EDITOR BLOG

最後からの二番目の真実

骨を拾う

骨を拾った。微かに淡い斑紋のある骨のかけら。箸でそっと摘まんで、骨壷に落とす。かさりと音がした。

外は初夏の眩しい日ざしだった。アスファルトは白く光り、路傍はどこまでも新緑が輝いている。先をゆく霊柩車がいつしか遠ざかり、クレマトリアム(火葬場)に滑りこんでいく。そこはほんとうのターミナルだった。

分刻みの入棺、駅構内か空港のように喪服の列が出たり入ったり、マニュアル通りの案内の声がこだまする。人造大理石やシャンデリアの輝きでは隠しようもない。誰もが通過していく終着駅。藤原伊織(利一)もここで骨に還った。

「よう、阿部、大変なんだぜ。無から有を生むってのは」

そんな声がする。寡作なのに「無謀にも」週刊誌連載を始めたころ、彼の口から聞いた。ジャーナリズムはフィクションじゃない、無から有を生めないから、と、いま思えばむきになって口走ったら、彼にそう言い返された。思わず口ごもったことを覚えている。

「ありがとう、ごきげんよう」

いま、彼にそう言えるだろうか。地方紙に載った知人の伊織追悼記「男の哀しみと含羞と潔さ」の末尾が耳を離れない。出棺の際、妻の喪主、真知子さんが朗読した。

ごきげんよう?空しくなった人にそう呼びかけることはめったにない。死んだらそれきり。再会を期せない故人に、その功を惜しんだり、闘病を称えることもせず、ただ「ごきげんよう」と別れを告げる覚悟はそうたやすくない。

「行けるところまで行くことを赦してほしいと思う。さようなら、ご機嫌よう」

三十二年前、自刃した批評家の葬儀で語られた「哀辞」である。私の知る限り、これ以上ないほど容赦ない、やさしくて恐ろしい弔辞だった。あの葬儀に臨んだ追悼記の筆者は、意識的にか無意識にか、その末尾とおなじ言葉を伊織に手向けたのだろう。

あの匕首のような弔辞にならえば、ここ数年来、伊織の抒情は「底をついていた」。でも、誰がそれを責められよう。抒情なんてもう死語ではないか。殺伐たる日常に包囲され、吐息と呻吟のなかで、誰もがそんなものはとうに扼殺している。

彼は捨てなかった。不器用な彼の主人公たちは、いつも滅びた抒情に無償で殉じていく。最後の伊織は、自身の余命を抒情にしていた。昨年末、私が遺著『ダナエ』の書評らしきものを書いたら、彼からメールが届いた。



「さっそくのブログ書評、感謝。これ、文壇で流通してる書評とテイストがまったく違うんで、 書き手にとっちゃ、ものすごく新鮮でした。ありがとう。余計なことだけど 『作者は誰の声を思い浮かべているのだろう』はサラ・ヴォーン。なかなかいいんで、WMPのファイルを添付しておきます」



とうに抒情の底はついていた。あるのはターミナルのようなクレマトリアムだけだ。無から有を生もうとした彼は、そこで有から無に還った。

最新号の編集後記

FACTAの最新号(6月号、5月20日発行)の発送が始まりました。今号は今まで取り上げてこなかった「環境」や「ニセ薬」など、新しい分野開拓の試みをいくつかしています。乞うご期待!

さて、編集後記を先にここでご紹介しますが、今回はちょっと趣向を変えて京都話。私ひとりではとても行けない世界を垣間見ました。ま、いろいろなメッセージをこめて。



京都の祇園で「都をどり」を観た。子供のころ、亡父に連れられて東京・新橋の「東をどり」を観たことがあるが、年に一度、芸妓さんが舞踏と技芸を披露する晴れ舞台と言われても、絢爛たる衣装に目がくらむばかり、唄の文句も筋立てもわからず、すっかり退屈した記憶がある。祇園の踊りを観るのは初めてだが、年はとっても野暮助のまま。「都をどりはヨーイヤサー」の声に、はあ、これが音に聞く、と陶酔するほかなかった。

▼終わってから、イチゲンでは入れない紅殻色の壁のお茶屋「一力(いちりき)」に。黒い木の床が軋む。「通」の手引きあればこそだが、常連には「あなただけ」とくすぐる心憎い気配りが、京都流マーケティングなのだろう。歌舞場でお点前役だった芸妓さんもお座敷に見えたが、その話になるほどと思った。イチゲンの観光客はお点前の最前列には座れない。そこはツテのあるお客用で、馴染みの旦那衆はお点前役を笑わせようと百面相をつくる。それを素知らぬ顔で、お茶代わりにブランデーを入れるなど悪戯でお返しする。たあいない……それが粋なのだろう。

▼お茶碗にも差がある。ダイヤの指輪はときに表面を傷つけるので、ありきたりの安いお茶碗になってしまう。彼女に「何色どした?」と聞かれた。「朱」と答えたら、それは200万円もする豪勢なものだったそうな。思わせぶり、はぐらかし、人じらし、あてこすり……『「いき」の構造』を思いだした。筆者の九鬼周造にエッセイ「祇園の枝垂桜」がある。

乙な桜のアラナントネ
粋をきかした縁むすび
スッチョイコラスッチョイコラ

桜の周りで踊る人々の唄がいつまでも彼の耳に残った。歓喜を覚え、彼は心の底から祈る。老桜よ、生き返れ、と。

▼京大哲学科の教授となった九鬼は祇園に通い、微醺を帯びて出勤したこともある。2度目の妻には祇園の人を迎えたらしい。今号でインタビューした麻生太郎外相に、祇園の作法を聞いたことがあるが、この貴公子然とした哲学者も遊び慣れていたのだろうか。彼には遊蕩の淡いニヒリズムと、そぞろに戯れる艶っぽさがあった。ふと思い立って鹿ケ谷の法然院に、九鬼の墓を訪うた。疎水にはらはらと八重桜の花びらが散り、山吹の黄が目に鮮やかで、境内で藤の花が風に揺れていた。ゲーテの詩からとった斜体の碑銘は、西田幾多郎の絶筆だという。風雨にかすれてよく読めない。が、隣に歌人、川田順の苔むした墓があった。

蛍追ひ蛍追ひつつこの夜半(よは)をわが門べまで君は来にけり

藤原伊織の死

17日午前、友人からの連絡で彼が息を引き取ったことを知った。前日の連絡で「一両日中」と聞いていたから覚悟はしていたが、それでも胸が苦しくなった。

ここで速報する気になれないでいたら、昼過ぎ、訃報が流れていると知った。

昨年12月29日、このブログで彼の遺作となった「ダナエ」の書評を書いた。彼は自分で「あと半年かな」とつぶやいていた。だから、あれは書評というより私語だった。彼からメールが届き、喜んでくれた。そのとき、短編「水母」のこんな一節を引用した。



「世界のすべてが遠ざかっていくような感覚にとらわれた。表参道のざわめきが、潮騒のように高くなり低くなり、耳にとどいてくる。うすぼんやりしたそのあいまいな世界で麻生はじっと息をひそめていた。そのうち、べつのかすかな音が聞こえ、ついで何かの感触が手にふれてきた」



そして、書評ではこう書いた。「作者は別れを告げようとしている。……黙って泣こう」。その日が来た。

きょう外ではお天気雨が降っていた。日差しが注ぐ路面を、きらきら輝く雨しぶきが散る奇妙な光景。傘をさした少女が途方に暮れていた。彼らしい最期の日かもしれない。

泣くにはいい日……か。さよなら、フジワラ。

インタビュー:チームラボ社長・猪子寿之氏(4)モノ作りへの情熱

阿部ネットビジネスのトレンドはどう変化しましたか?

