EDITOR BLOG

最後からの二番目の真実

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評

2012年11月3日付の熊本日日新聞で書評しました。

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』(浜本正文訳、岩波文庫)という本です。単行本として絶版になっていたものを岩波が文庫本として再刊したものです。新刊本ではないのですが、ほとんど幻の本で、初版はあんまり評判にならなかったと記憶していますので、あえて書評に取り上げました。



進歩の思想を否認した囚人

ブランキは19世紀フランスで執拗に武装蜂起を試みた不屈の革命家である。逮捕、拘束、懲役、死刑判決の連続で、獄中通算33年というこの「巌窟王」が、老いて独房で書いたのが本書だ。政治論や革命論ではない。なんと宇宙の無限を論じた奇書である。

晩年の芥川龍之介が読んでいたことは、アフォリズム集『侏儒の言葉』で明らかだ。



「宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。〔中略〕これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯(ただ)ブランキは牢獄の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我々の心の底へ滲(し)み渡る寂しさを蓄えている」



芥川の末期の目は正確だった。ブランキは遅れてきたサド侯爵かもしれない。

数学者兼天文学者ラプラスの機械論的宇宙観に異を唱え、孤独な彗星に不思議な共感を寄せている。「何世紀も前から、我らが大気圏の柵につながれ、空しく自由もしくは歓待を求め続けている、哀れな囚人たちではないだろうか?曙光と黄昏の光の中で、両回帰線間の太陽に照らし出される、あの蒼白きボヘミアンたち」はほとんど自画像に思える。

だが、独房には天体望遠鏡も数式もない。類推法だけが唯一の武器だった。浮かんできたのは、無限の時間の中で必然的に生じる有限の反復――永劫回帰の憂鬱である。



「我々の一人一人は、何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう」



日の下に新しきものなし。それは数学者カントールの無限集合のパラドクスを予見していた。奇妙なことに、彼が幽閉されていた監獄ともそっくりなのだ。

監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。

あらゆる政体を否定する陰謀家。胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。

ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』は「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し、「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。

彼らのニヒリズムに芥川も同期した。そのアフォリズムはこう結ばれる。



「夢は既に地上から去った。我々も慰めを求める為には何万億哩(マイル)の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ」



現代の日本でも本書は、あらゆる進歩の思想に幻滅した人向きかもしれない。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン12 スピノザ

サン=テグジュペリの『人間の土地』は、サハラ砂漠で不時着した体験を描いている。それは『星の王子様』の原体験とも言えるが、奇跡の生還といった感激の体験記ではない。ひとたび「鳥の目」で世界を見てしまった男が、じぶんの生死もこの世の一切も、臨死の目で見ている不思議な浮遊感に包まれている。瀕死の床に横たわる自分を、部屋の片隅から見下ろすような遊体感覚である。

ヨルムンガンドの「空の遮断」も、ほんとうはそんな遊体世界が降臨することだったのではなかろうか。もちろん、そんな降臨などありえない。憲法9条の待ちぼうけが、いつかかなえられるという空しい期待と同じように。ユダヤ民族の「約束の地」も、カントの「永遠平和」も、ベケットの「ゴドー」も、けっしてその日は来ない。

コミックスの『ヨルムンガンド』で、青空にかざしたテンキーの移動体発信機に「発動!」と叫んでも、「新しい世界」が発動することはすべからくない。物語はそこで幕、いや、終わらざるを得ない。絶対平和のヨルムンガンドが、国家というリヴァイアサンに入れ替わることなど、どこまでも絵空事だからだ。

しかし何かが残る。逆説的だが、ヨルムンガンドが抹消しようとした「鳥の目」が残る。





すべての属性にとってただひとつの実体というスピノザの第一原理を、知らない者はいない。しかし、すべての身体や物体にとってただひとつの自然、無限に多様に変化しつつ自身もひとつの個体であるような自然、という第三、第四、第五の原理も、みな知っているのではないだろうか。これはもう唯一の実体を定立しているのではない。すべての身体や物体、すべての心、すべての個体がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面(プラン)を展き延べているのである。(ジル・ドゥルーズ『スピノザ』)



バールーフ・デ・スピノザは、イベリアから亡命したユダヤ人富商の息子として1632年にアムステルダムで生まれたから、ホッブスの同時代人と言っていい。が、その『神学・政治論』は、保守的なユダヤ人社会ばかりでなく、デカルト主義のリベラル派からも「手の込んだ偽装を施した無神論」とみなされて囂々たる非難を浴びることになる。

スピノザは孤立した。彼は有名なレンズ磨きをしながら、下宿の一室に隠遁した。

彼はホッブスを読んでいた。だから、自然権を放棄して契約によって国家を形成するホッブスの説を『神学・政治論』でも踏まえている。だが、晩年の未完の『政治論』では、トートロジカルなホッブスの矛盾に踏み込んで、契約を履行させるためには自然権ではなく力そのものを放棄しなければならないと大胆なことを言いだす。これはココ・ヘクマティアルの飛躍した妄想に近い。



各人がその有するすべての力を社会に譲渡すればいい。そうすれば社会のみが万事にたいする最高の自然の権利を、いいかえれば最高の統治権を保持することになるだろうし、各人はこれにたいして自由な考えによってなりあるいは重罰への恐れによってなり従うようになるだろう。(スピノザ『政治論』)



ホッブスが力を譲渡するには自然権を放棄しなければならないと言っているところを、スピノザは自然権を放棄するには力を譲渡しなければならないと裏返しにしたのだ。



各人の自然権はその人間の力によってのみ決定されるのだから、そこからして次のことが帰結する。すなわち、各人はその有する力を自発的にせよ強制的にせよ他者に譲渡すれば、そのぶん自己の権利をも他者に対し必然的に放棄することになるということ、かつまた、全員を力づくで強制したり、あまねく恐れられる重罰の恐怖によって掌握したりできるような最高権力を有する者は、全員に対して再考の権利を有することになるということ、これである。(同)



これはホッブスのような自然権放棄の始点、仮定としての空間が成立しないこと、さらに自然権の放棄は力を社会に譲渡する「結果」であって「前提」ではないことを意味している。では力を譲渡される「社会」とは何か。とりもなおさず「民主政体」を指すのだが、奇妙なのはスピノザが、神に自然権を譲渡する古代ヘブライ国家の原初契約とこの「民主政体」への力の譲渡を同一視していることだと上野修は言っている。

それはスピノザの思想が、ユダヤ教の根本と通じていたことを示すのではない。むしろその逆だった。



スピノザがそれをあえて同型とみなすとすれば、それはいずれの場合も〈力〉の譲渡先が「社会」とか「神」といった契約する人間たちの誰でもない第三者であり、いずれの契約もそのような彼らのうちの誰でもないものへの力の譲渡に先立たれてはじめて「契約せねばならなかった」、そういう契約であるという理由をおいて他にはあるまい。(上野修『デカルト、ホッブス、スピノザ』)



スピノザが「社会」とか「神」とか呼んでいるものは、いわば便宜的であり、上野によれば「全員がその中にあってそれぞれに『残りの者』とイマジネールな仕方で関わることから各人を超える力が実際に作り出されてしまう、そうした〈内部〉にあてられた呼び名であり、そのような力の所在の表象」ということになる。

神も社会も呼び名に過ぎない?これってゾクゾクするほど無神論ではないか。スピノザが危険視されたのは無理もない。ドゥルーズが「スピノザのただなかに身を置くとは、このような様態的平面の上に身を置く、あるいはむしろその身を据えることであり、それには当然、生のありよう〔様態〕、生き方がかかってくる」と言うのも、スピノザの発明によるこの明晰な地雷原――自然的光明 Lumen Naturaleを透視できたからだろう。ヨルムンガンドがリヴァイアサンの上に降臨してくる瞬間とは、スピノザのLumen Naturaleの空間によってあなたが透過される瞬間だ。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン11 サン=テグジュペリ

「空だけはどうすることもできない。翼も手も足もないこの身では」という世界蛇ヨルムンガンドは、空を遮断する。それは何を失うことを意味するのか。

バード・アイ。つまり鳥の目を失うこと。空から地上を見る「鳥瞰」が許されなくなる。

しかし、人間が「鳥の目」を手に入れたのはそう古いことではない。初期商業飛行便のパイロットだった『星の王子様』のサン=テグジュペリが、人が空に舞い上がった日、「道路に欺かれていた」と愕然とする新鮮な驚きを書き残している。



飛行機は、機械には相違ないが、しかしまたなんと微妙な分析の道具だろう!この道具がぼくらに大地の真の相貌を発見させてくれる。道路というものが、そういえば、幾世紀のあいだ、ぼくらを欺いていたのだった。ぼくらもじつは、人民たちが自分の政治に満足しているかどうかを知るため、彼らを一度訪問しようと希望したというあの昔話の王様のようなものだったのだ。廷臣たちは、王様を欺いて、そのお通りすじの両側に、楽しそうな背景を作りあげ、人を雇って、その前で踊らせておいた。細いひと筋の道以外、王は自分の国の何ものにも気がつかず、田舎の奥で飢え死にしてゆきつつある民草が、自分を怨嗟していることにはまるで気づかずにしまった。(『人間の土地』第4章「飛行機と宇宙」)



ピョンヤンが典型だろうが、スターリニズム時代の社会主義国家の首都の光景が、大なり小なりこの昔話の王様のように、民の悲惨の目隠しであったことはよく知られている。

古来の日本でも、大地の高みから遠望する「国見」では、いくら「民の竈は賑わいにけり」であっても、この景観の人工性は十分に暴露されることがなかったろう。

今だって、各地の展望台そのものが、すでにつくられた視線を演出しているからだ。「絶景かな絶景かな」と石川五右衛門が大見得を切る歌舞伎の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)で、南禅寺の山門がいちめんの桜に包まれている情景はその最たるものだろう。

スカイツリーや都心の超高層ビルからの展望もいつしか人目に慣れ、飼いならされていく。だが、この堀口大学の名訳から浮かぶのは、営々と道路を築いてきた人間の欲望が、おのずと人間をその欲望に従って風景を固定してしまっていることだ。人は知らず知らずおのれの似姿を大地に刻んでいて、そこに自らを閉じ込めているのだ。



