中に落ちたのだから、どのようなことも言える。しかし村上氏が朗々と弁解しようとも、「モノいう株主」の実態が何だったかの問題は、魔女狩り的な新聞社会面の似非モラリスト記者とは別の次元にある。

彼が通産省を辞めてM&Aコンサルティングを起こした1999年、私もケンブリッジから帰って雑誌の編集長になったばかりだった。翌2000年1月、彼は東証二部上場の昭栄に対し株式公開買い付け(TOB)を行った。私は4月号から「私のAltキー」という寄稿コラムを始め、広尾ガーデンヒルズにあった彼のオフィスを訪ねて、第一回の寄稿をお願いした。株主の権利行使によって日本の企業社会に緊張感を与えようとした彼の主張に共鳴したからだ。リードは私が書いたが、彼の思いが反映されている。



批判のための批判はやさしい。でも、沈みかけた日本丸の船上で、嫉妬や阿諛の隠れ蓑のような屁理屈はもう要らない。現状が駄目なら代案はあるのか。だれもが発想を変えて、脳裏のキーボードに指を伸ばし「Alt(Alternative=代替)キー」を叩く時が着た。一番手は通産省を飛び出した村上世彰氏の提案です。



彼の本文のタイトルは「株主議決権は企業変革に戦略的に使える」だった。彼の言っていることは当時も6年後の今も変わっていない。その一貫性はすくなくとも表面的には驚くべきことである。



昭栄にTOBを行った際、会社の解散価値を重視する私の手法を一部のマスコミ報道は「80年代型のM&A」と指摘した。しかし、米国では解散価値が時価総額を上回る非効率的な経営を行っている会社は、株主権が行使されて上場廃止や解散に追い込まれたり、買収されたりしてしまい、既に存在しない。ぬるま湯的経営がまかり通ってきた日本においてのみ、こうした会社が残っているにすぎない。



いまもこの言葉は正しい。「80年代型のM&A」とは、婉曲に言った「コーポレートレーダー」(会社に乗り込んでて資産を叩き売る乗っ取り屋)や「グリーンメーラー」(高値売り抜けを狙う買い占め屋)という意味である。当時も今も村上氏についてまわる悪評で、私も知人から「あいつはエリート官僚あがりの総会屋」とよく聞かされた。

彼の主張はしかし饒舌なわりにワンパターンで、東京スタイルのころにはもう鼻についていた。そのころから私は距離を置き始めたと思う。逆に彼は神格化され、「モノいう株主」から資本市場のトリックスターになっていった。彼もまた何かの役割を演じさせられていたとしか思えない。

彼の言うことは変わらず、思考も変わらず、行動も同じだが、投入する資金だけがふくれあがっていった。彼自身も自分の変質を自覚していなかったと思う。少数株主として増配を要求するのと、47%近い株を握って経営支配をちらつかすのでは、自ずと違う顔になる。その憑きものが落ちたとき、「聞いちゃった」発言と剽軽な素顔が飛びだすのだ。

彼は「プロ中のプロ」を自認した。違うと思う。池の中のクジラを自覚しない投資家は、プロ中のプロ、つまり「市場のワル」ではない。とにかくおかげで、彼は資本の論理のマリオネットから脱した。しばらく会えないだろうが、いつか気楽に話しあえる気がする。この辛苦を耐えきることを祈る。

村上氏摘発の「いやな感じ」

「村上ファンドを捜査」の一斉報道、まったく意外性がないというか、検察得意のリークで事実上の世論工作に、またかと感じるのは私だけだろうか。帰国でちょっと勇み足した懺悔で言うわけではないが、シンガポールへ逃亡したはずの彼が、わざわざ日本に戻って聴取に応じることになったのはなぜなのか。検察はどういうカードを切って、彼を舞い戻らせたのかが知りたいのだが、誰もそれを解説してくれない。

