EDITOR BLOG

最後からの二番目の真実

正確な経歴

FACTA12月号の「永守日本電産が進軍ラッパ!」の記事で読者のご指摘をいただきました。p42の4段目最後から3行目、東京三菱銀行出身の藤井純太郎副社長の経歴が省略しすぎでした。関係者からのご指摘により、正式には以下のポストを経て平成18年6月に日本電産に入社しています。

平成8年6月(株)東京三菱銀行取締役
平成10年6月 東京三菱インターナショナル社長
平成12年5月 (株)東京三菱銀行常務
平成13年6月 東京三菱証券(株)社長
平成14年9月 東京三菱証券(株)副社長
平成17年6月 ダイヤモンドビジネスコンサルティング(株)社長
平成18年1月 ダイヤモンドビジネスコンサルティング副社長


DS狂い

このところ、家人が何ごとなのか、突如「キイロ!」「アカ!」「アオ!」とか叫び始める。とうとう気が狂ったか、と思いたくなるが、実はニンテンドーのゲーム機で「DS」に夢中になっているのだ。

SEの娘が買ってきて、親子で何とか競い合っている。ゲームになれてすこし点数があがり、頭脳年齢が40歳台から20歳台に若返ったといって喜んでいる。ま、平和なもんだ。

赤とか青とか叫ぶのは、字に「アカ」と出ても、黄色だったら「キイロ」と叫ばなければいけないゲームらしい。音声識別機能があるのが、ちょっと前のファミコンとは違うところだ。

とうとう私もやらされるはめになったが、昔のIQテストのゲーム機版といった趣である。これで頭脳が訓練されるとは思わないが、画像は簡単、ソニーのPSの映画のような画面とは比べものにならない。

これは単純なゲームというのがコロンブスの卵であって、最近のロールプレイングゲームのややこしさの逆を行ったのが、大ヒットの原因らしい。なるほどね、とゲームにとんと縁のない(編集長は遊べないのだ)身としては、感心するほかない。

最近は英語バージョンのDSを買ってきた。おかげで「ゴメスってどんなスペル?」とか、「励ますという意味でeで始まるのは?」(たぶんencourage)とか、だしぬけにとんでもない質問が飛んでくる。

やれやれ、これもコンテンツなのかいな。

さて、本日公開の最新号フリーコンテンツ(無料公開記事)は、CSK傘下から離脱して日興コーディアルに駆け込んだ「ベル24疑惑」と、モナ・細野問題で浮上したJR無料パス問題です。本誌ご購読者でない方はぜひご一読を。

神楽坂の夜

ひとつ決めたことがある。大学時代の知人である作家、藤原伊織君のために、できる限り毎日このブログを書きつづけようと思う。1日でも長く生きてほしいから。

24日の金曜夜、神楽坂で彼に会った。「おまえ、大変だろ。ああいう雑誌をつくり続けるって。ブログもやってるからな。でも、このところ、書いていないじゃないか」と言われた。こちらは頭を掻くしかなかった。

ああ、ときどきサイトを覗くのだな、と思った。それなら休めない。いや、ときに休みはするが、もっと頻繁に書いて彼を励まそう。

金曜に彼に会ったのは、年に一度、昭和42年、43年入学の東京大学LⅢ8組の有志が集まって、22年前のジャパンカップの直後急逝した故栗田泰男君を偲ぶ会合の場である。ことしは23回忌にあたり、翌25日には川崎の栗平の常念寺で栗田家の法要が営まれ、私はそちらにも出席した。藤原君は病再発で法要は欠席したが、金曜夜の会合のほうはちょっと無理をしてやってきた。

顔色はよくないが、これは薬物の副作用らしい。でも、だんだん、笑顔が昔の顔になってきた。バッグからタバコの箱をだして吸い始めたのには驚いた。「なんだい、不養生な」と言われても平気な顔をしている。間違いなく、今年は彼が主役だった。誰もがいつまでも彼の笑顔を見ていたいと思った。

栗平の法要もよかった。秋の日だまりの墓地。遠くの木立は紅葉していた。一周忌には参加した記憶があるが、附近の風景はすっかり変わっていた。故栗田君は私と同じく日経新聞に入社、ずっと整理部だったから、彼が急死したときは一緒の部員だった。葬儀と墓参に参列してくれた船山庄一整理部長(のち専務)もガンに倒れ、いまは亡い。仏前に「有らざらん」を捧げた。

年々歳々人は去る。けれども、その1日1日を惜しむ年齢になった。確かに私事である。が、許してほしい。しばらくは彼を励ますために、身辺雑記でもなんでも書いていこう。

頑張れよ、フジワラ。


(注)「一周期」の誤記を「一周忌」に改めました。

訂正

本誌12月号(11月20日刊行)掲載の以下の記事で、筆者から訂正の申し入れがありました。

記事(36ページ)
「ユーチューブ」2000億円買収の死角

訂正部分
36ページ1段目9~10行目
「スタンフォード大学に在籍する3人の若者」は間違いです。
創業者3人のうち1人が学位取得のためにスタンフォードに復学し、残り2人はPayPalの出身です。

参考
http://en.wikipedia.org/wiki/Chad_Hurley

以上、お詫びして訂正します。


ひかり電話の最終結論2――NECのエニグマ

21日にNECがいったん延期していた中間決算を発表した。米国SECの要求に応えられず、日本基準に変えてだが、惨憺たる数字は予想通りでも、基準変更の裏に隠れているものが、いっこうに明らかにならない不可解な発表だった。FACTA最新号では「企業スキャン」でNECを取り上げたが、その謎の解明に迫った分析である。

さて、前日に続き、ひかり電話の不通事故から見えた、深刻な現実の後半部分をお送りしましょう。その一部は、NEC問題とも接していることが、読めばお分かりでしょう。



分散管理でなく集中管理前提

ひかり電話の発呼を制御する現在のSIP(Session InitistionProtocol)サーバーは集中管理を前提としており、インターネットのような分散管理型のデータベース構造ではく、1台(あるいは1個)のサーバーが全電話番号のデータを保持しているということが前提になっている。

さらに、通信キャリア間での相互接続に関する問題(全部の電話番号サービス空間の情報がなければ、発呼情報をどのSIPサーバーに送ってよいのかわからないため、通信キャリア間での相互情報交換を必要とする)、あるいはセキュリティ対策のための標準的手法(実際のサービスにあたってのトラブルの解決方法の手順)、さらに責任分界点の定義など、通信キャリアが実際にユーザに対してサービスインするための技術的課題を誰が設計し、評価したのだろうか。

SIPに市販品を使った安易

このような現場で当たり前に考えることのできる技術的要求は、専門家であれば詳細に考えることが可能であろう。とすれば「市販されている製品を買ってきて、性能が悪かったので不具合が出ました」という態度はとれないはずだ。いや、あってはならない。110番、119番に通じなかったら、ユーザの命が奪われることもあるのである。ひかり電話が簡単に不通になった裏側に、重要な社会インフラを運営しているという責任感の欠如があるとしたらそれは問題であろう。

しかし、このような未熟なSIPを、電話という現代社会における基本的なインフラの運用にそのまま利用しようというのが、そもそもの間違いだった可能性もある。NTTやKDDIをはじめとする通信キャリアは、それぞれが顧客サービスに供するための交換機やルータ-といった重要インフラ機材を独自に調査研究し、サービスインの前に研究所内で納品検査を行い、インフラとして電話局舎に納入するという工程を経ていた。

競争ルールのもたらしたもの?