ぼくらも長いあいだ、曲がりくねった道路に沿うて歩きつづけていた。道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものだのだ。道路というものは、人間の欲望のままに泉から泉へと行くものなのだ。道路というものは、農夫たちを彼らの穀倉から麦畑へ導き、家畜小屋の戸口で、まだ眠っている畜類を受け取り、これを夜明けの光の中のクローバーの原にぶちまけるものなのだ。道路というものは、この村とあの村を連絡するものなのだ、なぜかというに、その二つの村のあいだで、人が結婚するからだ。よしまた道路の中の一つが砂漠を横断するような冒険をすることがある場合にも、それはオアシスに出会うために、何度となく迂回する。

こうして道路の曲折の一つ一つに、親切な偽りのように欺かれて、ぼくらの旅の途すがら、灌漑のゆきとどいた多くの土地と、多くの果樹園と、多くの牧原を見歩くことによって、ぼくらは長いあいだ自分たちの牢獄を美化してきた。この地球を、ぼくらは、湿潤なやさしいものだとばかり思いこんできた。



溜息の出るような文章である。一点の瑕疵もないから、どこも省略できない。そして文章はいきなり転調する。飛行機の「鳥の目」が現れて、まだ飼いならされていない大地のアバタ面が、暴露されるときが来る。



ところが、ぼくらの視力は磨ぎすまされ、ぼくらは無残な進歩をとげた。飛行機のおかげで、ぼくらは直線を知った。離陸すると同時に、ぼくらは、水飼場から家畜小屋へと行きたがったり、町から町へと練り歩きたがったりする道路を捨てる。昔なつかしい奴隷の身分をかなぐり捨て、泉を追いかける必要から解放され、ぼくらは遠い自分たちの目標に、ぴたりと機首を剥ける。するとはじめて、ぼくらの直線的な弾道のはるかな高さからぼくらは発見する、地表の大部分が、岩石の、砂原の、塩の集積であって、そこにときおり生命が、廃墟の中に生え残るわずかな苔の程度に、花を咲かせているにすぎない事実を。



ヨルムンガンドはこの発見を、この世界の新しい光景を抹消することを意味する。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン10 永遠の待ちぼうけ

女武器商人ココ・ヘクマティアルが命名した世界蛇「ヨルムンガンド」とは何か。ココ自身が長広舌をふるってその正体を明かす場面がNew World Phase 12にある。ヨルムンガンドの正体を明かしたココに、ヨナが拳銃をつきつけて「ココは間違ってる‼」と叫ぶシーンだ。

ネタばれになるから正体は言わないが、そこに憲法9条のパラドクスがくっきりと姿を現す。





「何が?
70万人の犠牲のことなら
『必要最低限』と
言ったでしょ?」

「まさかヨナも、
今の世界って
けっこうパーフェクトに近くって、そんな残酷な
コトしてまで
変えるべきではない
とか思ってる?」

「君の言葉
『世界が好き』
これって
『お世辞』と『希望』でしょ」

「みんな一人一人ちょっと優しくなれば
すごく世界は
輝きだす!かも!」

「フフーフ
残念だが、
それは
ない。」



たぶん、これはこのコミックスでもっともすぐれた台詞だと思う。



「WW1(第一次世界大戦)では4000万人、WW2(第二次世界大戦)では6600万人、WW3(第三次世界大戦)では何人死ぬ?」

私は
世界が大嫌いだよ、
ヨナ。




前段は陳腐だが、世界が大嫌い、に作者の言わんとするところがある。この袋小路を、ホッブスの論理に置き換えよう。再び上野修さんの本から拝借する。



これ(自然権)を放棄することは命懸けの決断である。そのような約束を何の保護もなく、また義務付けもなしに履行することは、ホッブスの規定する人間本性に真っ向から反するのである。それゆえだれも履行に踏み切ることはないだろう。したがって国家も開始しないだろう。(前掲書)



これを敷衍すれば、開始しないはずの国家の上の世界国家を、日本国憲法は永遠に待ちぼうけを食っていることになる。

テレビキャスター出身の秋尾沙戸子が書いた『ワシントンハイツGHQが東京に刻んだ戦後』に、日本国憲法を6日間で書いたミルトン・エスマンのインタビューが出てくる。エスマンはニューディーラーが多く入っていた民政局(GS)に所属し、憲法改正、警察改革、地方分権などの急進的な民主化計画を立てていたチームの一人だ。

それによれば、日本分割を主張するソ連と英国が入っている極東委員会の干渉を嫌うマッカーサーの絶対指令があって作業を急いだという。



「私に限らず、同僚たちは憲法第九条に懐疑的でした。防衛を自分の手でしなくてもいいものかどうか、と。しかし、日本の戦争放棄も、マッカーサーの絶対命令だったのです」



やっぱりね。「第三者」はぼかされているが、やはりオキュパイド・ジャパン(占領国日本)はアメリカに対して戦争放棄したのであって、英ソを含む極東委員会を埒外に置こうとしたのだ。

ただ、GHQ内にも、チャールズ・ウィロビーが率いる反共派のGⅡ(参謀2部)があり、吉田茂と結びついてニューディーラーと対抗していたことは、日本国憲法の裏面史では常識となっている。GⅡが児玉誉志夫らを復活させ、巣鴨プリズンから岸信介らを釈放したことも。

だが、第九条の是非をここで論じようとは思わない。ココが言う「大嫌い」とヨナが言う「好き」の対象である「世界」とは何を指しているかなのだ。なぜならそこに、映画『未知との遭遇』のマザーシップのように、天空からヨルムンガンドが降臨してくるからだ。

国家よりも上位の概念――それは集団的自衛権とか欧州連合とかに名を変えた疑似的な汎国家ではなく、唯一神としての「超国家」を人はそこに見ることができるのだろうか。

ココが言うように、「みんな一人一人ちょっと優しくなればすごく世界は輝きだす!かも!」という戦後の幻想を捨てたとき、そこに世界蛇ヨルムンガンドが見えるのだろうか。

「一般」検査

ようやくSBI証券のサイトで証券監視委員会が検査中であることを認めた。

そりゃそうでしょう、監視委員会のサイトに載ってるんだから。しかしSBIホールディングスのサイトにはのっけないところがいじましい。

23日が基準日ならそのときすぐ、お知らせにのせればいい。このブログ(週末は待っていたが)で書いたよりも後に、渋々リリースを出しているが、親サイトでなく子サイトだけ。それも「一般検査」を強調している。

それでだまされるのは素人記者だけ。税務調査とおんなじです。「一般」と名をつけたって当局はいくらでも狙い撃ちします。当の将軍様もドキッとしたでしょうね。泡食ったからこそ、公表を遅らせて息をひそめていたけれど、隠しようがなくなって子サイトでこっそりリリースしてるのでしょう。

父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。

ご存じ「子路第十三」の一節です。論語読みが喜んで真似しそうな一句です。

直きことその中にあり――か。孔子様もご推奨ですかね。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン9 憲法9条

前回は「万人の万人に対する戦争」を脱するための〈第三項排除〉が、相互性の形式に頼らざるをえないというのが問題だと書きました。

それを誰もが知っている日本国憲法に置き換えましょう。まず前文です。



われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。



おわかりのように、敗戦国であった戦後日本の出発点において、ホッブスのいう「自然権」と「万人の万人に対する戦争」の超克がうたわれています。その帰結として、問題の第9条が定められています。



第9条[戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認]

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



気づかれましたか。「誰に対して放棄するのか」がすっぽり抜けています。端的に進駐軍を送りこんだアメリカ?それとももっと広く戦勝国?それとも国連?いや、前文に書いてあるようにもっと抽象的に国際社会?さらには人類に対して?そこは曖昧です。

つまりホッブスの前提に立ちながら、「第三者」が存在しない、あるいは擬制的なものにとどまっています。だから、日米安保条約によって相互性の形式に翻訳せざるをえなかったと言えます。国家神権説に対し国家契約説を提示したホッブスは、自然権を譲渡した場合、何が起きるかを分類しています(『リヴァイアサン』14章)。

① 現金売買のように、契約成立と同時に双方が義務を履行する場合
② 一方が履行しておらず、相手から信用されている場合
③ 双方とも履行しておらず、互いに信用しあっている場合

つまり、契約と履行にタイムラグがある②と③の場合、相手側がいずれ履行すると信ずるに足る「第三者」による強制がなければ、たちまちゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」に陥って、履行しないほうが得、つまり「万人の万人に対する戦争」に逆戻りします。

憲法第9条は第三者を明示しないことによって、日本だけ先に自分の憲法で定めた契約を履行しながら、誰か分からない「第三者」が戦争放棄の“義務”を履行してくれない(そんな義務はどこにも存在しないのかもしれません)永遠のタイムラグを生じさせることになります。日米同盟を組み、第二項の陸海空その他の戦力を日本が事実上持つにいたったのは、そのパラドクスの空隙を埋めるための相互性回復だったと思えます。

上野修によれば、これはホッブス自体に内在しているパラドクスということになります。



なぜなら信約一般を有効化するはずのそのような権力、つまり「コモン・ウェルス」と呼ばれる国家そのものが、またもやひとつの信約によって立てられねばならないからである。ホッブスの理論的な企ては次のように定式化しうるだろう。すなわち、履行を保証する強制的な権力を、まさにそのように履行が保証されるところの当の信約そのものによって設立すること、これである。だがホッブスの言うように信約の有効性が国家権力の設立とともにしか始まらぬとすれば、この国家設立の信約そのものの有効性はいったいどうなるのか。(前掲書)



ここでいうトートロジカルな「国家」とは、憲法9条に書かれなかった「幻の第三者」と読み替えても構いません。日本が国際社会に復帰するために履行した「戦争放棄」は、相互性によって担保されるほかないのですが、それが担保されないとしたら(近隣の核保有国によって国土その他をただ奪われていくだけだとしたら)契約は存在しなかったとみなすのが論理的必然になります。

話は迂回しましたが、コミックス『ヨルムンガンド』が登場する必然はそこにあると考えます。

至急報! SBI証券に証券監視委検査入る

新聞メディアは発表物しかもう報じられないというけれど、発表物も報じられないのだろうか。

FACTAは月刊ですから静観してようと思いましたが、このシカトぶりではしょうがない。
フラッシュを報じましょう。

とうとう先週末に証券取引等監視委員会(SESC)の検査中リストにSBI証券が載りました。
SESCのウェブサイトの検査中ページを見てくださいな。26日現在で「SBI証券」とちゃんと載っているでしょ。
なのに、各社記者は何をしているのでしょう。これはニュースでしょうが。鈍いなあ。
遠巻きにFACTAと北尾の戦争を眺めていて、指をくわえて見ている気ですか。
いよいよ号砲が鳴ったのですよ。

