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手嶋龍一×阿部重夫 「福島原発」対論(下)岡崎東工大工学部長をまじえて
※中からの続き
3月31日の手嶋龍一氏との対論に続いて、翌4月1日、東京工業大学に場所を移し、工学部長の岡崎健教授をまじえて今後のエネルギー・ポートフォリオをどうするかなどを伺った。岡崎教授は東工大大学院理工学研究科で機械制御システムを専攻、エネルギーに関するミクロな基礎現象の解明からマクロなエネルギーシステムまでを、熱流体工学、燃焼工学、反応工学、エネルギー工学などの研究を進めており、日本機械学会、日本エネルギー学会などから多数の賞を受賞しています。
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手嶋首相官邸の機能不全は国民だれの目にも明らかになっています。国際社会も指導力の欠如を「リーダーシップのメルトダウン」と呼んで不安視しています。危機の指導者として適確性を備えていない首相に舞台から降りるよう促す人が誰もいないというのもいまの日本の政界を象徴しています。霞が関の官僚機構も半ば崩壊して、サジを投げかけている状態です。ここまで日本の政治的リーダーシップ全体が劣化してしまうと、自民党と入れ替わったところで、打開はまず無理でしょう。今や世界中から「日本は当事者能力がない」と見られており、アメリカのホワイトハウスもフランスのエリゼー宮も「自分たちに任せてくれれば全てやってあげるのに」という雰囲気になっています。日本として何とも残念なことです。
阿部直近で誰が事態収拾の指揮をとるかで大変難しい話になっているんですが、いずれにせよ当面の福島原発の冷却と汚染拡大の防止の次に、日本のエネルギー供給の問題をどうするかを考えざるを得ないんですよね。まずこの夏をどう乗り切るか。東京電力管内のピーク時消費電力は6000万キロワットですが、今夏は休止中の火力を稼働させても1000万キロワット不足するのではないかと言われています。東電は節電と大口需要者の輪番制で、3月に首都圏で行ったような計画停電はなんとか回避したいとしていますが、官邸は東電不信に駆られていて東電の見通しを信用していません。
岡崎一律に「消費電力を何%も下げましょう」なんて政策は何の意味もないわけです。ほんとうは、ピークカットをどういうふうに実現するかというところの勝負なわけです。みんなが勝手に湯水のごとく使ったら、ピーク需要に対する供給能力がなかったらそれは全体停電を起こすわけですから、それだけは避けなければならない。
たとえば夜中の電力需要がもともと非常に少ないところで、ここで下げろ下げろといったって意味がないわけです。肝心なことはピークをいかにカットするかです。それにはタイムシェアリングというか、時空間制御が有効です。時空間に電力消費の配分をどう持って行くか。地域でやるのは空間的な制御だし、一日の中でも大電力を消費するようなものは、エアコンを使わない夜中にすればいいというような時間的な配置もある。ただ、連続運転しなければいけない装置もたくさんありますから、そこは考えなければいけない。
阿部エリアで東電の設備がまとまっているから、3時間ごとに強制的に一律で停電にするっていうんじゃなくて、ユーザーと一個一個の関係でどうやって乗り切るかという観点が重要だということですね。ユーザーサイドでやれることとやれないことを効率化をして、それをトータルで下げていこうと。人によって違うんだけれどもある部分きちんと目標値を定めて、自主的な努力をすることによってトータルの目標を達するような共同作業をしないとまずいと思います。
電力自由化のときにもてはやされた工場やビルなどの自家発電。これはどれくらい期待できるんですか。
岡崎量はちょっとわかりません。ただ自家発電というのは、ガスタービンなんかですと、この部屋(編集部注:およそ12畳ほど)の半分くらいの大きさで2万キロワットくらいのものは移動設置型であります。で、2万キロワットの装置で2億円くらいかかります。そういうのが製品としてある。ところが、もう仮需が発生して、今発注しても1年か2年は手に入らないだろうという状況です。
でも、2万キロワットって数字は大きいんですよ。たとえば東電が太陽光発電のメガソーラーを作るって大々的に宣伝してましたが、あれで出力は6メガワット、つまり0.6万キロワットにすぎません。太陽電池パネルっていうのは量的に言ってすぐにはCO2対策にはならないんですよ。当面、コストの上でも量の上でも太陽光など自然エネルギーを導入していく努力はしていかなければなりませんが、CO2削減量に対するコストからいったら太陽光は他のものと比べてずば抜けて高い。量的なCO2削減寄与が出てくるためには、太陽電池パネルを張る面積はものすごい広さになります。
手嶋こうした電力危機のさなかに、懸案として検討されていたサマータイム・夏時間制を導入したほうがいいとお考えですか?
岡崎ある意味では、サマータイムだって時間シフトの一つの方法論に過ぎないわけです。それをもっといろんな機器に対して細かいデータをとって、実際にどれだけの電力消費があるかというのをきちんととって、サマータイムによるピークカットのポテンシャルがありそうかを見るべきです。だけど、これをしても電力は足りないと思います。
手嶋日本の東と西で周波数が50ヘルツと60ヘルツにわかれています。緊急に電力を西から東へ供給する場合は、変電所で周波数を変えなければいけない。それを緊急にやるとしたら、どれくらい、時間とお金のコストがかかるのでしょう。
岡崎僕は詳しくないですけど、60ヘルツから50ヘルツに変換するだけで100万キロワットが限界だって言いますよね。
阿部周波数変換の変電所にはやっぱり何百億円ってコストがかかるんです。時間もかかるのでこれから新設しようにも、今夏には間に合いそうもない。また、そのコストを負担するのがいやだから、今まで東西がいがみあっていたわけで、まさかこんな大規模な電力需給ギャップが起きるとは想定していなかった。融通するのはせいぜい100万キロワットで十分と踏んでいたんでしょう。
岡崎電力会社の体質ってちょっと異常なところがありますよね。全国を区分けして、あんな地域独占の大型企業が今の時代にあるってこと自体、不審に思うわけです。
阿部地域独占の縄張り意識が強いので、東電からは自分のエリアによその電力会社が供給する提案はしないんですよ。しかし東電も関電も電事連の金持ち団体の圧力の威力というのはすごいですよ。政治家だって多分たてつけない。
手嶋今回の事態が起きて、外国メディアは、日本のメディアの在り方に新たな疑いの眼を向け始めています。記者会見でメディアとして本当に質さなければならないことを聞こうとしない。しかも記者会見の枠組み自体が記者クラブ制という談合組織に仕切られている。さらに日本のメディアに広告費という膨大な資金が流れ込んでいます。
岡崎政府の審議会でも、表向きの議事録には残らない内容なのに、電事連の誰かが録音を取って、詳しい一言一言の裏議事録を作って非公開発言を全部残している。そして人をランク付けして、都合のいい人を委員会に入れるようなそんな工作をする。
電事連の若手も自分たちが取り仕切っているかのごときしゃべりかたをする。物言えば唇寒しで、電力会社の悪口言ったって何もプラスがない。
電力会社の技術陣は日立、東芝の一流の技術者を使う立場になって、自分では技術開発の意欲がない。大学で原子力を専攻して入社2年くらいした人がですよ。これでは数十年経ったらおかしくなりますよ。記者会見を見ていても、迫力がなく当事者意識がない。
手嶋東電だけでも広告・宣伝費は300億円といわれています。日本のメディアに圧倒的な資金が流れ込んでいるのは客観的な事実なのです。
岡崎原子力の安全性の広告ばかり電事連はやってきました。福島の第一から第四まで、最初のころはGEです。あとで日立、東芝に変わってきた。そちらはあんまり被害を受けていない。それがどこに脆弱さがあって、津波だって予期しないものが来たときにどこまで防げるか、4、5メートル予想してたって、何か起こったらこうなることは目に見えていたかもしれない。ちゃんと検討していれば……。
それだけのカネのほとんどが広告代としてマスコミに流れていた。それを一部でも(補強などに)回していたらだいぶ違った状況になっていたかもしれない。非常電源だけは波を被っても大丈夫だとか、いろんな方法があったかもしれない。今言ってもしょうがないですが。
阿部原子力村の研究者には研究費もずいぶんとバラまいていますね。大学の先生に100万円か200万円寄付して、その先生の研究を共同研究と称して業績にも反映させる。中身はまったく知らないが、そこに自分の名も入っているという実態があります。
ところで、さきほどの夏場の電力確保ですが、個別にある程度自主調整みたいなのをするのに加えて、計画停電みたいな強制的な輪番制とは、どういうふうに設計すればいいんですか。
岡崎いろんな利害関係といろんなレベルの人がいるから、その調整とかに東電がチームを作って動き始めたとなれば、少し希望が見えてきますね。大口需要家の消費のほうが断然多いわけですから、大手をいくつかグルーピングして計画をたてるようなことは、政府と東電に甲斐性があったらできることです。輪番なんてね、家庭の電力なんかタカが知れてますよ。大きな工場いくつかピックアップしたほうがいい。
手嶋ただ、一般家庭でも、エアコンの温度を何度以上に設定してくださいと言うのは、かなり効き目があると思います。それを消費者の視点や協力を組みこんで実施するシステムの構築力が日本には弱いのです。
岡崎それは効きます。あと照明を消すとかね。電力の大きさの問題じゃなくて数の問題ですから、これは結構効くんですよね。冷蔵庫も「強」にしている人が多いかも知れないけど、あれを「弱」にしてもらうとか。あとエアコンを少し上限を変えるだけでも、エネルギー的に見ると相当違うそうです。
阿部でも必然的にそれは経済産業省がやる仕事なんですが、官邸は松永経産次官への不信から、今回は東電と官邸だけでやっていますよね。経済省はそのノウハウを持っているのに。過去やったんだから。政治主導で官僚を使わないから、このザマなんです。
岡崎一言で言うと、能力があるんだったら政治主導でもいいけど、その能力がなくて「脱官僚」ってやったら、ゼロになる。
手嶋実は停電対策として使用エネルギーを減らす作業は、さほど大きな政策ではありません。地味な実務作業です。こうした実務作業が得意なのがまさに官僚です。アメリカと全面戦争を構えるとか、対中封じ込めをするといった、大きな戦略を伴う政策判断を必要とするわけではありません。
ある程度東電から消費電力のデータを「みえる化」して提出させ、それでどういう方策が一番いいのか、決めていけばいい。今度は、資源エネルギー庁が全然動いていない。資源エネルギー庁を使ってちゃんと指示して動かせばいいんですよ。
阿部もっと先の、原子力産業を守れるかどうかってことを考えているんじゃないですかね。それは最終的には決着をつけなくちゃならない話ですから。福島原発事故の結果、日本ではほとんど原発の立地はおろか存続も難しくなると思いますが。
岡崎僕はCO2問題の講演をずいぶんいろんなところでやってます。日本の現在の体制では、大雑把にいって電力の25%が石炭火力、25%が天然ガス火力、30%が原子力という割合です。原子力は技術的な話だけじゃないファクターが加わってくるから、自分がしゃべるときはそれはあえて避けてきました。自分は原子力の専門家じゃなくて、むしろクリーンに燃焼して最低限CO2を出さない専門家であるということでね。
日本には大型火力――ひとつのボイラーで100万キロワット級の石炭火力がたくさんあるわけです。まずは酸性雨に関して、キロワットアワーあたりのNOx, SOx排出量は、アメリカの50分の1くらいなんです。そこまでは技術的にはもう達成できています。次がCO2削減です。石炭はCO2を出すからやめましょうなんて言う政治家もいるけれど、CO2を出さない石炭火力を作るだけでしょうと言いたい。
だから、CO2を出さない火力ってテーマで10年前くらいにずいぶん論文を書きました。ここ2、3年、その引用が増えちゃって、機械系でそんなのは珍しいんですけどね。CO2を出さない火力発電を作ろうと思えば、CO2を回収して隔離する工程が必要です。日本ではうまく隔離ができる場所がないという問題があるから、むしろ産地でガス化して水素とCO2に変えて水素だけ持ってくるとか、あるいはメタノールにして持ってくるとか、CO2は現地において、隔離サイトがあるところに、たとえばオーストラリアとかに埋めてくるといった組み合わせもある。
だけど問題は、化石燃料のピークアウト説です。石油の産出のピークはもう過ぎてますよという人がいる。CO2を回収するシステムを作れば、それだけネットの送電橋効率が下がるわけだから、同じだけの発電量に対して燃料消費は増えるわけで、CO2は出さないけれども化石燃料の消費は早まるというジレンマに陥るわけです。だからそれはバランスの問題で、当面数十年はもちますよ。数十年はもつけれども、そこでCO2を回収しながら化石燃料依存でもう少し電力を増やしたとしたときに、それと並行させて、30年40年後のシナリオを作っておかなければならない。そのシナリオがまだ見えないんです。
バイオマスだ、太陽光だ、風力だなんてもてはやされていますが、現状のCO2削減の量的寄与は微々たるものです。日本中の建物の屋根全部に太陽光パネルを張っても、CO2は数%しか減らせません。燃料電池自動車を導入して効率アップで減らしましょう、2015、2025年までに200万台導入しますという具体的な話もある。しかし200万台導入は大きい数字のように聞こえますが、CO2削減量は日本全体の13億トンに対してたったの0.2%です。
CO2は量の問題だから、きれいごとでは解決できないところに難しさがあるんです。だからその30年後の先を議論する前に、化石燃料、CO2、CCSも必要、そういうものも一見地味だけどやっぱりやらなきゃいけないでしょう。そして、その先のことをどう考えるかが大切です。これはエネルギー安全保障の話です。環境の話じゃなくて。
阿部今までその切り札が原子力だったわけですね。さらに成功がおぼつかないけれど、高速増殖炉と核燃料サイクルが日本の長期シナリオでした。とりあえず、つなぎとしてプルサーマルを進めてきたけれど、福島ではMOX燃料のプルトニウムが炉外に漏れて、全国のプルサーマルが危殆に瀕しています。日本の長期シナリオは、根幹から瓦解しかけているのでは?
