河上肇「下獄」と秀夫人の奔走

令和に読む日記逍遥 第2話<上>

河上肇「下獄」と秀夫人の奔走

吉本隆明は転向を「自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンの隔たり」(『転向論』)と定義した。治安維持法の弾圧下、戦前共産党に入党し、地下に潜り逮捕され、『獄中独語』で運動を離脱した河上肇はどうだったか。夫だけでなく次女も追われる身で、奔走する秀夫人の日記から跡をたどる。

 

河上秀日記【上】

 

昭和7年の大晦日、東京中央放送局によって、除夜の鐘のリレー放送が初めて行われた。東京の上野寛永寺に始まり、熊本の本妙寺、名古屋の真福寺、松島の瑞巌寺、広島の国泰寺、京城の南山本願寺、大津の三井寺、そして最後が奈良の東大寺であった。

全国各地からの除夜の鐘を、河上肇の夫人秀は、どのような思いで聞いていたのだろうか。夫の河上肇も、娘の芳子も、弟の大塚有章も、いずれも官憲に追われて行方が知れなかったからで、そのときの秀夫人の気持ちは想像することすら難しい。

河上肇の地下生活

昭和7年8月12日、元京都帝国大学教授の河上肇は、義弟の大塚有章の勧めもあって、西大久保にあった家を出て姿をくらました。

昭和3年の三・一五事件、4年の四・一六事件、5年7月の一斉検挙などによって、日本共産党は幹部党員の大半が逮捕された。それでも昭和6年初めに風間丈吉や岩田義道を中心に再建されると、経済不況の深刻化で労働争議が激増していたこともあって、非合法ながらも急速に党勢を拡大させ、機関紙『赤旗セッキ』の発行部数も7千部に達した。

危機感を抱いた取締当局は、昭和7年3月に日本プロレタリア文化聯盟を摘発、蔵原惟人、壺井繁治、窪川鶴次郎、中野重治など4百名を検挙し、その後も次々に支援者を逮捕していった。

河上肇は、昭和6年夏ごろから資金提供を始め、7年に入るとコミンテルン発表の「三二年テーゼ」の全訳を『赤旗』に寄せるなど、日本共産党と関わりを深めており、当局の追及の手が伸びるのも時間の問題だったろう。

地下に潜った河上は、親族や友人の家を転々としたのち、9月9日には親交のあった画家津田青楓の紹介で、津田の実兄、京都の華道家西川一草亭の出張所に移った。麹町の番町小学校の前にあった控家である。

親交のあった画家、津田楓風が描いた河上肇像

その夜、有章は、背の低い30歳ぐらいの男を連れてきた。平松と名乗ったその男は河上に、日本共産党の党員と認められたので、機関紙の編集だけでなくパンフレットなどの作成もするよう告げる。平松は連絡員として一週間ごとにやってきたが、その男こそ日本共産党中央委員長の風間丈吉であることを河上が知るのは、検挙されたのちであった。

数日後、有章の求めに応じて、河上肇は1万5千円を活動資金として提供した。実際に手続きをしたのは秀夫人で、本人でなければ定期預金の解約はできないことがわかると、住友銀行麹町支店長だった実弟の平佐周三の手を煩わした。その受け渡し現場を、有章の招きで上京した西代義治が目撃している。

学生時代の大塚有章と平佐周三(右下)

「京浜電鉄品川駅の食堂に行くと既に、大塚君は来て居り、中村経一君と私は別の卓を囲んで、名流夫人の来るのを待つていた。暫くすると、可成太つた品の良い中年婦人が、大塚の卓に来られたが、私はすぐに河上肇博士の夫人であることを知り、同時に渡されたものが金銭であることを直感した」(『文藝春秋』昭和30年8月号)

河上が提供した資金の総額は2万数千円にものぼる。現在の物価が2千倍なら4、5千万円、4千倍なら1億に近い。

9月末には、河上の次女、芳子が上京し、有章のハウスキーパーとして行動をともにする。京都府立第一高等女学校を卒業したのち津田英学塾に入るが、安逸な日々を送ることに飽き足らず、中退して大阪の阪急百貨店で働いていた。

芳子は神田のYWCAで、同年配の女性を紹介された。京都の元市長、故井上密の次女禮子で、同志社高等女学校を卒業後、京都消費組合運動に参加して西代義治と親しくなり、西代の後を追って東京にきていた。