投資家のみなさん、大和など幹事証券、監査法人トーマツ、そして延命に手を貸している格付会社さん、ヤバイ!って思わないのかな。AIJの悪夢が頭をよぎったでしょうが。

次号で決定版を考えますかね。




ヨルムンガンドとリヴァイアサン8 ツッパリ語

さて、石原慎太郎都知事が25日に行った辞任会見は、公会計に複式簿記を導入しろ、などのまっとうな目標を掲げていて、その限りでは好感できるものがあります。しかし、あんまり彼らしくないなあ。つまりちっとも右翼らしくないころが怪しい。

改憲とか核武装とか、いちばん言いたい本音を言わずに、新銀行東京や銀行の標準課税など、彼が失敗した経済政策を持ち出すあたりがわざとらしくて、マユに唾をつけたくなります。

このブログでは、彼の土俵に乗ろうと思う。ただし情緒的なナショナリズムでなく、合理的な選択として何が最善かという議論として。

でも、ホッブスとコミックスをごっちゃに議論している、と叱られそうですね。石原知事は好みじゃないでしょうけど、確かにCIAのエージェントが、中高生のツッパリ君みたいなせりふを吐いているのを煙幕とみるか、しょせんはガキの想像力とみるかは、面々のご勝手でしょう。




「フザッけんなヨぉ……⁉」

「アレか?俺を化かす気か、テメーら。そーはウマくいかねーぞってゆー」

「おい、さっきからチョコチョコなんのメールだ?」

「わかったぞ!」

「待て貴様っ、この部屋を出るな‼」

「ウルッセェゾッ‼」



ま、こんな具合です。これが警察の取り調べ室だとしても、こういう独白がほとんどツッパリ君たちの会話のもじり、または直輸入であることは確かでしょう。だからといって、それが必ずしも空っぽとは限らない。ちゃんとコンタンがあると思いますね。

そしてまた、ばななのお父さんは亡くなったばかりですが、45年近く前の本を読み直す人がそういるとも思えないので、正確に引用しましょう。



原理的にだけいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想に対して〈逆立〉するはずである。しかしこの〈逆立〉の形式は、けっしてあらわな眼にみえる形であらわれるとかぎっていない。むしろある個体にとって共同幻想は、自己幻想に〈同調〉するものにみえる。またべつの個体にとって共同幻想は〈欠如〉として了解されたりする。またべつの個体にとっては、共同幻想は〈虚偽〉としても感じられる。(『共同幻想論』祭儀論)



こういう難しい文体と、先ほどの怒号とは、しかし等価かもしれません。今風にいえば、PCとスマホのテザリングは、常に変換されてしまうということでしょう。

コミックスでもCIAのスケアクロウが武器商人から搾取しようと介入してくるのは、あくまでも国家(コモンウェルス)だからですが、その言語は1対1の相互性の場所でしか発せられないからです。それをホッブスの『リヴァイアサン』に同期させると、こんな風に変換されます。



まず各人の対称的で双数的な二者的相互性があって、そこからそれを超越する第三者として主権者ないし国家が出て来、はじめの二者的相互性は第三者の決定に服する義務の双務的関係になる、というロジックである。われわれはこのような二項的関係から第三項が排出されてくつというロジック、ホッブスが「リヴァイアサンの発生」と呼ぶロジックを、仮に〈第三項排除〉とでも名付けておこう。〔中略〕問題はこの〈第三項排除〉がこれまた「契約」Contractないし「信約」Covenantというこれまた相互的な形式によらねばならぬということなのである。(上野修『デカルト、ホッブス、スピノザ哲学する17世紀』)



ね、同じでしょう。「ヨルムンガンドがリヴァイアサンだ」という意味がようやくここで説明されました。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン7 ホッブス

あんまり『ヨルムンガンド』に淫していると、何をやっているかと怒られそうです。そろそろ本題に入りましょうか。前回、女武器商人ココ・ヘクマティアルは「リヴァイアサン」であると書きました。ホッブスの有名な一節を念頭に置いています。

『リヴァイアサン』14章「第一、第二の自然法と契約について」です。ホッブス自身が説明するjus naturalis(自然法)とは、「理性によって発見された戒律または一般法則であり、それによって人はその生命を破壊したり、生命維持の手段を奪い去るようなことがらを行ったり、また生命がもっともよく維持されるとと彼が考えることを怠ることが禁じられる」ものです。では、第一の自然法から引用しましょう。



各人は望みのあるかぎり、平和を勝ち取るように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい。



そこから必然的に第二の自然法が導かれます。






平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである。



ほんとうは第三から第十七まで自然法があるのですが、この第二が有名は国家契約説にあたります。もちろん、「他の人々が彼のように自らの権利を放棄することを欲しないならば、だれもその権利を放棄すべき理由はない」と条件付きですが、万人の万人対する戦争という自然状態を克服するには、私兵対PMCのような1対1のバイオレンスを行う「権利」を放棄することによって、第三者である国家(コモンウェルス)を創出し、それを主権者として1対1の相克を押さえさせ、従わせるしかないというのです。

ココと配下の私兵に与えられている超越性は、ちょうどこの第三者、つまりはコモンウェルスなのですが、その秘密はコミックスでは最後まで明かされません。

ホッブスはいわば、自然状態という仮想空間をつくり、そこで1対1の果てしない葛藤を超克するため、それぞれが権利を放棄して第三者に委託し、その「信約」を相互に守るという権力構造の心理分析を考え出しました。これは今でも斬新なアイデアです。

ただ、現実に紛争当事者がそうした契約をすることはありません。ホッブスが言うように「内的法廷において」(in foro interno)であって、「外的法廷において」(in foro externo)ではありません。行為に移されるとき自然法は拘束しないのです。

ホッブス研究の誰しも悩まされたように、これは結論が前提となっているトートロジーの構造です。自然状態でおのれの力だけを恃む人々が、自発的に授権(マンデート)して互いに制裁権力の保護下に入るとは思えません。すでに主権を持つ制裁者がいて、その刑罰への恐怖があるから、自発的に授権するのではないでしょうか。

いわばその理路の逆転にホッブスの天才があると思えます。ココもまたこのトートロジーを体現している存在でしょう。レームやバルメ、ルツやワイリーら超人的私兵の力を借りて、1対1の私闘での勝利をどれだけ重ねても、「ヨルムンガンド」にはたどりつけません。最初からココがリヴァイアサンだからたどりつけるのです。



共同幻想は自己幻想と逆立する。



懐かしい。よしもとばななのお父さんの有名な命題ですね。対幻想の喪失が共同幻想としての国家の原型だとするなら、コミックス『ヨルムンガンド』はそのロジックを絵解きしてみせていると言ってもいい。

何よりここでは、「万人の万人に対する戦争」が仮想の自然状態ではなく、現前する自然状態になっているからです。少年兵ヨナはいきなり自然状態に放り込まれ、反射的に銃を乱射します。武器は大嫌いだと言いながら、そこから逃れられない。

だからココは最後にいたるまで、仲間うちでも「ヨルムンガンド」をin foro externoにしないのです。つまり、ここではリヴァイアサンはココ一人であり、元少年兵ヨナに打ち明け、その同意を得たときにはじめて起動し、in foro externoになるのです。ヨナは最初から最後まで、ココに対幻想を持たない幼神としてえがかれているのでしょう。

自然状態はいまここにある。コミックスの外にいるわれわれも否応なくそこに放りこまれる。万人の万人に対する戦いを覚悟したとき、人は逆にリヴァイアサンをありありと見ることができます。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン6 勝利の手

ヨルムンガンド』の女武器商人、ココ・ヘクマティアルが、バグダッドにサダム・フセインが建造した巨大な二つの剣が空中で交差するイラン・イラク戦争戦勝モニュメント「勝利の手」(Swords of Qādisiyyah)の前で、あたかも剣を握っているかのようなポーズをとる絵がそのイラク編「Pazuzu」の表紙を飾っている(ちなみにパズズとはメソポタミアの悪神で、南東の熱風を神格化したもの)。

ま、パクリだと思うが一種のインスパイアということにしましょう。

これは10年1月、ロンドンのテート・モダン美術館「レベル2ギャラリー」の展示会「The worst condition is to pass under a sword which is not one’s own」(最悪の状況は自分のものではない剣の下を潜り抜けること)の入口にあった展示――米兵が「勝利の手」の前でポーズした写真の構図とそっくりだからです。

アメリカのアーチスト、マイケル・ラコヴィッツが展示したもので、サダムお抱えのモニュメント設計者が、実はスターウォーズのVictory Arch (Strike the Empire Back Series)からパクったかのように見せている。それをまた日本のコミックスが借用したのだから、どっちもどっちと言うべきだろうか。

私には「勝利の手」が無性に懐かしい。まだサダム時代の1996年にこのモニュメントのあるほとんど無人の広場に立ち、そのバカげた想像力に唖然とした記憶があるからだ。高さ205メートルあるテレビ塔「国際サダム・タワー」(現在はバグダッド・タワー)の最上階の展望台から、チグリスの東岸にそびえるこのモニュメントのシルエットを眺め、2月のバグダッドの空々しい風音に耳を澄ましたのを覚えている。

しかし『ヨルムンガンド』の設定は、米軍侵攻でサダムが滅びたあとである。荒野の一本道で武器を積んだトラックを連ねたココの一隊が疾走していて、PMC(民間軍事会社)の待ち伏せにあうシーンが描かれる。

へえ、今やコミックスにPMCが出てくる時代か。映画『ハートロッカー』で描かれたように路肩爆弾(IED)などで車ごと吹っ飛ばされるテロが頻発、進駐した外国軍は正規兵の人命を含めたコストを下げるため、民間軍事会社がガードマンを請け負った。多くは特殊部隊など命知らずの元兵士が高給で雇われている。

その実態は本誌寄稿者の一人、菅原出君の『民間軍事会社の内幕』(ちくま文庫)に詳しいからそちらに譲る。もちろん、コミックスのようにPMCが山賊化しているというのは誇張だろうが、荒くれ男たちの命がけの仕事であることは間違いない。

『ヨルムンガンド』のパクリを咎めるより、その素材を探すほうがずっと楽しいことだ。作者はリアリティーを追求しているのに、バイオレンス場面ではリアリティーを失う。山賊化したPMCと武器の荷を運ぶ私兵との戦闘が、本来はどっちもどっちであるのに、現実離れした超人ぞろいの私兵側が完膚なきまでにPMCを殲滅してしまうからだ。