岡崎高速増殖炉までは、まじめにやる価値はあると思っています。ただ核融合は、科学者に将来技術を予測させるアンケートの結果からみると、将来にわたって実現しない技術の筆頭として核融合が出てきます。だって僕が20歳のころ授業を受けて、あなたが中堅どころになるころは核融合が実現できるようになるって言われました。臨界条件っていうのは入れたエネルギーと出ていくエネルギーがちょうど等しいときの条件ですけどね、その臨界条件が実現できるかできないかっていうのをまだやっている。何も変わってないですよ。中堅どころをもう超えているのに。
だけど高速増殖炉は、エネルギーの上ではこれは頑張ればできると思います。ただ、致命傷がある。致命的なのはプルトニウムです。プルトニウムが拡散したら、地球はアウトですよ。だから今回のことがあったら、高速増殖炉のほうも導入できなくなるんじゃないですかね。すごく影響が大きい。
今回、福島第一原発の敷地内で検出されたプルトニウムの量自体は微々たるものなんです。だけどプルトニウムが出たってことは、高速増殖炉で何か起きたらプルトニウムが出る可能性があるってことでしょ。プルトニウムは、放射線量が距離の2乗で比例して小さくなりますよって話とは違うわけです。プルトニウムが漏れたら、地球は致命傷です。だから技術的には頑張ればできると思いますが、そういう意味でやっぱり難しいなと。
手嶋あと考えられるものはありますか。たとえば宇宙での発電はどうでしょうか。
岡崎それはナンセンスですね。宇宙での発電は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が独自に頑張ってきたけど、宇宙で発電したって、結局太陽光でしょう。システムとして成立するっていう話をしてるだけで、量の議論は別です。
手嶋水力発電もいまいちど見直してもいいのではないでしょうか。本気で取り組む価値はありそうです。ただ、水力発電は、あらたにやろうとすれば、国立公園の中でしか作れない。これには環境省がNOと言うかもしれません。ここが問題でしょう。
岡崎包蔵水力ってよくいいますけど、たとえば我々が子どもの頃記念切手が出て、佐久間ダムができましたと喧伝していました。できたときは日本最大の水力発電所だったけど、たった24万キロワットですよね。いまは30万キロワットかな。でも、直径10メートルくらいのところに燃料棒がささっているだけの炉で100万キロワット台を出せる原子力発電とは、やはり比べ物になりませんね。
中国の三峡ダム、あれは何千万キロワットですか。ああいうことができる国はやっぱり強いですよ。今日本は黒部を使ったとしたって、やっぱりそれぞれがんばったって数十万キロワット程度のものしかできない。
阿部もし数年以内に日本で国民投票をやれば、原発を段階的に撤廃するという結論が出るでしょう。少なくとも新設はできない。既存原発も地元の人は絶対に存続にイエスと言わないので、ドイツのように段階的に廃炉にしていくしかなくなる。高速増殖炉も何もみんな捨てていくっていうことになると、当面は全部それを火力に置き換えるということになる。
世界でも、電力供給の絶対的な不足に直面している中国やインドは恐らく原発建設を続行するでしょうが、欧米の「原子力ルネサンス」は大幅に後退する可能性が強い。地盤の悪いところは原発が無理だということになっちゃうと、日本が原発を作るのであれば、シベリアに作らせてもらってそこから買うとかそういうことでもしない限り、日本国内ではやっぱり無理だという結論になりそうです。その場合に代替手段はありませんか。
岡崎長期的には今、微々たるものだといっていた水力も含めて自然エネルギーの大量導入は、日本だけじゃたかが知れているんですね。最大限使っても。水素エネルギー協会なんかでもまじめに考えているんですけど、パタゴニアの風を水素に変えて、なにかエネルギーキャリアに化学エネルギーとして蓄えて持ってくるアイデアがある。10数年前にカナダの余剰水力で電気分解で水素を作ってそれを運んでくるとか、そういう検討もやったことがあるんです。
それでも日本で使う何百万キロワットを運んできたら、日本の沿岸がタンカーだらけになっちゃいます。パタゴニアの風に惚れた人は日本の1年間のエネルギー消費の何倍かはあると言うんですが、実現はかなり難しい。
太陽光も同じです。たとえば全世界のエネルギー消費に相当する電力を全部今現在のレベルの太陽電池パネルでやったら、どのくらいの面積になるでしょう。これは簡単に計算できる。60万平方キロメートルくらいのオーダーですよ。日本の面積が37万キロ平方メートルくらいですから、日本の2倍弱くらい、地図帳見ながら「これできるな」と思う人がいるかもしれないけど、できないですよ。薄く分散しているエネルギーを集めることは非常に大変なんです。
手嶋最後に伺いますが、いま関係者が福島第一原発でさまざまな手を打っています。錯綜した巨大システムの構築に取り組んでこられた科学者の立場からご覧になってどのように評価されますか。
岡崎これしかないのかなあと。いやあ、いろんな人がいろんなことをいってきますよ。アメリカの人もね、熱工学屋さんで、計算したら水ぶっかけるくらいで冷めるわけないよとかね、どれくらい入るかもわからないし、これくらいこぼれたとすると、これくらいしか冷やされるわけないよとか、見ていてじれったいけれども、じゃあ何か他の方法があるのかといえば、中が見えないからないんだと思いますね。それはやっぱりこういうときのためのロボット開発をアメリカなんかでもフランスなんかでもやってるわけですよね。そういう技術があるところにきちんと早い段階で手を打つことをしておくべきだったなと思います。
だけど、今ここまで来ちゃったときに、あれだけ放射能を含んだ水が出てきて、地下水に流れて、プルトニウムが出てくる、あの状態で水を流しているだけで、10日で終わる話が2週間たっても小康状態というかむしろ悪くなっていますよね。もうちょっと早くいろんな経験のあるところにプライドを捨てて手を打つ、それをやればこんな状況にはなってなかったなという気はします。
メルトダウンというかもうチャイナシンドロームまで行かないけど、スリーマイルなんてメルトダウンしても実際に10日で止めているわけでしょ。今、この放射能浴びない服があったとして、それを持って中に入り込んでいく人がいたら、それは消せますよ。でも、圧力容器があってその周りに格納容器があって、その周りの建屋が吹っ飛んだだけですからね。上からかけたって中にすんなり入っていくわけがない。プールにたまったやつが中に入っていくかなというくらい。中が冷えないですよね、あれじゃあ。だから神頼みですけど、電源が回復してポンプが動くことですよ。
阿部しかしあの破壊状況だと、冷却装置は相当破壊されているんじゃないですか。
岡崎水が漏れたのは、継ぎ手あたりの亀裂だとすれば、これは致命傷じゃないですよね、だけど圧力容器に亀裂が入ったとすれば、これは大変なことなんです。繰り返しになりますが、吹っ飛んだのは建屋なんですよね、単に。だから上から水をかけても、その中に効率よく水が入っていくわけないわけで、未だにわからないんですよ、炉心にどこから水が入っていくんでしょう。電源だけが壊れてて、ポンプが動き始める可能性だけは結構あると信じたいんですけどね。
阿部いわゆる再臨界が起きる可能性があるんですか。
岡崎わかりません。僕は原子炉の専門家じゃない。ただ、制御棒を差し込んで、一応停止している原子炉なんです。そこだけは、制御棒を引っこ抜いた運転状態ではないというところが、まだ救いがあるかなと思います。
(了)
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岡崎健(おかざき・けん)
東京工業大学教授。1949年生まれ。東京工業大学工学部機械物理工学科卒。東京工業大学大学院理工学研究科博士課程修了(機械物理工学専攻)。工学博士。84年、豊橋技術科学大学助教授。90年、米シンシナチ大学医学部客員助教授(環境衛生学)。92年より現職。内閣府総合科学技術会議温暖化対策プロジェクト専門委員、NEDO水素エネルギー技術審議会委員、経済産業省産業構造審議会臨時委員、資源エネルギー庁石炭利用評価委員会委員長などを歴任。主な研究分野は、エネルギー・環境工学、クリーン・高効率燃焼、地球環境保全・温暖化対策、バイオマス・石炭ガス化、燃料電池(PEM)、水素エネルギー、プラズマ化学反応など。
手嶋龍一×阿部重夫 「福島原発」対論(中)
※上からの続き
手嶋今回の東電福島原発の事故は、総理官邸、経産省、その外局である原子力安全・保安院、東電それぞれが抱えるシステムが2重、3重の機能不全を起こしたことで、より深刻にそして長期化してしまったといえます。原子力空母ロナルド・レーガンの例で説明しましょう。艦上で巨大な原子炉の事故が起きたと想定します。初動の防災オペレーションは、もちろん空母の責任で対処します。しかし、自分たちの応急対応の範囲を超えたと判断した段階で、その決断こそが重要なのですが、ペンタゴンの首脳陣に本格的な対応を委ねることになります。その事故が複雑で重大であると判断されれば、それを作った設計陣がやはり出てきて対応します。原子炉の中枢部分が、軍事機密だったり、企業機密の固まりであったりするからです。
阿部原子力技術は相当部分がアメリカの技術であって、まさに企業機密の固まりであり、国家機密の固まりです。米国製戦闘機の製造を三菱重工が受注したとしても、ブラックボックス部分があるのと同じように、原子炉にもおそらくブラックボックス部分が相当ある。東電は沸騰水型原子炉(BWR)を採用していて、メーカーはGEとウェスチングハウス(WH)。GEのパートナーは日立、WHは東芝が2006年に買収していますが、原子炉のコア技術はやはりアメリカに主導権がある。
ところが、初動段階で首相官邸はアメリカの支援申し入れを断ったそうです。たぶんこれは致命的でした。最終的に誰が設計し、誰が一番勘所をわかっているかを考えれば、単なるオペレーターでしかない東電に依存するのは危ない。日立、東芝だってコア技術までは理解できず、不足の事態に対応できないかもしれない。なのに彼らに処置を任せたのは、重病人をヤブ医者に委ねたようなもので、それがことを複雑化し、さらに悪化させたと思います。
しかも、チェック&バランスが効いていません。過去に何度も原発は起きた。東海村のJCO臨海事故しかり、敦賀の高速増殖炉実験プラントでも事故を起こしています。その教訓が活かされないのは、チェックする側とチェックされる側が一緒だからです。経産省内にある原子力安全・保安院、その上の原子力安全委員会というチェック側と、原子力委員会や資源エネルギー庁、そして電力会社という原発推進サイドが、お互いに牽制しあうようになっていない。
実は、その経歴を見ると、みな東大など国立大学の原子力工学科出身で、彼らは「神の火」の司祭、「原子力村」の一員なんですね。原子力を飯のタネにしている利害共同体で、原子力安全神話も彼らがつくりあげてきたのです。システム上のいろんなフェイルセーフがすべてを破られて、未曾有の事態に達した場合のシミュレーションをしていなかったのもそのためで、そこに今回の問題の根の深さがあります。
手嶋東電の原子力担当者も、安全委員会のメンバーも、テレビに出てくるコメンテーターの専門家も皆、おなじ原子力村の利害関係者なのですね。
阿部自分たちの安全神話を自分たちでお手盛りでつくってきた。エコ派といわれる反原発派の人たちは政治的な党派性の問題や、電力会社の懐柔工作もあって、説得力を持てなかった。それが今回の地震によって一気に表に出てきてしまった。やっぱり無理をして今までいろんな情報を抑えつけてきたのが明らかになる。
手嶋福島県前知事の佐藤栄佐久さんの事件も、背景には原子力発電所の安全性をめぐる国・東電と当時の佐藤県政の対立が翳を落としていたと言えます。
阿部福島原発で東電がトラブルを隠したうえに、保安院が内部告発を会社に横流しするという事態が起きて、県知事が安全神話に懐疑的になって長期の運転停止を招きました。プルサーマルについて佐藤氏は最後まで反対していました。それが3年前、西松建設の問題をきっかけとしたいわゆる汚職疑惑が持ち上がって、東京地検特捜部に逮捕されて現在も裁判で係争中です。検事が取り調べで佐藤氏に対し「あなたは国のためにならない。抹殺する」と断言したのです。
「国のためにならない」というのは、前後の状況を考えますと原発推進政策にとって邪魔であり、国策として排除すると言われたのに等しい。そこへ大震災で福島原発の事故が起きた。地元では「やっぱり栄佐久知事の言う通りだった」と一気に名誉回復、再評価の声が出て、佐藤氏が書いた『知事抹殺』(平凡社)はあっというまに売り切れて、4月に緊急増刷となりました。
裏返せば、クライシス・マネジメントの失敗だけでなく、国策であった原発推進そのものが今度は被告台に立たされたのです。経済産業省あるいは資源エネルギー庁の中にも、今回の東電の対応を見て「甘やかしすぎた」と反省の弁が出ています。常々、カネの力を背に床柱を背負ってふんぞりかえっているので、いざというときに役に立たない。電力会社を甘やかした政府の責任は大きいですね。
手嶋同時にジャーナリストの役割、メディアのチェック機能も大切です。単に原子力に関する知識があるかどうかだけでなく、もっと広い視野からいま何が起きているのか、その本質を見抜くような視座、そして見識が求められています。正確な事実もふまえながら、それを技術的な解説にとどめることなく、日本の社会経済システムの大きな文脈の中で考えるジャーナリズムがなければいけません。いまは残念ながら、戦争が起きると、プラモデル的な解説をするような人たちがテレビに登場して、戦争を語るという悪弊が出ています。「紳士は戦術を語らず」という箴言が英国にはあるんですが。
阿部この20日間のあいだにヘリで水をかけるとか、水を入れると汚染水が出ると騒いでみたり、樹脂を散布するとか、工学部なのに非常に発想が幼稚なんですよ。米空母ロナルド・レーガンに乗っている核災害の専門家からみるとほとんど笑止の沙汰みたいなことをやっているんだと思う。
手嶋ヘリを使った水の散布は、海外のメディアからも随分と酷評されました。「ワールド・トレード・センターにコップを持って行ってみんなかけている」といった記者もいました。今回の福島原発の事故は、世界のエネルギー情勢に大きなインパクトを与えています。フランスの原子力企業アレバのトップがたまらないといった面もちで乗り込んできた。原子力発電が80%を占めるフランスで、原発依存にストップがかかれば、国家の重大な危機を招きかねないからです。FUKUSHIMAは、お隣のドイツにも翳を落としています。反原発の理念を掲げた環境政党グリューネ(緑の党)が、ドイツ自動車産業の心臓部ともいえるバーテン・ビュルク州の選挙で躍進し、原発推進派が大敗を喫する事態を招きました。ドイツは戦前は、社会科学でマックス・ウェーバーに代表されるように、錚々たる人材を輩出したのですが、戦後はウェーバーに比べられるような人は見当たりません。
阿部まあ哲学系の人はいるでしょうけれど、社会科学では確かにいないですね。
手嶋そうしたなかで、政治思想の分野では、唯一、緑の党の思想が、世界の潮流に少なからぬ影響をあたえたと言えるかもしれません。当初は、環境テロリストなどと言われて警戒されていたのですが、もっともリーダーの多くは、新左翼のテロリストに近い系譜に属していたのですが、緑の党は一貫して原発の建設に異を唱えてきました。それがきっかけとなって環境政党として脱皮し、連邦議会でも一定の議席を獲得し、社民党との連立政権に入って、緑の党を代表するヨシュカ・フィッシャー氏が外務大臣を務めるまでになりました。この緑の党が掲げる環境主義の理念は、現代世界に再び大きな影響を与えることになるかもしれません。
21世紀初頭の国際社会は、「神の火」と呼ばれる原子力とどう相対していけばいいのか、「神の火」を制御していくことが叶うのかが、今度の福島原発の事故を機に問われているといっていいでしょう。それだけに、今回の事故が、あまりにもお粗末なリーダーシップによって、「神の火」を消してしまうきっかけになってはたまらないと考えているエネルギー関係者も世界には数多くいます。
阿部自分もメディアの一端を担っているので大変言いにくい面がありますが、東電の記者会見はほとんど途中から殺伐としてつるし上げに近い状態になったようです。情報発信の場として新聞やテレビが本当にその役割を果たせたんでしょうか。
総じて言えばパニックを起こすまいという官邸及び政府の政策に、メディアは従順に従っていて、一種の報道管制的なものが敷かれていた気はしますね。たとえば初日の津波の報道でも、津波にのまれる亡くなったであろう人たちの映像も本来は相当あったと思いますが、全部きれいに消されていました。
疑問なのは安全性の問題や蓋然性の問題ですね。東京では水の買い占めというパニックが起きましたけれども、あのときの発表の仕方は、突然前の日のシーベルトからベクレルという単位に変わりました。昨日までの単位と違っていて混乱をきたしますし、どれくらい危険なのかもほとんどわからない。
手嶋ただちに影響を与えないけれども、1歳以下の乳幼児には飲ませないでほしいという矛盾した言い方でしたね。
阿部何らかの影響があるから発表するんでしょうが、発表がエクスキューズ(言い訳)になっていました。あげくの果て「基準が厳しすぎるからもっと許容度をあげよう」という本末転倒な議論まで飛びだした。批判ばかりしていてもしようがない、前向きに報じよう――というマスメディアの報道は、信頼を失った気がしますね。
手嶋しかしその一方で事実は正確に伝えなければいけない。それから事実に遡及し、迫っていかなければならない。それがなされているかどうか疑問です。
事実に迫っていくという点で、外国メディアの報道は今回のケースでは際立っていました。私たちもかつて特派員でしたが、ふつうは現地のメディアと同様な手厚い取材をしていれば、物量が違いすぎますから身が持たない。従って、現地のメディアの報道を道案内にしながら、独自の取材を積み重ねていくことも多い。しかし今回、この福島第一原発の問題に限って言えば、外国人特派員のほうが、非常に丁寧な取材を重ねて、ニュースソースに迫っていきました。それは、日本の報道を頼りにしていては、本国の読者や視聴者の求めに応じられない、身を挺して現場に行かざるを得なかったのでしょう。官僚機構や巨大企業との談合組織である記者クラブ制度の致命的欠陥が露呈したと言っていいでしょう。
阿部おっしゃるとおりですね。たとえばIAEAの原子力災害の深刻度のレベルは8段階ありますが、日本が当初発表したのはレベル4。これはチェルノブイリがレベル7、スリーマイルがレベル5という中で明らかに過小評価。僕らは東電の内部関係者から、どう考えてもスリーマイルは超えているという感触は得ましたから、厳密に言うと3月15日の段階でレベル6と判断していたんですが、それを確か朝日新聞がレベル6ではないかと書いたのは、はるかに遅れて25日なんですよね。