猪子黎明期に出てきた会社の多くは営業力や金融に強みを持つところでした。しかし、ここ数年は技術系の会社が非常に伸びています。特にグローバルでは、今や注目されているのは技術系の会社ばかりです。

阿部Googleや動画投稿サイトのYoutubeはその代表ですね。一方で同じように多くの技術者を抱えるマイクロソフトが苦しんでいるのは何故でしょうか?

猪子マイクロソフトには優秀なビジネスパーソンが多過ぎるのです。しかし、伸びているニューカマーの会社にはいません。これは非常に大きな差で、技術系の会社には優秀なビジネスパーソンはいないほうがいいんです。

何を馬鹿なこと言っているんだと思われるかもしれませんが(笑)、マーケットを重視する優秀なビジネスパーソンはイノベーションを阻害してしまう。技術トレンドが激しい状況下で必要なのはマーケティングではなく、来るべき未来を盲目に信じて突っ走れるかどうかです。

国内では任天堂がそれに近いですね。「ニンテンドーDS」や「Wii」は技術出身の経営陣だから可能だったイノベーションだと思います。彼らは、ゲーム好きの自分たちがプレイしたいと思えるものがないことに危機感を持ち、自分たちがワクワクできるゲームをもう一度作ろうと考えた。そこにあったのは、高度なグラフィックを実現する最新技術のロードマップではなく、モノ作りへの情熱だったと思います。

阿部ネットとメディアを議論するときに、どうしても避けられないのが著作権の問題です。Youtubeのプラットフォームを作ったエンジニアの凄みは理解できますが、一方でテレビ番組や映画が勝手に投稿されている問題もあります。

猪子Youtubeの出現によって本当に誰かが損をしているのかを考えなくてはいけません。記事にしろ、動画にしろ、ネットで見る層とパッケージを買う層は違います。むしろ、今までリーチできなかった層に認知してもらえるメリットの方が大きいはずです。例えば、ドリフやひょうきん族の動画をYoutubeで初めて観た若い人が、面白かったからDVDを買うといったこともあり得るわけです。既に米国ではプロモーションとしてYoutubeを利用するのが当たり前になっています。

阿部ニュースをネットで課金することについてはどう思いますか?

猪子一般的なニュースでユーザを囲い込めるかというと難しいですね。コンテンツに差がつく分野でなら課金も成り立つと思いまが、大きな違いがない場合はオープンにしたほうがメリットはあるでしょう。誰もが記事をシェアしやすい仕組みを用意して、サイトに多くのユーザを呼び込み広告収入につなげればいいんです。

オープンにして広告収益を狙うか、特定分野に絞って課金するかの判断は難しいですが、僕自身もクリエイターなので、モノを作る人が儲からないことが良いことだとは思ってません。ひとつだけ確実なのは、いつまでも作り手が儲からないような状態は続かないということです。人間は健全ですからね。ただ、従来のコピーライトの儲け方に固執するのではなく、オープンな情報化社会にあったやり方をしましょうよ、と言いたいのです。

(了)

インタビュー:チームラボ社長・猪子寿之氏(3)ネットメディアはプラットフォームが命

阿部チームラボが設計・開発を手がけた、産経新聞社の「iza(イザ!)」は記事とブログが融合された読者参加型のニュースサイトになっています。それまでの新聞社のサイトとは一線を画す仕組みになっていますが、どういった発想で作られたのでしょうか?

猪子従来のメディアは、一部の選ばれた人が、世の中から重要とされる情報を選び、編集し、再配布してきました。しかし、それでは多様化のスピードに追いつけなくなってきた。それは、能力うんぬんではなく経済合理性としてです(※第1回参照)。

izaを作るにあたっては、一方的に発信するだけのニュースサイトではなく、読者からも情報が集まり、その場で交換され、シェア(再配布)できるような媒体にしたかった。特にこの3点については、ネットそのものよりユーザが簡単に行えるような「ミニ・インターネット」をイメージして設計しました。

先ほどからカウンターカルチャー的な発言ばかりしていますが(笑)、そうは言っても、誰が信頼性を担保しているかということは、ユーザにとって非常に価値があることです。izaでは、ここまでは新聞社として信頼性を担保しますよ、ここから先は信頼性は担保しませんが多様性を担保しますよ、という境目をインターフェイスで切り分けることで、ユーザが信頼性と多様性の両方を享受できるようにしています。

阿部多様性を担保する仕組みというのはトラックバックやコメントなどですか?

猪子そうですね。あとは、イザブログやブックマークもそうです。イザブログに記事が載るとサイト全体の情報の幅が広がりますし、あるトッピクにユーザがコメントやトラックバックで参加すれば情報に奥行きが生まれます。

なので、せっかく書いてくれたものを審査することはありません。それをどう判断するかは全てユーザ次第です。多様性はユーザに任せることが重要なのです。

阿部信頼性と多様性をインターフェイスで切り分けたことで、izaはニュースサイトとして上手くいきましたか?

猪子結果的には上手くいっていると思います。プロモーションには全くコストを掛けないでスタートしましたが、PVは順調に伸びているようです。

阿部オーマイニュースJANJANなど「市民メディア」と呼ばれるユーザ参加型ニュースサイトはPVが思うように伸びず苦戦しています。他のユーザ参加型メディアに比べ、izaが上手くいった要因は何でしょうか?

猪子違いは凄く簡単で、ウェブサイトのクオリティです。

他のネットメディアをプロデュースした方は編集者であったり、記者であったりとコンテンツ・サイドの方が中心だと思いますが、izaを作った僕らのバックグラウンドはエンジニアリングです。当然、コンテンツそのものを作る力は僕よりもその方たちのほうが何億倍もあるでしょう。しかし、ウェブサイトを作るというのはコンテンツではなく「プラットフォーム」を設計することなんです。

つまり、プラットフォームとして優れたウェブサイトを作れるかどうかが勝負です。もちろん、コンテンツの力は重要ですが、あまりにプラットフォームが違いすぎると、どんなに有能なプレーヤーも活躍できませんからね。

阿部要因はコンテンツではなくプラットフォームの問題でした、というのはオールドメディアの人間にとっては、ショッキングな評価ですね。とにかく良い記事を書いてウェブに載せれば自然と読者が集まるだろう、と考えている人は少なくありません。

猪子紙メディアでは、良い記事を書ける人が勝てました。だけど、プラットフォームであるウェブはコンテンツが良ければOKという世界ではないのです。

紙の世界には長い歴史があり、プラットフォームが完成されているので、どこの印刷屋に出しても大きなクオリティの違いはありませんよね。だから、コンテンツで勝負する割合が大きい。しかし、ウェブの世界はまだ新しいため、プラットフォームの差が凄く激しいんです。高校生が簡単に作ったものも、超一流の頭脳が何千人も集まって作ったものも、全て「ウェブサイト」と呼ばれています。紙飛行機と戦闘機が一緒くたに飛び回っているような感じなんです。