主人公が強いのはあたりまえ?いや、ココ・ヘクマティアルには、対称的双数的な敵・味方のバイオレンスを超えた超越性が、最初から与えられているからだ。

ココは「リヴァイアサン」なのだ。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン5 バイオレンス

もちろん、コミックス「ヨルムンガンド」が、007の「スペクター団」のような世界陰謀説の焼き直しストーリーなら、ここで取り上げるまでもなかったろう。帝政ロシアの秘密警察オフラーナあたりが偽造した「シオンの長老の議定書」をいまだに信奉する陰謀史観は、ネトウヨの妄想にでも任せておけばいいだろう。

しかしいくら北欧神話の世界蛇から名を借りたとはいえ、この作品で「ヨルムンガンド」が何を意味するのかは、物語の最後まで分からない。

「New World Phase 11」で女武器商人ココ・ヘクマティアルの口から種明かしされるが、これこそまさにDeus ex Machinaで、アニメのとってつけたような最終兵器と同じように、ほとんど荒唐無稽で空疎な概念でしかない。それがやっぱりコミックスの限界だし、それ以上肉付けできたら北一輝の『日本改造法案大綱』になってしまうから、フィクションという安全装置は外さないための仕掛けと言える。

かくてコミックス『ヨルムンガンド』は二つの犠牲を払った。ひとつはミクロのバイオレンスしか画かないという制約である。でも、これは制約というより、女武器商人の私兵と、それを襲う殺し屋たちの戦闘シーンを延々と続けられるから、劇画としてはメリットというべきか。

そこから逆算すれば、殺し屋たちのキャラクターで、話がもってしまうのだ。たとえばパンツをはいていない少女殺し屋チナツと、その師匠という殺し屋「オーケストラ」の二人組。なんだかその設定自体、「修羅雪姫」を下地にユナ・サーマンにカンフーを演じさせたタランティーノを連想させる。

違うかな。私の好きなエピソード、Musica ex Machinaは、このオーケストラによる拷問から始まる。



師匠「なんだこりゃ、つまらねえ‼しまらねえ‼この程度の演奏で全滅するとは思わなかった!」

チナツ「師匠はオシャレだから」

師匠「そう!おれはシャレてるから、銃撃戦を音楽にたとえる!」
「はるばるイタリアから地球か苛政なのか、見分けもつかねえトコまで逃げてきやがって」
「ここどこだっけ?チナツ」

チナツ「アジア、中東オマーンの飛び地だよ」

師匠「こう思いながら追った!『凄えバカだが凄え根性がある連中だ』」
「だからきっと、伝説になるような大演奏を奏でられる!」
「買いかぶったぜ!釣られた魚でももうちょっとは抵抗する!」



と言って、チナツに尋問させる。が、捕まった男は「さあね、忘れちまった」と口を割らない。

師匠は「…また答えてもらえなかったな、残念」と言って男をチナツに引き渡す。



チナツ「あたしの仕事は……『自分だけは逃げ切れる』みたいな甘い確信犯の夢を」

「メチャメチャに粉砕すること」



と言って、オルゴールみたいな装置を男に向ける。「全弾(15発)を一か所に撃ちこむ装置なのだ!フトモモのお肉が全部ふっとぶぞぉ」と装置をセットして、師匠と立ち去る。



ドカ、ドカ、ギャッ、パン、パンパン、パンパンパン。



擬音だけで終わる。これってすごくクールだと思う。

FACTAの調査報道も、こういきたいね。ステルス・マーケティング部隊を動員して守るなんて、せせこまし過ぎないかい。いや、論語読みの将軍様は、自覚していないけど、もうとっくに歌っているだろう。



死ぬのはオマエだよォ。だが楽に死ねると思うなよ?



『ヨルムンガンド』が払った犠牲はもうひとつある。『AKIRA』の大友克洋と同じで、人物の書き分けが下手なものだから、どっちがどっちを襲っているのか、時々分からなくなる。

劇画の本性上、バイオレンスの進行がフラッシュバックのように断片的だ。たとえばMusica ex Machinaでも、ココが二人組殺し屋に仕留められそうな瞬間、元少年兵ヨナが上から降ってくるけど、何で防いだのか、わからない。そこは説明もない。

断片的なコマの空隙は想像力で補わなければならず、それが独特のリズムを生む。アニメは空隙をアクションで埋めるので、どうしてもくどくてまだるっこしい。

この断絶が『ヨルムンガンド』の本質なのだろう。しかし、もうひとつ、リダンダンシー(冗長性)もここにはある。それは次回。(続く)

ヨルムンガンドとリヴァイアサン4 世界蛇

リヴァイアサンが旧約聖書ヨナ記の「大魚」でないことくらい、もちろん知っている。

旧約の預言者ヨナを呑み込んだ大魚は、三日間、その腹の中にヨナを生かしておいて吐き出した。ヨナが生還したことからみると、ピノキオを呑みこんだ鯨のようなイメージかもしれない。

リヴァイアサンはもっと禍々しいイメージだ。旧約のヨブ記41章に出てくるが、巨大な鰐、または龍のような怪物と思える。



地の上には是(これ)と並ぶ者なし、是は恐れなき身に造られたり、是は一切の高大なる者を軽視(かろん)ず。誠に諸(もろもろ)の誇り高ぶる者の王たるなり



でも、『ヨルムンガンド』の作者は、北欧神話の世界蛇、ヨルムンガンドを持ちだしたことから、少年兵ヨナを呑みこんだ怪物を蛇のようなものとイメージしているのではないか。



五つの陸を食らいつくし

三つの海を飲み干しても

空だけはどうすることもできない

翼も足もないこの身では。

我は世界蛇。

我が名はヨルムンガンド




これがこのコミックスの巻頭にあるエピグラフだが、そこにすでに結末のヒントがある。この作品が行き当たりバッタリでなく、プロットを持って書かれたことが分かるのだが、ま、それはネタバレになるのでこれ以上は触れまい。

でも、ヨルムンガンドって何?と首をかしげる人は少なくないだろう。ワーグナーの『指環』4部作を聞いたことがあるだろうか?あれが退屈だというなら、もうそこで諦めるしかないが、あの下敷きになったゲルマン神話は、スカンジナビアの神話と地続きだ。

ワーグナーがダメというなら、『ロード・オブ・ザ・リング』でもいいかもしれない。トールキンの『指環物語』のファンなら、背後にある原型の神話に興味を持つだろう。トールキンは無から有を産み出したわけじゃない。『エッダ』や『サーガ』というタネ本があるのだ。

ワーグナーの『ラインの黄金』から『神々の黄昏』まで全曲を聞いて、さらに『ロード・オブ・ザ・リング』のDVDを全部観た後に、さらにそれがどんな神話を下敷きにしているかの解説本を読んで、ついでにジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』ものぞいて、なぜ主人公スティーブン・ディーダラスがトネリコの木の杖を振り回すのかを考えてみると面白いはず(北欧神話の世界樹ユグドラシルはトネリコの木なのだ)。

まあ、そんな時間がない方には、少々安易な、手っ取り早い近道がある。山室静の北欧神話本を拾い読みすることだ。

スカンジナビアの宇宙創造神話では、この世は三層に分かれている。神々が住み、死せる戦士の館ヴァルハラのある天上の世界がアースガルド、人間の住む地上がミッドガルド、死者の住む地下(または北)の霧の世界が二ヴルヘイムという。ミッドガルドは広大な大洋に囲まれている。



恐るべき世界蛇ヨルムンガルドが、この大海に住んでいた。彼はミッドガルドを一捲きにして、自分の尾をくわえるほど長大だった。(K・クロスリィ=ホランド『北欧神話物語』山室静・米原まり子訳)



ヨルムンガルドは、主神オーディンの義兄弟でありながら邪悪なロキの庶子である。ロキはミッドガルドの東の山麓ヨーツンヘイムに住むという巨人の女アングルホダとの間に三人の怪物を生む。長子が狼のフェンリル、二番目が蛇のヨルムンガイド、三番目が上半身がピンク、下半身が腐った黒の娘ヘルだった。この怪物を不安に思ったアースガルドの神々はオーディンの命令で三人を誘拐する。



オーディンは迷いませんでした。彼はヨルムンガンドをつかみあげ、人間の世界ミッドガルドをとり囲んでいる海洋の中へ投げ込みました。蛇は空中を音をたてて飛んで行き、鉄のような水面を突き破って、海の底へ沈んでいきました。そこで彼は生き、そこで成長しました。そしてミッドガルド蛇とも呼ばれるヨルムンガンドは、あまりに太く、あまりに長く成長したので、全世界をぐるっとひと巻きにして、さらに自分自身の尾もくわえるほどになったのです。(同)



だいたい、イメージできただろうか。インド神話で世界を支える巨大な亀クールマのようなものだ。無限循環を思わせる巨大な竜がうずを巻いたその上に、地下世界を象徴するウミガメが乗り、その甲羅の上に立つ4頭の象が半球状の大地を支えるという宇宙を古代インド人は考えていた。

そこに古事記神代巻のような、乳海撹拌の説話が生まれる。神々(ディーヴァ)と魔神(アスラ)が不死を得ようとに霊薬アムリタを作ることにした際、海から聳えたマンダラ山を中心に世界を撹拌したが、その最中に一度旧い世界が滅び、マンダラ山を支えたのがヴィシュヌの化身した巨大亀クールマだった。

北欧とインドの神話に印欧語族の紐帯があるかどうかは、民俗学者にお任せしよう。この世界蛇の一端が、リヴァイアサンと思えないこともない。

それをコミックスのタイトルとしたネーミングの妙に拍手したい。

谷口幸男翻訳の「エッダ」が、どこか硬くで断片的で隔靴掻痒で、私も本を放り出したことがある。日本の北欧神話ファンを少数にしてきた理由がそれだったと思えるだけに、武器商人のミリシアを描いたコミックスで突如その化け物の名が蘇ったことは喜ばしい。

ヨルムンガンドとリヴァイアサン3 饒舌

『ヨルムンガンド』の作者に敬服すること。それは、9・11にWTCが崩れ落ちて武器取引と大量破壊兵器開発の追跡行が吹っ飛んで以来、オレはいったい何をしてきたのだ、と自問するにひとしい。

11年も追跡をお留守にしていれば、コミックスの想像力に負けるのは是非もない。そのノウハウを、資本の悪追及とその破壊に浪費しちゃったのかもしれない。

一撃必中、弱点連打……経済スキャンダルの調査報道にそれが有効だったことは証明できたと思うが、本命の宿題がなおざりじゃ、しゃんめえ、ということになる。

そろそろ本道にもどりたいな、という気はするが、浪費したのは取材ノウハウだけじゃない。体力とそして年齢も、10年以上前とは違う。あれほど行きたかったアフガニスタンも、あの過酷な環境では、この夏取材に行った菅原出君のようにはとても耐えられないと思う。

