令和に読む日記逍遥 第4話<上>
「粛軍」の斎藤隆夫、浪々の日の金策
敢然と軍部を批判した「粛軍」「反軍」演説で勇名を馳せたこの気骨の政治家にして、一度落選するや、木から落ちたサルも同然。病で次々子を失い、弁護士業にあくせく、タニマチへの無心も口に出せずじまい。いざ乾坤一擲と、株式相場で信用取引に打って出るが、大火傷した。再起までの艱難辛苦が、日記に浮かびあがる。=敬称略、一部有料
斎藤隆夫の浪人日記【上】
「貯金余す所僅に二千四百円。平歳の生活費に足らず。将来の事件起れり。千思万考に心を砕く」
斎藤隆夫日記、大正11年4月7日の一節である。
4カ月後にも、同じ様な記述が見える。
「金儲の期待全く外れ、余の貯金は僅に今后二ケ月の生活費を支ふるに過ぎず。中心憂惧に耐へず。晩景より風雨烈し」
斎藤隆夫といえば、昭和10年代に帝国議会で行った2つの演説によっていまや伝説となっている。
ひとつは昭和11年5月7日、二・二六事件直後の第六十九議会における「粛軍に関する質問演説」で、もうひとつは15年2月2日、日中戦争が泥沼化した時期の第七十五議会における「支那事変処理を中心とした質問演説」である。
昭和11年の演説は1時間25分、粛軍演説と言われる。
二・二六事件のような不祥事を根絶するために「一刀両断の処置」を陸相に求めるとともに、事件に責任のある「軍部当局者は、相当に自重されることが国民的要望である」として、軍部の自制を求めた。
粛軍演説は人々の喝采を浴び、憲政史上に残る不朽の演説と評される。斎藤も自伝『回顧七十年』に、次のように記している。
「この演説がかくまで国民的歓迎を受けるとは全く予想しなかった。同時に、私は死すとも、この演説は永くわが国の憲政史上に残ると思えば、私は実に政治家としての一大責任を果したる心地がした」
昭和15年の演説は1時間30分、反軍演説と言われる。
「強者が弱者を征服する、これが戦争である」「この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れ…曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ…国家百年の大計を誤」ってはならないとして、歴代内閣の対中政策を批判した。
演説が終わったとき議場は大拍手に包まれたが、陸軍の怒りが伝わると、演説の3分の2が速記録から削除され、懲罰委員会にかけられて除名処分となった。
その後昭和17年に行われた「翼賛選挙」では、激しい妨害を受けながらも1位当選を果たし、国政へと復帰する。
斎藤隆夫は、明治39年から昭和24年まで43年間にわたって毎日日記をつけていた。そのうち大正5年以降は、没後60年にあたる2009年に『斎藤隆夫日記』として刊行される。一般的に読みどころとされるのは、昭和10年代の粛軍演説や反軍演説あたりだろう。
だが大正から昭和の斎藤日記を逍遥すると、歴史に残る名演説の周辺だけでなく、政治家としての浪人時代もまた、別な意味で興味深いことに気付く。
斎藤隆夫の浪人時代といえば、議員を除名された昭和15年から17年だけではない。衆議院選挙に14回立候補して13回当選、たった1度だけ落選している。大正9年に行われた第14回総選挙で、この後の浪々の日々もまた読みごたえがあるのは、冒頭に引いた日記の一節からもうかがえるだろう。そこでの戦いの相手は、「軍」ではなく「金」であった。
闘病生活2年半
斎藤隆夫は、明治3年に兵庫県の北方、但馬地方の出石郡室埴村で生まれた。兄1人、姉4人の末っ子であった。
12歳のころに京都に出て西本願寺の附属学校に入るが1年で戻され、出石の漢学者から漢学を学んだりしていた。ただそのまま地元に止まるつもりはなかった。
「元来百姓は嫌いであるから、何とかして百姓をせずに身を立てて行きたい心は寸時も胸を離れたことはなく、その心がだんだんに高まって、遂に十六歳の春、父母兄姉らにも相談せず無断に家出をして、再び京都に赴いた」(『回顧七十年』)
出奔だったので働くしかなく、結局数カ月で家に戻った。そのまま農作業を手伝うが「一生百姓で暮らすなどはとても堪えられない」との思いは強まるばかりで、数えで20歳になると父と兄を説得し、東京に出ることにする。
明治22年1月末に上京し、薬屋で奉公したのち、出石の先輩で内務省地理局長だった桜井勉の家の書生となった。12月に桜井が徳島県知事に任命されると同行し、知事官舎の玄関番を務める。
この年の2月には大日本帝国憲法が公布され、翌23年7月には第1回の衆議院総選挙が行われた。
明治24年夏に桜井が解任され故郷に引きこもると、斎藤は東京に戻って、桜井から紹介された郷里の先輩たちをまわって学資の援助を頼み、9月から東京専門学校行政科に通い始めた。のちの早稲田大学である。
このとき学資を援助した先輩の1人が『信濃毎日新聞』主筆から衆議院議員になった青木匡だった。
「電話にて青木匡氏死去の報あり、……余は早稲田在学中は氏より学資の補助を受けたり。明日は会葬して決別を告げん」(斎藤隆夫日記・大正6年5月6日)
最大の後援者となる財界の実力者、原六郎も、このときの学資援助に加わったようだ。ちなみに2021年に閉館した北品川の原美術館は、原六郎の女婿、原邦造が昭和13年に建てた邸宅である。