(3/4:つづく

写真:大槻純一


インタビュー:チームラボ社長・猪子寿之氏(2)次世代検索のかたち

阿部チーム・ラボが開発した検索エンジンの「サグール」は次世代型検索エンジンと呼ばれていますが、Googleのアルゴリズムとはどう違うのでしょうか。

猪子今の検索というのはランキングそのものなんです。ネットではGoogleやYahoo!が表示する検索結果の並び順が情報の価値基準になっています。そんな中で、もう少し違った価値基準の検索エンジンがあってもいいのでは、という思いがありました。それで、主観的な検索エンジンを作ろうと思ったんです。

Googleなどの検索エンジンでは客観的なファクトが上位に表示されるようになっています。例えば、企業名で検索すると、会社概要や所在地、Yahoo!ファイナンスに掲載されている情報などが表示されます。それはそれで便利なんですが、そうではない情報を求めるニーズもあると思うんです。検索した人がキーワードに対してより興味を喚起されるような情報が上位に表示されたら面白いですよね。

Googleのページランクなどでは、より大きな会社や媒体が出している情報が上位に表示される傾向がありますが、サグールでは、もっとコアでエッジのある情報から順番に表示されるようにしたいと思っています。

阿部Googleで検索すると、Wikipediaの情報がよく上位に表示されるのは、非常に大きい媒体だからなんですね。ですが、おっしゃるようなエッジのある情報を見つけ出すアルゴリズムを組み立てることは可能なのでしょうか?

猪子それは分からないです(笑)。

阿部被リンク数を基準にしたページランクであれば、何となくイメージできますが、エッジのある情報を見つけ出すアルゴリズムなんて想像がつきません(笑)。そういったファジーなものをどうやって計算式にしているのでしょうか?

猪子システム自体はまだ発展途上の段階ですけれど、ぜひ一度使って頂いて、エッジのある情報が表示されるか試してください。

阿部そうしましょう(笑)。

サグールの考え方は、人間が情報を連想したり、記憶を呼び起こす仕組みに非常に近いようですね。人間の脳と同じような判断をする検索エンジンを指向されているのでしょうか?

猪子そこには非常に興味を持っています。これまでは、より客観的で、再現性があって、普遍的な現象を見つけ出し、法則にすることが科学でした。特に西洋では、物事を定義化することが重要視されてきたわけです。しかし、生身の人間はそれほど論理的ではないので、今までの文脈では感情的であるとか、身体的であるとされていた部分にフォーカスを当てていきたいと思っています。

よくサグールを知らない人に、「サグールの検索結果はおもろい順に表示されます」と説明すると、「おもろいの定義って何?人によって違うでしょ」と言われたりしますが、友達同士の会話では「おもろいの定義はこうなんだけど、あの映画おもろいよね」とは言わないじゃないですか。実際はそんなに定義化されていなくても意思疎通はできますよね。そういった感覚をテクノロジーにしていきたいんです。

阿部私は旧来型の教育を受けているので、物事は階層化して考えるものだと教えられてきました。しかし、実際の思考の飛び方を論理で説明できないことは沢山あります。

今後、階層化された情報の中から選び出す検索ではなく、「直感」や「偶然の一致」といったように、階層を飛び越えて情報を結びつけ、知識に変えるようなテクノロジーが生まれると面白いですね。

猪子そういう考え方は情報化社会と相性が良いはずなんです。現代の情報は非常に有機的で動的で、誰も制御できない領域で生まれ、繋がり、消えていっています。個々の信頼性も判断できない情報が次々溢れ出ている状況では、ひとつひとつを定義化し、階層化していく手法は合わないでしょう。

ネットの向こう側にあるものは人間そのものですから、そこで移ろう情報を捉えるには従来の論理的手法とは違ったアプローチをする必要があると思っています。

(2/4:つづく

写真:大槻純一


インタビュー:チームラボ社長・猪子寿之氏(1)ネット社会が幸福な理由

連休ぼけしているわけではない。連休後半の5日から編集作業を始めてしまったので、ブログを書く暇がない。で、先月、インタビューしたものをこの間に載せることにした。けっしてつなぎではなく、私がたじたじとなってしまった若き頭脳とのインタビューである。

これで「メディア論」をテーマにしたインタビューは第4シリーズになる。ご登場いただくのは、産経新聞社の双方向型情報サイト「iza(イザ!)」の設計・開発を手がけたチームラボの猪子寿之社長です。



阿部まずはじめに、猪子さんがインターネット(以下、ネット)に関わるようになったきっかけをお聞きしたいと思います。

猪子95年に始まったNHKの「新・電子立国」という番組を見て、ものすごく衝撃を受けたんです。それまで体制側のコントロール下に存在していたメディアを、誰もが自由に持つことができ、自由に情報を発信でき、そこにある全てを享受できるようになるなんて、人類史上初めてのことだと思った。ネットがもたらす情報化社会は、今まで体制と言われていたものをどんどん崩していくだろうと感じたんです。これは世の中が全部変わっちゃうなと。

歴史を振り返ると、大きな環境変化によって、それまでの勝ち組と負け組が一瞬で入れ替わることがたびたび起ってますよね。明治維新で言えば、革命が起きるのに必要だったのは坂本龍馬ではなく、鉄砲の価格下落という環境の変化だったと思います。それまで体制しか持てなかった銃器を、ある時点から下級武士でも買えるようになった。だから倒幕が成功したんです。

どの時代も、革命を起こそうとする人は沢山いるけれど、持っている武器が違い過ぎると上手くいきません。でも、対峙するそれぞれが持つ武器に差がなければ、あとは勢いがある方が強いですからね。情報の世界において、ネットはまさにその武器になると思ったんです。それが95~96年頃ですね。

阿部ちょうど、Windows95が発売された時期ですね。

猪子よく色々な方が、Windows95が情報化社会到来の境目だったと言いますが、僕はそれ自体には全然興味がありませんでした。単純に世界が繋がって、自由に情報が交換できることに惹かれたんです。

今まで、体制側のメディアに力があったのは、新聞にしろ放送にしろ、全国に情報をばらまくための巨大な流通網を持っていたからです。それを作るのには莫大な資本が必要ですからね。雑誌を流通させるにしても印刷コードを取らないといけませんし、とにかくお金がかかった。だけど、ネットによって、それら全てを一気に乗り越えられるようになりました。ブログは自宅に引きこもっていてもほぼコストゼロで書けますからね。

阿部体制側といわれるオールドメディアの側からみると、そういった民主化の流れに脅威を憶える一方で、誰もが情報発信できることと、誰もがきちんと取材をできることは別ではないか、という思いも抱いているわけです。

また、ジャーナリズムの裏返しには常にスキャンダリズムが存在し、ある対象の裏側にあるものを悪意を持って暴くといったこともあります。オールドメディアの既得権を守れというつもりは全くありませんが、そういったことを万人が簡単に行える社会は、果たして誰にとってもいいものでしょうか。ネット言論の攻撃的な面を考えると、全てが明るい話ではない気もします。

猪子120%バラ色ですね。残念ながらオールドメディアよりも、2chのほうが信用ができます。情報を信頼するかどうかは、自分の眼で選べば良いわけですから。

はっきり言ってしまえば、そこが根本的に僕らとずれているところなんですよね。全員が情報発信できるからといって、全員が似たようなことを取材して、それぞれのクオリティがどうのという話ではないんです。情報発信したい人も、受信したい人も、興味の範囲はみんなバラバラで、価値観は超多様化しているんです。超多様化した情報の中から、個々が取捨選択するのがネットなんです。