中部国際空港に飛来した写真を見ると、不精ヒゲをはやして心なしかやつれている。彼が通産省をやめた当座、広尾ガーデンヒルズのM&Aコンサルティングの最初のオフィスで会ったが、あのときと比べると生意気盛りの童顔がちょっと大人びた感じがする。やはり巨額のカネがファンドに集まって、そのプレッシャーに負けて、無理を重ねたという反省があるのではないだろうか。

おりしも厚生労働省が「出生率1.25と過去最低更新」を発表した。村上氏は4人の子持ちという子沢山の父であり、本来はヒョーショージョーものである。しかも、昨年末に第5子ご懐妊の吉報を得ていたらしい。シンガポール引越しも静かに子供を産んでほしいという思いもあるのかもしれないが、父親逮捕の年に生まれた子、というのはあまりに悲しい運命である。それがあの憂いを帯びた表情になったのか。子供が「さまよえるオランダ人」にならないためにも、あえて聴取に応じたのだろうか。

とにかく、ライブドアに続き、これも明らかな「国策捜査」と思える。阪急・阪神TOBのさなか、それを有利にするような捜査なのだが、そういう配慮も検察がしなくなったことは「いやな感じ」である。

さて、もうすでに立件がほぼ確実な事件に拘泥していてもしかたがない。このブログは前に前にと進む。村上ファンドというローカルな話題に隠れているが、ある重大人事のスクープを報道しよう。

確実な筋によると、アメリカのブッシュ政権のなかで親中・嫌日派の最右翼、ロバート・ゼーリック国務副長官の辞任がほぼ確定した。

5月24日付の英経済紙フィナンシャル・タイムズが第一報をスクープしたが、それが裏付けられたのである。FACTAはそうしたニュースも追う。が、じき欧米でも確報がでるので、弊誌発刊日には間に合いそうもないから、このブログで一足先に報じることにした。

さて、ゼーリック氏はワシントンでも名うての「出世主義者」。第一期ブッシュ政権では通商代表部(USTR)代表をつとめたが、それが不満で不満で世界貿易機構(WTO)などでも傲岸不遜な態度で通した。

第二期政権では、コリン・パウエル前国務長官に殉じる形で退いたリチャード・アーミテージ国務副長官のあとを襲って、コンドリーサ・ライス国務長官に仕えるナンバー2の座を射止めた。が、お山の大将でないと満足できないらしい。あまりの弱体に更迭必至だったジョン・スノー財務長官の後釜を狙って、必死に猟官運動に励んだが、ゴールドマン・サックスのヘンリー・ポールソン会長兼CEOに敗れ(大統領首席補佐官が同じGS出身のジョシュア・ボルテンだから当然と思えるが)、政権内での居場所を失った。

FTが報じたように、ニューヨークの投資銀行か法律事務所が再就職先らしい。ほっと胸をなでおろしているのは、加藤良三駐米大使だろう。ブッシュ・小泉関係は良好なのに、日本嫌いのゼーリックには門前払いばかり食わされてほとんど会えなかった。

中国の要人に相手にされなかった阿南惟茂中国大使よりさらに無能と言われ、「史上もっとも米政権にパイプのない駐米大使」の声価が定まりつつあっただけに、「天敵消える」の報に笑みを隠せないという。しかし、その程度の外交官を、対米、対中外交の第一線に立たせている日本のお粗末さも問題だろう。これまた「いやな感じ」のするエピソードである。

電通を撃つ11――インデックスとのQ&A(下)

携帯コンテンツ配信のインデックス社との取材のやりとりの後半をお届けしよう。

前半ではちょっと辛辣なことを書いたが、悪意はないので念のため。こちらも礼を尽くして問いを発しているので、丁重な返答にはお礼を申し上げるほかないが、問題はやはり中身である。取材する側がある程度予習していて内部情報を持っているときは心してかかられたほうがいい。昨日今日のヒヨっこ記者でないことを把握せず、勝手に美辞麗句をならべているととんだ恥をかきますよという警告である。