手嶋そして今も公式には5ですよね。でも実質的にはもう6です。こうした現状では、深刻度の認定を日本の手から完全に奪ってしまえという声がでかねません。
阿部この判断自体において、政府側の操作でできるだけ事故を過小に見積もろうという意図が働いているわけです。いろいろ検証してみれば、炉心溶融の問題にしてもそうでしたが、あとでこっそり政府は修正しています。実は深刻な事態であったと。パニックを抑えようという大前提があったとは思うんですが、そのコントロールはきわめてまずいという気がしますね。最終的にメディアが失ったものは非常に大きい。しかも、この間パニックが起きそうになるたびになんとかパニックを抑えてきたのは、通信事情がかなり悪化したにもかかわらずメールとかツイッターなどで情報交換が行われ、デマと共にデマを打ち消すツイッターも流れて、マスメディアの報道とは違うところで抑えたという面も一つあるのではないか。
手嶋パニックを抑えようとして報道を歪めてしまい、それが国際社会の疑惑を呼び起こすという悪循環を招いてしまったのです。今回の原発報道を見ていると、テレビを見ている人と実際にテレビでコメントをしている人との有意差はまったくないに等しい。総理官邸の会見、原子力保安院の会見、東京電力の会見、そして30キロ離れたところからの映像以外の、決定的な情報はまったく伝わって来ません。
その象徴は「この映像は30キロ離れたところから撮っています、映像は鮮明化されています」というテロップ。あれは解釈によっては非常に重要なシグナルだと思います。30キロから撮っているので自分たちも危ない取材をしていませんという言い訳なのでしょうか。いたずらに危険を冒すことはすべきでありませんが、現場のジャーナリストが取材対象に肉薄する姿勢を喪えば、単なるお知らせメディアに堕してしまうと思います。
阿部実際に入った人はいましたからね。
手嶋12日に建屋が吹き飛んだときに、日本テレビは自分たちの独自取材じゃないのかもしれませんが映像を持っており、NHKは持っていませんでした。30キロの映像は、一般人と同じレベルの取材しかしていませんといっているようなものです。
阿部したり顔の専門家が言っていることも、一体何の根拠があるのかと疑問に思う点があります。たとえば、もっともらしく原子炉の図が出てきますね。原子炉をイギリスで見学させてもらったことがありますが、実際ははるかに複雑な機械です。いろんなパイプがあって、そこでああいう爆発が起きたら、ほとんど復旧作業が不可能なくらい傷むんじゃないかと思われるくらい複雑な機械です。電気が通じれば水を循環させて回復できるという図の説明は、一種の視覚的なマジックであり、実際には図のように単純な作りにはなっていない。しかし、爆発の映像はNHKも含めて当日はなぜかなかなか流れなかったですね。CNNではじゃんじゃん流れていましたが、これは世界中にショックを与えるだろうな、と思うものでした。原子炉が建屋とはいえ爆発するシーンというのはチェルノブイリでも流れませんでしたからね。
手嶋独自の映像がメディアにないのは、未曽有の緊急事態が11日の晩から起こっていながら、日本のメディアは原発に肉薄しようとせず、24時間体制でウォッチしていなかった証拠です。これひとつとっても、一連の取材は、のちの検証には到底耐えられないでしょう。それは、一つには危ないところに記者が行かない。これではジャーナリストとしての使命が、ここ一番という時に果たせません。
もう一つ、根源的な問題を抱えています。これほどの危機にあっては、幾万、幾十万の人の命を救うために、特別な使命を帯びた少数者は、身の危険をあえて冒さなければならない。指導者はその人たちに危地に赴いてほしいと命じなければならない局面がかならずあります。しかし、戦後の日本社会はこうした事態は起こらないものとして、究極の有事からことさら眼を逸らしてきました。
大手メディアでは戦争取材の現場に、しばしば自社の記者ではなく、フリーランスの人を派遣する。これは絶対にすべきでないことです。だが、実際にはそういうケースがまかり通っています。自分たちは30キロの外にいて、お金を払って下請けのカメラ・クルーに行ってもらうべきではない。記者会見で「危険がないんですか」と聞かれたら、「何ミリシーベルト」という説明をして、「安全に配慮している」と言う。究極のところで言えば明らかに嘘が含まれています。その種の建前に逃げ込むことの不健全さを当事者もメディアももっと自覚すべきです。
阿部現場に入った消防隊員や自衛隊員の方々にとっては、家族のこともありますし、使命感だけでは片付けられない問題がいろいろあったと思いますが、報道する側が一種の美談に仕立て上げました。
でも、協力会社の作業員の方たちはまた立場が違い、原発の最下層にはお金でやっているという現実があるわけです。東海村の臨界事故を起こしたのもやはり協力会社の人でした。「命がけで福島原発に残った50人」と、現場に入った自衛隊員や消防隊員の方たちとを全部いっしょくたにして美談にするというのは、ある意味で原発がかかえている根元的な矛盾にフタをしていることになると思います。
手嶋非常に重要な指摘です。「本当に危険な作業のときには、アメリカから大金でマイノリティの人たちを」という話は依然として消えませんね。企業の側にそういう体質がある一方で、幾百万の人たちを救うために現地に赴いて下さっている消防、警察、自衛隊の人々がいる。そうした人たちに危地に赴くよう促しながら、政府、民主党の首脳陣の中には、彼らを左翼用語で「暴力装置」と言った人がいます。また今回夥しい数が現地に入っている米国海兵隊のことも、できれば消えてほしいと言っていた閣僚もいます。そんな人たちが、この有事の時に自衛隊員に命を賭けて出動してほしいと命じるのは、倫理的な背景を欠いています。戦後日本の隠された矛盾点がそこに現れてきていると思います。
阿部そうですね。東京消防庁の人に対策本部長である海江田経産相が「行かないなら処分する」という言い方をしたと伝えられています。本当にそう言ったんだとしたら、本部長としての役職から言っただけであって、それを超えて「人を救うために行ってくれ」というだけの倫理的な根拠があったかというと非常に疑わしいですね。
手嶋アメリカでは9・11のとき、ワールド・トレード・センターにいる年収1億円を超えるような人たちを救うために、多くの消防士の人たちが命を失いました。彼らは子どもがいても給料があまりに安くて大学にもやることができない、そんな現状は、超大国アメリカの正義に反しているのではないかという声がアメリカ社会から噴き出しました。その点で今回のケースは、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の用語法を用いると「日本のこれからの正義が問われている」といえましょう。
阿部サンデル教授のような意見の人を「コミュニタリアン」といい、「コミュニティというものがあってこその正義」という立場です。今回の場合も、放射線の非常に強い地域に命がけでいくのは自分の所属しているコミュニティを守るため、それが大義名分であるということ。それを、単に本部長とか大臣であるという立場だけで命令する権限が本当にあるのか。立場だけであって、後側にコミュニティが存在しない場合に命令できるかという重大な問題ですね。
手嶋命令するときには、命令に伴う結果責任をとることが求められます。最後の責任は自らが担うという倫理観がなければならないのですが、自主避難という言葉に象徴されるように、責任回避が行われている。「自主避難」に隠れている日本の戦後の病弊は、やはりビューロクラシー、官僚制にとって生まれてしまったのです。政治家が自らの行動でけじめをつけられないことになれば、戦前の軍部が「玉座の陰に隠れて」と言われたように、政治主導のタテマエの陰に隠れた高級官僚の跳梁を再び許してしまうことになります。
阿部一つの象徴が、きわめてヌエ的な存在であった原子力安全・保安院です。
手嶋ヌエ的というのはつまり、事故がおこったときには東電のせいにし、国民には自分たちが事故を守っていると言うことですよね。
阿部監督機関なのに、実際は東電から上がってくる情報を右から左へおうむがえしに言っているだけ。現実は何もやってなかった証拠です。経産省の中にある組織で、独立性が何も担保されていない。今の経産省の松永事務次官は安全保安院の幹部だったことがあると思いますが、人事上も待機ポストです。職員は原子力の専門家ばかりではなく、実質的にはもうチェック機能を予め抜いている。実際の権限は資源エネルギー庁の原子力課課長が全部握り、原子力の政策を進めている。そしてカードとして東電を使う。東電はそれを充分承知の上で、自分たちは経営上絶対損をしない電力料金を設定してもらい、左うちわで経営しています。要するにお互い相身互い。政府と電力会社のグルという関係にあります。
電力会社のケースは典型的なケースですけれども、そういうケースはありとあらゆる業界にある。業界というのは、霞が関にとって天下り先でもあると同時にいろんなお金の出所でも。東電は広告費だけで年間300億近く使っています。それは何のためかといえば、自分を守るため、原子力を推進するため。単純に言えば東電のみならず、電力会社は、魂を売った人たちで回りを固めているような状態ですね。それを許している霞が関との癒着構造も否定できないわけです。しかしそれはもう最終的には続けられないのだと僕は思いますね。すぐ安易に東電国有化という話が出てきていますが、国有化だけでは話が進まない。
手嶋国有化などという処方箋は、そもそもこの危機の対処を誤った背景を検証すればするほど、もっとも間違った解だといわなければなりません。今後の日本の政治体制を考える上で、かなり大きなターニングポイントになるでしょうね。
※下に続く
手嶋龍一×阿部重夫 「福島原発」対論(上)
3月11日の東日本大震災と、それに続く東電福島第一原発の事故は、日本の転機になりそうです。いったい何が問題なのか、このブログ上でジャーナリスト、手嶋龍一氏と本誌編集主幹の阿部重夫が緊急で「対論」を試みました。主として巨大リスクのクライシス・マネジメントの観点から、政府と東電の対応を論じましたが、中長期的なエネルギー・ポートフォリオの問題については「下」で、東京工業大学の岡崎健工学部長にもお話を聞きました。
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阿部今日は3月31日です。地震の発生から20日経っても、東京電力の福島第一原発は依然として深刻な状態が続いています。ある国立大学のエネルギー専門家ですら、ヘリで水を撒いたり、汚染水を玉突き排水したりの、幼稚な手段で人類の叡智の結晶を押さえこもうとする“焼け石に水”の日本の姿に「いまは祈るような気持ちでオペレーションを見守っている」と溜息をついています。今日はジャーナリストの手嶋龍一さんをお迎えしてこの国が直面しているリスク管理、危機対応の弱点について議論したいと思います。
まず手嶋さんに伺いたいんですが、首相官邸及び東電、被災地の自衛隊やその他の関係者は力の限り救援と復旧に努力していると思います。しかし20日間たって現在ふりかえってみますと、いかに想定外の天災だったとはいえ、その後の対応においてはパニックこそ起きなかったけれどもずいぶん欠陥があった。それが今後、日本の経済及び政治に与える大きな後遺症が心配されるところだと思います。今回の日本政府及び関係企業の対応についてどういうふうにご覧になっているか、教えていただきますか。
手嶋阿部さんは冒頭で「パニックこそ起きなかったけれど」といわれました。パニックを起こしていないのは、被災地の一般の人々です。一方で日本の政治指導部と東電は、浮足立って、決断する機能がメルトダウンしかけています。冷静沈着な民衆とパニック寸前の政治指導部。まことに奇妙なギャップを抱える構図になっています。
従来、日本に厳しい論調を張ってきた国のメディアすら賞賛の声一色です。これほどの災厄を蒙りながら、英語でいうselflessness、私を虚しうして、隣の人の命を気遣う。こんな国はやはり世界では稀な存在といっていい。同時に、日本の政治指導部は「神の火」といわれる原子力をコントロールできるのかという疑いの眼差しが向けられています。
阿部福島原発は東京から240キロ離れていますが、これほど東京都民及び首都圏の住民に不安を与えた日々はありません。枝野官房長官が会見するたびに、水の買いだめに走ったり、急遽自宅待機を会社から言われて電車に殺到したり、小さな形でのパニックは起きていました。政府の発表や情報開示は、いくら緊急事態とはいえ場当たり的に聞こえます。説明の内容も充分意を尽くしていない。計画停電等の不公平さもあります。誰が何をどう決めているのかさっぱりわからない。20日間たって住民の方々に残ったのは政府への不信感でした。
手嶋一般の方々の指導部不信の内実を検証してみましょう。3月11日の午後にマグニチュード9の地震が発生。その日の晩には福島原発で異変が生じはじめました。
阿部11日の夜の段階で、原子炉の冷却装置の大半が作動しないことが明らかになっていました。にもかかわらず、東電側になお意思決定を委ねていたことが最大の錯誤といっていいでしょう。原発では事故が発生するとまず、核燃料棒に制御棒を入れて運転を止める。次いで、原子炉を冷やす。そして放射能を閉じこめて漏らさない。このプロセスが肝心です。今回、大地震が起こった段階で制御棒が降りてきて、原子炉の運転は一応緊急停止しました。しかし、続く「冷やす」と「閉じこめる」ことは、非常用電源がとまってできなくなってしまいました。
手嶋このような深刻なクライシスでは、初動の24時間がすべてを決める。今度の福島原発の事故でも、11日夜の段階で原発の制御システムが機能不全に陥ったことが明らかでしたから、最大限の危機管理体制が敷かれてしかるべきでした。79年のスリーマイル島事故や86年のチェルノブイリ事故のケースをみてもそう言えます。
阿部今までの原発災害の想定を超えているのですから、マニュアルに従ったクライシス・マネジメント(危機管理)ではない有事の対応が必要なはずでした。
手嶋残念ながら、現実にはそうした対応はとられませんでした。もし11日夜の段階で政治指導部が精緻に情勢を認識していれば、翌12日の朝、菅直人総理が官邸からヘリコプターで現地を視察することなどなかったはずです。
阿部29日に国会で久しぶりに菅総理は答弁に立って、首相視察によって初動態勢が遅れたことはないという弁明をしました。燃料棒の冷却ができず、炉の温度が上昇していくのを押さえようと、放射性物質を含む水蒸気を放出するベントを、視察前の段階ですでに指示していたからというのです。菅首相自身は気がついていないが、これは重大な矛盾をはらむ答弁です。
放射能が外に出るベントを実施する現場に総理大臣がいるなどということは、国家の中枢を放射能汚染のリスクにさらすことに等しい。仮にそれでも行くのなら、最低限、防護服を着なければならないでしょう。あのときの写真や映像を見れば明らかなように、菅首相は防護服を着ていない。ただの防災服です。首相がいる間はベントをやらないということでしょう。そこは東電が配慮したわけで、たぶん視察の前後5、6時間に渡ってベントを遅らせたんじゃないかと思います。
手嶋民主党政権の総理や官房長官がヘリコプターを仕立てて現地視察をする時には心せよ、政治判断を誤る不吉な前兆となる――こう申し上げてきました。鳩山内閣の平野官房長官が沖縄の米軍基地を上空から見たのがその一例でした。上空から見物したところで、適当な移転先が見つかるはずもありません。現状に対する甘さが露呈していました。
今回の菅総理の現地視察も、とりあえず自ら陣頭指揮を執る姿勢を示そうとしたのでしょうが、ここは官邸で全体状況を把握し、東電側にクライシス・マネジメントを委ねることなく指揮をとるべきでした。
阿部菅総理が視察から帰って、東京で水素爆発の一報をきくわけですね。その時間のロス、初動の24時間内に総理大臣が現地視察することによって、東電側がベントを遅らせたのだとしたら、総理の責任は非常に重大です。「私によって遅れたわけではない」という答弁自体が今後、大問題になると思いますね。
手嶋大災害や戦争には想定外の出来事は避けられない。「想像すらできない事態を想定して備えておけ」。これは「核の時代の語り部」といわれた、アルバート・ウォルスタッター博士が、若い戦略家たちに言い聞かせていた有名な言葉です。今度の大震災でも、原子力の専門家が想定していた規模を遥かに超える災厄が現実のものになった段階で、緊急の指揮・命令系統を首相官邸に設置すべきでした。
阿部しかし「想定すらできない事態」とは何でしょう。確かに西暦869年に起きた貞観地震は想定に入れておらず、明治、昭和の三陸地震しか想定していませんでした。東電側も経産省の外局である原子力安全・保安院も「未曾有の事態だ」と言い訳をするばかりです。ですが、想定外と思考停止とは違うはずです。
手嶋高村薫さんは、核のテロリズムをテーマにした小説のタイトルを『神の火』としましたが、東電側は「神の火」ともいうべき原子力を制御する手段を喪ってしまった――ここが最大の核心部分です。事前に想定していた有事のマニュアルが役立たないのですから、全く新たな対応をとらざるをえなかったはずです。従来はまず東電が対応し、原子力保安院がそれを監督し、さらに原子力安全委員会が統括するというシステムでしたが、それが11日夜の段階ですでに意味を喪っていたのです。
阿部火事が起きて、地域の消防団が消火活動にあたる。そんな想定では、巨大ビルの火災に歯が立たないのと同じですね。通常ならざる対処をしなければならないという認識を欠いていたと言わざるをえません。
手嶋視察後のベントも打開策にならず、ついに建屋が次々に吹っ飛び、原子炉格納容器の密閉が維持できなくなってから、業を煮やした菅総理が15日に東電本社に乗り込んでいきました。東電の対応がお粗末だ、情報をきちんと報告してこないと、東電側を厳しく叱責したといわれています。これはまさに自らに向かって自分を怒鳴り散らしているようなものです。
阿部総理視察後に爆発が起きて、枝野官房長官が記者会見をして「念のため緊急事態を宣言する」と述べました。この段階で「念のため」というのは問題です。99年に起きたJCO東海村臨界事故の教訓に基づいて原子力災害対策特別措置法という法律がつくられています。緊急事態を宣言すると同時に対策本部を直ちに政府内に設け、そこにあらゆる権限、あらゆる情報を集中させることになっています。ところが、官房長官が「念のため」といったことによって、単に国民に対し「みなさん、少し気をつけてください」というアピールになってしまった。