重要なのは、マスコミの経済合理性では成り立たないような小さな情報をネットで発信する人がいて、それを受信して喜ぶ人がいることです。野球に興味のない人にとっては、ハイビジョンTVで巨人の試合中継が見られるよりも、画像がざらざらでも好きな映像を(動画投稿サイトの)Youtubeで見れることのほうが嬉しいですよね。ニッチな情報を求めている人にとってはクオリティなんて二の次なんですよ。今まで手に入る情報がゼロだったわけですから、存在するだけでハッピーなんです。

阿部情報自体が存在しなかったところに、自然と情報のニーズと発信者が生まれるのはネットの面白さですね。

猪子もともと人はすごく多様なんです。だけど、産業革命以降、それを表現しにくい時代が続きました。マスプロダクションやマスコミュニケーションが可能になり、時間とコストは大幅に削減できるようになったけれど、多様性は我慢しなければならなくなった。便利になったことは決して悪いことではありませんが、人が持つ多様性は押さえられてきました。だけど、ネットは人間が多様性を表現することを再び可能にしたんです。僕はそれがすごくハッピーなことだと思うんです。

(1/4:つづく

写真:大槻純一





猪子寿之(いのこ・としゆき)
チームラボ株式会社 代表取締役社長



1977年徳島市出身。2001年東京大学工学部応用物理計数工学科卒。04年東京大学大学院学際情報学環中退。大学卒業時に、チームラボ創業。



Web2.0型のサイト構築を企業に提供している他、コンテンツマッチング、レコメンデーションエンジンや視覚化検索エンジン、純国産検索エンジンのサグールなど、先端テクノロジーの開発も行う。主な実績に、レッツエンジョイ東京イザ!など。アートやクリエイティブの活動も行っており、3次元水墨動画絵巻物語・花紅をスヌーピーライフデザイン展に出展。株式会社産経デジタル 取締役、フジテレビラボLLC CTO、株式会社NKB 取締役。


過去完了? 過去官僚?

連休入りである。いくらワーカホリックの私でも、新緑の風景を見ると、さすがに仕事を忘れたくなる。しかし、次号の編集作業が連休末に始まり、ライターの方々にはご無理をお願いしている以上、そうそう遊びほうけてもいられない。ささやかに骨休めして、またハードワークに立ち戻った。

たまたま、「月刊現代」の最新号をぱらぱらと流し読みしていて、思わずにやりとした。「過去官僚」という言葉にぶつかったからだ。この隠語、首相官邸内の最近の流行らしい。私もさる人が口にするのを耳にした。ちょっと言いえて妙である。「役人OBの政治家」という意味と、感覚や思考法がオールディーズで「過去完了形」という意味がかけてあるからだ。

このブログでは、あまり他誌の記事に言及しないが、ほめるにせよ、けなすにせよ、ライバル誌を軽々に評してはいけないと思っているからだ。が、「月刊現代」の「政界ディープスロート」を連載されている国平修身氏(たぶんペンネーム?)は、なかなかインサイダーで怖い記者だと脱帽せざるをえない。

私は政治記者ではないが、多少は永田町に出入りすると、世に名高い政治評論家のご高説が、えてしてとんだ聞きかじりで、もはや現実から遊離しているのに気づくことがある。「放送ジャーナリスト」という肩書きの国平氏は、そういうハッタリがなく、時にこちらの取材と一致するから、手ごわい存在である。

「過去官僚」はそこで出てきた。安倍首相、渡辺行革相が進めた公務員制度改革に対し、官邸内や自民党内の「抵抗勢力」をあぶりだす言葉である。就任直後の訪中以外、さしたる戦果のない安倍内閣が、ようやく前任者の「獅子身中の虫あぶりだし」戦法の格好の標的をみつけたのだ。

見出しは「天下り改革の陰で暗躍した『官邸の裏切り者』」――これは的場順三官房副長官、そして坂篤郎官房副長官補を指すことはあきらかだ。2人とも財務省(旧大蔵省)出身で、後者は現役官僚だが、前者は出戻りの「過去官僚」である。

渡辺案を推し戻そうとした自民党行革推進本部事務局長の宮沢洋一衆院議員も「過去官僚」の一人とされている。洋一氏は宮沢喜一氏の甥で、旧大蔵省証券局時代は私も取材した。その事務局次長の増原義剛衆院議員(旧財務省)、人材バンクの三年内見直しを唱えた泉信也、佐藤昭郎参院議員は2人とも農水省出身。国平氏は彼らも「過去官僚」と目している。

小泉前首相がかつて郵政改革法案で踏み絵を踏ませたような修羅場が、彼ら「過去官僚」にもふりかかるのだろうか。学歴コンプレックスが消えていない安倍首相だけに、霞が関エリートの暗躍に血刀をふるうチャンスを狙っている気がする。

公務員制度改革法案に対し、次官会議は全会一致にならず、財務、経済産業省などから反対意見が出た。にもかかわらず、閣議では誰も署名を拒まなかった不思議もそれで説明できる。旧通産省出身の尾身財務相、旧大蔵出身の伊吹文科相も、「過去官僚」の烙印を押され、抵抗勢力よばわりされまいと身をかわしたのだろう。

間一髪だったのかもしれない。参院選後に牙をむこうとしている安倍官邸の「生贄」に、彼ら「過去官僚」が仕立てられる日も遠くなさそうだ。

ご購読の自動継続

創刊1年でご購読契約更新期を迎えている方が大勢いらっしゃいます。そのお一人からご指摘をいただきました。「手間を省くには自動継続の契約がインターネットでできれば有り難い」。ごもっとも。

実はこの4月20日からこのウェブサイトで自動継続契約ができるようになりました。詳しくは「特典付き自動継続契約受付開始」をご覧ください。

ページの赤い字のボタンが「新規」、緑の字のボタンが「継続」です。

新規の方クリックすると、「お支払い方法」の欄が「通常契約」(専用払込票で雑誌到着後に郵便局・主要コンビニで払い込み)と「特典付き自動継続契約」(クレジットカード支払い)とに分かれています。後者を選んでください。その他の項目を埋めて「次へ」をクリックすれば契約完了です。

継続の方クリックすると、「お支払い方法」の欄が「特典付き自動継続契約」のみとなっています。最低限の項目を埋めて「次へ」をクリックしていただければ、自動継続契約が完了します。

更新の方で、自動継続をご希望なさらない場合は、恐縮ですがインターネットでなく、雑誌に同封してあります専用払込票により郵便局・主要コンビニでお支払いください。

以上ですが、不明の点がございましたら、定期購読&サポートセンター(03-5918-0882)にお問い合わせください。また、2007年4月20日以前にクレジットカードでの継続契約をお申し込みいただいた方で、「特典付き自動継続契約」への切り替えを希望される場合も、上記までご連絡ください。

まだご契約更新をお忘れの方がいらっしゃいます。上記のようにネットで簡単にできますし(愛読者番号を入れることが必要ですが、これは払い込み違いを防ぐためですのでご容赦ください)、1周年記念バインダーの特典が付きますので、よろしくお願いいたします。