『ヨルムンガンド』の私兵チームのように、辺境から辺境を渡り歩く体力もカネも今はない。口惜しいなあ、そんな思いがこれを書く機縁になった。

フフーフ。

だんだん、アニメに影響されて、女武器商人ココ・ヘクマティアルの口癖に感染しそうだ。

何が負けたって、ココの饒舌なせりふ(エンディングの布石なのだが)には頭が下がる。

たとえばMusica ex MachinaのPhase 5

Deus ex Machina(機械仕掛けの神)のもじりだが、そこでヨナを相手に聞かせるせりふがいい。寡黙なヨナはほとんど一方的なココのモノローグを聞くだけだ。



「フラフラと『矛盾』したことを喋ってもいいのは、数多の職業の中で武器商人だけ」



もちろん、これは「韓非子」の故事のことだ。

「楚の人に楯と矛とを鬻(ひさ)ぐ者あり。これを誉めて曰く。吾が楯の堅きこと、よく陥とすものなしと。またその矛を誉めて曰く、吾が矛の利きこと、物において陥とさざるなし、と」



「私の口から出る情報は正しいのか否か、君に必要か否か」

「選択しながら聞くことだ。続きだ、ヨナ」

「最も多く銃を持っている人間は?」

――軍人だ。

「残念ハズレ」

民間人だ

「なんと全世界の銃の60%を一般市民が握っている」

「10人に一人が武装している」

「37%が軍隊、残りが警察……」

「メディアが大騒ぎの反政府武装集団、彼らの銃なんか0.1%にもならない」



ぐやじいけど、これはほんとうだ。松本仁一の『カラシニコフ』を読んだのかな。この10年、火器について日本人ジャーナリストが追跡したのはこれっきりというのが寂しい。

オバマが口にする軍縮が欺瞞だなと思うのは、国内の銃規制を野放しにしておいて、他国に武器放棄を説くから。ココも兄のキャスパーも、その「矛盾」はよくお分かりだ。武器は人類の矛盾そのもの、けれども切るに切れない必要悪と言うほかない。

ここから話はリヴァイアサンに飛ぶ。旧約聖書の怪獣ではない。トマス・ホッブスの主著『リヴァイアサン』である。



人は人に狼(homo homini lupus)



あの自然状態(万人に対する万人の闘争 bellum omnium contra omnes)は、ホッブスが国家契約説の前提として立てた仮説だなんて、ありきたりのことを言いたいのではない。ホッブスにとってはそうだったかもしれないが、自然状態はいまここにあるもの、それが常態なのだ、とココは言っているんじゃないか。(続く)

佐藤栄佐久・福島県元知事の冤罪

最高裁の上告棄却で、二審の有罪判決が確定した。収賄罪の根底が崩れているのに、検察の控訴と被告の控訴を両方棄却する形で、国家権力のメンツを守ろうとした最高裁第一小法廷の裁判長、桜井龍子判事をFACTAは断罪する。

桜井判事の判断は歴史的誤審であり、検察の国策捜査と同罪です。桜井判事は法曹にいる資格がない。地の果てまで、FACTAはこの裁判官を追跡します。

この事件についてはFACTAが他のメディアに先駆けて問題性を訴えてきた。最高裁決定を受けて、佐藤氏からこのようなメッセージが寄せられたので紹介しよう。





最高裁判所決定についてのコメント

平成24年10月16日
佐藤栄佐久

本日10月16日、最高裁判所は、私、佐藤栄佐久の上告を棄却する決定を下しました。

私は、この裁判で問われている収賄罪について無実であり、最高裁の決定には到底、承服できません。真実から目を背けるこの国の司法に対して、大変な失望を感じています。

そもそも、この事件は「ない」ものを「ある」とでっち上げた、砂上の楼閣でした。

福島県の「木戸ダム」建設工事入札で、私と弟が共謀して、私が県の土木部長に対してゼネコンを指定する「天の声」を発する一方、そのゼネコンが、私の弟が経営する会社の土地を下請のサブコンを使って、市価よりも高い値段で買わせることで賄賂にしたというのが、東京地検特捜部の見立てでした。
これにより、私と弟は収賄罪で突然逮捕され、世間から隔絶された東京拘置所の取調室で、特捜部の検事から身に覚えのない自白を迫られました。検事は、時にはどなりつけ、時にはなだめ、私から収賄の自白を取ろうとしました。
私の支持者たちが軒並み特捜部に呼び出されて厳しい取り調べを受けている、それによって自殺未遂者も出ている。私は独房の中で悩み、そして、「自分ひとりが罪をかぶって支持者が助かるなら」と、一度は虚偽の自白をいたしました。

しかし、私は知らなかったのです。東京地検特捜部が、あまりにも無理な接ぎ木を重ねて収賄罪の絵を描いていたことを。

裁判が始まると、収賄罪の要件は次々に崩れていきました。私が知事室で土木部長に発したという「天の声」は、弁護団の調べで、どう考えても不可能だというアリバイが証明されました。また、「知事への賄賂のつもりで弟の会社の土地を買った」と証言したサブコン水谷建設の水谷功元会長は、「検事との取引でそう証言したが、事実は違う。知事は潔白だ」というメールを、宗像紀夫主任弁護人に送ってきています。一方で、私から天の声を聞いたという土木部長の自宅からは、出所不明の札束が2600万円以上も見つかり、事件の構図は全く違うのではないかという、大きな疑いが出て参りました。特捜部の描いた収賄罪の構図は、完全に崩れてしまったのです。

私の弟は、東京拘置所の取調室で、担当の検事からこんなことを言われていました。

「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」

今にして思えば、これが事件の本質だったのかも知れません。

私は知事在任中、東京電力福島第一・第二原発での事故やトラブルを隠蔽する、国や電力会社の体質に、福島県210万県民の安全のため、厳しく対峙していました。国から求められていたプルサーマル実施についても、県に「エネルギー政策検討会」を設置して議論を重ね、疑義ありとして拒否をしていました。事件は、このような「攻防」を背景に起きました。

大変残念ながら、その後プルサーマルを実施した福島第一原発3号機を含む3つの原子炉が、福島原発事故でメルトダウンを起こし、私の懸念は、思っても見ない形で現実のものとなってしまいました。私たちのかけがえのない「ふるさと福島」は汚され、いまも多くの県民が避難を余儀なくされる事態が、いまだ進行中です。苦難を余儀なくされ、不安のうちに暮らしている県民を思うとき、私の胸はひどく痛みます。

一方、私の事件の直後に起きた郵便不正事件のフロッピーディスク証拠改竄事件の発覚によって、特捜検察の、無理なストーリーを作っての強引な捜査手法が白日の下にさらされました。フロッピー改竄事件で実刑判決を受け、服役した前田恒彦検事は、私の事件で水谷功氏を取り調べ、水谷氏に取引を持ちかけた検事その人なのです。

当然、私の事件はすべて洗い直され、私には無罪判決が言い渡されるべきでした。

しかし、最高裁は私と検察側双方の上告を棄却した、そう聞いています。

確定した二審判決である東京高裁判決は、大変奇妙なものでした。私と弟の収賄を認めたにもかかわらず、追徴金はゼロ、つまり、「賄賂の金額がゼロ」と認定したのです。そして判決文では、「知事は収賄の認識すらなかった可能性」を示唆しました。ならば無罪のはずですが、特捜部の顔も立てて、「実質無罪の有罪判決」を出したのです。

今日の決定は、こんな検察の顔色を伺ったような二審判決を、司法権の最高機関である最高裁判所が公式に認めたということなのです。当事者として、こんな不正義があってよいのかと憤ると同時に、この決定は今後の日本に間違いなく禍根を残すと心配しています。

福島県民のみなさま。日本国民のみなさま。

私は、弁護団とも相談しながら、今後とも再審を求めることを含めて、無罪を求める闘いを今後も続けていきます。どうか、お心を寄せていただきますようお願い申し上げます。


ヨルムンガンドとリヴァイアサン2 武器商人

リヴァイアサンに飛ぶ前に、もう少し武器商人の話をつづけよう。

95年にロンドンに赴任した時、メージャー保守党政権下で第一次湾岸戦争の検証が英国の独立調査委員会(スコット委員会)で行われていた。それは事実上、サッチャー前政権が80年代のサダム・フセイン支援策でイラクのクウェート侵攻の火種をつくった――イランの脅威封じ込めのための武器供与に手を汚していたのではないか、という検証だった。

スコット委員会の証人尋問では、サッチャー自身も証言台に立たされている。96年2月15日の報告書発表の会見は私も末席にいて、あまりに大部の報告書にうなった記憶がある。結論は、前首相の犯罪は証拠不十分というものだったが、政権ぐるみでイラクに軍民両用品を供与し、大量破壊兵器の開発を黙認していたことは明らかで、国家機密上「臭いものに蓋」をしたのである。

それなら自分で調べ直してやろう、と思ったのが始まりだった。ついでに第一次湾岸戦争に敗れて、経済制裁下にあったサダムが、なお大量破壊兵器を隠し持っているかも調べようと思った。笑っちゃいけない。そんな不可能事(CIAやMI6も結果的には失敗)ができると思いあがった日本人記者がいただけのことだ。下調べとして、武器売買の一端を書いた本をずいぶんと読み漁った。

ちょっと古いが、Seven SistersのAnthony Sampsonが書いたThe Arms Bazaar。

FT記者だったAlan FriedmanのSpider’s Web

The Guardian記者だったRichard Norton-TaylorのTruth is not a Difficult Concept

フォーサイスの『神の拳』のタネ本になったChris CowlyのGuns, Lies and Spies

スーパーガンに関与して暗殺された異能のゲラルド・ブル博士を追ったWillam LawtherのArms & the Man

工作機械のイラク向け違法輸出に関わり逮捕されたメイトリクス・チャーチルのMDだったPaul HendersonのThe Unlikely Spy

Astra Fireworksという花火企業の経営者が、1億ポンドの武器製造業者に仕立てられた内幕を暴いたGerald JamesのIn the Public Interest

アトランタの調査報道記者でサダム・フセインの資金調達の抜け道になったイタリアの銀行BNLアトランタ支店を追跡したPeter MantiusのShell Game

米NSCのスタッフだったHoward TeicherとGayle Radley TeicherのTwin Pillars to Desert Storm

さらにIran Contraの関連文献――Bob Woodward のThe VeilからアメリカのThe National Security Archives がまとめたThe Chronologyまで