実質的に対策本部主導になるのは、ずっと後です。あの爆発事故後もしばらく政府は福島の対応は東電任せでした。東電の担当者に、こういう国家的、あるいは世界的リスクの重大な判断ができたでしょうか。情報が少なかったのは事実でしょう。取り得る手段も限られていた。しかし初動24時間の段階で、メルトダウンの可能性は明らかだったわけですから、爆発する前に海水を注入するなりやることはもっとあったんだろうと思います。しかし1基1千億円もする原子炉の廃炉の最終決断を、普通の会社の社長が経済的にもできるかという問題です。あの段階では政府が上から「やるべき」という段階だったんですね。
手嶋まさにご指摘の通りです。「念のため避難を」という意図を滲ませて、「自主避難」を福島原発の20キロから30キロの住民に勧告する政府の姿勢と同根なのです。「念のために」は、半ば責任回避です。被災住民には、なんとも曖昧な「自主避難」と「屋内待避」の勧告。危機管理の主体が我にありという自覚に乏しいことの象徴です。
阿部まだ細部は不明ですが、現状では放射線量が多すぎてなかなか作業が出来ない状態になる前に、炉をつぶしてでも冷却を強行するという判断があってしかるべきだったでしょう。そういうタイミングは東電の現場一任という形では、そういうチャンスはなかったろうと思います。その上に官邸や保安院、東電首脳部が情報をよこせとわあわあ言うものですから、何十人か残っている現場は報告義務の重圧にあえいだのではないでしょうか。たぶん作業は遅れるし、恐らく通信事情も悪いでしょうから、ものすごく現場に負荷がかかり、大混乱状態にずっと陥っていたんでしょう。現場の混乱は官邸も一因だったのではないかと思います。そこれ気づかない状態になっていた。
手嶋危機に臨んだリーダーが決してしていけないこと、それは現場で感情を露に前線を怒鳴りつけたりすることです。一線の人々を混乱させるだけで、いいことはひとつもない。いまの事態は、東電という一企業が扱う範囲を遥かに超えている。東電側は、福島原発が首都圏の電力供給の主力を担っていることを痛いほど知っている。東電は原子炉を何とか救いたいと考えるのは当然です。海水を注入して廃炉にしたくない。可愛い子供の足がハブにかまれてしまった時、我が子の右腕をなんとか救いたいと願うのは親として当りまえの感情です。しかし判断を誤ると、毒が回って子供の命が危うくなります。
やはり、より巨視的な立場から全体状況を判断し、原子炉を廃炉にするかどうか、非情な決断をしなければなりません。こうした究極のクライシス・マネジメントを担う主体が日本に存在するのか。アメリカ政府やフランス政府から、疑いの眼を向けられているのは、まさしくこの点なのです。
阿部メディアサイドの自戒を含めて言えば、原子力発電及び原子炉のメカニズムについて素人ですので、気後れしている部分はあったかとは思います。クライシス・マネジメントどころか、官邸やメディアは、とにかくパニックを引き起こさないために「リップコンフォート」、気休めのリップサービスを言い続けた。枝野官房長官はその役割であって、「直ちに影響はない」と言いながら現実には判断が徐々に後退していく。それを毎日聞かされていて、次第にコンフィデンスを失っていくわけですよ。
手嶋人々にいたずらにパニックを引き起こさないよう、問題の核心、そして真相をストレートに伝えないのは、やはり間違いでしょう。現にこれだけの災厄に遭遇しながら、人々はどの国より冷静です。正確な情報を開示しさえすれば、かなりの試練に耐える人たちです。政府がなすべきは、一刻も早く東電と原子力保安院から主導権を取り戻すことです。本当の意味の危機管理チームをつくって、総理の決断を誤りなきように補佐する体制を整えなければなりません。
阿部途中の段階で、原子力安全・保安院の会見の担当者が交代しました。最初はかなり専門的なことを言っていて、素人にはわからない。ただ専門家なものですから、実は炉心溶融の可能性がありますと言ったわけですよ。「パーシャル・メルトダウンの可能性があります」と。で、とたんに替えられたんですね。いま会見している審議官は原子力のことなどなにも知らない。会見慣れはしても、基礎知識の欠如、データの東電依存は隠れようもない。政府側も炉心溶融の可能性、疑いがあるにもかかわらず、言わせまいとして人まで替えちゃう。一種の報道管制なんですけれども、結果的には炉心溶融を隠したっていうかな、言わなかったことによって風評被害とか、あとあともっと大きい形で返ってきているわけですよ。
手嶋いま日本の政治指導部は、国内だけでなく、国際社会との対話、つまり真摯なコミュニケーションを取れずにいます。日本のフクシマではいま、尋常ならざる事態が起きつつある、と諸外国は疑いの眼差しを向けている。アメリカの統帥部は、第7艦隊の隷下にいた原子力空母「ロナルド・レーガン」を真っ先に東北沖に急派した。むろん、日本を助けたいという善意から出ていることは間違いないのですが、心臓部に原子炉を内蔵した原子力空母「ロナルド・レーガン」を真っ先に差し向けた、その意図はもう少し複雑です。
実は母港のサン・ディエゴに係留されていた「ロナルド・レーガン」に乗せてもらったことがあります。まず見せてくれたのは、炉心溶融が起こった時に対応する防護チームでした。そういう危機対応チームが控えている船員を乗せた原子力空母を差し向けたアメリカの真意はもうお分かりでしょう。
阿部メルトダウンを起こす可能性について、当事者である日本政府よりも、アメリカのほうが早くその可能性を考えて、ロナルドレーガン空母を派遣したととうことですね。
手嶋ええ、これほどの危機に立ち向かう日本の政治指導部そのものがメルトダウンしているのではないかと疑っているのでしょう。「アメリカがお手を貸しましょう」と申し入れたのですが、菅内閣はこれを事実上拒否してしまう。ワシントンで正式な外交ルートを通じて日本側に打診したのですが、日本側は明確な返答をしなかったようです。
阿部後の祭りみたいないい方になるのは問題ですけれども、最初の初動で間違ったがゆえにその後でそれを修正することができていないんですね。誰の目から見ても間違ったということが分かるものですから、今度は自己保身というか自己弁護に走ってしまって、先ほど紹介した菅総理の答弁が典型的なんですけれども、今度は逆に自分の身を守るという非常によろしくない形になってですね、これでいくと、単純に言えば判断ミスをしたリーダーというのはすぐに人を交代させないと完全に不適格ですよね。そういうものを今度一生懸命自分の地位を守ることに入っていっちゃってるものですから、いよいよ悪循環になるという、そんな感じがしますね。
手嶋戦前、英国の指導部は戦火を避けようとして、ミュンヘン会議でヒトラーに譲歩するばかりの宥和政策(アピーズメント)の誤りを犯しました。当時のチェンバレン英首相には同情すべき事情が多々あったのですが、結局、ヒトラーのポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が勃発してしまいます。すると、まず対独主戦論者のチャーチルが海軍大臣に返り咲き、やがて戦況がもっと悪くなると、総理大臣に就任します。結果的には、判断を誤った戦前の指導部は交代しているのです。
阿部判断を誤った者の責任の取り方がやはり貫かれているといっていいですね。
手嶋政治指導者は、危機に臨んで決断を下し、結果責任をとる存在だからです。政治指導者が決断を下すにあたって依拠するのがインテリジェンスです。リーダーは、いま現場で何が起こっているのか、正確な情報がほしいとリクエストします。これを受けてインフォメーション、つまり様々な一般情報が集められます。今回のケースでいうと、福島原発で何が起こっているのか、本格的な炉心溶融に進むのかどうか、そして冷却機能はどれほど傷んでいるのか、という膨大な一般情報が寄せられます。その中から、総理や官房長官が、避難命令を出したり、廃炉になることを覚悟で海水を注入するという、重大な決断に役立つような情報を選り分けていきます。そして危機の本質を映しだすような情報、つまりインテリジェンスが選り分けられていくのです。その簡潔にして核心をついたリポートが官邸にあがっていく。これが「インテリジェンス・サイクル」と呼ばれるものです。
総理はそれを受け取った段階で真贋を見抜き、そのインテリジェンスがどれほどの重みをもつものかを見極め、決断を下していきます。しかしながら、いまの菅内閣では、こうした「インテリジェンス・サイクル」が機能しているとはとうてい言えません。官房長官の存在も重要なのですが、危機に際して適確な対応ができた人は、戦後は後藤田正晴と野中広務の2人だけでしょう。仮に野中さんが官邸に入っていたら、原子力に関してさして知識がなくても、補佐官の支えを得て、適確な判断を下していたはずです。
阿部最終決断して責任もとるとなる、最悪のケースを考えて決断できる人がいいわけですよね。
手嶋これほどの災厄に遭遇した国家の指導部が、どういう人たちを“お助けマン”にお願いするか、これは人の命がかかっているから重大です。現状では、野中広務のような方がいいのでしょう。副知事や自治大臣として官僚機構を率いた経験があり、官房長官として国家の機構を束ねた実績を持ち、幹事長として政治家を御した蓄積がある。しかし剛腕の野中さんとて、膨大なインフォメーションを選り分けて、インテリジェンスに精選していく作業を自分でこなすわけにはいきません。補佐するチームは必要です。野中官房長官のもとに少数のインテリジェンス・オフィサーがいれば、このサイクルは回っていきます。翻っていまの東電、原子力安全・保安院、経産省、官邸とみてみますと、こうした情報サイクルが、いまだに十分働いていないですね。
阿部菅総理の場合も、直前までほとんど風前の灯火というぐらいに政治的には追いつめられていました。これを機会に失地を快復するという政治的な思惑があったのは明らかでしょうね。谷垣自民党総裁に入閣を要請するというのも、実は根回しなし。そういう形で入閣を要請する場合には、自分は身を捨てるから、かわりに総理をやってくれというぐらいでないと無理でしょう。どうせ副総理で入ってくれということだったんでしょうが、抱きつき型の保身があまりにも見え透いていました。いきなり「国難だから入ってくれ」だから、大連立は空振りに終わってしまいました。
そこから第二幕が幕をあける。いったんは官房長官を離れていた仙石さんが、官房副長官として官邸に帰ってきて、枝野官房長官が非常に近いものですから、首相側近の寺田首相補佐官を切るとか、はっきりいって足の引っ張り合いをやっているわけですね。菅さんのほうは猜疑心が高まって、補佐官の手足をもがれたかわりに、内閣参与という形で学者の先生を自分の周りに集める。決断のための小さなチーム、最終的に執行するための小チームを作るんじゃなくて、言ってみれば政治的なガードマンみたいな人たちを身の回りに集めているだけで、決断については自分がやっているんだと言い張るだけです。結果的には記者会見にも出てこない、国民に対して何かメッセージを発するときにはまったく一方的。質問にも応じない。自分がお山の大将でいたいというだけで、危機対応のリーダーとしては失格だと言わざるを得ないですね。
手嶋勝負の岐かれ目は、震災の翌日、3月12日の官邸のコミュニケーションでした。3月12日の夜になって、菅直人総理は官邸の記者会見場に姿を現し、国民に呼びかけるスピーチをします。十分に練られた草稿を準備していた節はなく、何度も「しっかり」とか「全力を尽くして」とか、いつものように陳腐な、しかも最高級の形容を重ねて、被災した人たちへのメッセージらしきものを語りました。この内閣が危機に際して人々を率いていく力がないことを象徴的に物語っています。演説のわずか5分前でもいい。誰かプロのピーチライターに少しだけ草稿に手を入れてもらえば、見違えるような内容になったはずです。重大な局面で原稿なしで行われた重大演説など一つもないと欧米では言われます。たとえ紙を手に持っていなくとも草稿は良く練られているのです。それほど影響力大きいからなのです。
阿部あのように全国民が打ちひしがれ、不安に思っているときに、リーダーが何を、どう語るかは大切ですね。スペース・シャトル「チャレンジャー」号の事故の際は、時のロナルド・レーガン大統領が、それでも、我々は宇宙への挑戦をあきらめないと語って、全米を感動させたことがありました。
手嶋これは女性のスピーチ・ライターだった、ペギー・ヌーナンさんが送稿を書いたのですけれども、国民のなかに眠っている勇気や力を奮い立たせる、これもリーダーの重要な役割です。レーガンという政治指導者は、真摯に国民に働きかけ、その魂を揺り動かし、冷戦を終わらせる主導権を握っていきます。まことにスピーチ畏るべし。
阿部挙げ句の果てに菅総理が、あの時ですよね、涙ぐんじゃったのはね。やっぱりリーダーがああいう時に自分の感情を抑えられないっていうのは、もうそれだけではっきりいって国民には不安を与えるわけで、そういう意味でもやっぱりこれでは未曾有の事態に対応できないっていうのを自分で自ら明かしていましたよね。
手嶋クライシス・マネジメントを担うリーダーの心得に反している。東電のところに出かけて行って、重大なオペレーションを担っている人たちに、怒りをぶつけてしまえば、彼らはさらに委縮して、誤った判断に迷い込んで行ってしまう。その果てに、東電の側では、コンクリートのうえに皆毛布にくるまって幾晩も寝るなどという愚かなことをしてしまう。危機が長期に及ぶことが確実な場合は、初日からいくら短時間でもいい、ベッドで仮眠をさせるべきです。9・11の時のことはいままでお話ししたことがありませんでした。でも、語り継いでおくべきだったのかもしれません。当時、ワシントン支局から11日間にわたって連続の中継放送を担ったのですが、チーム全員の仮眠のベッドを確保し、ひとりでも絶対に地べた寝せないことだけは徹底しました。理由は簡単です。ごろ寝をさせると、結局、生放送や取材でミスが頻発するからです。その時々に短くても、きちんと睡眠時間をとらせることが非常に大切です。それが的確な判断をするための礎なのです。
阿部リーダーのなかにも、一種の精神的なブレークダウンを起こす人がいる。それ自体はリーダーとして不適格だったと言わざるをえないのですが、残念なことに、東電でもトップにそういう人が出たのに、交代させることができませんでした。
副社長が現地にお詫びに行ったり、会長が最後は会見に出て対応したんすが、明らかに見ていて決断ができない組織であったことを露呈しました。もっと重大な問題は、東電というのはあくまでも原発のオペレーターにお願いしている立場で、危機対応できる専門家がいなかったことです。自分で原発を設計したことのない人たちが、ああいう記者会見に出たって、何も答えられないはずなんですよね。
東電にできることとできないことがあるはずで、政府側がどちらかというと後方でパフォーマンスをしたがる中で、実際的な決断を全部任されていた。よく知らない技術の決断をやっていたというあたりもシステム上は非常な危うさがあります。東電サイドも政府の機能不全と同じように、大きな機能不全があったと思います。
※中に続く
写真:大槻純一
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争7 ボタ石発電所が「着工できない」理由
3・11大震災の影響でブログの更新が大幅に遅れました。犠牲となられた方々、被災された方々に心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。地震と津波の被害の全貌はいまだつかめず、福島の原発事故も緊迫した状況が続いています。しかし混乱と不安の中でも、私たちは平常への復帰を進めなければならない。書きかけのブログをいつまでも放り出しておくわけにはいきません。
さて、日本の震災を受けてチャイナ・ボーチーは3月18日に東京で予定していた業績説明会を延期しました。本誌が暴露した「幻のボタ石発電所」について程里全会長兼CEO(最高経営責任者)に直接問い質す機会は当面お預けになりましたが、今日(3月26日)は北京で株主総会が開催されます。現地に足を運ぶ投資家は、ぜひ質問すべきでしょう。
ボーチーが「2006年から建設中」と日本の投資家に説明してきたボタ石発電所が、5年後の今もなぜ着工すらしていないのか。質問状への回答をボーチーが拒否したため、直接の理由は定かではありません。しかし本誌が調べてみると、「着工できない」理由は山ほどあることがわかりました。今回はそれを一挙に公開します。
ボタ石発電所の未着工以外にも、実はボーチーが投資家に隠している重大な事実があります。それは建設予定地の端に立っていた色あせた2枚の看板の1枚に書かれていました。正面から見て右側の看板で、「馬尾溝煤電項目簡介」(馬尾溝石炭火力発電プロジェクトの概要)というタイトルがついています。
上の写真は看板の説明文を拡大したものです。全訳はしませんが、ポイントを意訳すると以下の通り。
1)本プロジェクトは馬尾溝炭坑の生産能力を年産300万トンに拡張し、年間処理能力300万トンの洗炭場を建設し、発電容量300メガワットの発電ユニット2基を備えるボタ石発電所を建設するものである。
2)炭坑の拡張工事にはすでに5億元(約62億5000万円)を投資し、関連手続きを積極的に進めている最中である。
3)ボタ石発電所はすでに2億元(約25億円)近くを投資し、フィージビリティスタディは山西省発展改革委員会の同意を取り付け、国家発展改革委員会が審査している最中である。
要するにこういうことです。ボタ石発電所は実はボーチー単独のプロジェクトではなく、隣の馬尾溝炭坑の拡張計画と一体不可分のセットになっている。そして、少なくともこの看板が立てられた時点で、炭坑拡張もボタ石発電所も当局の許認可が下りていなかった。前々回のブログで触れたように、看板は2009年6月17日に地元の党書記が炭坑を視察した際に立てられた可能性が高い。
それから1年9カ月が過ぎても更地のままということは、炭坑拡張もボタ石発電所も未だ許認可が下りていないと見て間違いありません。この炭坑の実質的オーナーは地元寿陽県の「博大工貿」という民営企業で、経営者は宋徳明という共産党員。馬尾溝炭坑のある温家庄郷の党委員会副書記などを経て、現在は寿陽県の政治協商会議副主席を務める“赤い資本家”です。しかし複数の情報を総合すると、博大工貿は環境規制や許認可を無視したずさんな経営がたたり、資金繰りに行き詰まっているらしい。
実際、昨年12月28日に現地を訪れた時、真冬の需要期というのに馬尾溝炭坑はひっそりしていました。中国の正月は西暦の元旦ではなく農暦の春節なので、普通の平日です。にもかかわらず、構内には人影がほとんどなく、石炭を運ぶ大型トラックも数台が並んでいただけ。山西省では現在、当局が炭坑をめぐる汚職の一斉摘発を進めています。想像を逞しくすれば、宋徳明もそれに巻き込まれているのかもしれない。