統一地方選「東洋町ショック」

統一地方選第二波はゴロ寝した。区議選も区長選もちょっと投票する気になれなかった。無党派のたいがいの行動原理に従えば、「面白くない」と行かない層なのである。

テレビや新聞も長崎市長選に集中したのは、弔い合戦の「イーハン」がついたからだろう。殺された前市長の女婿が身代わりに立ったが敗れ、長女の「こんな仕打ちを受けるとは」との恨み節が延々と放映され続けた。身代わり候補が新聞記者だっただけに同情したくなるが、選挙は冷酷なものだという感慨しかわかない。むしろ長崎のおかげで埋没した高知のほうが気になった。

東洋町の出直し町長選である。現職町長が負けたことは、国策から言えばショッキングな事態なのだ。

尾篭な話で恐縮だが、先日、わが家のトイレが詰まった。私道に工事のトラックが駐車、マンホールの蓋を壊して、詰まってしまったのだが、わが家はパニックだった。1階も2階もトイレが流れない。もらい水ならぬ、もらいトイレである。四の五の言っていられない。テレビで宣伝している下水詰まりのチェーン店に電話して、泣きつくしかなかった。値切るどころか、いくらでも出す気になった。

東洋町の問題も同じである。原発の使用済み核燃料の廃棄物をどこに捨てるか、で日本はトイレ詰まりを起こしている状態なのだ。核燃料サイクル計画では、六ヶ所村で再処理するが、半減期が1万年を超す高レベル放射性廃棄物が最後に残ってしまう。青森はその最終処分(地下深く埋設)を認めていない(あくまでも中間処理まで)から、日本のどこかでその最終処理地を探さなければならない。

しかし、文明成立からせいぜい5000~6000年なのだから、1万年といえばほとんど永遠である。誰だってそんな恐ろしいものを隣近所に埋めてほしくないから、当然ながら候補地選びは難航してきた。そこで電力会社の拠出金を受けた認可法人、原子力発電環境整備機構(NUMO)が、立地調査に応じてくれた自治体にカネを出す形で何とか「進行形」にしようとしてきた。

立地調査したからといって、必ずしも最終処分地になるとは限らない、というのがミソで、「調査費」だけ支出される玉虫色のはずだった。それでも手を挙げる自治体がなかった。過疎と高齢化で財政難の東洋町が、とにかく文献調査に手を挙げたのだが、カネ欲しさは明らかだった。

しかし、カネで釣る玉虫色、というのがそもそも無理だった。住民は「文献調査」という言葉に欺瞞をかぎとった。手を挙げるのが東洋町だけでは、自動的に決まってしまうし、調査だけで食い逃げできるのかどうかも不明だった。やっぱりやめたということになれば、国があの手この手で翻意を迫るからだ。

しかも、これだけ不信を買ったのは、原発の燃料棒脱落など過去の不祥事が明るみに出た上、どの電力会社も首脳陣の処分は穏便に済ましたからではないのか。過去を自ら不問に付すなら、未来についても保証がないということを、東洋町の住民たちは本能的に感じたのではないか。

逃げた魚は大きい。東洋町のような地ですらこうなのだ。これでNUMOに手を挙げた自治体の首長は、リコールか落選の憂き目を見ることが決まったようなものだ。どの首長も怖くて手を挙げられまい。NUMOも宙に浮く。処分をことなかれで済ませた保身のツケは大きい。

4月29日からは甘利明経済産業相率いる官民代表団がカザフスタンへ跳んでいく(2007年5月号記事)。埋蔵量世界2位の同国のウランが狙いだが、国内で原発がトイレ詰まりを起こし、新規原発建設のメドも立たないのに、電力会社首脳はこぞって西シベリアのステップに出現した都会アスタナに向かうという。

矛盾している。電力業界のアタマの中も、詰まったトイレではないのか。

楽天としめしあわせたかのように

FACTA最新号の売り物記事「『TBS第2株主』の不気味」を楽天が裏書きしてくれた。

19日、同社はTBS株を20%超まで買い増す意向を表明、同日の有価証券大量保有報告書では19・86%と20%目前に達していることが明らかになった。何のことはない、先の記事で楽天が「株式保有を20%超にし、持ち分法適用会社にする」というくだりを実行に移したのである。

ご購読者のかたはぜひ一読を。そうでない方はこのサイトの「読みどころ」をご覧になれば、あらましがわかると思います。最新の記事で無料公開するわけにいかないのが残念ですが、もし全文をお読みになりたいのであれば、ぜひご購読申し込みを。

まさか、弊誌の発売日に楽天が合わせてくれたわけでもないと思うけれど、ま、うれしい的中である。素直に喜ぼう。19日午後にはさっそく関係者から誌面のコピーを送ってくれないかとの要請をいただいた。20日の各紙の記事は、きっとFACTAの記事を参考にしただろうと思う。もちろん、しめしあわせたわけではない。

ちょっと残念なのは、雑誌にはタイムラグがあり、実際に楽天側の動きを取材で知りえたのはもっと早かったことである。1週間以上も早いスクープのはずが、同時発表になった次第だ。メルマガを打つタイミングも難しく、予告スクープには踏み切れなかった。

もうひとつ残念なのはNTT社長人事。これも三浦氏内定の報を打ち切れぬまま、18、19日に各メディアに報じられてしまった。待ち伏せしていたのに残念。こういう歯軋りは雑誌の場合、常にある。

新帝国主義論

本を読むとき、本文でなく、注から先に読むというへそ曲がりがいる。著者には気の毒だが、確かに注を見ると、著者の好みというか、何を読んでいるかが先に分かり、注だけで本体を想像してみるという楽しみがある。実際に本文を読んで、あたっていれば、めでたしめでたし、という他愛ない読書法である。

ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムに、この世に存在しない本の書評という形式で書かれた本があったと記憶する。あれと同じである。注の宇宙には、著者を裏から透視するX線のような怖さがある。で、手嶋龍一氏からすすめられた、エコノミストの武者隆司さん(ドイツ証券副会長兼CIO)の新著「新帝国主義論」にそれを試みてみた。



武者さんとは、日本エネルギー経済研究所の有識者懇談会でときどきご一緒する。年齢もほぼ似たり寄ったりだから、身びいきの書評を避けるには、こういう裏口入学のほうが面白いかもしれない。

しかし何といっても、そういう読み方をしてみたのは「新帝国主義」というタイトルである。対外収支の不均衡がいっこうに解消しないのに、なぜ世界は未曾有の好況に沸いているのか。既存のフレームワークでこれを説明しようとしたエコノミストは軒並み予測が外れっぱなし。クルーグマンしかり。この好況の将来展望として「インフレ説」「ドル危機説」「ゴルディロックス(ほどほど成長)説」が出ているが、いずれも外れか非論理的だ、と武者さんは見る。

そこで、この未曾有の好況の「謎」(コナンドラム)を解くのが、「地球帝国」という考え方だと武者さんは言うのだ。地球帝国?ダース・ベーダーじゃあるまいし。あるいは、アントニオ・ネグリの焼き直しか、と誰しも思う。マルクシズムの亡霊でないなら、この「地球帝国」とは何なのか。

われわれの世代の「帝国主義論」とは、レーニンかホブスンだった。その後、ロンドンに駐在したころ読んだ数々の大英「帝国主義」論は、グレート・ゲームの中央アジアから、セシル・ローズのローデシアまで、経済学というよりインテリジェンス戦の面白さに心を引かれた。大英博物館そばの古書屋でそういう本を買いあさったのが懐かしい。