これが、近年のコスト競争とインターネット文化の氾濫のために、市販品で十分にインフラ構築が可能であるという現場側の妄想を煽り、R&D(研究開発)費の削減議論を惹起し、かつては世界的権威を誇った研究所群(旧横須賀通研や武蔵野通研)の息の根を止めたばかりか、現場主導の物品調達制度を蔓延させ、結果風紀の緩んだ民民接待の末、今日の社会にとって欠くことのできないインフラ整備において間違った選択を行い、結果連日の事故を引き起こしてきたとすれば、民営化と組織改変を推進してきたこと自体に原因があるといわざるを得ない。

無為のユーザーから料金をとって公共サービスを提供するための「型式認定」に関する品質管理が、キャリアの良心的運営に一任されているのである。その「良心」を担保するものが、NTT民営化の度重なる組織再編と、そこでの競争ルールの導入によって、どこかに置き忘れられたのが現状ではないのか。

インターネット陣営の冷ややかな声

しかし、かつてこのようなお役所的な気風に反抗し、草の根的な技術を積み上げて今日のインターネットを作ってきたと言われている、インターネットの研究者の反応も情けない。彼らに今回のひかり電話の輻輳問題に関して問うと、こういう意見を聞かされる。

「SIPそのものの問題でも、インターネットの問題でもない。単にキャリア各社が、本来問題のないSIPを自社の料金体系や管理体制に合わせるために、技術的に無理な要求を発注先に五月雨的に行なったことが、システム全体の堅牢さをうしなわせたことによる。巨大システムの頻回にわたる部分的仕様変更が本来のシステムの性能を著しく低下させるのは常識である。あの現象はインターネットに関する技術的理解の不十分な電話屋さんが、自分たいの目的だけのためにインターネットの機能を使おうとしたらうまく行かなかっただけ。特に、従量制課金や電話独自の番号系やサービスを未熟なSIPアーキテクチャーの上で独自に構築しようとしたからだ」

研究者の思い上がり

果たしてそうだろうか。数年前までインターネッの研究者にとっては、テレビであろうが電話であろうが電子メールであろうがWebであろうが、インターネット上でパケット通信を行なうことは全てインターネットの問題であった。研究予算に困った彼らが、Webのサービスが一般化しトラフィックが爆発的に増えたとき、技術的に新しくないWebのようなサービスを運ぶことには何の興味も覚えない、と言い放ったものだ。

しかし、それは技術者の思い上がりだろう。生きたインターネットの研究は、どんな通信状態であったとしても、それがユーザーの嗜好であり、自然な通信への欲求である以上、そのトラフィックの特性を解析し、彼らの求めるネットワークとは何か、彼らが生きてゆくための将来はどうなるのかを、動的に柔軟に考え、現事象を解析し正しく導くことこそ意義があると思う。

以後、この国のインターネットの帯域は爆発的に増大し、現代社会にとって欠くことのできない情報基盤となった。彼らは黙々とIPv6のコードを書き、様々な新しいソフトウェアを生みだし、世界的にも注目される研究者集団となって行ったのである。その彼らが、今回のSIPの問題に関して、「それは電話の問題であって、インターネットの問題ではない」と他人事のように言うのはいただけない。

「古い料金体制を維持しなければならない通信キャリアが、新しい料金体制やサービス形態を受け入れ、インターネットインフラの特性を勉強し、ユーザへの便益を考えるべきである。SIPサーバーのアーキテクチャーで、従量制課金の管理をしようとするのが間違っている」と決めつけてしまうのは、いかにもお役所的発言であり、おかしい。

「SIP 2.0」のススメ

彼らが今やらなければならないことは、IETFに対してIPテレフォニー、次世代ネットワーク(NGN)を実現するために、SIPの延長ではなく「SIP 2.0」として、分散管理、電話番号解決の研究、SIPを基盤としたIPサービスの困難さ、セキュリティに関する解決方法、現行のSIPから次世代のSIPへの移行の手順の提案と活動、インターネットサービスとの融和に関しての提案と啓蒙などを積極的に行い、Internet Draftを黙々と書き、「SIP 2.0」のコードをつくって、実際に稼動させて見せることである。

早くこっちの世界においでよと、南風を吹かせて、迷路に迷い込んだ子羊を正しく導く事であると思う。これこそ、ハッカーのハッカーたる所以であろう。

このままでは海外ベンダーの草刈場

一部情報では、すでにシスコ社がBT(British Telecom)のNGN化に成功したとされている。同社側も「セキュリティ上の問題があるため、明確には回答できない」とするが、従量制料金課金と分散処理に関するサーバー・サーバー間連携の部分に関しては技術開発に成功した模様である。

かたや日本では現在、ひかり電話不通の当事者であるNECは首を洗って待っている状態。富士通は東京証券取引所のサーバー異常の問題で手が出せず、すでにNECにこのビジネスを奪取された形になっており、恐らく開発者陣は胡散霧消しているだろう。

日立製作所は本社側の原子力関連の損金で大赤字である上に、現社長の古川氏がNECと合弁で立ち上げたアラクサラネットワークスの業績不振に喘いでいる状況である。東芝にはすでにIP関連の技術開発を行なえる人員は残っていない。

しかし、このままだとわが国の重要なインフラである電話網さえ海外のベンダーの助けを得なければならない。かつて、ある通信キャリアの研究所の所長が「IPv6にしてゆく中で、どうしても零戦が欲しい」と言い、世界をリードするV6ルーターを世に送り出した気概をもう一度、と願わざるをえない。

※参考サイト
http://www.softfront.co.jp/tech/rfc_draft/rfcdraft_sip.html

(この稿完)

ひかり電話の最終結論1

FACTAは執拗なくらいNTT東西で起きた「ひかり電話」不通問題を取材した。雑誌では連打を避けたが、一応の結論をここで書いておきたい。これは専門家に十分取材して書かれたもので、この原型はNTT側にも提示してある。恐らく現在では、もっともこの輻輳問題のキーポイントを突いていると思う。NTTの方々、とりわけNGNを進める持ち株会社首脳陣は、少し耳に痛いだろうが、政治論でなく技術論として聞いてほしい。



9月と10月にNTT東日本とNTT西日本で起きた大規模な「ひかり電話」不通は、両社の公表よりはるかに根の深い問題をはらんでいることが明らかになってきた。

「ひかり電話」サービスは、従来のPBX(電話交換機)ベースの交換網をIP(インターネット・プロトコル)ベースのもの(コールマネージャーまたはSIPサーバー、NTT用語で呼制御サーバー)に置き換えることにより、音声電話のみならず、様々なサービスを可能にしようとする取り組みであり、政府としても積極的に世界をリードしてゆく必要からも推進してきている。

RFCでは未定義部分

今回の事故の原因は、インターネット技術を標準化するIETF(Internet Engineering Task Force)で定義されている標準化が終了しているSIP(Session Initiation Protocol, Original RFC2976等)の一連のRFC(Request for Comment、IETFの発行する文書)では未定義の、課金や複数のSIPサーバー間の情報交換の手順に関する部分に独自の要件定義と技術開発が必要であることに起因している。

特に、今回のトラブルではたった1秒間に数百件程の外部網への接続経路の情報のやり取り(プログラムミスによるものと発表されている)で発生した輻輳(通信渋滞)が、80万もの加入者線全体の通信障害に及んだ――という報告からも、分散化、多重化に関する論理的な通信システム設計に問題があったこと、運用に用いられたNEC製のSIPサーバーのプログラムに問題があったこと、部分改変に関する要件定義の未熟さ、さらにSIPサーバーの設定や運用方法に関する手順の検討など見直すべき点は多いことが推測される。

NGNの脆弱性を露呈

さらにこの現象は、SIPをベースとして設計されている次世代ネットワーク(NGN)の脆弱性も露呈した。すなわち、不正トラフィックを宅側からSIPサーバーに対して浴びせられた場合、基本的情報通信インフラである電話を容易に不通にできることである。

物理的通信路はIPを用いて幾らでも大容量化、多重化が容易だが、従来のインターネットにおいてもDNS(ドメインネームサーバー)が機能しないと名前解決ができず、結果通信不可能になったのと同様、電話番号と送付先のIPアドレスの参照が出来なくなるため、電話網として機能しなくなるということである。

SIPとDNSの違い

SIPやSIPサーバーは、広範囲分散型の設計を元に長年運用されてきているDNSとは異なる。RFCは「こうすれば、電話番号とIPアドレスの問題が解決できるので、容易に電話サービスをIP化できる」程度の提案である。そのため、サーバーの連携や階層化、ならびに電話番号の分散管理に関する部分の定義がDNSとは異なっているのだ。

データベース工学の専門家でさえ、「理論上、DNSの動作がうまく行なわれていることは驚嘆に値する。」といわれるDNSは現在のインターネットの成功の要であり、実用化されてから現在に至るまで20年近くの間日々改変が繰り返されてきている。プログラムのコードそのものがその間何度も大きな改変を繰り返して生成されてきている今日の人類の生んだ最も重要なプログラムの一つである。

このサーバーの運営は現在でも非常に限られた人員しか許されておらず、わが国では村井純慶応大学教授を中心としたWIDEグループがいわば“rootサーバー”の役を果たしていて、これがアジア地域で唯一稼動している。このような歴史のある改変を繰り返してきているプログラムと、規模においてほぼ同じ程度のアドレス解決を有限なリソースの中で行なわなければならないのがキャリアにとってのSIPサーバーなのである。

SIPサーバーの選択は最善だったのか

従って、IPの一つのサービスとしてではなく、電話屋の目から見て、電話の交換系として正しいと思われる情報のやり取りを最初は独自でもいいから自分で考えた上で、合理的にSIPを選ぶのかどうか、という開発力が試されるのである。実際の現場の運用者の意見として「すでに市販されているSIPサーバーを買ってきたらうまく動きませんでした」というのではなく、自分達の想定する交換機としての性能を実現するために、最善を求めた結果、結果的に市販されていたものを使っても差し支えないと判断したというべきである。