いずれにしても、炭坑拡張とボタ石発電所の両方の許認可が下りない限り、発電所は着工できません。燃料のボタ石は大部分を馬尾溝炭坑からベルトコンベアで運ぶ計画で、発電所の規模は最初から炭坑拡張が前提になっている。炭坑および博大工貿の経営の現状がどうなっているのか、ボーチーの程里全会長は投資家に説明する義務があります。
ついでに言えば、博大工貿が炭坑拡張にすでに投じたという5億元の出所も気になります。ボーチーが発電所の建設仮勘定として決算に計上している6億8963万元(約86億2000万円、2009年末時点)の一部が仮にそこに流れたとすれば、資金の不正流用に当たる可能性が高い。監査法人のトーマツと法務代理人の森・濱田松本法律事務所が帳簿を洗い直すのは当然ですが、投資家も情報開示を求めるべきです。
次に、百歩譲って当局の建設許可が下りたとしましょう。それでも発電所が着工できる可能性は極めて低い。中国の発電業界に詳しい複数の専門家に、ボーチーがIR(投資家向け情報)などで公表している計画を見せたところ、多数の矛盾を指摘されました。
例えば、発熱量の低いボタ石を燃料に使う発電所の規模は30~100メガワット級が一般的で、300メガワットを2基というのは相当大きい。中国のコストの安さを差し引いても建設費は軽く500億円を超えるはずで、ボーチーの計画の29億6000万元(約370億円)は破格の安さ。発熱量が低いぶん大量のボタ石が必要になるので、現実に調達できるのかも不透明。さらに、排煙浄化のため半乾式の炉外脱硫装置を用いる計画で、コストが高いうえに大量の水を消費する。炭鉱内の地下水で賄うというが、実際に足りるのか――等々、枚挙にいとまがない。
そもそも、10年12月期の売上高約154億円、純利益約7億2000万円に過ぎないボーチーが、純資産(約147億円)の2.5倍を超える建設費をどうやって資金調達するつもりなのか。あらかじめ言っておきますが、「発電所が将来生み出す利益を根拠にしたプロジェクト・ファイナンス」なんて100%有り得ません。中国では石炭の市場が自由化されている一方、電力価格が政府の統制で低く抑えられている。近年の石炭価格の高騰により、石炭火力発電所はほとんどが赤字経営だからです。
常識で考えれば、こんなプロジェクトはさっさと中止して精算するのが会社と株主のため。にもかかわらず、事実を隠して「建設中」と嘘をつき続けるのは、建設仮勘定の相当部分が焦げ付いて回収できないからではありませんか?この質問に程里全会長はどう答えるのでしょう。顔が見てみたいものですね。
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争6 程里全に問うべき86億円の行方
チャイナ・ボーチーは本誌質問状への回答を拒否しましたが、株主の質問に対しては説明義務があります。同社は3月18日午前10時から東京で2010年度決算の業績説明会を開催し、程里全会長兼CEO(最高経営責任者)が出席する予定です。株主はこの際、彼に直接聞いてみてはいかがでしょうか。
どんな言い訳をしようが、ボタ石発電所が「建設中」でないのは事実ですから、一番聞きたいのは建設仮勘定として決算に計上されている6億8963万元(約86億2000万円、2009年末時点)の使い道です。ボーチー子会社で発電所の事業主体である明泰国能発電の銀行口座に、手つかずのまま置いてあるとは思えませんからね。
上場している親会社の保証で銀行から子会社に融資を実行させ、そのカネを不正流用するのは「資本玩家(ツーベンワンチァ)」と呼ばれる中国資本市場のハイエナたちの常套手段です。現実にアジア・メディアで起きたし、かつて程里全がトップを務めた比特科技でも起きた。会計監査のトーマツ、法務代理人の森・濱田松本法律事務所、主幹事の大和証券、そしてもちろん東証は、ボーチーで帳簿操作や違法行為がなかったか過去に遡って徹底的に調べ上げるべきです。
ちなみにアジア・メディアの会計監査はあずさ、法務代理人はボーチーと同じ森濱田松本、主幹事は野村証券でした。彼らと東証には、自分たちに都合の悪い事実の公表をうやむやにして、アジア・メディアをさっさと上場廃止にした“前科”があります。
さて、ボーチーに関してはどうするのでしょう。可能性が高いのはこのまま「野放し」を続け、都合が悪くなったらアジア・メディアと同じく「トカゲの尻尾切り」をするパターンですが、これは東証の斉藤惇社長がお嫌いな「投資家を愚弄する」行為にほかなりません。日本の資本市場の“程度”を示す格好のケーススタディとして、実に見物です。
次回はボタ石発電所が「着工できない」理由を検証します。
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争5 回答拒否と色あせた看板
チャイナ・ボーチーの東証1部上場から10カ月後の2008年6月、先にマザーズに上場していたアジア・メディアで創業トップによる横領事件が発覚。粉飾決算の疑いも濃厚になり、同社は上場廃止に追い込まれた。この時期、東京での業績説明会で「ボーチーは大丈夫なのか」と質問された前CEO(最高経営責任者)の白雲峰は、「我が社は1部上場企業ですから」と胸を張ったという。マザーズより厳しい上場基準と審査をクリアし、東証のお墨付きを得た模範企業なのだと強調したわけです。
実態はどうでしょうか。本誌が現会長兼CEOの程里全宛てに送った質問状への回答をボーチーは拒否しましたが、その対応がふるっていた。まず、1月31日に北京本社のIR(投資家向け広報)窓口と東京事務所に電話したが誰も出ない。数回目にようやく東京事務所につながったものの、電話口に出た女性社員は「春節(中国の旧正月)なので本社にも答えられる人間がいない。出社は2月10日以降」という。ともかく質問状をFAXで送り、2月9日までの回答を求めた。
前回の質問状を見ていただけばわかるように、難しい質問は1つもありません。「着工許可を取得しているのか」という質問などは即答できない方が不思議。春節の公休日は2月2~8日で、連休中でも携帯やメールで責任者と連絡は取れるから、2月9日という回答期限は無理でも何でもない。要するにハナから答える気がないのでしょう。
案の定、2月9日に回答はなかった。翌日再び東京事務所に電話すると、件の女性社員は「こちらの都合も聞かないで勝手に期限を切られても困る」、「一生懸命やっているが回答する時間がない」などと逆ギレする始末。「回答できないということか」と念押しすると、あっさり「はい」と答えました。
いやはや、本当にご立派な1部上場企業です。東証の斉藤惇社長は2月22日の定例会見で、MBO(経営陣による自社買収)で上場廃止する企業が相次いでいることを「投資家を愚弄している」「資本市場のシステムそのものを毀損する恐れがある」などと批判しました。それならボーチーのようなインチキ企業の上場を野放しにしている方が、よほど投資家を愚弄しており東証の信用を毀損していると思いますが、違いますかね。
話は変わりますが、「幻のボタ石発電所」の建設予定地には発電所の概要を書いた色あせた看板の横に、実はもう1枚看板が立っていました。今回はこれら2枚の看板と、説明文のアップの写真を公開しましょう。発電所が「着工できない」理由のヒントが隠れています。
並んで立っていた2枚の看板。左側が発電所の説明
左側の看板の説明文
右側の看板の説明文
それにしても、ここが建設予定地だとわかる決定的証拠(=看板)をなぜわざわざ立てたのでしょうか。最も可能性が高いのは、地元政府の高官の視察です。現地紙の「晋中日報」の記事によれば、09年6月17日に晋中市共産党委員会書記の李永浩が隣の馬尾溝炭坑を訪れている。看板は馬尾溝炭坑をちょうど見下ろせる位置に立っていました。李書記の視察に合わせて立てられたと仮定すれば、土地の造成は1年9カ月前には終わり、それからずっと放置されているということです。
続きはまた次回。
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争4 程里全への質問状
昨年12月28日にボタ石発電所が着工していない事実を確認した時点で、2月号(1月20日発売)の締め切りまでまだ10日余りありました。しかし本誌は、記事の掲載をあえて3月号に延ばし、ボタ石発電所が今日まで「着工できない」理由をあらゆる角度から調べ上げることにしました。
仮に発電所の建設が途中で止まっていたのなら、「一時中断しているだけ」などと強弁することもできたでしょう。しかし建物の基礎工事にすら着手していないとなると、話が全く違ってくる。本当は「着工できない」事情があるにもかかわらず「建設中」と嘘をついていたのか、あるいは最初から嘘の情報を意図的に投資家に開示していたのだとすれば、有価証券報告書の虚偽記載や風説の流布に該当する疑いが濃厚です。立証されれば上場廃止は避けられない。
チャイナ・ボーチーは創業6年目の新興企業だったにもかかわらず、東京証券取引所はどういうわけか1部への直接上場を認めました。主幹事を務めたのは大和証券、法務代理人は森・濱田松本法律事務所、会計監査はトーマツと、いずれも日本を代表する大手ばかり。ボーチーが最初からイカサマ企業だったとすれば、東証、大和、森濱田、トーマツの目は節穴だったか、さもなければ審査を手加減したと疑われても当然です。これはボーチー1社の問題ではなく、日本の株式市場全体の信頼をゆるがしかねない問題だからこそ、本誌は発電所が「着工できない」理由の解明に時間をかけることにしたのです。
さて、順序が後先になりますが、ここで本誌が1月末にボーチーの程里全・会長兼CEO(最高経営責任者)に送った質問状を公開しましょう。程里全はボーチーの事実上のオーナーであり、東証上場時点では社外取締役で目立たないようにしていましたが、2009年末に前CEOの白雲峰を更迭して名実ともにトップに就きました。程は00~03年に深セン上場の比特科技というIT企業の経営者を務めていた時、子会社への3億元(約38億円)の銀行融資が闇に消えた事件に関与していた疑いがあります。この事件は中国の検索サイトで調べれば大量に情報が出てきますから、東証、大和、森濱田、トーマツが知らなかったとはにわかには信じられません(比特科技の事件についてご関心のある向きで、中国語のわかる方はこの記事あたりを参考にどうぞ)。
以下は、本誌が1月31日付で程里全に送った質問状です。続きはまた次回。
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チャイナ・ボーチー・エンバイロメンタル・ソリューションズ
テクノロジー(ホールディング)カンパニー・リミテッド
代表取締役会長、総裁兼CEO
程里全 様
平素はお世話になっております。
私ども「FACTA」は日本の月刊総合情報誌です。御社が山西省で進めている「寿陽ボタ石プロジェクト」について事実を確認したい点があり、連絡をさせていただきました。
御社では、子会社の北京博奇電力科技が2006年に寿陽ボタ石プロジェクトの事業主体である山西寿陽明泰国能発電と総請負契約を結び、2008年には同じく子会社の北京博奇環保科技が山西寿陽を買収しました。御社の有価証券報告書等によれば、寿陽ボタ石プロジェクトはそれ以来ずっと「建設中」となっています。そこで以下の4点について回答をお願いします。
1)プロジェクトの中核であるボタ石発電所の建設はどこまで進んでおり、完成予定はいつでしょうか。
2)寿陽ボタ石発電所の建設は、国家発展改革委員会および環境保護省の着工許可を既に取得しているのでしょうか。
3)総投資額29億6000千万元の25%を自己資金、その他を銀行借り入れなどで賄う計画ですが、資金調達のメドはついているのですか。
4)御社の四半期報告書によれば、山西寿陽の従業員数は2010年6月30日時点の4人から同9月30日時点では1人に減少しました。プロジェクトは事実上の中断または中止の状況なのではありませんか。
お忙しいところ恐縮ですが、ご回答をよろしくお願いします。
2011年1月31日
月刊FACTA発行人
阿部 重夫
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争3 趙広隆と奇妙な事実の数々
本誌はなぜ「幻のボタ石発電所」を発見できたのか、そのタネ明かしをしましょう。今回の調査報道の原点が、昨年9月号でスクープした、ジャスダック(旧大証ヘラクレス)上場のセラーテムを「ハコ」にした怪しい中国企業の裏口上場疑惑にあることは言うまでもありません。
死に体だったセラーテムの第三者割当増資を引き受けて発行済株式の49%を取得し、北京誠信能環を買収(事実上の裏口上場)させるための資金を提供したのは、英領バージン諸島に登記された中国系投資ファンド「Wealth Chime Industrial(WCI)」でした。そのオーナーである趙広隆は、北京の電力関連投資会社「国能中電能源」の代表者であることを本誌はつかみ、昨年8月に事務所を直接訪ねて取材を申し込みました。しかし、応対に出た社員は「趙社長はここにはほとんど来ない」、「取材は受けられない」と繰り返すばかり。百度(バイドゥ)など中国語の検索エンジンで国能中電能源を検索しても、役に立ちそうな情報は得られませんでした。
ところが、突破口は意外なところで見つかりました。ダメもとで日本語のグーグルで国能中電能源を検索すると、「山西寿陽明泰国能発電有限公司の買収に関するお知らせ」と題したチャイナ・ボーチーの2008年5月19日付のIR(投資家向け広報)がヒットしたのです。さらに詳しく調べてみると、奇妙な事実が次々に浮上しました。
まず、ボーチーが東証1部への上場を控えた07年7月に関東財務局に提出した「新株式発行並びに株式売出届出目論見書」では、山西寿陽ボタ石発電所プロジェクトは既に「建設中」とされており、06年9月に「北京博奇が同社として最初のボタ石火力発電所における排煙脱硫プロジェクトである山西寿陽300MW 2基プロジェクトの受注契約を締結した」と明記されています。また、前述の08年5月19日付IRには「当社の子会社である北京博奇電力科技有限公司は、総請負契約に基づき、2006 年より本プロジェクトの建設を開始しております。(中略)当社グループは、北京博奇電力が引き続き総請負契約に基づきEPC 工事を引き受けることを条件に、北京博奇環保に本プロジェクトのプロジェクト法人である山西寿陽公司の出資持分を取得させることを決定致しました」と書かれていました。
ところが、着工から4年以上過ぎているにもかかわらず、ボタ石発電所が竣工したという情報はどこにも見当たらない。しかも、趙広隆のようないかがわしい人物が深く関与していることが判明したのですから、ピンと来ない方が不思議でしょう。
ボタ石発電所の事業主体である明泰国能発電は、もともと香港の投資会社の明泰実業が70%、趙広隆の国能中電能源が30%を出資して05年に設立。当時の資本金は3000万元(約3億7500万円)でした。ボーチーは、08年5月に明泰実業の持ち分をプレミアなしの原価(2100万元=約2億6250万円)で買収し、直後に明泰国能発電の資本金を2億9000万元(約36億2500万元)に増資して出資比率を97.35%に高めています。ところが、この増資についてボーチーは何故かIRを出していません。
さらに怪しいのが、買収直後の08年6月期半期決算に国能中電能源の建設仮勘定として6億7847万元(約84億8000万元)が計上されたことです。1年半後の09年12月期決算を見ると、国能中電能源の建設仮勘定は6億8963万元(約86億2000万元)とほとんど増えていない。プロジェクトの総投資額も、29億6000万元(約370億円)のまま今日まで修正されていません。素材価格や人件費の高騰で人民元建ての建設コストが大幅に上昇しているはずなのに、どう見ても不自然です。
「ボタ石発電所は建設途中で止まっているのではないか」――。本誌がそう推理したのは当然でしょう。とはいえ正直に言えば、現地が人っ子ひとりいない枯れ野原だとは実際に行ってみるまで想像しませんでした。
さて、ボーチーの日本の法律顧問は森・濱田松本法律事務所が務めており、四半期毎の有価証券報告書に代理人の弁護士が明記されています。会計監査はトーマツが担当し、監査報告書に会計士が署名している。上記の事実について、彼らはどう釈明するつもりでしょうか。ぜひ聞いてみたいものです。
3月号「廃墟かんぽの宿」記事の訂正
最新号(3月号)の26~27ページに掲載した「廃墟『かんぽの宿』高値鑑定 現物出資の新錬金術」の記事中、27ページ2段目の「共同不動産鑑定事務所」とあるのは「共立不動産鑑定事務所」の誤りでした。本文と図中の記述を訂正するとともに、お詫び申し上げます。
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争2 幻のボタ石発電所
3月号の記事「東証の『時限爆弾』チャイナ・ボーチー」はお楽しみいただけましたか。ボーチーが東証1部に上場したのは2007年8月8日(北京オリンピック開幕式のちょうど1年前)でしたが、同社は当時から「山西寿陽ボタ石発電所プロジェクトは建設中」と称してきました。07年11月20日付のIR(投資家向け広報)にも「現在建設中」、「2010年4月に竣工予定」と書かれています。ところが、それは真っ赤な嘘であり、現地は人っ子ひとりいない枯れ野原であることを本誌は暴露しました。
前回ブログでクイズに出した写真は、ボタ石発電所の建設予定地の全景です。ちなみに撮影したのは昨年12月28日。なぜ着工していないのか裏付けと分析を重ねたうえ、満を持して記事を送り出しました。次回のブログでさらに詳しく書きますが、せっかくだから現地の写真をもっと公開しましょう。動かぬ証拠ですから。
人っ子ひとりいない発電所の建設予定地
発電所の概要が書かれた看板。すっかり色あせている
造成地の入口近くに放棄されていたダンプカーとショベルカー
造成地の入口から撮影。ダンプカーの奥の高台が建設予定地
建設予定地に隣接する馬尾溝炭坑。ここから燃料のボタを供給する計画だった
FACTAleaks――対チャイナ・ボーチー戦争1(続・対セラーテム戦争)
前回からだいぶ間が開いてしまいましたが、FACTA Leaksを再開しましょう。本誌は昨年10月号の記事で「徹底調査を続ける」とお約束しましたからね。2月20日発売の3月号(ウェブサイトでの記事公開は19日正午)に、セラーテムの背後にからむ東証1部上場の中国系企業、チャイナ・ボーチーの重大疑惑を掲載します。
詳しくは記事を楽しみにお待ちください。それまでの余興として、ひとつクイズを出しましょう。下の写真の撮影地は一体どこでしょうか?