さて、武者さんの本の注をみると、意外とオーソドックスで、ホブソン、マルクス、ローザ・ルクセンブルク、大塚久雄、そしてケインズの「一般理論」も出てくる。また、弊誌FACTAに掲載された北京大学教授の周其仁氏の論文「中国『設備過剰』の元凶」も、第5章の注に登場する(多謝!)。

ああ、武者さんは本気で「帝国主義」を論じているのだ。ただし、この帝国は「アメリカ帝国」ではない。資本の自己増殖衝動の賜物として、見えざる手によって生まれた地球規模の「帝国」なのだ。

だが、中国やインドなどの低賃金労働を源泉としている(武者さんはそれを「帝国所得」と呼ぶ)限り、これはやはり収奪であり、「共和国」ではなく「帝国」だという。しかし資本の意思以外にこの帝国に君臨するものはないのだという。

これはグローバルを「帝国」と見立てたグローバリズム論の一種と読むべきなのだろう。問題はそこから先である。クルーグマンのような悲観論は別としても、中国の低賃金はすでに限界が見え始めた。辺境から過去の帝国の瓦解は始まったが、この地球帝国のサステナビリティはどこまで続くのか。

その分析はこれからと思える。

最新号のつぶやき

最新号の紹介を兼ねて、先月から編集後記をこの編集長ブログで公開することにした。雑誌編集の命は目次にあるが、その配列や大小、取材の深度などが複雑に絡みあう。それをまとめた上での誌面なのだが、100%の誌面などありえない。どこか思い余るところがあって、それが余滴として後記となる。

創刊以来、通りいっぺんの後記(取材雑記)にならないよう心がけてきた。しかし、それをブログにさらすと、胸のつぶやきがつぶやきにならない恐れもある。前号の大証ヘラクレスの記事のように、フリーコンテンツの記事が勝手に一人歩きする場合もあるからだ。とにかく、今号の編集後記は以下の通りである。



威勢のいい音楽とともに、宿場町に三船敏郎演ずる素浪人が、懐手に肩を揺すって現れる。黒澤明監督の『用心棒』はいつ見ても痛快な映画だ。西部劇さながら濛々と砂塵が舞い上がるこの宿場では、「清兵衛」と「丑寅」の二人のヤクザの親分が、用心棒を雇って跡目争いに血眼なのだ。素浪人は「高値で雇うほうに腕を貸す」と言って両方をけしかける。

▼しかしこの素浪人の狙いは、毒をもって毒を制す――狂犬同士を咬み合わせ、血で血を洗う出入りで自滅させ、宿場から「悪」を一掃することなのだ。加東大介から羅生門網五郎、山茶花究から山田五十鈴まで、芸達者な面々が見せる「悪のアラベスク」を見るたび、カラッとした哄笑が聞こえるような気がする。市場の「見えざる手」とやらも、清濁を相打ちさせて均衡を回復させるという意味で、この哄笑に近いのかもしれない。

▼だが、原理は常に例外を生む。教科書的に「市場は善悪を超越している」とつぶやいてみても、英国のヘッジファンド「ザ・チルドレンズ・インベストメント・ファンド」(TCI)を見ると虚しい。彼らは逆に善悪を市場に持ち込んだ。アフリカの児童を救う「善」のために、モノ言う株主として企業を恫喝する「悪」をも辞さない。グラスゴーのアダム・スミスの墓に問うてみたい。これを偽善というべきか、偽悪というべきか、それとも、市場の「見える手」なのか、と。

▼たまたま、今号ではカバーストーリーの「東証」と、企業スキャンの「電源開発」に、TCIが同時出演することになった。まさにこの「見える手」はヒドラ(多頭蛇)のように、資産は大きいが制度に守られて隙だらけの企業を狙って、喉元に食らいつく。私事で恐縮だが、TCIの後ろ盾になっているジェイコブ・ロスチャイルド卿には、12年前の1995年にロンドンで1対1のインタビューをしたことがある。有名な「握り矢印」の小看板のある彼のオフィスの向かい、スペンサー・ハウス(もとは故ダイアナ妃の実家スペンサー家の館)で。仰天したのは、部屋の片隅にハングルの北朝鮮の新聞が置いてあったことだ。

▼恐るべし。地球の片隅にまで目を凝らすヒドラ。もの静かで知的で鋭敏で、善意にあふれているから余計始末が悪い。「環境」「慈善」……誰も反対できない大義名分を掲げた哄笑のない善(あるいは悪)は退けるのが難しい。FACTAは満1歳を迎え2年目に入るが、こういう笑えぬヒドラにも肉薄したい。「用心棒」の一場面のごとく、舞う枯葉にストンと包丁を突きたてるように。

FACTA最新号のごあいさつ

FACTA2年目に入る4月20日発売の最新号が刷り上り、明日より購読者のお手元に届き始めるかと思います。

創刊号から1年ご購読いただいた読者の方々には改めて御礼申し上げるとともに、引き続きご愛読をお願い申し上げます。もしご契約の更新と、今月以降のご購読料のお支払いをお忘れでしたら、電話でもファクスでも葉書でも結構ですのでお知らせください。コールセンターまたは社員が対応いたします。

小所帯の編集部と営業部ですので、創刊からいろいろ不慣れでご迷惑をおかけしたこともあったかもしれません。社員一同、今後とも誌面を一層充実させ、ご購読者のためのサービスの改善に力を惜しまぬ決意でおります。よろしくお願い申し上げます。


ウォルフォウィッツの恋

知人からドラッカーの「私の履歴書」をいただいた。一昨年の11月、亡くなった経営学者である。ウィーンに生まれ、ジャーナリスト出身のこのユニークな存在は、巨大企業GMの組織運営から「マネジメント」という概念を再発見、戦後社会に時代を画した。わが友人にも彼を尊敬する人は多い。

ふと連想したのは、世銀総裁ポール・ウォルフォウィッツのスキャンダルである。コーネル大学で数学や化学を専攻、傑出した頭脳と言われたが、シカゴ大学に移って政治学に転向した彼が「イラク」で失敗し、今また「世銀」で失敗しかけているのは、その「マネジメント音痴」に起因するのではないか。

彼は第一期ブッシュ政権でラムズフェルド国防長官の下の国防副長官をつとめた輝けるネオコンの星だった。が、イラク侵攻の設計者だっただけに、その後の統治失敗の責任を取らされて辞任、それでも世界銀行総裁に押し込んでもらったが、一度落ちた星に昔の輝きは戻らない。

今度は女性スキャンダルである。世銀中東局広報担当の女性上級職員シャハ・アリ・リツァ(Shaha Ali Riza)を、世銀に籍を置いたまま国務省に出向(中東民主化担当)させたが、彼女が総裁の恋人になっていたことから、世銀職員組合に情実人事と批判され、それがメディアに報じられて騒ぎになった。

もともと出向の理由は、恋人を部下にすると利害相反が生じるからということだった。そこで国務省に異動させたのだが、恋人の報酬は年19万35905ドル(約3900万円)にはねあがり、国務長官のコンドリーザ・ライス(18万3500ドル)を上回ってしまったという。