大森ギャング事件

支援者の大量逮捕によって、日本共産党は資金不足に陥る。やむなく関係者に家の金や株券を持ってこさせたり、女性を使って脅迫したりするなどの非合法活動に手を染めた。さらに10月末に熱海で開催予定の全国代表者会議のために3万円が必要になると、ついには銀行襲撃を計画する。

立案者は家屋資金局資金部の今泉善一であった。戦後には建築家となった今泉は、本多昭一と藤森照信のインタビューにこう答える。

「だいたい企画を持って行ったのが僕なんだから(笑)。結局、それをやるよりしょうがないだろうという結論を出したのも僕なんです。だから僕が中心で」(『建築雑誌』1985年1月号)

襲撃計画は、大塚有章を中心として実行に移された。

10月6日のことだった。午後4時少し前に、大森駅近くの川崎第百銀行大森支店に3人の男が侵入する。中村経一、西代義治、立岡正秋で、いずれも眼鏡をかけて口髭を生やし、バーバリーのレインコートで身を包んでいた。

中村は両手に、残る2人は片手に、それぞれ拳銃を持って裏口から入ったが、だれもいないので次のドアを開けると若い行員と鉢合わせる。中村が2丁拳銃を突きつけた。

「その男は私の顔を見て不思議そうな、半分笑ったような顔をしました。そして営業室に入りそうになりました。私が、彼が私のピストルを玩具と思って笑ったと考えたので、かねて考えていた通りピストルを下に向けて一発打ちました」(「中村経一手記」)

3人が営業室に入ると、残務整理に追われていた行員たちは驚き、悲鳴をあげた。

「静かにしろ!」と中村は叫ぶが、主任らしき行員だけは電話をかけ続ける。

「電話を止めろ!」

「少し待ってくれ、いま本店と通話中なので」

笑いながらそう答えるので、中村はもう一発、下に向けて発射した。主任はようやく事態を把握する。

行員たちを部屋の隅に集め、その間に西代が机の上にあった札束をバッグに詰め込んで逃走、少ししてから中村と立岡も立ち去った。

西代は待っていた車で大森駅までいき、バッグや眼鏡、口髭を車内に残し、省線に乗って池袋の隠れ家に戻った。

車はバッグを積んだまま、タクシーを装って駅前から3名の客を乗せる。モーニング姿の男と訪問着とドレスの若い女性2人で、そのまま京浜国道を走って新橋へ向かった。モーニングは有章、訪問着は芳子、ドレスは禮子であった。

通報を受けた警視庁は、アメリカのギャング映画を彷彿とさせる事件に愕然とし、ただちに非常捜査網を敷く。

「私の車は大森から日本橋に到着するまでに物々しい非常線に二回も引っかかった。もちろん、盛装した二女性は楽楽と私を通過さしてくれた」(大塚有章『未完の旅路』)

翌7日の新聞は、日本初の銀行強盗をセンセーショナルに報じた。

「大帝都にギャングの脅威三人組ピストル強盗白昼悠々銀行を襲ふ」(『東京朝日新聞』)

「白昼大森の銀行に三人組ピストル強盗三万円余を強奪して逃走」(『東京日日新聞』)

五・一五事件から半年も経っていなかったので、軍人たちの仕業かとの憶測も流れた。

大森ギャング事件を大々的に報じる東京朝日新聞(昭和7年10月7日付)

探偵小説家で弁護士の浜尾四郎は、次のように推理する。

「此の種の行為は恐らく知識教育あるものゝ仕業ではないと思ふ、然らば思想的背景は如何といふに、私は、左翼方面に於ては最近武器を手に入れることは非常に困難になつて居るから先づ此方ではあるまいと思ふ。背景ありとせば右翼ではあるまいか」(『読売新聞』)

これに対して、同じく探偵小説家の甲賀三郎は語る。

「私の直感ではこの犯行は何か背後に思想的バツクをもつてゐるもので所謂軍資金調達の犯行ではないかと思ひます。素人強盗にしては余り手口が鮮やかすぎます」(同)

7日には銀座のアジトに家屋資金局のメンバーが集まり、強奪した3万1234円の配分を決める。必要経費等を差し引き、残りの2万5千円は党に納入することになり、家屋資金局の責任者で中央委員の松村昇が持ち帰った。警視庁の特高課長毛利基と通じていたスパイ、本名飯塚盈延、通称スパイMである。

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