そしてむろん、全4巻のスコット・リポート(Report of the Inquiry into the Export of Defence Equipment and Dual-Use Goods to Iraq and Related Prosecutions)

FACTAの寄稿者になったゴードン・トーマスは、このなかのジェラルド・ジェームズに取材した時にお会いしたジャーナリストである。ガーディアンのノートン・テイラーもいろいろ教えていただいた。そこから先は、取材メモを一行も使えずに終わった。

内情は言うまい。残念ながら自分一人で裏付ける作業は、私の能力を超えていた。武器輸出の一端しか見えなかったが、それでも武器商人は単なるミドルマンであり、その背後には必ず国家が隠れていることが確信できた。ミドルマンはあくまで運び屋というかダミーで、ほんとうは実利をかねた国家事業なのだ。

NATOもロシアも中国もすべて同罪である。『ヨルムンガンド』の作者がどこまでその現実を知り、これらの文献をご存じかは知らないが、それでも武器商人をひとつの権力構造として描いた力技には敬服せざるをえない。フィクションはすでに現実との接点をみつけているのだ。

コミックスの想像力にジャーナリズムが負けている。(続く)


ヨルムンガンドとリヴァイアサン1 少年兵

下手なサブカルチャー論をぶつつもりはない。

そんな知ったかぶりをするほど興味があるわけでもない。ニュースの一番槍、スペアヘッドたらんと突っ走るだけで、もう十分。それにもういいオッサンだから、今どきの流行なんて度外視しても、ま、世間は許してくれるだろう。

それでもこのコミックス『ヨルムンガンド』に触れるのは、アニメ化された第2シリーズの深夜放映が、この10月9日から毎週火曜にMXテレビなどで始まったからだ。いつしか、ただのサブカルでなく、大仰だが政治論の大きな分かれ目を象徴していると見えてきて、ひとこと言いたくなった。

両親を殺した武器を限りなく憎みながら、容赦なく人を殺せる少年兵が、大手兵器ディーラーの娘という武器商人の私兵の一員となって旅をするという設定だ。

麻生太郎元総理のような胴の入ったコミックスファンではないから、これをコミックス作品としてあれこれ評価する資格は私にない。超人的な戦闘力と頭脳という設定は、コミックスによくあるから、それだけなら見過ごしたろう。

が、いつも笑っているキツネ顔の武器商人と、ほとんど半眼の銀髪の少年兵という取り合わせに、ちょっと釣られた。私も武器商人の世界をジャーナリストとして覗こうとしたことがあるからだ。まだ若さと体力があった90年代、ロンドンに赴任して、第一次湾岸戦争前にイラクに散々武器を売り込んだ米英独仏伊の足跡を追いかけた。

思えば無謀だった。リッツ・ロンドンをうろついて、今はアルツになってしまったマーガレット・サッチャーが、暗躍する武器ディーラーや石油開発業者、インテリジェンスの人間たちに取り巻かれている光景を見たことがある。実はチェチェンに行く手はないかとツテを探していたのだが、武装手段ゼロと言ったら鼻の先でせせら笑われた。

「やめとけ。グロズヌイ(チェチェン共和国の首都)にホリデー・インはないぜ」

いま、インターネットでは、チェチェンでロシア兵6人が首切りされる画像が出回っている。当時も徒手空拳で行けば、誘拐されるか、捕まって処刑されるかだった。

そちらは諦めたが、アフガニスタンはタリバンが全土を制圧しようとしていて、行けるチャンスがあるかもしれないと考えた。カザフスタンで会った秋野豊筑波大学助教授には、いっしょに行きましょうと約束した。

が、98年、秋野助教授はタジキスタンの国連監視団に政務官として入り、7月に首都ドゥシャンベ東方の町ラビジャール近くで族に襲われ射殺されたため、約束はかなわなかった。

99年夏、はじめてイランに入った。ホメイニ革命後の鎖国が、ようやく少し緩みかけたハタニ政権下で、北のアゼルバイジャン国境からペルシャ湾岸のブーシェールまで、広大な国土の西半分を駆けまわった。

そこで本物の元少年兵に会った。私のイラン人ガイドである。

10年前のイラン・イラク戦争時、緑のバンダナを巻いて、地雷原を突進したという。後続の大人の部隊がこの地雷原を突破できるよう、面倒な地雷駆除作業の代わりに、少年兵を走らせて地雷を踏ませ、吹っ飛んだあとを戦車など部隊が突っ込む作戦だ。

サダム・フセインのイラク軍は禁じ手の毒ガスも使ったから、どちらも戦場では手段を選ばず、少年兵も投入されたのだが、彼らは銃器すら持てなかった。大人たちに気合を入れられ、旗を掲げてただ、わーっとバンザイ突撃するだけだ。

隣で誰が吹っ飛んで血と肉に化すか、自分もいつ吹っ飛ぶかわからない、ほとんど自殺行である。戦場の捨てゴマだ。

愚問だが、どうだった?と聞いてみた。

「怖かった」としか言わない。「二度とあんな目にあいたくない」と。

いくら革命戦士として殉教を叩きこまれ、洗脳されても、その恐怖に無感覚になることはできなかったという。『ヨルムンガンド』の少年兵はそれを思いださせた。

少年兵はヨナという。その名はもちろん、旧約聖書の預言者ヨナ、神に「ニネベの町へ行き、悪ゆえに滅ぶと預言せよ」と命じられて逃げ出すが、海で嵐にあい大魚に呑まれてしまうというあのヨナである。

この大魚はリヴァイアサンだったのだろうか。(続く)

国広総合法律事務所への公開質問状(ニイウスコー関連)

カルパースへの公開質問状に続いて、ニイウスコーの監査法人だったトーマツに対し、07年の第三者割当増資に応じた引受先2ファンドが起こした訴訟について、原告代理人の国広総合法律事務所に対して、本来の被告はトーマツでなく、メーンバンクだった三菱東京UFJ銀行(BTMU)であり、その銀行系ファンドとみられるフェニックス・キャピタルが原告に名を連ねているのはおかしい、と問題提起するものです。

もちろん、だからといってトーマツが免罪されるべきだと主張しているのではなく、この訴訟自体がBTMUのイチヂクの葉になっているのではないかと問いかけるものでした。カルパースに質問状を送ったことを付記しているのは、グルとしか見えないこれら日本国内の関係者に対し、海外からのチェックがありうることを示唆するものでした。




国広総合法律事務所

弁護士國廣正 様

中村克己

五味祐子

新熊聡

東京地裁民事訴訟(平成21年―20456号)についての質問状

ファクタ出版株式会社
月刊FACTA発行人阿部重夫

拝啓

時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。ご承知かと思いますが、弊誌FACTAは調査報道を中心とする月刊誌で、直近3号で「メガバンクの仮面」と題して三菱東京UFJ銀行(以下、BTMU)と破綻したニイウスコーの関係を検証する連載記事を掲載しました。ご精読いただければお分かりでしょうが、この件は東京地裁民事45部で係争中の訴訟(平成21年―20456号)と密接に係わりがあります。

この訴訟は貴事務所を代理人とし、ネプチューン・ホールディングスLPとフェニックス・キャピタルを原告とし、ニイウスコーの監査法人だったトーマツを被告とするものです。弊誌の取材の結果、ニイウスコーの粉飾については主取引銀行のBTMUが早くから知るところであったにもかかわらず、2007年の第三者割当増資については投資家にそれを知らせることなく引き受けさせ、かつ約束した債務の株式化(デット・エクイティー・スワップ、以下DES)も履行しなかったのは、銀行にあるまじき詐欺的行為とも見え、結果として翌年の民事再生法申請で債権回収を優先させたとの疑いが濃厚になりました。

本件訴訟の被告であるトーマツは、事前の資産査定(デューデリジェンス、以下DD)によってこの粉飾を指摘してできなかった責任はあるものの、本来非とすべきはニイウスコーの粉飾隠しに加担し、かつその過程で数々の銀行法違反、金融商品取引法違反の疑いの濃い行為をしたBTMUではなかったでしょうか。弊誌記事でも明かしましたように、弊誌はBTMUが事前にKPMG FASにDDさせた報告書を改竄した証拠を入手しています。それらの資料は証券取引等監視委員会にも提出されており、これらを勘案すると、上記訴訟のシナリオは大幅に変更せざるをえないかと考えます。

弊誌はまた、原告ネプチューン・ホールディングスLPが、実質的には独立系ファンドのロングリーチグループであり、彼らを突き上げて訴訟を提起させた機関投資家の一つに、全米第一位の規模の機関投資家、カリフォルニア州職員退職年金基金(以下、カルパース)が含まれていると知りました。そこで上記訴訟の訴因、および被告の妥当性について、弊誌はカルパースに質問状を出すことにしました。併せて原告代理人に対しても、この訴訟方針についてのご見解をうかがいたく存じます。

1) 増資決定前にKPMG FASが行ったDD報告書を見ているか

ロングリーチは「見ていない」としています。しかし原告の一角であるフェニックスはBTMUとの密接な関係から知りうる立場にありました。代理人に対して、改竄前、改竄後の報告書を訴訟提起前に提出していますか。

2) KPMGのDD報告書をBTMUが書き直させたことは、ファンドの投資家に対する背信行為ではないか

3) BTMUがニイウスコーがリリースしたDESを履行しなかったことが、ファンドの投資家の損失を大きくしたと考えるか

4) 損害賠償を請求する対象は、トーマツよりもむしろBTMUと考えないか。フェニックスはBTMU系列と目され、本件の原告二者は利害が相反するのではないか

5) カルパースなどファンドの投資家に対しては、FACTAの問題提起の後、どのようにこの訴訟の妥当性を説明しているのか

以上です。お忙しいところ恐縮ですが、締め切りの都合もございますので、9月10日までにご回答をいただければ幸甚と存じます。弁護士の守秘義務から「個別案件に答えられない」のでしたら、オフレコでの取材、もしくは情報交換に応じていただけないでしょうか。訴訟の今後を考えますと、けっして損ではないと考えます。

なお、本誌最新号の発売日(8月20日)の2日後、JR中央線四ツ谷駅構内にて、日本IBM最高顧問、大歳卓麻氏が女性のスカートの中を盗撮した疑いで逮捕され、都迷惑防止条例違反の疑いで近く書類送検されることになりました。大歳氏は1999年から2008年まで日本IBM社長をつとめ、IBMと野村総研の合弁企業であるニイウスコーには深く関わった人物です。また、総務相の諮問機関、情報通信審議会の会長やBTMU、TOTO、花王の社外取締役でもありました(8月30日辞任)。