(以下次号に続く)

ヤフーにコンテンツ提供

せっかく編集が終わっているのに、どうもバイオリズムがあわないのか、夜眠れない。

風邪をひいているから、お酒控えめはいいのだが、声帯に無理がかかって、声が枯れてしまった。咳も抜けない。おまけに先日、「薔薇の掟」なんて変なゲームの画像を眺めたのがよくなかった。睡眠剤なしで寝たら、頭のなかに余計なイメージが渦巻きだした。とうとうまんじりともせずという不健康な一夜となった。

一夜明けて内科医に行った。が、ぼーっとしていたのか、同じ階にある別の整形外科医のオフィスに入り、様子が変なのに気がつかない。「どこか怪我しました?」と聞かれて、こちらもけげんな顔で「風邪をひきまして」ととんちんかんな会話をした。聴診器で診てもらって、抗生物質の処方を書いてもらい、階下で薬をもらって出てきてしまった。

気がついたのは診察券を見たときである。行ったはずの内科医の名前ではなかった。そういえば、お客はリハビリに来ているおばあさんばっかりだった……。

さて、11月24日からフリー・コンテンツ(無料公開)の記事が順次公開されますが、今月からは本数が増えます。「読みどころ」で予告していますが、今月は長短10本の記事が公開されます。

これはこのサイトでの掲載だけでなく、ポータルサイト大手にコンテンツ提供を始めるからです。まずは「ヤフー」に対して政治記事の一部を提供します。反応を試すのと、「FACTA」ブランドを少しこうしたネット・ポータルに出していこうという試みです。

これらのサイトで記事をみた人がFACTAに関心をそそられるかどうか、これはわれわれにとってもアンテナ役、フィージビリティ・スタディの役を果たしてくれると期待しています。

薔薇の掟

風邪を引いてしかも終日雨もよい。暇のつれづれにユーチューブを眺めていたら、やたらとソニーのPS2サイコスリラー・ゲーム「Rule of Rose」の動画がある。イタリアのパノラマ誌が1月の発売から1年近くたった今頃、暴力的すぎると騒いだのがきっかけらしい。

ふうむ、しかしユーチューブで見ても、その画像の芸の細かさには感動させられる。次世代機PS3が発売されちゃったけど、これはイタリアのやっかみでしょう。

時代設定は1930年、つまり大恐慌後の不安な時代の英国ですね。ある町の子供たちのあいだで噂が広まって「夕暮れの公園はあぶない。野良犬に食べられちゃう。食べられると空飛ぶ飛行船に閉じ込められて、一生出られなくなる」という。おお、こわそー。主人公のジェニファーは、もちろん「不思議の国のアリス」にも似た美少女だが、暗い影がある。

いかにもひよわそうなのだが、彼女が閉じ込められた飛行船の中で、相棒の犬ブラウンとともに、さまざまなアイテムを得ながら、残酷な子たちと戦うのはロールプレイングゲームの通例となる。エイリアンの宇宙船のような洞内を走り回り、非力どころか、けなげによく戦うのだ。

忙しい編集長が、こんなゲームにうつつを抜かしてはいられないが、そこに現出する画像はホラー映画にありがちなものとはいえ、かなり高度である。それがまたユーチューブに載って、にわか人気が出たはいいが、暴力批判を浴びるのだから、お気の毒といえばお気の毒である。

ケイト・ウィンスレットがまだあんなぽっちゃりでなかった頃に撮った「Heavenly Creatures」(邦題は知らん。英国で見たので)という映画がある。天使のような少女も、抑圧されると母親殺し(監督は「ロード・オブ・ザ・リングス」や新「キングコング」のピーター・ジャクソン)を犯すという映画だが、あれをちょっと連想した。

さて、FACTA12月号は本日(11月20日)発刊です。詳しくはこのサイトの「読みどころ」と目次をご覧いただくほかないが、今号から「BOOK Review」と「IMAGE Review」のコラムを設けた。いずれはテキストとイメージの時代になる。イメージ評の初回は映画だが、いずれはこういうゲームの映像評を載せたい。

手嶋龍一氏の新著紹介

FACTAにも連載コラムを持つ外交ジャーナリストの手嶋氏が、今春の『ウルトラ・ダラー』に続いて、早くも2冊目の本を出版した。このブログでもご紹介し、売り上げの一助ともなればと思う。批評はまた別の機会にしましょう。



手嶋龍一の新著『ライオンと蜘蛛の巣』が、このほど幻冬舎から上梓されました。新しい本のタイトル『ライオンと蜘蛛の巣』は、「インテリジェンスのかぼそい糸のネットワークは百獣の王をも捕らえる」という意味をこめてつけました。

インテリジェンスの蜘蛛の巣に導かれて、著者が旅した世界各地の二十九の街で起きた出来事が綴られています。一風変わった旅がしたくなった―。そんな読者の皆さんのために、旅先の物語、二十九篇が綴られています。著者が旅の途上で出会ったちょっぴりエキセントリックな人々を少しだけご紹介しておきましょう。

かつてミケランジェロが手がけた僧院のホテルに長逗留していた野性味溢れるジゴロ。アイルランドの崖の上で孤独に耐えて暮らす、あの冷たい戦争を戦ったインテリジェンス・オフィサー。生涯をかけて追い続けた寒い国のスパイをバラの名札に刻んでいつくしむ年老いた英国のレディー。泊り客に一切の香りを封殺するように求めるマナーハウスの主人――。

それぞれの人生が静謐な筆致で描かれています。「小説のような―」と思われるかも知れませんが、作品のなかではすべての人々が実名で登場するリアル・ドキュメントです。ふと思い立って、自分もかの地に出かけてみたいと思う読者のために、タムラフキコさんの筆になる素敵なイラスト入りの道案内もつけてあります。

インテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』(新潮社)を出版して以来、読者の皆さんと交流を深めるため、著者のオフィシャルサイトに「スティーブンズ・クラブ」を設けています。そのなかのお便りのコーナーに、或る日、こんなお手紙が舞い込みました。

「六本木のけやき坂を歩いているとイギリス人らしい男性が皆、英国秘密情報員に見えてしまいます。すべては、スティーブン、あなたの責任です。その筋の人とかたぎの人の見分け方を教えてください」――。

お手紙には「知りたがり屋のジョージアより」と記されていました。『ライオンと蜘蛛の巣』には、著者から「知りたがり屋のジョージア」へのお便りもしたためてあります。どうぞ、週末の雨の夜に、モルト・ウィスキーでも傾けながら『ライオンと蜘蛛の巣』のページを開いてみてください。そして、アーム・チェアーを揺らしながら、フィレンツェ郊外のフィエゾレやアイルランドのディングル半島への旅を存分にお楽しみくださいますように。

予告スクープ 第3弾

日曜からめっきり寒くなった。編集期間は終わったが、風邪をひいて発熱、このブログ再開が遅れました。お詫びします。

その見返りというわけではありませんが、メルマガで「予告スクープ」第3弾を発信しようと思います。次号に掲載する記事ですが、その要約を先に発信しましょう。今回もまたちょっとショッキングですが、取材では海外も動員しました。詳しくは本誌をお読みください。

FACTA onlineの「予告スクープ」は、すでに国内の新聞やテレビの脅威になっています。すでに「東証に400億円請求」と「10月にも日中首脳会談」を的中させた(的中率100%)からです。担当記者にとってスクープを「抜かれる」恐怖はたまらない。そういうスリルを味わわせたい人はぜひ。

「予告スクープ」は年間予約ご購読者のうちご登録いただいた方にお届けしています。他のメディアが追いかけたら無料公開しますが、とりあえずは限定発信。すぐお読みになりたければ、11月16日午後6時までにご登録を。

雑誌発刊日の20日まで待てば、ご購読者でIDナンバーとパスワードをお持ちの方は午前零時からこのサイトで読めるようになります。海外にいらして雑誌が届くのを一日千秋の思いで待っている方は、時差なしでご覧になれますので、ぜひご利用ください。

ロングテール1――「有らざらん」が遅れたおわび

メルマガで「上海汚職3回シリーズ」が終わった。しかし本日から編集期間入り。しばらくこのブログは書けなくなる。さて、私事ながら、「近く出版する」とこのブログで9月28日に書いた「有らざらん」について、お問い合わせがあったのでお答えします。

アマゾンでは「10月15日発売」となっていて、予約申し込みを受け付けていましたが、印刷の都合で遅れました。本日(11月6日)に刷り上りがやっと到着、出版社のオンブックを通じて一部書店の店頭に出るのが11月9~11日ごろだそうです。

出来上がりの本は小生もまだ見ていないので、それを確認してからとも思いましたが、とにかく遅れましたことを皆様にお詫び申し上げます。

「有らざらん」は自費出版ではありませんが、大部数のマス・プロダクションでもありません。「緒言」で書きましたように、一家で出版社をつくって息長く続けた中里介山の『大菩薩峠』がモデルです。世の中、米「ワイアード」誌編集長クリス・アンダースンの唱えたロングテール論が大はやりですが、それを自ら試してみる気になりました。

ロングテールに私自身は懐疑的です。FACTA的基準から言うと、立証が不十分。たとえば、「アマゾンの売り上げの半分以上は、通常書店が在庫を持たない書籍の売り上げに拠る」という説も、のち半分が3分の1に訂正されました。しかも、アマゾンは売り上げ構成比を公開していない。眉にツバつけたくなるのも当たり前です。

このサイトに「アマゾンはロングテール企業ではない。パレートの法則すらあてはまる」という寄稿をしたい、とあるアナリストの方から要望が寄せられたことがありました。むしろ「ロングテールは成立しない」という証明のほうが面白いのでは?