セラーテムの池田修社長は、ここがどこだか知らないかもしれませんが、宮永浩明取締役は知っているはずです。セラーテムの第三者割当増資を引き受けて筆頭株主になった中国系ファンド「Wealth Chime Industrial」のオーナーの趙広隆も、写真を見れば一目でわかるでしょう。もちろん、ボーチー前CEOの白雲峰、現会長兼CEOの程里全が知っていることは言うまでもありません。それでは3月号をお楽しみに。
時代を読むコラム――幼稚園という「諜者の花園」
新潟日報などの地方紙のシンジケートコラムに寄稿しました。
今回はちょっと違った趣向で、例の「幼保一体化」問題。大阪地検特捜部の冤罪が晴れて職場復帰した村木厚子・元厚生労働省局長を内閣府政策統括官に起用して進めようとしたが、こちらは幼稚園の抵抗が強く、「こども園」に統一する義務なしの結論に落ち着きそうだ。
文中にもあるように本誌1月号で記事を載せたら、「幼稚園原理主義」という言葉に幼稚園関係者からメールをいただいた。この記事はそれへの回答でもある。
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幼稚園という「諜者の花園」
幼年期――三島由紀夫に言われるまでもなく、それは人生の「不快な傑作」かもしれない。どんなユートピアもそこで紡げるが、誰ひとりそこにはとどまれない。
そのエアポケットに、幼稚園(文部科学省管轄、3~5歳)と保育園(厚生労働省管轄、0~5歳)を一体化させる「こども園」政策もはまりこんだ。
保育園の待機児童問題が、共働き夫婦に第二子、第三子出産を躊躇させ、少子化の一因となっている。そこで、定員割れの幼稚園に保育所の役割を担わせ、待機児童を解消するとともに出生率を引き上げるという一石二鳥の策が「こども園」だ。
ところが、内閣府の検討会議では、幼稚園側の強い抵抗にあった。結局、「13年度から10年かけて全施設をこども園に統一する」構想が腰砕けとなり、強制はしない方向で法案を提出することになった。
この結果、お受験に有利とされる「ブランド幼稚園」や宗教施設の幼稚園、0~2歳児だけ預かる保育園が今後も残るだろう。民主党政権の他のマニフェストと同様、既得権の壁を破れそうにない。
だが、なぜ幼稚園は幼保一体化をそう嫌がるのか。出生数がジリ貧で生産人口が減っては国も立ちゆかない。私の雑誌でも、3歳児神話や母性愛信仰によりかかる「幼稚園原理主義者」を批判する記事を乗せた。
すると、両親が幼稚園経営者という知人から手紙が届いた。幼稚園の抵抗が「時代錯誤」としか扱われていないとして、副園長の兄が書いた論文を添付してある。
目をむくタイトルだった。「待機児童を解消してはいけない」
要旨はこうだ。保育士が一人で面倒を見ることができる幼児の数は、年齢が上がるとともに増えるから、待機児童はほとんどが0、1歳児で「待機しているのは子どもというより親」。つまりは親の問題、家庭の問題に帰する。
保育所が必要になるのは、地方に仕事がなく、都会に出て働く女性に祖父母や親族の協力が得られないからだ。0歳児保育のコストは最低月額40万円。公費投入により親の負担を軽くしているが、これを当然視する意識が生まれた。これらは日本の産業や行政、さらに個人の生き方のひずみから来ている。(待機児童解消という)目先の緊急避難のために幼保一体化を強行すれば、このひずみを助長するだけだ、というのである。
たぶん、働く女性の多くは納得すまい。私にも娘がいて他人事ではないから、「家庭の問題」は目先のエゴであって「日本のひずみ是正」を優先しろと言われても承服できない。
結局、3歳までは母親と一緒が子どもにとって幸せ、という「良妻賢母」「専業主婦」の家庭像を押しつけることにならないか。それこそ、待機児童という犠牲を払って。
幼稚園になぜ家庭の道徳を説教されなくてはならないのか。と思っていたら、日本の幼稚園の発祥に遡った労作にめぐりあった。この1月に刊行された国吉栄『幼稚園誕生の物語「諜者」関信三とその時代』(平凡社)である。
諜者――スパイとは穏やかでない。日本の幼稚園は、ドイツの教育者フレーベル創始の「キンダーガーテン」を明治9年に東京女子師範(現お茶の水大学)に付設したことに始まるが、実はその初代園長となった関は三河の真宗大谷派の僧侶出身であった。
黒船到来による開国でキリスト教の宣教師が上陸、関は宗門を守るために長崎や横浜で偽装転向の諜者に身を投じた。維新政府でも偽の入信、洗礼によって日本のプロテスタント教会の創立メンバーになっている。東本願寺法嗣とともに英国に洋行するが、祖国でキリスト教禁令が解かれたと知り、失意のまま還俗して諜者をやめてしまう。
キリスト教を排斥しようとした破邪僧が、翻訳を通じて幼稚園と出会い、「唯国家人民ノ富強幸福ハ教法ヲ尊信シ人民ノ自由ヲ保存スルニ在ル」と確信するにいたった。
その教法とは、仏教だったのかキリスト教だったのか。
日本の幼稚園はやはり、“攘夷”の関が埋めこんだ表裏二面性のDNAが隠れている。ピーターパンのネバーランドとも見える幼稚園は、もとからアジアとヨーロッパの「文明の衝突」の舞台だったのだ。
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ついでに、私がいただいたメールにあった「待機児童を解消してはいけない」論文を転載しよう。これには賛否両論あるだろうが、私とは違った感慨を抱く人もいるだろう。公平を期してここに載しよう。
待機児童を解消してはいけない
◎はじめに
今、待機児童解消が叫ばれ、政府に待機児童ゼロ特命チームができた。民間では、子どもがたくさんいるから子ども向けのビジネスをしようという話が盛り上がっているわけではない。実際には少子化で、小児科医のなり手がいないとか、子ども向けビジネスはパイの減少に対してどう対応していくかとか、右肩下がりの話ばかりが聞こえてくる。そんな中で、主に政府や行政の方から聞こえてくるのが、この「待機児童」という言葉だ。
◎待機児童とは何か
では、いったい待機児童とは何なのだろう。待機児童とは、保育に欠ける児童の認可保育所(以下「保育所」)入所申請をしているにもかかわらず、希望する保育所の施設定員を超過する等の理由で入所できない状態、またはその状態にある児童をいう。ここで言う「保育に欠ける」とは、保護者が就労、介護への従事等で保育をすることができない状態の児童である。年齢はほとんどが0・1歳児である。保育士が一人で看ることができる子どもの数は、0歳児では3人まで、1~2歳では6人まで、3歳では20人までと増え、保育所の受け入れキャパに余裕が出るため、3歳以上の待機児童はほとんどいない。また、実際に待機しているのは、子どもと言うよりは親の方である。待機児童と言うと、かわいそうな子どもたちがいるというような語感があるが、そういうわけではなく、子どもを預ける場所がないから働きに出られない親がいたり、しかたなく料金の高い無認可の保育所に預けたりしているというのが実態である。
◎女性が働くためには保育所が必要なのか
子育て中の女性が働くためには、労働時間中の子どもの世話を誰がするのかということが問題となる。子どもの世話をすることができる者としては、祖父母、兄姉、その他親族、保育所、託児所・ベビーホテル等の無認可保育施設等がある。待機児童という言葉が使われるのは、これらのうち、保育所に頼ろうという場合である。
女性が働くために子どもの預け先としての保育所に頼るのは、まず第一に、仕事を得るために都市部に居住しているために、地方にいる祖父母や親族に子育てをする上での援助を受けられないこと。第二に、祖父母や親族の援助を受けられる環境であっても、その援助よりも行政に頼ろうとする傾向があること。そして第三に、託児所・ベビーホテル等の無認可保育施設の保育料が保育所と比較して高額であることが原因となっている。
◎地方に仕事がない
地方に仕事があれば、都市部に居住する必要はそもそもないはずである。しかし、実際には現在の地方都市はシャッター通りに象徴されるがごとくの状態であり、子育て世代の若者たちは地方を離れ、都市部に居住することが多くなっている。また、地方から都市部の大学へ進学した者も、都市部でそのまま就職し、地方に帰らない傾向がある。
しかし、代々都市部に居住しているのであれば、祖父母や親族の援助を受けることができるはずであり、保育所に頼る必要はない。ところが、それでも現代の子育て世代は保育所を頼ろうとする。
◎親族関係の希薄化
祖父母や親族と一緒に子育てしていれば、保育所に預ける必要はそもそもないはずである。しかし、実際には、保育所を利用している保護者の中には、祖父母が近くに住む者も多く、中には同居しているケースも多々ある。そのようなケースでも保育所へは入所することができるため、保育所の定員はすぐに一杯になり、入れない子どもが出てくることになる。
同居する祖父母が両者とも就労しているとか、要介護の状態で子どもを見ることができないというのであれば仕方がないであろう。しかし、現代の子育て家庭は、祖父母が元気で就労していなくても、子育てをする上での援助を受けようとしない傾向がある。それどころか、親族との付き合いを煩わしいと感じたりすることさえあり、祖父母とも一定の距離を置き、子育てを一緒にするという状態にはなりにくくなっている。現代の子育て世代の親族関係は、それほどにまで希薄化しているのである。
このように、古来日本人がしてきたように祖父母や親族が一緒になって子育てをしていた文化が壊れ、親だけが子育てを担い、できない部分を外部に、つまり保育所に頼るようになっている。
◎認可保育所への多額の公費投入
では、外部に頼ると高くつかないのか。
確かに、託児所・ベビーホテル等の無認可保育施設に0歳児の子どもを預けようとした場合、月額10から13万円ほどかかる。保護者にとって命よりも大切にしている存在を責任を持って預かるわけであるから、それぐらいは当然かかってくる。一見高額なように感じられるが、無認可保育施設の多くにとっては、採算割れぎりぎりのラインの価格設定である。
保育料月額13万円で1人の担当者が0歳児を3人看るとして、月額39万円の売り上げ。家賃や施設の管理経費、衛生管理費や光熱水費、ミルクや離乳食代、おむつ代等を差し引き、残りを担当者の人件費に充てようとすると、時給による給与を支給することはできても、正規職員として福利厚生費用を負担したり、賞与を支給したりということはほとんど不可能な金額である。当然、施設としての利益は出ない。これほど厳しい経営環境であるため、経営が不安定な施設も多い。
ところが、国の基準に基づき、都道府県が認可した保育所へは、国と都道府県、そして市区町村からそれぞれ多額の公費が投入されるため、保育料は極めて低く設定されている。低く設定されている理由は、保育という事業が社会福祉の枠組みの中で行われており、特別な事情のある方を対象とした事業であるという前提があるからである。
実際の保育料額は保護者の所得によって決められるため一概には言えないが、月額1万5千円~4万円程度を支払っている家庭が多くなっている。しかも、これだけ低廉であるにもかかわらず、保護者の多くはそう感じてはおらず、かえって高すぎるとさえ感じており、行政に対してクレームをつけるケースさえある。つまり、保育をいうものは安く受けることができて当然という意識が一般の人々の中に醸成されているということである。
◎女性が働くためには保育所が必要という論理
このように見てくると、「女性が働くためには保育所が必要」という論理の背景には、看過できない様々な事象が見え隠れしていることが分かる。
地方に仕事がないこと。子育てというプライベートな事柄を祖父母や親族と協力し合えないほど希薄になった親族関係。行政に対して保育を安価で外注することを当然と考える意識。そのような意識を醸成してしまったほどに多額の公費を投入してしまった行政システム。
つまり、女性が働くためには保育所が必要という論理の背景には、日本の産業の歪み(ひずみ)と、日本人の生き方の歪みと、日本の行政システムの歪みの三者が潜んでいるということになる。
◎三つの歪みを放置した場合
これらの三つの歪みを放置したまま待機児童を解消しようとするとどうなるのか。
当然のことではあるが、それらの歪みは固定化され、さらに助長されていくことになる。以下、一つ一つ見ていこう。
◎都市部での待機児童解消は都市の過密を進める
一つ目の日本の産業の歪みである地方に仕事がないことについて見ていこう。
都市部が待機児童の解消に向かうと、都市部は仕事も保育所の空きもあるということになる。現在の地方と都市部の給与水準の差を考えると、地方で夫一人が働くより、都市部で夫婦で働くと、収入が2倍になるだけではない。しかも、それは地方で仕事を得ることができた前提での比較であるから、仕事が得られないとしたら比較するまでもない。そうであれば、誰が地方に残るか。
待機児童の解消策は、今に始まったことではなく、10年以上前から多額の公費を使って行われてきたことである。しかし、待機児童は解消しても解消しても次々増えている。行政では、それを潜在的保育需要と呼んでおり、統計上の待機児童数の数倍はあると考えられている。今まで働かなかった人が働くようになり、働きたい人がさらに都市部に集まるということである。
そのペースはいつ落ちつくか。人が集まる都市部では、集まった人向けの産業が興りそこにさらに雇用が生まれるという循環が起こるため、雇用はさらに拡大していくことになる。地方から都市部への労働人口の移動は、地方にいる都市部に移動する可能性のある人がすべて都市部に移る時まで続く可能性があり、その直前あたりで移動のペースが落ちることになる。それまでは、都市の過密化が進み続けることになる。
◎それまで地方はもたない
都市部へ出れば子どもを預けて働くことができるということになった場合、地方にどれだけの人が残るのか。現在の若い世代の動向をみた場合、地方にとって楽観できる材料はほとんどない。実際、地方では子育て世代の減少がとどまることを知らず、子どもの数が激減している。入所する子どもが減ったために保育所を統廃合せざるを得なくなった地域があちこちにあり、小児科や産科が撤退して無くなってしまった市町村が多々ある。都市部の待機児童の解消は、この傾向を固定化し、さらに加速させる。
では、地方に残っているのはだれか。高齢者だけである。すでに高齢化率が5割に達している市町村さえある。現在、地方分権が進められているが、それが実現して自立した地方都市は、労働者人口の減少で税収もなくなり、介護や年金の費用負担ばかりがのしかかることになる。その時、地方の破綻は目に見えている。
◎家族親族関係の希薄化
2つ目の歪み、日本人の生き方の歪みである親族関係の希薄化と、3つ目の歪み、日本の行政システムの歪みである保育所への多額の公費投入については、両者が密接な関係にあるため、合わせて見てみよう。
子育てというのは、極めてプライベートな事柄である。プライベートな問題は、プライベートな関係にある者たちの間で解決するのが基本的な前提である。したがって、子どもの預け先というような家族の世話の問題は、家族や親族の中でまず解決を図り、それがかなわない時に初めて外部に頼る道を探ることになるはずである。そして、外部に頼る場合には多額の費用がかかったり、人に頭を下げたり気を遣ったりということが必要となる。
しかし、現状では親族に頼ることもなく保育所に預けることになっている。行政が安価で保育というサービスを提供しているため、プライベートな問題を安易に外部に頼る意識を作り出してしまっているからである。
行政がこの姿勢を変えない限り、この傾向は続くことになる。つまり、プライベートなことをプライベートな関係者で解決しようという意識に立ち返ることはなく、行政に安価で頼ることができて当然という意識が固定化されることになる。さらに、国が待機児童解消を叫ぶほどにこの傾向は助長され、後戻りできないところまで行く。
家族の世話をどうするかということは、人が生きていく上で非常に重要な選択であるはずだが、行政による価格設定の如何によって、これほどまで簡単に左右されてしまうのである。
◎行政への依存心の拡張
家族の問題を家族親族間で解決せず、行政が解決することが当然になると、当然それは、介護の問題ともつながってくる。
従来、子育ては祖父母や親族が一緒に行ってきており、子どもは祖父母や親族としっかりした愛着関係を形成し、親世代も祖父母に恩義を感じながら子育てをしていたはずだ。そして、子どもの世話が一段落する頃、祖父母の世話の必要が少しずつ生じ、そちらへエネルギーを注ぐようになる。さらに、それが一段落するころには孫が生まれ、そちらの世話に忙しくなり、最後は自分が世話を受けるようになる。このお互いさまの循環を、延々繰り返してきたのが人類である。
ここで問題となるのは、子どもを育てる際に援助を受けなかった親世代が、祖父母や親族の老後の世話をしようとするかという問題である。親世代としては、祖父母や親族には何の恩義も感じてはいない。また、孫も祖父母や親族との関係において、密接な関係が築かれるほどの交流を経験していないことになる。その程度の関係においては、介護というのは負担でしかない。介護というものは重労働であり、恩返しの気持ちや愛着を感じていなければ、とても喜びを持ってやれる仕事ではない。
安易に外部に頼れる状態を行政が作り続けた場合、家族親族が喜びを持ってお互いの世話にいそしむ気持ちを、国民の中に醸成することが、はたしてできるだろうか。このままでいくと、行政が解決してくれることが当然と考える感覚、国が面倒を見てくれるという意識が固定化され、国民の意識という形になっていってしまうであろう。
家族の問題は行政が解決するのが当然。子どもは保育所、高齢者は介護施設。就労世代は家族の世話から解放され、さらに家族の世話にかかる費用は税金で負担してもらう。こういう意識が一般化された時、この国はどのような形になっているのであろうか。
◎0歳から安価で預かるのは日本だけ!