ニイウスコー破綻の根は深く、弊誌はBTMUと日本IBMの「関係」を今後とも追及していく所存です。ご協力のほどお願い申し上げます。
敬具


これに対し国広総合法律事務所は9月7日にファクスで予想通りのノーコメント回答をしてきた。

ご連絡

前略貴殿からの質問状、拝見いたしました。

貴殿もご指摘のとおり、当職らは法律の守秘義務を負っておりますため、質問状への回答、取材への対応等については応じかねますのでご了承下さい。早々


もちろん、弊誌はそう簡単に了承しない。東京地裁民事45部の石井浩部長がこの公開質問状に目を止めることを期待しよう。ご担当の裁判は、被告と原告がごちゃまぜの茶番劇なのですから。

カルパースへの公開質問状(ニイウスコー関連)英文添付

しばらくブログの間があいた。さすがに英気を養う夏休みをとり、休めばたちまち取材日程が立て込んで、ブログを書いている暇がなかったからというのは言い訳がましいだろうか。

もうひとつは事情があって、懸案の本の原稿を急ぎ書き上げる必要が出てきたからです。ちょっとその調べもので忙しいというのが本音である。

とはいえ、あんまり沈黙していると、夏バテでくたばったかと、変に憶測する連中がいる。どうもFACTAが鬱陶しいと思っているステマ部隊が、あらぬ噂をたてそうなので、ここでアッカンベーをしてみたい。

さて、恒例の公開質問状である。今回は「モノ言う株主」として有名な全米最大の機関投資家「カリフォルニア州職員退職年金基金」、つまりは「カルパース」のCIOとコーポレート・ガバナンス担当者に対し、本誌が前号まで3回連続で追及した三菱東京UFJ銀行とニイウスコーの問題をどう考えるのかを問いただすとともに、問題提起する質問状である。

なんとなれば、ニイウスコーが破綻半年前に実施した第三社割当増資200億円の引受先となった2ファンドのうちのひとつにカルパースが投資していて、それが大きな損失を出しているからだ。この2ファンドはニイウスコーの監査法人だったトーマツに対し東京地裁で賠償請求訴訟を起こしているが、背後にはカルパースの強い突き上げがあったという。

だとすれば、本誌報道でニイウスコーのメーンバンク、三菱東京UFJ銀行に対しても、その粉飾を知りながら第三者割当増資を実行させ、その際にデット・エクイティー・スワップ(債務の株式交換)を内諾しながら見送った行為を、投資家は黙認するのか、と問いかけたのである。

9月末を回答期限としているので、それを待っている段階だが、それを広く一般に議論してもらう狙いをこめて、このブログで公開しよう。カルパースに送ったのは英文なので、日本語のほかに英文も添付した。その他に資料として送った弊誌「メガバンクの仮面」シリーズの英訳は割愛した。



Mr Joseph A. Dear
CIO of Calpers

Ms Anna Simpson

Senior Team Director
Corporate Governance
CalPERS

NIWSCOに関する質問状

我々は日本の調査報道専門の月刊誌FACTAです。その雑誌名は昨年、日本で起きたオリンパスの粉飾事件をどのメディアよりも早く報じ、社長のマイケル・ウッドフォードの反乱の引き金を引いて、不正が暴かれたことでお聞き及びかと思います。弊誌は常々、カルパースの投資方針や運営方針を注視し、コーポレート・ガバナンスについての見識に深い尊敬の念を抱いてきました。我々の雑誌の使命も、日本の歪んだ資本市場にカルパース哲学の合理性を貫徹させることと信じております。

さて、FACTAはカルパースに新たな問題を提起したいと思います。2008年に起きた日本IBM系企業、ニイウスコーの破綻についての疑惑です。破綻4カ月前に行ったニイウスコーの増資引き受けに、カルパースも独立系ファンドのロングリーチグループを通じて加わっていたと聞きましたので、カルパースも当事者になります。

この増資は08年夏に決定され、ロングリーチとフェニックス・キャピタルの二つのファンドが11月に合計200億円を払いこみました。ところが、事前の資産査定では発見されなかった循環取引などの粉飾が社内委員会の調査で発覚、4カ月後に民事再生法(アメリカの破産法11条)適用を申請してニイウスコーは破産しました。元会長と元副会長は5年間で計682億円に及ぶ売上高過大計上で刑事訴追され、一審で有罪判決を受けました。

FACTAはこの経緯を深く掘り下げ、主取引銀行の三菱東京UFJ銀行(BTMU)が増資前から粉飾を知っていたことを突き止めました。07年上期にKPMG FASが行ったニイウスコーの資産査定で粉飾が発見されたにもかかわらず、BTMUはその報告書を改竄させたのです。FACTAは改竄前と改竄後の報告書コピーを入手し、その他の関連資料からも、BTMUがニイウスコーの粉飾隠しに協力し、何も知らないファンドの投資家を増資引き受けに引っぱりこんだことは明らかです。

フェニックスは幹部がBTMU出身ですから、事実上の系列ファンドであり、BTMUの言いなりでした。ロングリーチはKPMGの報告書を見ておらず、トーマツによる資産査定で「問題なし」とのお墨付きを得たうえ、デット・エクィティー・スワップ(DES)を含めたBTMUの全面支援を信じて135億円の出資に踏み切りました。ところが、BTMUはDESを履行せず、法的処理の道を選びました。結果として、返済順位が劣後する投資家が泣きを見て、融資銀行の債権回収が優先されたことになります。

ロングリーチはフェニックスともに短期間で大損をこうむったため、監査法人のトーマツを被告として損害賠償請求の民事訴訟を起こしました。4年を経てまだ係争中です。しかしこの訴訟は、粉飾見逃しの責任のあるBTMUを被告にしていないなど大きな矛盾を抱えています。弊誌は原告代理人の弁護士に質問状を送りましたが、カルパースに対してもご見解をうかがいたいと思います。

1) カルパースがロングリーチを通じてニイウスコーに出資した経緯について、カルパース内ではどう結論づけているか

2) KPMGのDD報告書をBTMUが書き直させ、さらにそれを隠したことは、ファンドの投資家に対するBTMUの背信行為と考えるか

3) ニイウスコーがリリースしたDESをBTMUが履行しなかったことが、ファンドの投資家の損失を大きくしたと考えるか

4) 損害賠償を請求する対象は、トーマツよりもむしろBTMUではないか。フェニックスはBTMU系列と目され、原告二者は利害が相反するのではないか

5) メガバンクは「アームズ・レングス・ルール」を無視し、投資家の犠牲のもとに債権保全を優先する構造的欠陥を持っているのではないか

以上です。関連資料も同封いたしました。必ずやカルパース内でこの問題について、真摯な議論が交わされることを期待いたします。質問状の回答については9月末までに文書ないしはメールかFAXでいただければ幸甚です。

シティ・グループのサンディ・ワイル元会長も7月にCNBCテレビで「メガバンクは解体すべきだ」と語りました。BTMUはモルガン・スタンレーの株主であり、国内では三菱主体の三菱UFJ・モルガンスタンレー証券と、モルガン主体のモルガンスタンレーMUFG証券の二つをもつ奇怪な金融グループを形成しています。日本IBMとは銀行システムで持ちつ持たれつの関係で、そうしたメガバンクの構造的欠陥からニイウスコーのような粉飾が派生したのだと思われます。似たような事例は数多くあり、その一端はFACTAの調査報道が暴露していますが、まだ氷山の一角です。

ニイウスコー事件当時、日本IBMの社長だった大歳卓麻最高顧問が8月22日、痴漢行為で逮捕され、30日にBTMUの社外取締役を辞任しました。彼らの腐敗を象徴する事件だと思います。FACTAは今後もメガバンクの病理を追及していく所存です。資本市場の良心として、尊敬してやまないカルパースのご協力を願ってやみません。



さて、これからが英文である。世界で言われる「日本資本主義の特殊性」が、まさにこの問題の延長線上にあることを広く知ってもらいたい。



Mr. Joseph A. Dear
CIO of CalPERS

Ms Anna Simpson

Senior Team Director
Corporate Governance
CalPERS

Questions about NIWS

We are a monthly Japanese magazine called FACTA, which specializes in investigative reporting and analysis on financial and economic issues (please refer to the attached company and magazine profiles). You might have heard of FACTA as it was the first magazine to report on Olympus’s window-dressing scandal. Our article triggered official criticism from Michael Woodford, former president of Olympus Japan, against Olympus’s management, which revealed one of the biggest and longest-running loss-hiding arrangements in Japanese corporate history.

FACTA pays close attention to economic news and events around the world, including CalPERS and your investment and management policies. We have a deep respect for CalPERS’ policies, expertise and advice on corporate governance as a leading global investor representing California’s public employees and retirees. The mission of our magazine is to change Japan’s vented capital market to more closely meet CalPERS’ philosophy.

I am writing from FACTA to raise an issue which should be a matter of serious concern to CalPERS. It is about our suspicions concerning the bankruptcy in 2008 of computer systems integrator NIWS Co. HQ Ltd., an IBM Japan group company. We heard that CalPERS invested in NIWS’s capital increase through the Longreach Group four months before NIWS went bankrupt. Therefore, CalPERS was involved in the NIWS capital increase issue.

The capital increase had been decided in the summer of 2008, and two PE funds, Longreach and Phoenix Capital together paid 20 billion yen in November 2008. However, a series of window-dressing transactions which had not found in the business due diligence by those two funds were discovered through an investigation by an NIWS internal committee. NIWS applied under the Civil Rehabilitation Law (equivalent to Chapter 11, Title 11 of the U.S. Code-Bankruptcy) four months later, and went bankrupt. The former chairman and former deputy chairman were sued for criminal loss of an alleged total of 68.2 billion yen for having engaged in wholesale financial reporting fraud for the past five years (till 2008). They were found guilty.

FACTA had researched the process and background very deeply and completely and reached the conclusion that the Bank of Tokyo Mitsubishi UFJ (BTMU), NIWS’s main bank, had known about the window-dressing of NIWS before NIWS’s capital increase. In the first half of 2007, NIWS’s window dressing was revealed in the due diligence of NIWS’s assets, conducted by KPMG Financial Advisory Service; however, BTMU ordered KPMG to revise its report to eliminate any mention of the fraudulent financial reporting.

FACTA received copies of both due diligence reports and other related materials before and after the falsification. It is very clear that BTMU knew about the window-dressing but worked with NIWS to silence that fact and induced the two funds and their investors to underwrite NIWS’s capital increase. In addition, a fund that had been considering an investment in that capital increase also pointed out to BTMU the possibility of a huge window-dressing effort by NIWS.