クリス・アンダースンのブログに「余剰の経済学」(10月25日)と題する文章があって、それを読むと、完全市場モデルや合理的期待形成仮説と同じく単なる仮説であって現実には存立しえない説と思えます。だいたい、2対8の「パレートの法則」なるものも黄金率のように語られていますが、立証可能な原理とは思えない。

そこらへんは、懐かしいハーバート・サイモンを引用して、「希少性」というボトルネックが転移するにすぎないことを指摘した池田信夫blog(10月28日)のほうが正しい。付け加えるなら、資本主義とは希少性の転移にあるのであって、余剰によって希少性が消滅するかのような迷説は、労働力余剰が革命を必然とするとしたマルクスと空論性において変わらないと思う。資本主義が回転し続ける限り、ユートピアはそう簡単に現実にならない。

では、「有らざらん」の実験とは何か。ロングテールが「ユーザーである個人の関心(時間コスト)を効率配分すること」(池田信夫blog)とパラフレーズできるのなら、コンテンツのプロバイダー(提供者)も時間軸に沿って効率配分していいはずだ。つまり、『大菩薩峠』、いや、『グインサーガ』のような長大な(しかし無限ではない)連続シリーズが可能になるのではないかと思う。

それが単なる書籍のマガジン化(ムック)で終わるのなら無駄だということになる。もちろん、ハーメルンの笛吹きではないが、人がついてこなければ続かない。ま、編集長でありながら手間のかかる本を書くなんて無謀な試みですが、「余剰の経済学」なんてトンデモ理論、ブードゥー(呪術)エコノミクスを喧伝する連中を駆逐するためにもご協力を。

すでに書いたように「有らざらん」の意味はSein zum Tode(死に向かってある存在)あるいはSein zum Ende(終わりに向かってある存在)。有限、つまり時間に希少性のある存在ということです。

メルマガ連弾予告――上海汚職特集

昔、「クレムリノロジー」という言葉があった。誰も分からないソ連共産党中枢――クレムリンの暗闘を分析することだが、裏の意味があった。クレムリンの中なんて、スパイかCIAでもなけりゃ、どうせノーバディー・ノウズ。それをいいことに嘘八百を並べること(そういうソ連専門家に対する嘲笑)を言った。今ならさしずめ平壌ノロジーというところか。何せ材料が乏しいから、誰も否定できず、いくらでも知ったかぶりをして、おどろおどろしく書ける。で、誰でも評論家になれるから、いい世の中である。

しかしネタもとは存外、孫引きのマユツバ話なのだ。英国王室報道なども同じである。私がロンドン駐在時代にダイアナ妃が事故死したが、日本の報道はほとんどタブロイド紙の引き写し、王室に何の縁もない特派員(あげくに中公新書まで書いた)が、滞英15年を看板にしたり顔しているのは笑止だった。

今の中国報道も似たようなもの。中南海の政争は、大奥のように想像をたくましくできる格好のアリーナである。いつまでたっても三国志か何かのような、時代がかった悪党と英雄が出没する物語が語られる。でも、たいがいは香港や台湾の新聞、あるいは無責任な大陸のポータルサイトを切り張りしているにすぎない。昔、ロイター、今、サイト。ライターの多くが出不精なのは今に始まったことではない。

私自身、前の雑誌を編集していた時代にもそういう中国専門ライターがいて困った。「この10年、中国に行っていない。日本にいるほうが分るんですよ」などと自慢げに言うのだ。しばらくしてお引取り願った。中国語が読める人が少ないうちは、紙切り虫みたいなスクラップ記者でも生きていけたのだろう。

時代が違う。中国は必ずしも聖域ではない。似非専門家の馬脚はすぐあらわれる。

「SAPIO」「諸君」「正論」「WILL」の反中国記事は、みなコマーシャリズムと割り切っているのだろう。大衆が見たいものを並べているにすぎない。そんなに「中国はけしからん」と叫びたいのかな。評者の顔ぶれもいつも同じであって、factsfindingではない。

先週の「週刊新潮」もそうだった。「新聞が報じない中国大暗闘軟禁、罠、愛人の裏切り胡錦涛の凄まじい江沢民追い落とし闘争」とある。そりゃいろいろあるだろうが、この感覚、古すぎる!と思いませんか。同じ新潮系列の「Foresight」もトップは「胡錦涛『最終勝利』のあとの難題」。双方とも切り張り記事に変わりはないと思う。

どうして誰も上海汚職のFactsを本気で追跡しないのか。上海で私がスリの被害にあったことはこのブログで報じた。しかし、せっかく上海に行ったのだから、市党委員会書記、陳良宇の摘発とその裏にある権力闘争の分析のFACTA版を、今度はメルマガ連載でお届けしようと思う。

FACTAonlineのメルマガ・サービスは8月から始まり、すでに2度の「予告スクープ」を報じた。「東証に400億損害賠償請求」と「10月にも日中首脳会談」である。FACTAが速報性でも日刊紙と競争できることを証明できたと思うが、今度のメルマガでは深掘りの実験を試みることにした。

ちょっとプロ向きだから、フリーコンテンツ(無料公開記事)ではなく、弊誌年間購読者のうちメルマガをご登録していただいた方(登録はこちら)に限定して、あす1日から連続して発信します。貴重な現場報道なので、今から読みたい方は本日18時までにご購読+ご登録を。

FACTAはスクープだけではない。

番号ポータビリティー5――端末インセンティブの終焉

ソフトバンクモバイルの「サプライズ」で幕開けした番号ポータビリティーだったが、しだいに時間がたってみると、アバタとエクボの両方が見えてくる。ドコモの中村維夫社長は、ソフトバンクの唱える「通話ゼロ円」宣伝を批判していた。

キャメロン・ディアスのCF起用といい、話題づくりだけは上手だったけど、システムダウンなど負の話題(これについては雑誌FACTA次号で検証するしかない)も提供した。孫正義社長、相変わらずの「お騒がせ」男である。さて、開始1週間をどう評価するか。最終回はソフトバンクモバイルの松本徹三氏のインタビューを共にした携帯ジャーナリスト、三田隆治氏にコメントしてもらおう。



今回発表されたソフトバンクの料金については批判も多い。NTTドコモやauも早速批判的なコメントをしているが、彼らにそれを非難する資格はないだろう。「料金プランが複雑怪奇」「安くなったと見せかけて通信単価は実質値上げ」「誤解を与えるような広告」などは、既存キャリアも今まで散々行ってきたことではないか。

ソフトバンクの新料金で注目すべきポイントは2つある。

1つには、「インセンティブ(端末報奨金)制度」という長らく続いてきた慣習を終わらせる方向に振ってきたことだ。端末には今まで通りにインセンティブ自体は付くのだが、消費者にはインセンティブがない本来の「通常価格」が提示され、割賦販売の形を取ることで、機種変更や解約時には、残額を消費者自らが負担しなくてはならなくなった。

この方式は個人的には案外評価している。既存の携帯電話会社は、このインセンティブ制度で、いわゆる「新規即解約」(ニューモデルを安価に手に入れるため、割安になる新規契約で入手し、その後にすぐ解約すること)を行って、次々と最新型の携帯電話を安価に入手するユーザーによって被った損失分までも、1台の携帯電話を長く使い続ける「まっとうな」ユーザーに対して料金転嫁してきた。

ソフトバンクの方式は、この「新規即解約」による損失を事実上シャットアウトできるし、またユーザーに対しては「必要なだけの機能を備えた携帯電話を適価で選ぶ」という啓蒙にもつながる。これは、昨今のように不必要な機能ばかりが増えた携帯電話の登場を抑止する効用も期待できそうだ。

ライバル各社は「値引き競争には加わらない」とコメントしているが、この「インセンティブから割賦販売へ」というトレンドだけは、案外、ソフトバンクの成否を見極めた上で追随してくる可能性は高いのではないだろうか。