参考までに、高福祉の北欧諸国では、保育も介護もサービスが充実している代わりに、課税率が収入の40%に及ぶ。しかし、それらの国々では、0歳児保育は行っていない。育児休暇をしっかりとり、親子関係を充実させようという国としての意図があるからである。
アメリカでは保育への公費投入がないため、保育料は0歳では20万円ほど。3歳以上であっても月額15万円以上かかることが多く、多くの人は保育所は利用しない。ただし、これほど高額なのは、施設やスタッフが充実した保育所であり、条件を下げれば、この半額程度の保育所もあることはある。条件を下げるとは、施設環境が劣悪とか、保育をするための資格を持ったスタッフがほとんどおらず、資格を持たないスタッフばかりであるなどである。子育てのようなプライベートな問題には政府は関与しないというのがアメリカの基本的な考え方であるため、施設の基準も補助もない。保育関係も企業がそれぞれのやり方で価格設定するため、保育の質が高ければ保育料も高く、そうでなければ保育料は安くなる。保護者はそれらの中から自分に合った保育サービスを自由に選んで利用することができる。そして、家族を大切にする国民的な風土があり、子どもをたくさん産み育て、出生率は高い。
それぞれ、基本的にな国としての家族の在り方に関する考え方があり、それに応じたシステムが出来上がっている。それに対して、我が国はどのような家族の姿を理想と描き、どのような国を作ろうというのか。一度作ったシステムを場当たり的に適当に運用し、本来の趣旨に合わない運用の仕方が国民の価値観をゆがめてしまっている状態で、このまま雇用対策と称して待機児童解消に突き進めば、国の姿は歪むばかりである。
◎保育の質と保育料の逆進性
日本の場合は、認可基準を満たした保育所は公費が投入されているため、しっかりした保育を行っている上に保育料は極めて安くなっている。しかし、認可を受けていない民間の保育所は、公費が入らないため、保育料は認可保育所と比較すると高額となる。つまり、保育の質が高いところほど保育料が安く、低くなると高額になるという、市場経済の常識とは逆の現象が起こっている。これは、先にも指摘した通り、認可保育所に公費を大量投入していることによって起こっている現象であり、様々な問題の原因となっている。
問題には大きく二つあり、一つ目は保育所の運営に多額の公費がかかるため、なかなか定員を増やしたり園を増設したりすることができなないということであり、このことが待機児童の問題の根底にある。二つ目は、先に指摘した保育の質と保育料の逆進性のため、民間企業の参入が進まないということである。企業が保育事業に参入しようという場合、保育の質が基準以上に保たれた上に安価な認可保育所と競合することになるため、条件面で全く太刀打ちできないということになる。このことが、保育事業への参入障壁となり、待機児童問題へとつながっている。
つまり、待機児童問題とは、行政が作った問題と言っていい。政府は、女性の社会進出とか不況による共働きの増加など、社会で起こっていることを待機児童の原因と訴えているが、実は、行政が自らが原因となっている側面を見ていないということになる。認可保育所が多額の経費がかかる仕組みとなっていなければ、増設や定員増は容易に行えるだろうし、また、公費の投入を認可保育所に限らなければ、民間の参入が進んでいたであろう。
こういうわけで、待機児童増加の陰には、日本の行政システムの歪みから生じる様々な問題があることが分かる。この中で最大のものは、子どもの保育は安価に外注することができて当然という国民の意識であろう。
◎待機児童解消に必要なコスト
さて、このような課題を含みながら進めようとしている待機児童対策というのは、どれぐらいのコストがかかるものなのだろう。0歳児保育を例に考えてみよう。
現在、0歳児を保育所で1人預かると、月額40万円ほどかかると試算されている。国の基準によると、0歳児は保育士1名で3名のまでしか保育することができない。基準が厳しすぎるわけではなく、実際にそれ以下でないと責任を持って保育することは困難である。保育時間は11時間が標準であり、多くの保育所で朝7時から夕方6時、場合によってはそれ以降まで保育を行っている。る。そうなると、交代勤務が必要となり、子どもが3人いたら、保育士は2人必要ということになる。つまり、実質的には、子ども1.5人で保育士1人分の費用負担となる。人件費の負担割合だけでこれぐらいかかる上に、ベビーベッドを置く場所や遊ぶスペース、排せつやおむつ交換のスペースの確保にかかわる敷地や施設に関する費用、光熱水費や衛生管理費、ミルクや離乳食の費用、おむつ代等がかかる。福祉サービスであるから利益は上乗せしないが、それでも最低限、月額40万円ほどかかってしまうのである。
では、女性の就労による経済効果は、月額いくらぐらいに試算されるのであろう。手元に資料がないため比較はできないが、月額40万円かけることの費用対効果は、政策として進めるためには算定する必要があろう。
参考までに、厚生労働省の関係者によると、育児休業期間を2年に延ばし、さらに一人当たり月額20万円を育児休業手当として支給するとしても、保育所で預かるよりは低コストだという。
◎保育士を確保する上での困難
また、待機児童を解消するためには、子どもを保育する保育士を育成し、必要なだけ確保しなければならない。
現在、全国に保育士を養成する大学、短期大学、専門学校が合わせて540校ほどあり、年間5万人弱が保育士の資格を新たに取得しているが、資格取得者のうち実際に保育所に保育士として就職する者の割合が減少しており、また、3年以内に離職する者の割合も高くなっている。そのため、各保育所で保育士の確保が課題となっており、特に都市部においては、基準の数の保育士を確保できないままに保育を行っている園が多々ある。また、勤続年数の長いベテラン保育士が少ないため、保育所を新設しようとする場合、所長や主任を担うことができる人材の確保が難しくなっており、それが保育所新設の進まない原因の一つになっている。
保育士の確保が難しい問題の原因として第一に考えられるのは、職務の責任の重さの割に低い賃金である。現在、保育士の平均年収は322万円。平均年齢33.5歳、平均勤続年数は7.7年となっている。初任給は短大、専門学校卒で14~17万円程度。しかし、職務の責任は非常に重い。安全管理上のミスや不適切な言葉遣いは、即子どもの心身に影響するため、そのことの重圧に耐えられずに辞めていく若い保育士も少なくない。
また、保育士の給与が低いのは、保育という事業そのものが高コストであるにも関わらず保育料を低く抑えているため、採算をとるために支出を抑えているからである。国民の間にも、子どもを安く預かってもらえて当然という意識ができあがってしまっているため、保育士に対する社会的な評価も高くなりにくい。このような状況では、希望を持って保育士を目指したり続けようという意欲を持ち続けることは困難である。
政府は、このような状況を放置したまま、待機児童の解消、つまり保育士を増やし、子どもの受け入れ枠を広げようとしているのである。
◎待機児童解消は雇用増加につながらない
そもそも、待機児童解消が雇用の増加につながるという論理自体がすでに破たんしている。
待機児童というのは、最初に述べたように、保育に欠ける児童の認可保育所入所申請をしているにもかかわらず、希望する保育所の施設定員を超過する等の理由で入所できない状態、またはその状態にある児童である。保育所への入所の申請が受理されるためには、まず「保育に欠ける」との認定を受ける必要があり、雇用契約書や就労証明の提出が義務付けられているため、「保育に欠ける」との認定を受けた時点では、すでに雇用契約が成立しているということになる。そして、待機児童を持つ親は、児童が保育所への入所が許可された時点で実際に勤務を開始するのを待っている状態、あるいは、勤務は開始しているが入所までの間は保育所以外の誰かに子どもを預かってもらっている状態である。つまり、現在いる待機児童を全員解消したところで、雇用は一人も増加しないということになる。
待機児童は雇用があるところにしかいないものである。雇用があるのに子どもを預けるところがない人がいるから、待機児童ということである。逆に、雇用のないところには待機児童はいない。雇用がないのに保育所の空きを待っていても意味がないし、雇用関係がなければ就労証明も発行されず、保育所入所の前提条件としての「保育に欠ける」という認定が行われないからである。つまり、待機児童を解消したところで、雇用創出効果はほとんどないと言っていい。あるとすれば、待機児童を保育する保育士の雇用ぐらいだろう。しかもこの雇用も、先に指摘した通り人手不足の業種であり、雇用の増大が失業の解消に直接結び付くものとは考えられない。だいたい、仕事がないから保育士でもやろうかという人に、安心して子どもを預けられる人がいるだろうか。
雇用の増大や創出というのは、雇用のないところに雇用を生み出すことであり、政策的には産業振興策や公共投資が正道である。特に、待機児童がいないような、つまり保育所に空きがある地域に雇用を生み出すような政策や投資を行うことが必要であろう。
◎待機児童は解消しなくてよいのか
では、現在の都市部の待機児童は解消しなくてよいのか。保護者が働くために子どもを預ける場所がないというのは、基本的にはその家族の問題である。しかし、家族の問題を緊急避難的に解決する仕組みを国として設けることは必要である。そのために、保育も介護も福祉の枠組みの中でやってきたはずである。基本的には家族の問題は家族親族で解決し、どうしようもない事情がある場合は社会で助けようという本来の理念を貫くことで、利用はおのずから制限されることになる。
現在の待機児童問題の本質は、本来、緊急避難的に設けた仕組みを、一般の人が普通に利用できるように運用してしまっていることにある。保育料が極めて安く設定されていることも、定員を容易に増大させることができないことも、すべて緊急避難的な制度として設計されたものであるからである。
もし、この問題を本当に解決しようということであれば、緊急避難的な制度であることを徹底するか、もしくは一般の人が普通に利用できる制度に改変する事が必要であろう。そして、一般の人向けの制度であれば、公費による費用負担は必要ないはずであり、必要な経費は利用者が全額負担するような仕組みにしていくべきであろう。通常のサービス業には、必要経費に利潤を上乗せした金額を支払っているのだから。
◎おわりに
現在、保育制度の新システムの設計が進められている。政府は、制度を新たにするにあたって、待機児童の解消を目指しているようである。今後の制度を国民の真の幸福に資するものにするためには、待機児童解消という目先の目標のためではなく、先に述べてきたような問題点を直視し、国民生活全体への影響を見据えた上でしっかりした制度にしていって欲しい。
戦場の今を知れ――Intelligence Talk Liveのご案内
この1月にワシントンやアフガニスタンに出張して、戦場の現実をつぶさに取材してきた畏友の国際政治アナリスト、菅原出君が主催する「第一回インテリジェンス・トーク・ライブ」が2月5日(土)の午後1時半から東京・六本木のホテルアイビスのホールで行われます。
小生はロシア専門家の東京財団研究員、畔蒜泰助君とともに第1部後半のパネルディスカッションでパネラーとして参加します。久しぶりのパネラーですが、気心の知れたお二人なので、内向きになった日本を揺さぶる刺激的なトークにしようと思います。ご興味のある方はふるってご参加を。
第二部では菅原君が、ウィキリークスで暴露された米公電を分析した電子書籍「シークレット・ファイル」(日経BP社)の出版記念会も開かれます。そこではアフガニスタンの戦場第一線にいるカメラマン横田徹君の映像が映し出されます。その予告編がありますのでご覧ください。
この世のもとのも思えない、超現実的な現実の素晴らしい映像です。フランシス・コッポラ「地獄の黙示録」はフィリピンで撮った仮想のベトナムですが、これは100%現実のアフガニスタンなのです。ネオコンも軍事リアリストも、この生々しい戦場の現実の前には、一瞬沈黙せざるをえないでしょう。
草ひとつない荒野に巨大な要塞を築いて戦う「孤独なアメリカ」がまざまざと見えるからです。惰眠を貪る日本も括目すべきだと思います、厳粛なる戦場の今――われわれが生きている世界のhaecceitasに。
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第一回インテリジェンス・トーク・ライブ
日時:2月5日(土)13:30(13:00開場)~16:45終了予定
場所:六本木ホテルアイビス・アイビスホール
会費制:6,000円(懇親会の料理・飲み物代込み)
第一部:「2011年、激動の国際情勢を読む!」
キックオフ・ブリーフィング「ワシントン、カブール取材報告」
・・・菅原出(国際政治アナリスト)
パネルディスカッション「2011年の国際情勢と日本」
・・・阿部重夫氏(「FACTA」編集長)
・・・畔蒜泰助氏(ロシア問題分析家・東京財団研究員)
・・・菅原出(国際政治アナリスト)
第二部:ネットワーキング・レセプション(懇親会)
菅原出事務所の設立及び2月に日経BP社より出版予定の電子書籍「シークレット・ファイルウィキリークスの機密文書(仮題)」の出版を記念した小宴を催します
【NEW】スペシャルメニュー:フォトジャーナリスト 横田 徹 『最新アフガン戦争従軍記』
申し込み:メールにてお名前と、メール以外の連絡先を、staff67@i-sugawara.jp宛てにお知らせください。
2月号「メディアの急所」の訂正
最新号(2月号)の13ページに掲載しているコラム「メディアの急所」で、日本経済新聞副会長に就任した平田保雄氏の経歴のうち、「鶴田卓彦元社長(現顧問)の秘書室長を務め」とあるのは、「鶴田卓彦社長時代に社長室長を務め」に訂正します。
ののちゃんとファド5――Gaivota(カモメ)
年賀ブログに続いて、再度ユーチューブを使って、小生が原訳したファドを槇さんの歌でお贈りしましょう。
今度は同じくアマリア・ロドリゲスの持ち歌ですが、この悲しい旋律と歌詞を聞くたびに、ポルトガルの首都リスボン(リシュボア)の波止場に広がるテージョ川の水面とそこを舞う白いカモメの群れを思い出します。
ポルトガルへ行ったのは、私がロンドン赴任時代ですから、もう10年以上経ちました。記憶もおぼろげになっていますが、最近は『不安の書』のフェルナンド・ペソアの詩を時々読んでは、忙しくて行けない渇を癒しています。
ペソアは生涯孤独で、リスボンをほとんど出ることなく、いくつものペンネームを使い分けた二十面相のような詩人で、その名を知ったのは亡くなった須賀敦子さんが、アントニオ・タブッキの不思議な味わいのある小説を翻訳していたからです。そこでは影のようにペソアが見え隠れしています。
タブッキはイタリア人ですが、よほどポルトガルとペソアが気に入ったとみえて、「フェルナンド・ペソア最後の三日間」や「レクイエム」、そして「島とクジラと女をめぐる断片」など自作で何度も登場させています。
『ポルトガルの海』と題したペソアの邦訳詩集もありますが、やはり辞書を引きながらでもポルトガルの原詩か、ペソアが堪能だった英語で書いた詩を読むのがいちばんいい。
そして、ペソアの詩がたたえる茫洋とした悲しみは、このGaivotaと通じるものがあります。彼の無名性への渇望は、大航海や放浪で消えていった多くのポルトガル人に共通するものがあります。
このファドGaivotaの「七つの海を越えて」にはかつて海を越えていった海洋民族の矜持とノスタルジーがこもっていて、失われた栄華と失われた恋が重ねられます。
あまりにもったいないので、原作者に敬意を表して後半は原詞のままにしています。
GAIVOTA ~かもめ~
空にかもめが一羽
夜明けの港 リシュボア
ゆるやかに舞いながら
青空を運んでおくれ
私の飛べぬ翼が
折れて落ちる前に
七つの海を越えて
船乗りは漂う
あなたのささやきが
揺れるさざ波のように
この耳に届くなら
さよならを 命に告げたら
かもめの群れが羽ばたき
恋しいまなざしを
形見にしてくれたら
私の最後の愛を
忘れられぬ瞳を
海に渡る風が
この胸 波たたせる
あなた の手のひらに
真白き この心が
くるまれていたならば
Se ao dizer adeus á vida
as aves todas do céu
me dessem na despedida
o teu olhar derradeiro,
esse olhar que era só teu,
amor que foste o primeiro.
Que perfeito coração
morreria no meu peito,
meu amor, na tua mão,
nessa mão onde perfeito
bateu no meu coração.
Meu amor, na tua mão,
nessa mão onde perfeito
bateu no meu coração.
ところで、歌っている槇さんは1月29日(土)の午後7時から、友人と二人でファドとシャンソンのLIVEを開きます。ご興味のある方は彼女のウェブサイトで詳細をご覧ください。
謹賀新年(ののちゃんとファド4)
あけましておめでとうございます。
FACTAの読者の方々にも、それ以外の潜在読者(?)の方々にも、お年賀がわりにブログでご挨拶申し上げます。小誌は今年5周年を迎えますが、この多難な時代のささやかな羅針盤として、一層の研鑽を積む所存ですので、よろしくお願い申し上げます。
さて、小誌は全身これアイクチといった雑誌ですが、6年目に入ったら少し幅を広げていこうと思っています。人はパンのみにて生くるものに非ず、雑誌もファクツだけでは時に息苦しくなりますから。
でも今はまだお正月で、みなさんもお屠蘇気分ですから、その先触れとしてすこし軽やかな気分のトピックスで年初を飾りましょう。
09年と昨年にこのブログで「ののちゃんとファド1」「ののちゃんとファド2」「ののちゃんとファド3」を載せたことがあります。朝日新聞朝刊社会面の4コマ漫画「ののちゃん」に時々登場する、キクチ食堂のお手伝い兼高校生ファド歌手、吉川ロカの話題です。
作者のいしいひさいちがファド・ファンであることは、時々、ポルトガル語の歌詞が謎かけみたいにいきなり漫画に現われることで分かります。ポルトガルの演歌ともいうべきファドに疎い方々のために、ブログでその種明かしを試みました。
小生の知人にもファドを歌う女性(槇さん)がいて、頼まれてできるだけ原詞に近い日本語訳(譜割りがあるのでかなり省略せざるをえませんが)にしてみました。昨年、彼女のライブがあり、撮った動画がYoutubeにアップロードされたので、ここでその歌詞とともに紹介しましょう。
便利な世の中になったもので、エンベッドされた画像をクリックするだけで、「ののちゃんとファド1――ロドリゲスの『春』」でとりあげた「春」Primaveraの歌が画像付きで流れます。ユーチューブにはアマリア・ロドリゲスが歌った画像もアップロードされているので、原詞の歌を楽しむこともできます。歌はやはりいくら文章で説明しても、耳と目で直に接するのと雲泥の違いです。
槇さんが歌っている歌詞は以下の通り。
PRIMAVERA ~春~
結ばれたはずの 愛が
蝋のように 溶けて
夜の闇に 崩れてく
あぁ 不吉な月 プリマヴェーラ
なぜ なぜ あの日に
命を惜しんだ
あぁ 不吉な風 プリマヴェーラ
なぜ なぜ 私は
消えてしまわなかったの
私が 受けた 罰は
涙と ともに 生きて
あなた なしで 生きること
ふたりの未来を 信じてた
幸せの 記憶だけ.