Phoenix Capital’s executives are former BTMU bankers and so it can be said that, as the fund is realistically, under the BTMU group, it listened and followed BTMU’s advice, as usual. Longreach did not read KPMG’s due diligence report or any other fund considering an investment in the capital increase that had pointed out possible window-dressing. Therefore, Longreach decided to invest 13.5 billion yen in NIWS’s capital increase, including a DES (debt equity swap), with a “no problem” assessment as a result of due diligence conducted by Tohmatsu and the full support of BTMU. However, BTMU did not execute the DES, but chose a legal way to liquidate NIWS. As a result, investors ranked as subordinate creditors received huge losses, but banks who had made loans to NIWS received preferred positions to call in their debts.

Longreach was the recipient of the same huge loss as Phoenix. Longreach filed a civil lawsuit against Tohmatsu, claiming damages. After four years, it is still under litigation. This raises the question we wish to ask CalPERS. The suit contains a contradiction as it sues Tohmatsu and not BTMU, who had intentionally suppressed the window-dressing and therefore caused damage to NIWS’s investors. FACTA sent an official list of questions to a lawyer representing plaintiff Longreach about our findings. Given the background above, we also would like to ask CalPERS for comments regarding the following questions:

1) What was CalPERS’ conclusion regarding the background and process behind CalPERS’s decision to invest in NIWS through Longreach in 2008 in face of receiving a huge loss when NIWS went bankrupt just four months after the CalPERS investment?

2) What do you think about BTMU’s instructions to revise KPMG’s due diligence report and keep it secret? Would you consider it to be unlawful or at least immoral behavior toward investors?

3) Do you think that the losses were magnified by BTMU’s non-execution of the DES released by NIWS?

4) We believe that the defendant should be BTMU, not Tohmatsu. As Phoenix is the BTMU Group’s PE fund, there is a conflict of interest between two of the current plaintiffs, Longreach and Phoenix. What are your comments regarding this point?

5) Japanese megabanks ( BTMU is one of three megabanks ) neglect the “arms-length rule” and are structurally deficient in that it preferred to protect its debts by sacrificing its investors. What is your view on this point?

We also have enclosed some materials relevant to this issue. We sincerely hope that CalPERS understands the seriousness of our findings and will discuss them internally and prepare a response to our questions. We would be most appreciative if you could send your replies to us by the end of September either by e-mail or facsimile.

Sandy Weill, former chairman of Citi Group, commented on CNBC TV in July that “Mega banks must be dissolved.” BTMU is a shareholder in Morgan Stanley and it forms a conglomerate including two securities firms: Mitsubishi UFJ Morgan Stanley Securities led by Mitsubishi and Morgan Stanley and MUFG Securities led by Morgan in Japan. Phoenix is generally regarded as BTMU group’s captive fund. BTMU has close ties to IBM Japan. The fact that the bank and IBM Japan have such close ties and cooperate with each other for each other’s advantage is at the crux of NIWS’s window-dressing scandal. There were and are many similar cases, some of which we have managed to uncover through our investigative efforts. However, they are only the tip of the iceberg.

Mr.Ohtoshi, who was CEO of IBM Japan at the time NIWS affairs happened, had been a board member of MUFG until 22nd of August when he was arrested for lady molester and resigned board of director at MUFG. This is the symbolic affair representing lack of morale which lies between BTMU (including Phoenix) and IBM Japan.

FACTA is continuing to investigate possible improprieties and illegalities of mega banks in an attempt to bring about a change to Japan’s vented capital market.

We sincerely hope that CalPERS understands our mission. We are looking forward to your frank and open response. Please do not hesitate to contact us if you have any questions.

Editorial Department
FACTA Publishing Company


厚生労働省保険局への公開質問状




厚生労働省保険局
薬価および調剤医療費ご担当様

調剤薬局に関する質問状

ファクタ出版株式会社
月刊誌FACTA発行人阿部重夫

拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。弊誌は調査報道を中心とする月刊誌で、昨年のオリンパス報道や富士薬品など医薬関連問題もたびたび取り上げているので、お聞き及びかと思います。弊誌は調剤薬局のオーバーストア問題や調剤医療費の増加について現在取材中で、この件についてご当局の見解をうかがいたく、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。お尋ねしたいことの柱は以下のとおりです。

1) 調剤医療費の増加
平成23年度版の調剤医療費(電算処理分)では、前年度比7.9%増と他の医療費目に比べ依然高い伸びです。これは1970年代からの医薬分業が当初の狙いであった医療費抑制をもたらさず、分業の設計ミスと考えられますが、厚生労働省の見解は?

2) オーバーストア
コンビニの4万4000軒を上回る5万3000軒の薬局があり、病院前に門前薬局が軒を連ねる光景は明らかに過剰です。これはむりやり医薬分業を進めたため、中小のパパママ零細薬局が増え、彼らをペイする水準に調剤費を設定したために、大手がボロ儲けする構造になったのではないか。

3) 院内処方と院外処方
24年度薬価改定でも、薬剤師側につけられた技術料名目の点数が、医師の診療報酬に比べ著しく高くなっていて、事実上、院内処方より院外処方のコスト高を招いているのではないか。院内処方と院外処方のコスト比を教えてください。

4) 薬価差
薬局の収益は、一括大量仕入れによる製薬会社側のディスカウントに依存しているとおもわれますが、23年度薬価調査では基準価格との乖離率が8・4%でした。これは製薬会社と薬局が薬価の超過利潤を山分けしていることを意味します。24年度の薬価切り下げで、この乖離率をどれだけ低下させられるか、目標を教えてください。

5) 疑義照会のまやかし
医薬分業の目的の一つはダブルチェックでした。しかし現状では、薬局の薬剤師はカルテを見ておらず、処方ミスを指摘できるとは思えません。大手の薬局チェーンなどは作業行程工程がマニュアル化していて、現実には棚から錠剤をおろして詰め替えているだけで、これで技術料とはあきれますが、どう指導しているのですか。

6) ジェネリックへのインセンティブ
医療費抑制のためにジェネリックへのインセンティブをつけていますが、日本調剤のように調剤薬局が自分の系列会社(日本ジェネリック)を持つのは店頭での利益誘導行為を招きかねません。製販一体について厚生労働省の見解は。

7) 高額報酬
日本調剤の社長は6億円以上の役員報酬を取り、京都の洛翆を24億円で購入しました。医療費抑制が叫ばれている折、本来、医薬のコスト抑制に協力すべき調剤薬局が、バブルでぼろ儲けして贅沢を謳歌している現状を厚生労働省は放置するのでしょうか。

以上です。お忙しいところ恐縮ですが、締切の都合もございますので、9月7日(金)までにメール、またはFAX等でご回答いただきますようお願い申し上げます。敬具

9月3日

日本調剤への公開質問状



日本調剤株式会社
広報担当者御中

日経ビジネスインタビューなどに関する質問状

ファクタ出版株式会社
月刊誌FACTA発行人阿部重夫

拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。弊誌は調査報道を中心とする月刊誌で、昨年のオリンパス報道や富士薬品など医薬関連問題もたびたび取り上げているので、お聞き及びかと思います。9月3日号の日経ビジネス「クスリの未来」特集と御社の三津原博社長のインタビューを拝読させていただきました。調剤薬局のオーバーストア問題や調剤医療費の増加について弊誌も取材中ですので、この記事を拝読していくつかご見解をうかがいたい点が出て参りました。

一例を挙げましょう。三津原社長はインタビューで「資本主義社会では、利益とは社会の評価です。誰にも迷惑はかけていません」として、6億5000万円の役員報酬を正当化しています。しかし第1四半期で日本調剤は経常利益が89%減となり、ペナルティー的な4月の薬価改定の影響を認めました。これは調剤薬局の高収益が行政のさじ加減ひとつで左右されることを示し、社会の評価だけによるものとは言い切れないと思われます。

以下、質問項目を6点ほどあげましたので、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

1)「医薬分業」では医療費を抑制できないと考えないか
調剤医療費が他の医療費より伸びが突出(平成23年度7・9%)しているのは、薬価差益を医師から薬局に並行移動させただけではないのか。医師がグリーディーなら薬局もグリーディーだったにすぎず、自らの報酬がそれを示していないか。
2)ダブルチェックは単なるお題目ではないか
医薬分業の目的はダブルチェックだというが、現実には棚卸、袋詰め作業などの単純労働で、技術料が取れる水準ではないのでは?薬剤師の地位向上というが、日本調剤が薬害について何か貢献したことはあるのか。
3)オーバーストアの原因は何であると考えるのか
中小薬局保護のための甘いインセンティブが、大手の薬局チェーンを潤わせてきたのに、社長は「パパママストアでは限界がある」「競合に手心を加える必要はない」とインタビューで答えており、あとは共食いで生き残るしかないと考えているのか
4)行政の制約下で完全競争原理が働くのか
社長は「社会保険の制度において商売をしているから利益を取ってはならないというルールはない」と語っているが、電力料金と同じく超過利潤の太宗が規制に依存している業界で競争原理を言う資格はないのではないか。大手薬局チェーンによる優越的地位の乱用など独禁法に抵触する恐れがあると考えないか。
4)薬剤師不足は薬局の首を絞めないか
病院所属の薬剤師が高収入につられて薬局業界にシフトしていることは、医薬分業を促進する反面、薬局業界のコスト高を招く。すでに行政は調剤医療費抑制へ動きだし、超過利潤が絞り込まれると、高収入を維持できなくなるのではないか
5)後発薬の製薬メーカーを薬局が持つのは医療費抑制には逆効果ではないか
日本調剤が日本ジェネリックを創業し、傘下の調剤薬局チェーンで357品目を売る製販一体方式は、後発薬へのインセンティブが潤沢なことを狙ったビジネスモデルであり、超過利潤を固定させることにならないか
6)外資の後発薬参入で業績予想は修正すべきではないのか
日本ジェネリックは今期第一四半期に黒字となり、社長も「3-5年で売上高1000億円」と言っていますが、8月に提携を発表したファイザーとマイランのように資本力と開発力に勝る外国勢の参入で、取らぬ狸の皮算用にならないか。第一四半期の大幅減益にもかかわらず、通期の業績予想を変更しない理由は何か

以上でございます。お忙しいところ恐縮ですが、締め切りの都合がございますので、9月10日(月)までにご回答いただければ幸いでございます。よろしくご協力のほどお願い申し上げます。

9月5日