ウォルフォウィッツ総裁は12日の会見で謝罪して、いかなる処分も受け入れると述べたが、おりからワシントンでIMF(国際通貨基金)と世銀の合同開発委員会が開かれ、15日の声明が総裁スキャンダルに言及、職員の士気にかかわると強い懸念が表明された。

赤っ恥である。名前からすると、この恋人、アラブ系に聞こえる。一説にはチュニジア生まれのサウジアラビア育ち、オクスフォード大学を出て英国籍を保有しているという。ただ、写真を見ても妖艶とはいえないコワソーな顔立ちだ。

この内部告発には、どこかこうした人種にかかわる摩擦(ネオコンにはユダヤ系が多く、ウォルフォウィッツもユダヤ系)と、ブッシュ政権のクローニー性(内輪びいき)への攻撃が絡んでいる。それと、世銀内にはホワイトハウスの威光をカサに来て乗り込んできた総裁への反感もあったろう。

世銀もその腐敗と硬直化はかねてから指摘されており、ウォルフォウィッツは改革を旗印に送りこまれたのだが、国防総省から連れてきた手勢と、プロパーの世銀職員の折り合いが悪く、とうとうヘソ下スキャンダルを暴かれて、追い詰められたというわけである。

彼はシカゴ大学でいったいどんな政治学を学んだのか。その師の一人であり、ニューヨーク・タイムズには「ネオコンの祖」とまで書かれた政治学者レオ・シュトラウスの「僭主論」の邦訳上下2巻が出そろった。ソクラテスの弟子で武将でもあったクセノポン(わがお気に入り)の対話編「ヒエロン」の注釈の形で、Tyrant(僭主)の本質を論じたシュトラウスの代表作である。

英語で読んだが、難解で歯が立たず、邦訳で再挑戦することにした。世に名君論、名経営者論は多々あるが、マキャべりの「君主論」を除けば陰画の王権論は少ない。フロリダの開票の混乱といい、発足当初からレジティマシーに問題があったブッシュ政権の「僭主」性を考えてみたくなる。

彼の政権の乱暴な戦争決断とマネジメントの欠陥は、そこに根があるような気がするからだ。シュトラウスを読み終わったら、それを肴に彼らのマネジメント音痴を論じよう。

ブログ復帰――幻の天心オペラ

編集期間明けでブログに復帰します。目の回るような忙しさで、なかなか書けなかったのです。

先週金曜日夜、ン十年ぶりに当時の高校のバレーボール部メンバー6人が集まる会があった。いやはや、高校卒業以来、6人制バレーのチーム全員が顔をそろえるのは初めて。神田須田町の焼き肉屋に集まったが、そこで「最近、ブログが更新されてないよ」とお叱りをいただいた。

確かに体力勝負のブロガーは、スポーツ選手と同じく、寝込んではいられない。休むと「どこかお体の調子が?」と聞かれてしまうから、ちょっと辛いところだ。肩は痛いが、がんばりましょう。

会社の前の道灌路の八重桜が咲き始めた。幽艶なソメイヨシノと違って葉桜だが、なんとなくほっとするから不思議だ。やはり四月は桜の季節、入学の季節で、胸をはずませていた少年時代を思い出す。

お嬢さんが東京芸大の絵画に入ったという父親に最近会った。そのお姉さんも芸大の音楽科だから、姉妹そろって芸大生という、ずいぶんうらやましい身分である。

ところが、ちょっと不服そうだ。娘の入学式に「出たはいいが、学長の挨拶がどうも気に食わん」という。
「芸術は心を描くもの」と言ったそうだ。「それがどうして?」と聞いたら、「心には美醜があり、善悪もある。それを全部描いたら芸術にならん、芸術とは真心を描くもんだ、となぜ言えないのか」と。

お嬢さんは父親に抵抗した。「学長のほうが正しい」と言った。それで親子でむかっ腹を立てているらしい。どっちがヘソ曲がりか、軍配を上げかねたので、東京芸大の前身、東京美術学校(美校)の祖、岡倉天心の話をした。九鬼男爵夫人、星崎初子との悲恋、初子の発狂、天心の挫折、隠し子と正妻の嫉妬、そして最晩年のインド人閨秀詩人との恋。彼が最後に英語で書いたオペラ台本「白狐」……。

「白狐」は信太妻伝説が下敷きだが、まだ誰も曲をつけていない。くだんの父親が目を輝かせた。

「そのオペラ、完成させて聞いてみたいな」

酔狂というなかれ。もし実現したら、それが「心を描いた」ものか、「真心を描いた」ものか、耳で聞き分けられるだろう。

天心の墓は巣鴨のトゲヌキ地蔵のそばの染井墓地にある。過日、訪れてみた。存外小さかった。低い角型で、釈天心とあるだけである。ところが、横に「永遠の平和」などと歯の浮くような言葉が彫られた小さな石碑が割り込んでいるのには幻滅した。後人のお節介というべきである。夕暮れの染井で途方に暮れた。

ああ、帰ろうやれ。

「外注される戦争」はただの傭兵論ではない



シンクタンク東京財団の研究員だった菅原出君が新著を出す。「外注される戦争民間軍事会社の正体」(草思社、税込み1680円)である。日本人ではたぶん、菅原君以外にこういう本は書けないだろう。

単なる軍事オタクが資料を集めただけの本ではない。ちゃんと足で稼いだ好ルポルタージュである。自分では戦地に行く勇気もないくせに言葉だけ勇ましい心情右翼の方々には、いい薬になるかもしれない。現実の戦場がどうマネジメントされているかをリアルに知るためにも一読をオススメしたい。

PMC(Private Military Company)とは、イラクやアフガニスタンなどの戦場で軍の物資補給を手伝ったり、正規兵ではない政府要員の警備や、警察官の訓練など雑務を請け負う民間企業である。その多くが特殊部隊などのベテラン兵OBだから、一昔前の「傭兵」会社と見られがちだ。確かにPMCは傭兵の延長線上にあるが、その機能は多様化し、もはや正規軍と切り離せない存在になっている。サマーワの自衛隊だって、陰に陽に彼らの協力なしでは無事帰還できなかったに違いない。

その存在がクローズアップされたのは、2002年4月のイラク侵攻だろう。チェイニー副大統領がかつて会長兼CEOだったハリバートンが、占領後の復興事業支援を受注し、PMCも「戦争のアウトソーシング」として話題になった。主戦派のラムズフェルド前国務長官が、イラク制圧に少数精鋭の米軍14万人で十分とした根拠も、PMCの存在あればこそだった。

その目論見が外れた今も、泥沼のイラクに残って、PMCは命がけのビジネスを続けている。犠牲者は相当数にのぼっている(44歳の日本人元自衛隊員、斎藤昭彦氏もPMCに応募、05年5月にイラク西部で待ち伏せ攻撃にあい、行方不明になった)と見られるが、彼らには危険地こそ商売なのだ。巻末のPMC一覧はなるほどと思わせる。

しかしブッシュ政権を支えたネオコンが挫折し、イラク撤退の是非が問われているいま、戦地任務のアンバンドリングであるPMCがイラクのような内戦状態の国で有効だったのか無効だったのか、誰かが検証しなければならないだろう。だから、この本の出版は時宜を得ている。