心に宿す ぬけがら
喜びだけで 信じてた
幸せの 記憶を 永久に
忘れさせては くれない
私に与えられる パンは
硬い 孤独の かけらしか
喉に 落ちては ゆかない
あぁ 不吉な春 プリマヴェーラ
これでいいのと 言いながら
人生は あぁ……続く
季節はめぐり プリマヴェーラ
春の 陽射しが 私に
注ぐことは なくても
(間奏)
Ninguém fale em primavera,
quem me dera, quem nos dera
ter morrido nesse dia.
Ninguém fale em primavera,
quem me dera, quem nos dera
ter morrido nesse dia.
ちょっと重い歌詞ですかね。でも、訳詞の巧拙はさておいても、とにかく原詞の素晴らしさを知ってほしい。ほかにも小生が原訳したファドがいくつかあります。槇さんが歌ったものをこれから追々紹介していきましょう。
福田善之『草莽無頼なり』のススメ
熊本日日新聞の読書欄に書評を掲載した。11月21日掲載だからもう公開してもいいだろう。
福田氏には能楽の観世栄夫氏の追悼記をお願いして以来、いろいろお世話になっている。この本――『草莽無頼なり』(朝日新聞出版、各2200円+税)の出版記念会にも出席させていただいた。
私はもうしばらく歴史小説を読んでいない。仕事柄、フィクションを心ゆくまで楽しむ余裕がないからだ。が、上下2巻の本を久しぶりに読んで、コマネズミのような日常を多少は反省した。ふと記憶がよみがえって『傀儡子記』や『新猿楽記』を久しぶりにひもといてみた。福田氏の本のおかげである。
*****
時代小説とはとどのつまり憑依である。史上の誰かを操り人形に仕立て、腹話術で語らせることだと思う。
本作の主人公は、「海援隊」と表裏の「陸援隊」を創設した中岡慎太郎。慶応3年11月15日、京都四条上ルの醤油屋離れ座敷で、坂本龍馬とともに殺された土佐人である。
タイトルは死の前年に中岡が書いた「予、草莽(そうもう)無頼の者也」に由来する。草莽とは「草むら」の意味で、吉田松陰が発した「草莽崛起(くっき)」が志士たちの合言葉になったことは、幕末好きの人ならご存知だろう。
お馴染みの人物が活躍するストーリーと史実を対照させたいなら、平尾道雄が周到な考証を重ねた『中岡慎太郎陸援隊始末記』一冊で十分だと思う。
でも、1960年代演劇の旗手が、なぜ36年もかけてこれを書き上げたのか。
巧みな台詞の応酬は舞台劇のようで、尊王攘夷の錯綜をありありと描きだしているが、それだけでは憑依にならない。
ミュージカル時代劇『真田風雲録』の脚本を書き、NHKの大河ドラマ『太閤記』では竹中半兵衛役で出演した作者は、この小説では女傀儡(くぐつ)師おふうという分身を創作した。
おふうは一尺の木偶(でく)を操って中岡を蠱惑し、つきまとって幻聴のようにささやく。憑依の憑依、つまりメタ憑依である。
とっさに連想するのは中里介山『大菩薩峠』の間(あい)の山節のお杉だろう。
「花は散りても春は咲く/鳥は古巣へ帰れども/生きて帰らぬ死出の旅」
さすらいの芸人で、机龍之介に影のごとくつきまとうお杉に対し、おふうもときに色里の娼妓に身をやつす幻術師の一族で、そのネットワークを使って中岡を助ける。
網野善彦史学のパラフレーズ、あるいは泉鏡花から隆慶一郎に及ぶ伝奇の仕掛けを踏襲したのだろう。しかし地の底から響くような間の山節の呪文のような暗さは望むべくもない。むしろ、『真田風雲記』の「真田隊マーチ」(林光作曲)が鳴り響いている。
「やりてえことをやりてえな/テンデかっこよく死にてえな、ぱっ/んぱ、んぱ、んぱ、ずんぱぱっ」
本作の中岡も、真田十勇士に仮託した明るい無頼者たちの末裔であり、久坂玄瑞や高杉晋作へのこだわりも、作者が下剋上の夢(戦後民主主義)をずっと信じているからだろう。
だが、諸士横議が草莽崛起に転ずる瞬間は来ない。明治維新以降の近代日本は彼らの夢とは別のもので、龍馬や中岡、そしておふうの死でついえた、と言いたいのだろうか。
作者は76年にもNHKで『風と雲と虹と』(海音寺潮五郎原作)の脚本を手掛けた。平安後期の平将門と藤原純友の乱という舞台設定はいかにも大河ドラマ向きではなかったが、そこでも太地喜和子の女盗賊や、木の実ナナの傀儡師を登場させている。
すでに平安時代から人形を操る漂泊の芸能民がいたことは、大江匡房(まさふさ)の『傀儡子記』や『遊女記』でも知られる。大胆にもそれを下地に傀儡師たちに円陣で歌わせたシーンは、70年代半ばにはすでに季節外れだった。本作はそのリベンジなのだろうか。
先日、文楽の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)を見た。猿廻しの場面は人形の与次郎が人形の猿2匹を操るメタ人形劇である。反復される「さんな又あるかいな」の呪文に思わず釣り込まれた。
そこにおふうがいた。憑依の幻術は今も生きている。
11月号東電記事での訂正
最新号(11月号)の12ページ「『不意打ち』5千億円増資に東京電力株急落」の記事で、末尾に増資の公募価格が「1348円」とあるのは「1843円」の誤りです。訂正してお詫びします。編集部
FACTAleaks――対セラーテム戦争19 大証・東証への質問状
セラーテムは大証ヘラクレス、それと一体化したチャイナ・ボーチーは東証1部の上場企業である。どいう上場審査をし、上場管理をしているのか。当然、弊誌の取材の矛先は両取引所に向けられた。
結論から言えば、まったく話にならない。とくにひどかったのは大証である。決算説明会をあわてて打ち切って、投資家よりも上場企業を守ろうとした彼らに、日本の資本市場のゲートキーパーを務める資格はない。あえて名を挙げよう。「個別企業についてはお答えできない」の一点張りで、取材を邪魔した大証広報部の矢田真博、セラーテムを守りたい一心で、彼らとグルなのかと疑わせた上場グループの杉原、君らは許さない。
彼らには証券市場を守る気概もなければ、知識もなく、働かないくせに偉そうな馬ヅラをぶら下げているだけだ。北浜はこんな連中を闊歩させているのでしょうか。日本の資本市場の恥である。
あらためて大証と東証に質問状を発しましょう。少なくとも投資家には答える義務がある。本状は8月3日に発したが、なんの回答もなく、現在に至るまでセラーテムについて調査を始めた話も聞かない。中国の証券市場関係者は「当然、売買停止でしょう?」という反応だったが、大証が売買を許していると聞いてあきれていた。同じ文面は東証や証券取引等監視委員会にも送ったが、なしのつぶてなら、言っておこう。あなたがたに二度と「投資家保護」などと口にさせない。
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大阪証券取引所
ご担当者様
ヘラクレス上場企業「セラーテム・テクノロジー」について
平素はお世話になっております。
私ども月刊FACTAは現在、大証ヘラクレス上場企業の「セラーテム・テクノロジー」について取材しています。公開資料の分析と独自調査の結果、本誌はセラーテム社が中国企業「北京誠信能環科技」の事実上の“裏口上場(Back Door Listing)”に利用された可能性が極めて高いと見ています。
添付資料(セラーテム社への質問状、相関図)をご覧いただけば、利害関係を共有する中国人実業家のグループがセラーテム社を資本、経営の両面から支配していることがおわかりいただけるはずです。しかしながら、セラーテム社は事実を日本の投資家に公表せず、同社が主体性を持って中国事業を展開しているかのようにふるまっています。
また、北京誠信能環科技が手がける電力関連事業は、外資の参入が禁止されている事業にもかかわらず、そのリスク情報は全く開示されていません。さらに、中国関連のIRが行われる前後に株価がたびたび不自然な動きをしており、ネット上の掲示板等でも話題になっています。
裏口上場は中国や香港の株式市場ではしばしば行われていますが、我が国では一般的ではありません。一連の操作が仮に適法に行われていたとしても、実態とは異なる情報開示を日本の投資家に対して行うことは上場企業として不適切な行為であると考えます。また、日本または国際的な会計事務所の監査を受けたわけでもない中国の未公開企業の業績が、日本の上場企業の決算に連結され、株価形成に影響を与えるのはリスクが高いと言わざるを得ません。
そこで、以下の3点について伺いたいと存じます
1) 一般論として、大阪証券取引所は海外未公開企業の裏口上場を認めるか。認める場合の条件は何か
2) セラーテム社のケースは事実上の裏口上場に該当するか
3) セラーテム社が日本の投資家に対して実態とは異なる情報開示をしている点や、中国における外資の参入禁止事業のリスクについて開示していない点についてどう見るか(許される裁量の範囲内か)
以上です。締め切りの都合もございますので、8月9日(月)までにご回答いただければ幸いでございます。よろしくお願い申し上げます。
2010年8月3日
月刊FACTA発行人
阿部 重夫
FACTAleaks――対セラーテム戦争17 まだ残る謎 黒幕は誰か
この辺で“事件”をもう一度整理してみよう。セラーテムに取材を申し込む前の時点で、FACTAは下記の3つの疑惑に確信を得ていた。
1)セラーテムの北京誠信買収は、前者を「ハコ」にした裏口上場だったのではないか
2)スマートグリッド受注などのIR(投資家向け広報)は、株価つり上げを狙った誇大宣伝(風説の流布)ではないか
3)一連の操作には、東証1部上場の中国企業チャイナ・ボーチーが深く関与しているのではないか
案の定、セラーテムは疑惑に関してまともな釈明も反論もできなかった。ブログで全面公開したFACTAと同社のやりとりを読めば、それは一目瞭然でしょう。
だが、まだ解明できていない大きな謎が残っている。“事件”の本当の黒幕は誰なのかである。セラーテム取締役CFOで元中国人の宮永浩明、北京誠信会長兼セラーテム会長の于文革、中国系ファンド「Wealth Chime Industrial Limited(WCI)」のオーナーの趙広隆、同じく中国系ファンド「New Light Group Limited(NLG)」のオーナーの庄瑩、チャイナ・ボーチー取締役(前CEO)の白雲峰。これらの5人が、何年も前から直接間接に親密な関係だったことは明白だが、一連の操作を誰が主導したのか、それによって誰が一番得をしたのか、現時点では確証が得られていない。また、セラーテムの第三者割当増資を引き受けたWCIとNLGは、英領バージン諸島に登記されたペーパーカンパニーであり、実際の資金の出し手が誰なのか見えない。本当の黒幕は他にいるかもしれないのだ。
謎を推理するのに有効な手だての1つは、ばらばらの情報を時系列で並べ直してみることだ。いつ、誰が、どこで、どんな行動をしていたのか。関連性が薄いと思われた複数の出来事が同じタイミングで起きていたなど、見落としていた意外な事実に気付く事が多い。そこで、FACTAとセラーテムの攻防が始まった8月6日の決算発表会までの時系列情報を公開しましょう。興味のある方は、謎解きに加わってください。
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2000年10月宮永浩明がセラーテムに入社。取締役経営管理本部長に就任
2001年12月セラーテムが大証ヘラクレス(当時はナスダック・ジャパン)に上場
2002年(日付不明)庄瑩が「北京華電恒盛電力技術(代表者は于文革)」に入社、副総裁に就任
2002年6月「北京博奇電力科技(チャイナ・ボーチーの中国の事業主体)」が創業。趙広隆と庄瑩が同社のコンサルタントに就任
2002年11月宮永浩明が病気を理由にセラーテムを退社
2003年2月セラーテムが突然の赤字転落を発表し、株価が暴落。創業者が持ち株を売り抜けた疑惑が浮上
2003年10月北京博奇の経営陣がMBO。程里全(現チャイナボーチーCEO)が事実上のオーナーに
2003年12月チャイナ・ボーチー(持ち株会社)が英領ケイマン諸島に設立
2004年12月「北京誠信能環科技」が創業
2006年4月中国農業大学と北京誠心能環の提携式典に、于文革が総経理、庄瑩が人力資源部長の肩書きで出席(セラーテムは「庄瑩は顧問だった」と主張)
2006年9月宮永浩明がチャイナ・ボーチーの副総裁に就任
2006年末チャイナ・ボーチーCEO(当時)の白雲峰が、宮永浩明に趙広隆と庄瑩を紹介
2007年5月趙広隆が英領バージン諸島に「Wealth Chime Industrial Limited(WCI)」を設立
2007年8月チャイナ・ボーチーが東京証券取引所第1部に上場
2008年5月趙広隆が共同事業主を務める山西省の発電所建設プロジェクトにチャイナ・ボーチーが出資
2008年末セラーテムの株価がリーマンショックの影響で5000円台に下落、時価総額がヘラクレスの最低基準を割り込む
2009年1月セラーテム取締役(現社長)の池田修らが宮永浩明に連絡し、経営再建への協力を依頼。宮永浩明が趙広隆、庄瑩に連絡し、協議を開始
2009年4月15日庄瑩が英領バージン諸島に「New Light Group Limited(NLG)」を設立
2009年4月下旬趙広隆が来日し、宮永浩明、池田修らと詰めの協議。庄瑩も電話で参加
2009年4月30日セラーテムが社長交代を発表。7月1日付で今井一孝社長が辞任し、池田修取締役が社長に昇格
2009年5月于文革が北京市供電局を退官し、“民間人”に。関連会社である「北京京供誠信電力工程」の社長も辞任(登記簿上の代表者交代は2009年12月)
2009年6月1日セラーテム取締役で経営陣およびWCI、NLGへの第三者割当増資と、宮永浩明の顧問就任を決議。代表取締役社長の今井一考は反対したが、取締役の池田修と藤本秀一が押し切った。同日中にIRを発表
2009年6月5日既存株主が新株発行差し止めの仮処分を東京地裁に申し立て
2009年6月15日庄瑩が北京誠信能環副社長の肩書きで北京の環境フォーラムで講演(セラーテムは「庄瑩は顧問だが、便宜上、副社長の肩書きをつかうことがあったかもしれない」と主張)
2009年6月19日既存株主が東京地裁への申し立てを取り下げ
2009年7月3日セラーテムの第三者割当増資が完了
2009年8月5日于文革と于文翠(姉または妹とみられる)が北京誠心能環の株式の34.81%を取得(日付は登記簿上の記録)
2009年8月10日セラーテムが北京誠信との戦略提携を発表
2009年9月17日宮永浩明がセラーテムの取締役CFOに就任
2009年10月20日セラーテムが中国に100%子会社「科信能環(北京)技術発展(代表者は于文革)」を設立
2009年11月13日セラーテムが北京誠心能環の子会社化、WCIへの第三者割当増資を発表(外資規制を回避するため北京誠心能環には直接出資せず、科信能環と排他的契約を結ばせて支配するスキーム。費用は15億円)
2009年11月30日セラーテムの臨時株主総会で第三者割当増資を承認。北京誠信能環会長の于文革がセラーテム会長に就任。同社長の王暉と同取締役の蔡静偉がセラーテム取締役に就任。東京大学名誉教授の高橋満がセラーテム社外取締役に就任(取締役7名のうち4人が中国出身者に。高橋満はチャイナ・ボーチーCEOの白雲峰経由の紹介で就任)。セラーテム社長の池田修が北京誠信能環取締役に就任
2009年12月16日白雲峰がチャイナ・ボーチーのCEOを辞任し、副会長に就任(程里全による事実上の更迭か)
2009年12月21日セラーテムが北京誠信能環の子会社化完了と「負ののれん」の発生を発表。第三者割当増資の結果、WCIが49.56%を保有する筆頭株主に。NLGも引き続き4.56%を保有(裏口上場が完成)
2009年12月22日セラーテムが業績予想を上方修正。北京誠信能環の従業員にストックオプションを付与
2010年2月1日セラーテムが業績予想を上方修正
2010年3月26日セラーテムが「科信能環が発電所・製鉄所向け大型省エネ事業とスマートグリッド事業に参入する」と発表。株価は2週間で2倍に
2010年5月28日セラーテムが業績予想を上方修正
2010年6月25日白雲峰がチャイナ・ボーチー副会長を辞任(取締役の肩書きは残したが、業務は担当せず)
2010年6月末(または7月初)セラーテムが北京で科信能環の開業式典。于文革、宮永浩明らとともに白雲峰が出席
2010年7月15日華北電力大学(白雲峰の母校)で行われたイベントに、白雲峰が科信能環CEOの肩書きで出席(セラーテムは白雲峰の科信能環CEO就任を否定)
2010年7月16日セラーテムが「北京誠信能環が地域内スマートグリッドの建設プロジェクト2件を受注した」と発表
2010年7月30日セラーテムが「北京誠信能環が次世代送電網のプロジェクトを受注した」と発表
2010年8月3日セラーテムの株価が直近の最高値(14万9900円)を記録。7月からの1カ月で5割上昇。1年半前の30倍
2010年8月6日セラーテムが東京の大和証券の会議室で取締役会を開催し、白雲峰が科信能環のCEOとして出席。同日、2009年6月期決算を発表
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この続きはまた次回。