Q3(FACTA)
御社は積極的なM&A戦略で急成長されましたが、その過程で電通との提携、あるいは電通からのアドバイスのようなものはありましたでしょうか。03年2月(インデックスの第三者割当増資を電通が引き受け、社外取締役を送り込んだ時点)から今日までの御社のモバイル広告戦略に果たした電通の役割について教えていただければと思います。

A3(インデックス)
当社の事業戦略は、あくまで当社経営陣の判断に基づいて、主体的に考え、行動した結果です。電通の判断や指導によって、何かを行ったことはありません。ただし、前述のように、役員会での議論の中で、意見を伺う機会は多くあります。ただし、最終的にはあくまでインデックスとしての判断を行ってきたつもりです。



ご立派な回答だが、そんなきれいごとで済むはずがない。民放各社との”等距離”外交は電通の庇護あってはじめて可能だったはず。それと、博報堂やADKとの”等距離”外交は、自ずと性格が違っていたのではないか。電通離れの一環とみなされたからこそ、森常務の怒りを招いたのではないか。



Q4(FACTA)
4月19日の御社の業績下方修正を受けて、インデックス株は急落いたしました。今週(4月最終週)に入っても株価は不安定な上京が続いています。昨年の「日経ビジネス」の特集記事では肯定的に評価されていますが、市場ではそうした見方が後退し、御社のこれまでのビジネスモデル、および収益性について懐疑が生じているとみられます。この株価急落とメリルリンチ、JPモルガン、新光証券などが厳しい評価を下していることについて、御社のコメントをいただければと思います。

A4(インデックス)
今回の中間決算においては、年度初期に立てた計画水準の利益を達成することができませんでした(売り上げは伸ばしております)。未達の原因は主に、海外の子会社の業績不振や、MAに関わっての作業の遅れなどですが、この下期の業績向上に向け対応は果たしつつあります。年間売り上げで1000億円規模のグループになり、これまでのように、ひたすら右肩上がりで成長を企画し、それを達成することが難しい局面も出てきているのは事実です。対応として当社は、近々(2006年6月1日)持ち株会社制度を導入します。

デジタル化の進展のなか、メディアとコンテンツがより多様になり、ダイナミックに市場を形成する動きの中で、当社が世界に通ずる企業として存在する意義は、決して毀損していないはずで、今後とも鋭意努力する所存です。

いただいたファクスのなかで「電通モバイル戦略が御社との関係の中で生まれたのではないか」という点を述べておられますが、電通は電通の独自の判断でネットやモバイルの戦略構築をされているはずです。当社としては大変光栄な指摘ですが、電通の経営判断に、インデックスの存在がそこまでの影響を与えているとは正直、考えておりません。



もちろん、彼我の規模の差は大きいが、しかしドコモと提携したD2C、ソフトバンクと組んだcciがもたつくなかで、インデックスとの提携の位置づけはそう軽いものではなかったと考える。だからこそ、その電通離れに不快を隠さなかったのだ。この回答は、同社が対外的にどう見られたがっているかを反映したもので、その決算短信と同じく、眼光紙背に徹して実態との落差を見抜く必要があると思う。

電通を撃つ10――インデックスとのQ&A(上)

電通疑惑を解明するため、インデックスに送った質問状を今度は掲載しよう。

インデックスは着メロなど携帯電話用のコンテンツ配信で急成長した会社(ジャスダック上場)で、売上高は1000億に達し、電通とも資本・業務両面で提携している。ただ、4月19日に発表した業績の下方修正で株価が急落、その後も低迷が続いている。電通のインサイダー取引疑惑が一連のモバイル戦略のなかで生まれてきたことを考えると、同社との関係もその一端に位置づけられると考え、全体像を把握するために取材を申し入れた。

ただし「電通インサイダー疑惑に御社が関係ないことは承知しておりますが、その背景説明の部分で御社との関係に振れますので、よろしく(回答を)ご検討ください」と断り書きを添えたため、中身の是非は別としてかなり長い返答をいただいた。長文になるので、今度はQ&A形式で記載する。