2点目は、「通話定額」の実施だ。

個人的には、以前からこれはある程度予想していた。なぜなら通話定額は「弱者の戦術」として極めて有効だからだ。以前から通話定額を実施していたPHSのWILLCOMは、通話定額の実施で、低迷していたMOU指標(月間平均通話時間)を、短期間のうちに何と2倍以上に引き上げたという実績もある。

また通話定額は、実は小規模法人の契約獲得にも極めて有効だ。(WILLCOMの通話定額を安価な「モバイルセントレックス」として利用している法人は案外多い)、こればかりは大手ライバルには追随は難しいだろう。

(三田氏本人の希望で、一部表現を誤解を避けるため、アップ後に修正してあります)

番号ポータビリティー4――WiMaxの可能性

きょう公開のフリーコンテンツは、「リクルートで内紛、R25編集長が独立か」。先日、ある全国紙の社長に会ったら、英国のフリーマガジンが有料のタブロイド紙(大衆紙)を食っている話題になった。実物を見せてもらったが、確かに芸能ニュースがにぎやかに躍っていて、セクシーなカラー写真満載。これでは有料紙が負けるのも道理と思った。それに比べれば、R25は上品。二匹目のドジョウ紙も続々出たので、リクルートはR25式モバイル(出来がいい)などで猛烈に多角化、無料紙編集部に負荷がかかっているという実情は理解できる。FACTAとは対極の雑誌だが、考えさせられる。

さて、きょうもソフトバンクモバイル副社長、松本徹三氏のインタビューの続き。今回はインテルが後押しする固定無線通信の標準規格WiMax(Worldwide Interoperability for Microwave Accessの略称、別名はIEEE 802.16a)が将来、携帯第三世代(3G)のCDMAなどに置き換わる可能性があるかどうか、に焦点を絞った。



――少し先の話ですが、ソフトバンクは4Gに向けてモバイルWiMAX系の実証実験をすでに始めていたり、予備免許を取ったりしていますが、松本さん個人としてはどうお考えですか。

松本私自身は個人的にはWiMAXは現状ではほとんど興味がない。あまりに未完成だからです。しかし将来の可能性に期待していますから、、実証実験することについては賛成しています。勿論、これと並行してWiMAX以外の可能性についても当然検討していくべきと思っています。国民の貴重な周波数資源を管理している国としても、当然そういう姿勢をとっていただくべきだと思っています。。

――WiMAXに対して懐疑的なのは、仕様の細部がきちんと決まっていないからですか。

松本もっと大きな問題は、WiMAXがもともとは802.16という固定系の技術ということです。固定通信と移動通信に必要なノウハウは全く違います。少しぐらい改良したからといって、面的なカバーを必要とする広域モバイル通信として使えるものではない。

現段階では、モバイル環境を前提に正確にシミュレーションしたら、「ドコモや当社が始めるHSDPA(W-CDMAを高速化した3.5G規格)やKDDIのEVDO(cdmaOneの次のパケットデータ転送規格、EVDOはEvolution Data Onlyの略)よりもデータスループットは低い」という結果が出るはずです。これはフィールド試験以前の問題です。

我が社にとって重要なことは、現在および将来の3G、3.5Gのシステムを一定環境下で大幅に凌駕するような技術でなければ、新たに投資をする意味はないということです。今議論されている2.5GHZ帯の周波数は何としても欲しいけれど、将来に禍根を残すような投資はしたくないので、「本当によい技術が出てくるまでもう少し時間が欲しい」というのが正直なところです。

――WiMAXは移動通信より過疎地などで固定通信のラストワンマイルを繋ぐものとして活用すべきではないでしょうか。

松本その通りだと思いますが、光ファイバーが全国に敷き詰められた日本では、そういう市場はきわめて小さいのではありませんか?アメリカやロシア、オーストラリアなどの広大な国なら話は別でしょうが。

――韓国はWiBroという技術で、高速移動時のハンドオーバー実験に世界で初めて成功しています。

松本サムソン(三星)が一番うまく作り込んでますが、移動体通信と銘打つからにはハンドオーバーの成功なんて「当たり前のこと」ではありませんか?むしろ、「え、まだそんな段階だったの?」というのがこのニュースを聞いた人の普通の反応ではないでしょうか?EVDOのハンドオーバーなんか、今から8年以上前に成功していますよ。

――WiMAXのモバイルへの意識の薄さには、インテル的カルチャーが影響してるのでしょうか。

松本「モバイルの意識の薄さ」というよりは、「モバイルの難しさへの過小評価」と言った方が正確だと思います。問題は「騒がれ方と実力の乖離」ですが、これは、多くの人たちが「インテルだから凄いんだろう」と勝手に考えたからです。これは別にインテルが悪いのではなく、「インテル神話」を盲目的に信じる人たちが悪いのです。きちんとしたシュミレーション数字を検証することもせずに、みんなが信じてしまう。これは日本人だけではありません。世界中の事業者は、もっと自分の頭で考えるようになるべきだと思います。

(つづく)

番号ポータビリティー3――ヤフーとのシナジー効果

きょうのフリーコンテンツは、「デジタルラジオでこけたFM東京」。ラジオの革命といわれた新星が突然挫折した謎に迫ります。

さて、ソフトバンクモバイル副社長、松本徹三氏のインタビューの続き。23日の発表からわずか3日後、きょう26日から新料金制度スタート。現場はてんやわんやだろう。これも孫流で、オーナー社長がえいやで決めて、直ちに実施なのだろう。ふつうの大組織会社では考えられないことだ。



――ヤフーとのシナジー効果は考えていますか。

松本それは当然一つのファクターですが、これも今のヤフーじゃない。将来のヤフーとのシナジーです。ソフトバンクが大きくなったのは、ヤフーの可能性を誰も信じない時に、将来のヤフーを考えて投資したからですよね。今あるものだけで、あれこれ結び付けることをやっていても駄目でしょう。将来のニーズ、そのニーズに応え得る技術を理解し、そこに独創的なビジネスモデルを考え出すことを、ソフトバンクはずっとやってきたわけです。

ソフトバンクの将来戦略は明確です。モバイルもヤフーもその中の大きな駒の一つ。その駒を駆使して将来の新しいサービスの流れを作るんです。いま可能な、あるいはこれから可能になる技術を駆使して、10年後、20年後の世界を見るイマジネーションが無ければ、この業界にはいられませんよ。

今のところ、ヤフーの利用の大半はPCからですが、ほとんどの人は家でテレビやパソコンの前に座ってる時間よりも、道端とか電車の中にいる時間のほうが多い。この大きなモバイル潜在マーケットに、パソコンやテレビでやっていることを盛り込みたい。全てのITサービスは、本質的にはユーザーの時間の取り合いです。

――日本の通信業界全体についてはどう思われますか。

松本いまだに一部に閉鎖性が残っており、既得権保護と疑われかねないような現実が随所に見られるのは残念ですが、押しなべて見れば非常によくやってる方だと思います。きちっとしたことをやっているという点では、世界の水準から見てはるかに上でしょう。私は世界中を見てきましたけど。

――米国や欧州に比べて端末価格が高いのは、世界全体で見ると競争力を削ぐ原因になりませんか。

松本ユーザーがそれを必要として、喜んでお金を払っているわけですから、それはマーケットには適応した商品ですよ。日本のメーカーが何かとんでもないヘマをしているわけではありません。

ところが悲しいかな、日本は余りに特殊な市場になってしまい、世界市場で考えると、何かちょっとトンチンカンになっている。

――国内と海外とでは、別のマーケットになっています。

松本海外メーカーは日本の市場に対応していても、簡単には入って来れない。日本は端末の細部にこだわるマーケットだから、それを理解しない人が入って来てもうまくいかない。だから、国内メーカーにとっては日本の市場は今のままでいいんです。しかし、逆に海外でも通用するようになれば、もっとコストは下がるだろうし、ユーザーも広がる。海外市場に対応できれば、もっと良くなれるんです。そこには特に力を入れたいですね。

――ボーダフォングループとの提携の狙いはそこですか。

松本そうです。ボーダフォングループが(J-Phone買収で)最初に考えたことは間違いではないんです。自身が持つ巨大なマーケットと日本の先進的なマーケットを合体させたら、規模のメリットでも、ノウハウでも世界最強じゃないかと思ってやった。そこまでは正しかった。

ただ、単純にヨーロッパの安い端末を日本に持ってくれば大成功すると思ったのは、ちょっと漫画的過ぎました。日本のプライスコンシャスなユーザー層は、始めから携帯電話機には1銭も払うつもりがなく、1円端末の中から選んでいる。そこに、「うちの端末は200ドルですよ、安いですよ」と言っても意味がない。そこを勘違いしてしまった。