菅原君は東京財団の研究テーマの一つとしてPMCを取り上げ、その研究費を使ってロンドンなどのPMC本社を訪ねたり、ボディーアーマー(防弾ジャケット)を着てアフガニスタンに入ったり、英国で戦場を疑似体験するセキュリティー訓練まで受けてきた。

当時は「面白かったですよ」と静かに笑っていただけだったが、改めて読むとなかなか得がたい体験である。彼はPMCに肉薄するあまり、日本に進出した英国のPMC会社に誘われてそのコンサルタントになっている。「ミイラ取りがミイラ」にならないよう願うほかないが、本では「新しい脅威や新しいミッションが急増しているのに対して、もはや国家の軍隊だけで対応することは物理的にも限界にきている」と書いているから、見るべきほどのものは見ている。彼はPMCの登場が必然だったと言っているのだ。



(日本が)たとえ「普通の軍隊」をもったとしても、すでに世界最強の米軍がPMCなしに軍事ミッションを遂行できない状況にあるのが、安全保障の世界の現実である。これからは日本もPMCとどのように付き合い、どのように活用していくのかという問題を避けて通ることはできないだろう。



菅原君はそう訴えている。だからこそ、PMCは戦争のプロフェッショナルたちの「じつに不思議でダイナミックでグローバルなビジネス」になっているのだ。たとえば、テロリストの人質になるジャーナリスト用の模擬体験ひとつとっても、ある抗し難いリアリズムが浮かんでくる。

頭から袋をかぶせられ、走らされ、小突きまわされているうちに、これが演習だという感覚を失っていく。処刑の場面で、命乞いのために何か考えなければならないのだが、極限状態で何も思いつかないうちに、空砲がなり、処刑されたことになってしまう。だが、教官たちは言い聞かせるのだ。

「絶対にあきらめてはいけない。最後の最後までどんな小さなきっかけでもいいから見つけて生き残るよう全力を尽くせ」

そこにはある普遍性が浮かぶ。グローバルに脅威が地続きになった今、国家と企業の境界線がぼやけてきているのだ。かつて戦争は領土の野心を裏に隠した国家の「崇高な使命」とされたが、もはやあられもない利潤動機が前面に出て、実もフタもなくなってきたのだ。PMCは遠い国の出来事ではない。いつのまにか戦争はすぐそこにきている。

お花見

東京も桜の花がほころびてきた。私も昨晩、夜桜を見た。

愛宕神社である。財務省の知人に誘われて、その境内にあるお店で午後7時に会うことになった。タクシーで馳せ参じたが、久しぶりにあの石段を前にして感心した。足弱の現代人向きではない。そそり立つように急な傾斜になっている。脇に緩やかな女坂もあるが、これくらいと思って登りだした。が、途中で息が切れて、手すりについすがる始末。いやはや、年齢を忘れていた。

赤坂の日枝神社近くの高校に通っていた10代、あそこの石段は鍛錬場になっていた。うさぎ跳びで何往復してもまだ元気でいられた。今はそういかない。上がえらく遠い。ぼんぼりが夜空に浮かび、ライトアップされた桜の枝が、すぐそこに見えるのだが、とほほ。しかし、神社境内で待ち合わせというが、あすこに何かあったっけ、と内心ぼやいていた。

どうにか階段をあがると、なるほど茶屋らしきものがある。先客が来ていた。アメリカ人の弁護士と投資顧問会社のアナリスト。ほどなく友人といっしょに米国政府のOBと別の弁護士が現れた。きょうは花を愛でながら、英語で歓談という趣向である。

米国政府のOBは90年代前半、クリントン政権のときにコメ交渉でしばしば新聞に名が躍った人である。今は業界に天下って日本にいる。民主党系だからブッシュの不人気や、イラク撤退論などに話が及んだ。

民主党政権になったらイラクは撤退するかと聞いたら、当然のような意見だった。別の弁護士はむしろ、大統領選前の撤退の可能性を論じていた。それから安倍政権に話が及び、「コンフォート・ウーマン」(慰安婦)問題に話が飛んだが、やはり厳しい意見が相次いだ。ワシントン・ポストの(拉致と慰安婦の)「ダブル・トーク」批判は、在米大使館がいくら反論しようと、アメリカの親日派でも利いている。

花見の割には話題が、知らず知らず「日米同盟の危機」に寄っていく。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎だが、酔えない花見だった。

本日のフリーコンテンツでも、首相官邸の根本匠補佐官の仕事ぶりを批判する記事を公開していますが、この政権の本質的な「感度の鈍さ」が露になりつつあるようです。ぜひご一読を。

訂正

「ある訃報」で、リルケが滞在したカプリ島をアドリア海と書いたが、イタリア半島の西の海はティレニア海でした。訂正します。

ナポリの沖にあり、「青の洞窟」で有名。そういえば、麻布十番の新一の橋交差点にも「Grotta Azura」の看板があった。高架の下の薄暗い空間でススぼけて、見るたびに少し悲しい。


ある訃報

作家の城山三郎氏の訃報が届いた。

著名人なので、各紙とも評伝を載せている。それらと競う気はないが、故人を静かにしのんで、一言だけ付け加えたい。城山氏と最後にお会いしたのは、もう4年前になる。

経営評論家で「選択」創業者の飯塚昭男氏が亡くなり、護国寺で行われた葬儀に出席され、弔辞を自らお読みいただいた日をきのうのように覚えている。

弔辞は原稿用紙に書かれ、「最後の原稿をお届けします」の言葉で結ばれた。奥様を亡くして体もすこし弱っていた時期だったろうか、針金のように痩せて顔にも深いしわが刻まれていた。それでも凛として背筋を伸ばしておられた姿が忘れられない。

彼の著作を経済小説と呼ぶのは躊躇する。たまたま材を経済人にとっただけで、今はもう稀少になった理想を描く小説、気骨の人を追う小説だったと思う。葬儀の始まる前、しきりに特攻隊のことを語っていた。城山氏は最後まで国に殉じた彼らの残像のもとで生きていたのだと思う。

ときにそれが激語となったが、その語り口は常にある静謐さをたたえていた。

もうひとつ訃報が届いた。古巣の日経で整理部時代に世話になった先輩、白取時男氏である。私個人にとって忘れられない人である。

青森出身で朴訥な人だった。カラオケが上手で、渋い喉を鳴らしていた。未明の職場の酒盛りで、たまたまとれたてのイカの旨さに話が及ぶと、故郷の町で売りに来るイカを、津軽弁に身ぶり手振りをまじえ、語っていた様子が目に浮かぶ。

最近、消息を聞かず、年賀状も来ないので心配していたが、春の風のように訃報が舞い込んできた。

彼ら亡き人々に何を手向けようか。リルケが1907年、ティレニア海のカプリ島で書いた詩「春の風」を捧げよう。



この風とともに運命が来る。

来させるのがよい、むやみに暴れるものよ。

われわれはそれによってもえるだろう。

(そっとして、動くな、われわれがみつかるように)

おおわれらの運命はこの風とともに来る。


どこからともなく、この新たな風は

名づけようのない物たちを背負って揺らぎつつ、

海を越えてわれわれの存在を運んでくる。


……そうであったらよいのに。そうならわれわれは安住を得られようのに。

(空がわれらの内部で上昇し、下降するであろうに)

けれどもこの風とともにいくたびとなく

運命が圧倒的にわれらを越えてゆく。



<注>詩に誤字があったので修正しました。