Q1(FACTA)
御社は03年2月に電通に第三者割当増資を実施され、電通の森隆一常務を社外取締役として迎え入れています。その時点で、モバイル広告戦略は電通とともに推進されると思っていたのですが、昨年12月9日、博報堂グループと業務・資本提携を発表されました。これは軸足を博報堂に移したと考えていいのでしょうか。

A1(インデックス)
電通はテレビ朝日、フジテレビ両社とともに当社にとっては、会社創立初期からきわめて協力的な関係にある重要な機関株主です。これまでもお互いに友好的な関係にあり、これからもその関係を続けていきたいと願っています。

ご指摘のように、昨年の第三者割当増資に際し、博報堂とADK両社の出資をいただくことになりました。その意味では、広告業界での出資会社は複数になりましたが、これまでにもインデックスは、電通と同様に、博報堂、ADKとはプロジェクトごとに仕事をしてきております。広告とメディアに関わるビジネスの領域はデジタル化を軸にますます多岐に渡って(ママ)きており、それぞれのベストパートナーと、個別案件ごとに話し合いながら、協業の実を取るような仕事をしていきたいと思っています。

逆に、電通、博報堂、ADKの側からすれば、各社ともにインデックス以外のIT企業とも、いろいろな作業をされているはずで、日本的な経営環境の中で、重層的な資本関係が出来上がるのは、ある意味で必然であり、重要なことであると考えています。



一言申し上げたい。インデックスの広報は、コーポレート・ガバナンスが分かっていない。資本提携と業務提携はまるで本質が違う。たとえは悪いが、旦那がひとりだけの「お抱え」酌婦と、複数の旦那をかけもちの酌婦の違いといえばいいだろうか。「それぞれのベストパートナーと、個別案件ごとに話し合いながら、協業の実を取る」(?)だなんて、銀座の女性でもそんな歯の浮くようなことは言わないだろう。

「重層的な資本関係」が必然とは、笑止の極みである。インデックスの落合会長も小川社長も本気でそんなことを考えているわけではあるまい。広報は自分の勝手な空理空論で会社に恥をかかせてはいけない。

とにかく、こういう回答をするであろうことは予想されていて、第2問の冒頭で先回りして引っかけの質問を忍び込ませてある。FACTA第2号で書いたように、電通の森常務は昨年末、この”背信”の提携問題で落合会長をつるしあげたのだが、インデックスの広報はそれを知ってか知らずか、みごとに「罠」にはまった。



Q2(FACTA)
もし、そうではなく(軸足を博報堂に移したのではなく)「等距離外交」というのであれば、電通、わけても森常務とはどのような話し合いをされたのでしょうか。広告業界を二分する電通、博報堂との業務・資本提携の差別化をどこに置いているかを教えていただけますか。

A2(インデックス)
森隆一常務は非常勤役員として、原則として月一回の当社の定例役員会に出席いただき、重要な案件の議事に参加していただきながらアドバイスを受けています。

それ意外に相談ごとなどを、個別に行うことに関してもありますが、大変お忙しい方であり、現実にはあまりできないような状態です。ちなみに、博報堂からは、役員の派遣を受けてはおりません。その意味では電通とのパイプが太いとも言えます。

またプレゼントキャスト(電通が主導するBB配信事業会社)などの例でもわかるように、特定事業会社に、博報堂やADKと電通が、共同で参加されている例もすでにいくつかあります。上記の質問への回答と重複しますが、排他的、かつ、択一的な関係を選ぶいうよりは、それぞれの強みを認め合ったうえで、協業が成立するというように考えるほうが、実際のビジネスの場の状況を表していると思います。



聞きたい肝心のポイントを外して答えている。博報堂、ADKと新たに資本提携をするに際し、電通の森常務とインデックス首脳は事前に話し合ったのか否か、に答えていない。年末(日にちもFACTAは承知している)に叱責されたことを知らないと思っているなら甘い。

「その意味では電通とのパイプが太い」ですと?やれやれ、天下の電通を怒らせたのですよ。下手をすれば役員引き揚げ、資本引き揚げの憂き目にあっても知りませんよ。