もう一度、原点に戻って、共通するものは極力共通化して、その上に各市場に適したチューニングを施せば、本当に強くて安い、各市場に適応した端末ができるはずです。そういった国際化を進めていきたいと思っています。

――ボーダフォンブランド時はノキアやエリクソンから端末を調達していましたが、今後、日本人が使いやすい端末を作るためには、メーカーとの関係を再構築することになりますか。

松本私は来たばかりでまだ何を言える立場でもありませんが、そういうこともあると思います。今までも結局のところ、外国勢はあまり売れてませんでしたよね。ノキアやエリクソンにとっては日本の市場はあまりに特殊で、市場規模も決して大きくないので、彼らが本気で日本で売れる商品を作ってくれるかどうかには危惧があります。日本のメーカーはコスト感覚には若干問題がありますが、やっぱり物づくりは立派なものですよ。もっとも韓国のサムスンなどは、日本メーカーと欧米メーカーの両方の強さを具備しているような気がしますから、注目すべきと思っています。

(つづく)

番号ポータビリティー2――二強対一弱

本日から最新号(10月20日号)の記事のなかから、このサイトで無料公開する「フリーコンテンツ」が始まります。第一回はこの「番号ポータビリティー」インタビューにも関連する「KDDI幹部の突然の退任」と、先日の参院補選で安倍政権に2勝された民主党の最大のミステリー「小沢一郎の本当の病状」です。

さて、ソフトバンクモバイル副社長の松本徹三氏のインタビューの続き。ソフトバンクは番号ポータビリティ(MNP)スタート前日の10月23日、新料金制度を発表して業界に「サプライズ」をもたらしました。先月28日の発表では「サプライズのないサプライズ」だったのが、今回は一転して自社の携帯同士の通話とメールが原則定額(1月 15日までに加入すれば7割引きの月2880円)になるというもの。MNPで劣勢を伝えられるソフトバンクモバイルが、これで巻き返せるかどうかは、松本氏インタビューを一緒に行った携帯ジャーナリストの三田氏が、連載の最後にコメントしてくれるでしょう。

ひとまず、この「サプライズ」の裏にどんな戦略が隠れているのか、インタビューの言葉に耳を澄ましてみましょう。



――松本さんがCDMAの鍵を握るクアルコムからいきなりライバルの提携会社へ移籍したことに業界は驚き、クアルコムには国内事業者の役員から抗議書簡が届きましたね。

松本そんなことを言うのは、よほど国際感覚のない人ですね。世界では企業のトップはいつでも変わってますよ。

「いきなり」と言われるが、私の場合クアルコムジャパンの代表取締役社長は1年以上前に辞めているし、守秘契約も交わしていますから、法的にも道義的にも全く問題はないでしょう。

――松本さんは伊藤忠商事から始まって、クアルコムなどを経て、ついに通信事業者そのものに入られた。その経験から、ソフトバンクモバイルではどういう戦略が最適と考えていますか。

松本モバイルが始まった時は誰もオペレーションの経験が無かった。要するに皆が一から学んできた道です。私は伊藤忠時代はどちらかといえばメディア関係の仕事のほうが多かったのですが、ここ十年はモバイルの業界にどっぷり浸かって、毎日のように将来の技術戦略や商品戦略、サービス戦略を考えてきました。門前の小僧でも少しはオペレーションについても分かるようになりますよ。

でも、孫(正義ソフトバンク社長)さんに「モバイルのオペレーションはこういうものです」なんてアドバイスするつもりはありません。そんなことをしたら、「あなたは馬鹿ですか?そんなものは捨てなさい。革新をするんだから、今までのやり方のどこが悪かったかを考えなさい」と言われるでしょうからね。

そうではなくて、例えば、これからのWeb2.0というものはモバイルにとってどんな意味を持つのか、これからどういう技術が必要になるのか、何にどういうタイミングで投資すればよいか、そういうアドバイスをしていくのが私の仕事だと思っています。

人間はどういう潜在ニーズを持っていて、それに応え得るサービスはどういうものか。そのサービスにはどんな技術が必要か。もし今はない技術なら、いつ頃どこから出てくるのか。こういうことは、技術の大きな流れについての本質的な理解と、人間のライフスタイルというものに対する理解の両方が、頭の中で常に並存していなければアドバイスできないことです。私にもし何らかの自負があるとすれば、そういうところだと思います。

――ドコモとKDDIの二強に対して、どう攻めるのですか。

松本具体的なことは話せませんが、まずは、ある程度まで二強に追い付くことです。たとえばネットワークのカバレッジやコスト構造、端末をタイムリーに出していく力などですね。ただ、追い付くことは必要条件であって十分条件ではない。十分条件は彼らができていないサービスをやること。この先の大きなパラダイム転換にどう対応していくかで勝負が決まる。

だから今のソフトバンクを見て、二強からこんなに遅れていて大丈夫なのと言う人は、これからの激動を読むセンスが無い人なんです。ソフトバンクは高い買い物をした、買ったものの価値を計算したらソフトバンクの適正株価は900円しかないと言ってるアメリカのアナリストもいるようですが、彼らはソフトバンクが「今のボーダフォン」を買ったと思っているんです。しかし、ソフトバンクは、実は「将来の携帯ネットワークサービス事業」の基盤になるものを買ったのです。それがどういうものかという理解を持たない人が、どういう計算をして評価できるんですか?それは何の意味もないことです。

将来の通信事業者のあり方についての展望があるからこそ、適切な投資だと判断したんです。深い読みがなければ判断できない。ソフトバンクの価値は900円だなどと言っている人は、おそらく将来の通信事業者のビジョンが無いんでしょうね。ビジョンがあれば価値はそこまで上がり得るんです。ソフトバンクはそれがあったからボーだフォンを買ったんです。

携帯サービスの世界においては、自ら周波数と設備を持ち、端末機の企画力と流通能力までも併せ持って携帯通信キャリアでないと、本当に思い切った事業はできない。そしてこの分野でトップの事業者になるには、いかなる苦労があっても、早い時期に三強の一角に入らなければ駄目だと判断したわけです。

――松本さんがソフトバンクモバイルに入られたことで、クアルコムからのチップ調達が増えるなど、関係強化はありますか。クアルコム側は松本さんに期待していませんか?

松本われわれは、キャリアとして一番いいものを選ぶだけです。クアルコムの幹部には、「私が今までやってきたことの判断が正しければ、クアルコムを当然選ぶだろうが、今まで何かを見落としていて、実はもっといいものがあるのなら、そちらを選びますよ」と言って脅かしてあります。「クアルコムがもしサプライヤーとして万全の自信があるのなら、『お客様がよく性能の比較もできずに、風評や見せかけの条件だけで選んでしまう』ことだけを心配していたらいいんじゃあないですか?その点なら私はちゃんと判断できるから大丈夫だけど、値段交渉がきついことだけは心配しておいてね」と言ったら苦笑いしてましたよ(笑)。クアルコムの経営幹部の人たちとは本当に仲がよかったし、お互いに信頼関係も継続すると思いますが、ビジネスは別です。私はソフトバンクを成功させることに全てを賭けてしまったわけですから、昔の仲間のことを慮っている余裕などは、正直言って全くありません。

私が来たからには、世界中から一番いいものを一番安く調達したい。クアルコムの商品が本当に競争力があれば調達率は増えるでしょうし、そうでなければ駄目でしょう。それだけのことですよ。

番号ポータビリティー1――ソフトバンクモバイル

きょうから携帯電話の番号継続制(MNP、ナンバーポータビリティー)が始まる。メディア論や映像論はしばし先延ばしして、もっとアクチュアルな話題に戻ろう。

MNPは我が家に甚大な影響を及ぼしている。長女が携帯電話会社の下請け会社でSE(システムエンジニア)をつとめているからだ。ここ数カ月は徹夜の連続、この日曜も午前11時帰り、午後7時出社という殺人的日程だ。

たまたま、我が家に厚生労働省のOBがご夫婦でお見えだった。ジュネーブのILO(いやWTO?)赴任時代からお付き合いをいただいているが、わが娘の繁忙がひとしきり話題になった。

「ね、これって労働基準法違反じゃないの?」

さて、KDDIさん、どう答えますか。

で、話題を変えましょう。MNPについてはFACTAも前号(9月20日号)で触れたが、「チャレンジャー」のコラムでは、携帯電話業界を震撼させた人事の焦点である松本徹三氏を取り上げた。米半導体大手クアルコムの上級副社長からソフトバンクモバイル(旧ボーダフォン)の執行役副社長技術統括兼CSO(最高戦略責任者)にスカウトされた人である。

クアルコムは第三世代携帯で主流となったCDMA(符号分割多元接続)技術を最初に開発、KDDIもドコモも心臓部はクアルコムに握られている。松本氏のスカウトで真っ先に悲鳴をあげた同業者は「こちらの戦略がソフトバンクに丸見えではないか」という危惧だった。

実際はどうなのか。僕の好きな携帯ジャーナリストの三田隆治氏と一緒に、汐留のソフトバンク本社を訪ね、松本氏に約1時間インタビューした。その内容をこれから分載しよう。ただし、インタビュー時点は9月7日だから、まだ社名がボーダフォンだった時期である。連載の最後に三田氏に、ソフトバンクモバイルの戦略についてコメントしてもらおう。では、松本氏インタビューの第一回――。



――クアルコムからソフトバンクモバイル(ボーダフォン)に移籍する決心は、何がきっかけでしたのですか。

松本ソフトバンクが1.7GHz帯で携帯事業の認可を受けた頃から、旧知の孫正義社長にお誘いいただきまして、何度もお断りしたんですが、孫社長の夢と「人生の最後の仕事は、アメリカのためではなく、日本のために働くべきではないか」という言葉に心を動かされました。

5月にクアルコムジャパンの会長を辞してからは米国に渡り、クアルコム米本社上級副社長として、新興のBRICsなどCDMAの普及が遅れている地域のテコ入れを手がけていましたから、人知れずアフリカで朽ち果てるのも悪くないと考えていました。しかし、最後は日本の仕事もあるかなと。人間、年を取ると不思議に、自分の最後の仕事って何なのだろうと考えるようになるんですね。

――通信業界におけるソフトバンクのチャレンジは何をもたらすのでしょう。

松本ソフトバンクの通信キャリアへの挑戦は極めて難しい仕事です。すでに(NTTとKDDIの)二強がいて、われわれは弱い立場から出発する必要がある。孫さんは、この逆境をはね返してトップに立つと、本気で言っています。もちろん、並々の仕事ではありませんが、ソフトバンクがうまくいくのといかないのとでは日本の通信業界としても、世界に於ける日本の立場としても大きく違ってくると思います。

ソフトバンクモバイルは、他社に比べていわゆる通信キャリア色が薄い会社です。その分、既成観念に囚われずに、新しいモノの見方ができる。他社とは違ったスピードとダイナミズムで改革ができます。それに刺激されて、サービス競争が激化するのは通信産業にとっていいことですよね。

すると供給元のメーカーやコンテンツビジネスにも刺激がある。日本のモバイル産業は今も世界でトップですが、メーカーも含めて弱い部分も多い。それが競争によって、文字どおり世界一になる力を得るわけです。

逆の場合は、うまくいかない通信事業者の存在は、業界全体を混乱させ、不健全な競争がおきます。競争力がなく、闘えない体質の会社は不健全な競争を起こす。それは日本の業界にとって良くありません。私がそこに参加することによって、少しでも良い方向に向かせたい、そう思って孫さんの話を受ける決意をしたんです。

だから、「孫さんにお金を積まれて、業界の秘密を持っていったんじゃないか」なんて言う人もいると聞くと、心底怒りに耐えません。11月には67歳になる人間が、何故そんなセコいことをしなければならないのですか?必要もないのに修羅場に飛び込み、下手をすれば惨めな結末に終わって、皆の笑い者になるかもしれない。そんなリスクをとる馬鹿は普通はいませんよ。私の場合、クアルコムにいればいつまでも働けるし、いつでも引退できる。過去10年間にわたって貯まってきたストックオプションだって、ゆっくり時間をかけて行使できる。クアルコムの社内では万全の信用を築いてきたし、新しい経営幹部は皆若い頃から一緒にやってきた人たちで、何でも好きなことが言える。こんな条件のよい環境を捨てて、わざわざよその会社に行く人はいませんよ。

それも滅茶苦茶に仕事をする「人並みはずれて厳しい上司」にわざわざ仕えに行くのです。「これまで十分働いてきましたから、もう、そろそろ気楽にやらせてよ」というのが、この年になれば普通なのに。

むろん、年収は1銭も増えません。むしろ1銭も増えないことを条件にしたんです。お金のために動いたととられたら心外だからです。それぐらい今回のことは、何にも増して「孫さんの志に感じての決意」なんです。

(以下続く)

内視鏡3――モードとメディアの死

忙しいのも考えものだ。映画その他の新作にまったくついていけなくなる。もうしばらく映画館にはご無沙汰しているから、メディア論やら映像論なんてこんなところでお喋りしている割には、全然ついていけなくなっている。

で、しばらく前から西川美和監督の「ゆれる」を見なさい、と迫られている。「蛇いちご」の女性監督さんだが、今度の新作はまさに見る人の心を「揺れ」させるという。主役のオダギリジョーを食ってしまった香川照之(浜木綿子の息子だそうです)の鬼気迫る演技が見ものだそうです。ふーむ、しかし東京ではもう新宿の武蔵野館でしか上映中でなくなってしまった。行く暇がまだない。

というわけで、つなぎに「内視鏡」の続きを書こう。前回触れた鹿島茂氏の『「パサージュ論」熟読玩味』で、不意にこんな引用に遭遇した。



斬新さ、奇抜さ、泡のようにたちまち消えてしまいそうな軽薄さ、頼りなさ、それからシックさ。だけどファッションは、それだけではだめだ。いつも人々に<いつかどこかで出くわしたことがある>と感じさせるものでなければ。ファッションが人々に<いつかどこかで出くわしたことがある>と感じさせるためには、何が必要なのだろう。既視現象とおなじように、逆行する時間によって了解されることがたいせつだ。後ろを向きながら未知に遭遇する姿勢、あるいは未知に向かいながら過去へ遡っている感覚。つまり<死>あるいは<無>から誘導されたイメージを、デザインパターンの認識のなかに含んでいること。〔中略〕優れたファッション・デザイナーは、じぶんのファッションの死のイメージを知っているに相違ないと思える。



これはベンヤミンの引用ではない。1984年の「an・an」に載った吉本隆明の文章である。吉本がもっとも鋭かった時代で、まだベンヤミンの『パサージュ論』は翻訳されていなかった。これをベンヤミンの文章(ファッションはモードという言葉になる)と対比させると、鹿島氏ならずともあまりの酷似にため息をつきたくなるのだ。



モードにはどれにも性愛に対する辛辣な皮肉が含まれており、どれにも粗暴きわまる性的倒錯の気味がある。モードはどれも有機的なものと相対立しながら、生きた肉体を無機物の世界と結び合わせる。生きているものにモードは死体の諸権利を感知する。無機的な存在にセックス・アピールを感じるフェティシズムこそがモードの生命の核である。



ベンヤミンはもっと哲学的な文体でも同じことを語っている。



ここでモードは女と商品の間に――快楽と死体の間に――弁証法的な積み替え地を開いた。〔中略〕モードとは、女を使った死の挑発であり、忘れえぬかん高い笑いのはざまで苦々しくひそひそ声で交わされる腐敗との対話にほかならない。これこそがモードである。それゆえモードは目まぐるしく変わる。モードは死をくすぐって、死がモードを討ち倒そうとしてそちらを振り返ると、とたんに別の新たなモードに変わってしまっている。だからモードはこの100年の間、死と対等に渡り合ってきた。



ベンヤミンはモード(ファッション)を一つの「集団の夢」とみている。グーグル・アースの夢幻空間もまた「集団の夢」だとするなら、モードに刻印された<死>はまた、メディアにも刻印されているのではないだろうか。

メディアとは、仮想の空間をつかった死の挑発と思えてならない。メディアもまた、忘れえぬかん高い笑いのはざまで、苦々しくひそひそ声で腐敗の対話を交わしている。目まぐるしく変わっていて、振り返った瞬間に元の姿ではなくなってしまう。

新聞やテレビなどの既成メディアでも、それを密かに感受して焦慮している人がいる。いまのメディアの最大の病は、自分の死を感受できないことだ。それが証拠に、グーグル・アースは明日のメディアの姿ではない。「いつかどこかで出くわした」ものだ。

すでにしてあの三次元画像は、1950年代のチープなサイエンス・フィクション、いや、戦前の空想科学小説でさんざん夢見たイメージであり、それは「スター・ウォーズ」などのハリウッドSFで陳腐化した映像なのだ。ありえなかったのに、とうに出会っている。それが眼前に出現したとき、吉本の言うように<死>や<無>から誘導されたものであり、その瞬間に新聞やテレビの日常は片隅に押しやられるのだ。

商業メディアは死刑宣告を受けている、と思う。

内視鏡2――グーグル・アースの夢魔

鹿島茂という人がいる。一応、フランス文学が専攻だが、あちこちに書いているから、ご存知の方も多いだろう。彼とは東大文学部の同期(?)だと思う。彼は仏文、私は社会学で、ともに留年して、卒業生のいない1973年に出た。その年に卒業式はなく、紙筒に入れられた卒業証書が、「勝手に持ってけ」とばかりに文学部の片隅に積み上げられてあった。彼もそこからひょいとつまんで”卒業”した口だろう。

顔の記憶は薄い(お互いに)。どちらも学校にろくに行っていないからだ。あちらは仏文、こちらは独文で、教室も違う。バイトやマージャン、映画館通いにそれぞれ忙しく、袖くらいすれ違ったかもしれないが、それぞれ勝手に生きて、名前だけ少し記憶していた。

その後も教壇と記者では交差するタイミングがなかった。あちらの文筆業が商売繁盛なのはめでたい限りである。ときどき彼の本を拾い読みしたが、なんとなく同時代の息吹が感じられて、バルザックやゾラなどキッチュが好きなこの蔵書家(愛書家)を遠くから眺めていた。



私は蔵書家ではない。読書家でもない。本は読み飛ばして、ばらばらに残った記憶を乱雑に頭の引き出しに入れているだけだから、書痴と云われる人種がさっぱり理解できない。本のフェティシズムに満身染まった人は、本の中身なぞ読みはしない――論語読みの論語知らずにはなるまいと思って、本そのものを蒐集するとか、それに身を焦がすこともしたことがない。生来の不精だから、本棚の整理は下手で、積みあがっているのは古本屋に叩き売る暇が足りないだけだ。

鹿島氏もしかし愛書狂のタイプらしく、無趣味なわれらジャーナリストとは縁なき衆生と思ってきた。その考えを改めたのは、彼が10年前に書いた「『パサージュ論』熟読玩味」なる本を読んだときである。ベンヤミンという難物を相手に鹿島氏が悪戦苦闘、カウンター戦術で12ラウンド闘ったが、グロッキーになったというだけあって、よく咀嚼しているのに感心した。愛書家でも、ちゃんと読むんだ!

前回、書いた都市の風景を集団が見る夢の内臓感覚で見るというベンヤミンのユニークな着想にはっとさせられたのは、この「熟読玩味」の悪戦苦闘のおかげだった気がする。それまでは私も読みすごしていたからだ。19世紀は、集団意識がますます深い眠りに落ちていくような時代、つまり時代が見る夢だと喝破したすぐあとで、ベンヤミンはこう書いている。

「ところで、眠っている人は――狂人もまたそうなのだが――自分の体内での大宇宙旅行に出かけるのであり、しかもその際、彼の内部感覚は途方もなく研ぎ澄まされているので、目覚めている健康な人にとっては、健康な体の活動となっているようなおのれ自信の内部のざわめきや感じ、たとえば、血圧や内臓の動きや心臓の鼓動や筋感覚が妄想や夢の形象を生み出し、鋭敏な内部感覚がそれらを解釈施説明することになるのだが、〔19世紀の〕夢見ている集団にとっても事情は同じであって、この集団はパサージュにおいておのれの内面に沈潜していくのである」

日本の商店街を覆うみすぼらしいガラス天井ではこういう夢は見られないが、欧州のターミナル駅の巨大な円筒形の屋根などに、人は郷愁にも似たものを覚える。駅が幾多の映画の舞台になったのもそのせいなのだろう。しかし、それはすべて19世紀の残像なのだ。いま、現在、集団が夢を見る空間は、おそらくインターネットである。

たとえば、最新のグーグル・アース。GPSを使ったナビの画像に慣れた人でも、この3次元画像はショックを与える。ホワイトハウスであれ、東京の自分の家であれ、建物の3次元の立方体が、あたかもCG画面のように回転像として現れる瞬間、人はデジャヴュのような夢に遭遇するのだ。

これは「Web2.0」などともてはやされているものとは違う。ベンヤミンが予言したように、狂人または夢見る人が、自己の体内の大宇宙旅行に出かけるように、ネットに映じたありえざる3D空間を眺めていることに気づくからだ。だれもこの夢魔から逃れられない。

書のコレクターとしての鹿島氏は、同じ蔵書家でそれによって逃げ遅れたベンヤミンの足跡をたどるうちに、この夢魔にたどりついたと思える。

「熟読玩味」の中で、もう1歩突っ込んでほしかったのは、ベンヤミンが使う「コンステラツィオーン」という言葉である。岩波現代文庫では「状況」と訳してあるが、ふつうは「星座」を意味する。ベンヤミンをそれを意識して使っているはずだ。

「形象(Bild、イメージ)のなかでこそ、かつてあったもの(das Gewenesene)はこの今(das Jetzt)と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつのコンステラツィオーン(Konstellation)をつくりあげる」

これを星座と訳したくなるが、この星座とは何なのか。グーグル・アースの3次元画像は、この状況=星座を表すものと考えていいのだろうか。

内視鏡1――最初のハイパーリンク

きょうは20日だから11月号の発刊日。年間予約購読者のなかでご登録いただき、IDとパスワードをお持ちの方は、午前零時を期してこのサイトで最新号が閲読できたはずだ。

ご覧になりましたか。「プリント+ウェブ」の媒体として一歩進化したと思う。雑誌が未着の方、ご興味のある方はぜひご登録を。

さて、編集が終わったちょいの間を縫って人間ドックに1日入った。中小企業の経営者と同じで、編集長も倒れるわけにはいかない。オーバーホールのついでに、胃と大腸の内視鏡検査なるものに挑戦(というほどのことでもないか)してみた。



実は高校のときに胃潰瘍になって強烈な貧血になり、虎ノ門病院で内視鏡検査を体験したことがある。二度と思い出したくないような体験だった。喉に麻酔薬を塗るだけで意識があるまま、今と違って棒のように固いチューブを口腔から食道を通して胃を覗くのだ。焼き串を刺された豚の丸焼きみたいなものだ。「げえっ」と反射的に起きる嘔吐反応にひたすら耐えた。あんな拷問はもうこりごりと、以来逃げ続けてきたのだ。

が、最近は無痛だというので受けた。洗浄するために2リットルの液体を飲まされるのには往生したが、安定剤を血管に注入されて1分で意識を失った。何も覚えていない。たしかに進歩したことは認めよう。でも、自分の内臓写真をみせられると、やっぱり「人間は血の袋」という気がしてくる。大過なく終わったからいいようなものの、どうも病院は好きになれない。

もうひとつ、内視鏡は自分を逆さまに覗きこむようなある不思議な感覚を喚起する。外と内が逆転すると言ったらいいのか。ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』にこんな文章がある。

「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである。個人の内面には臓器感覚、つまり病気だとか健康だという感じがあるように、集団の内面には建築やモード、いやそれどころか、空模様さえも含まれている」(『パサージュ論Ⅲ』K1,5)

ベンヤミンがここで言っているのは、資本主義という「時代が見る夢」(Zeit-traum)のことである。街の外形はその夢の仮装であり、パサージュ(日本語で言えばガラス天井のある商店街――アーケード)はその夢の内臓であり、モードはそのパサージュを遊歩する人々のファッションだという。ベンヤミンの独創は、ガラスを透過してふりそそぐ光までも「資本の内臓感覚」ととらえたことだろう。

内視鏡の光景はいわば集団が見る夢の逆転した風景で、もっとも内奥の景色が外に露出して見える。こういう感覚は、近代がもたらした最大の変容だろう。外と内が裏返しになる世界は、人を得体の知れない不安に誘いこむ。だから名札、タグ、そして索引が必要になる。

じっと考えると、これはインターネットのヴァーチャルな宇宙と同じではないか。ハイパーリンクとか、ブックマークとかは、まさにそのタグと言っていい。ウェブがどこか閉じられた宇宙、「資本の内臓感覚」をたたえているのは必然なのだ。1920年代から30年代にかけて、パリのパサージュを見ただけでそういう宇宙の出現を予言できたベンヤミンは、やれ、グーグルだ、やれ、SNSだ、と鉦や太鼓を叩いて回る今のネットの伝道師たちより、はるかに先駆した存在だったと思う。

その証拠がベンヤミンの『パサージュ論』である。膨大な引用からなる抜書きノートの集積だが、そこに■■という記号が本人の手で書き入れてある。岩波の翻訳者の凡例では「他のテーマもしくは新しいテーマへ移すことを考えてベンヤミン自身がつけたものである。したがって、現実には存在しない項目のことも多い(例■歴史のくず■)」とある。

なんだ、これってタグではないか。“夢遊の人”ベンヤミンは、まだ存在しない参照文献に架空のリンクを張っていたと言える。■■はハイパーリンクの印だと思えばいい。それを可能にしたのは、内を裏返しにして外にし、外を裏返しにして内にする、彼独特の光学による。天性の内視鏡の持ち主だったのだろう。

では、その末裔たちがネットをどう「内臓化」したかは、明日書こう。