仮釈放の「亡霊」と二女に縁談

令和に読む日記逍遥 第3話〈上〉

仮釈放の「亡霊」と二女に縁談

小菅刑務所の囚人となった河上肇は、生涯三度目の日記を書き始める。帝大教授の思想犯だけに懲役作業は軽く、同囚は右も左も多士済々。所長は謝罪文を書かせようとするが、秀夫人が諫める。人生をやり直そうとしている二女芳子に縁談が寄せられ、見合いで次第に本人も心が傾きだした。

 

河上肇日記と小菅の人々【上】

 

河上肇の日記は、昭和10年2月12日から始まる。

小菅刑務所に入っていたので、当初は獄中日記となる。

それまでも二度、日記をつけたことがあった。

「大学生時代(二十歳から二十四歳までの頃)に一二年間続けて日記をつけたことがあるが、人に見られたくないやうな女のことなどが記入してあつた為め、それは大学を卒業する頃に全部焼き棄てたと思つてゐる」(河上肇日記・昭和10年2月12日)

明治35年(1902)7月、河上肇は東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、11月には大塚秀と結婚する。

明治41年には京都帝国大学法科大学講師、翌年助教授になり、2年間の欧州留学を経たのち教授に昇格、大正5年には『大阪朝日新聞』に「貧乏物語」を連載し、翌年単行本として刊行されると評判を呼び、広く知られるようになった。

河上肇(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

大正8年、新設された経済学部に移り、経済原論と経済学史を担当する。個人雑誌『社会問題研究』を創刊したのもこの年で、ほどなくマルクス経済学の研究を始めたと語っている。翌9年には『近世経済思想史論』が、12年には『資本主義経済学の史的発展』が刊行された。

大正14年暮れ、弘文堂から豪華な日記帳が届き、新年からは20数年ぶりに日記をつけ始める。

すでに京都学連事件は勃発していて、14年11月に同志社大学の構内掲示板に軍事教育反対のビラが貼り出されると、京都府警は12月1日、京都帝大や同志社大学の社会科学研究会員33名を検挙した。いったんは釈放したものの、年が明けると再び一斉検挙するとともに、関係する教員の家宅捜索に踏み切り、河上肇も捜索を受ける。

「日記帳も、私の眼の前で、一人の判事と一人の検事とによつて検閲されたが、それには家庭の私事なども書き入れて居たので、私はいやな気持をさせられた。そして、それきり、日記をつけることは已めにしてしまつた」(同)

昭和10年に始まる日記は、それ以来の試みとなる。三度目の正直というべきか、この試みは生涯の終わりまで続けられる。

54歳の誕生日に小菅へ

河上肇は、昭和8年9月15日に控訴を取り下げ、懲役5年の刑が確定する。10月20日、満54歳の誕生日には、市谷刑務所から小菅刑務所に押送された。

大正12年の関東大震災で倒壊した小菅刑務所は、翌年から再建が始まり、昭和4年に竣工する。設計したのは司法省の蒲原重雄で、大正11年に東京帝国大学建築学科を卒業したばかりであった。

蒲原重雄が設計した小菅刑務所の本館正面

新しい小菅刑務所は「震災復興事業の中の白眉」といわれるほどユニークな建物で、正面から見ると白鳥が大空に飛び立つような格好をしていた。鳥の首にあたる看視塔は、『図鑑日本の監獄史』によれば「九十余尺」というから、高さは30メートル近くもあった。先端がとがり、その両側には目玉のように二つの時計盤がついている。

塔の下にあるのが本館で、両側が翼のように鋭角的に張り出し、1階は戒護事務室、教務室、医務室、面会室など、2階には教誨堂、所長室、会議室があった。

上空からみた小菅刑務所。左手が北舎で右手が南舎

舎房は本館の後方に位置し、南舎と北舎に分かれていた。左右対称で、どちらも東西に細長い建物を中心に、その中央部から南舎では南東と南西に、北舎では北東と北西に伸びていて、上空からは「六」のように見える。

河上肇が収容された小菅刑務所南舎の拡大図

南舎も北舎も、東西部分は1舎、南西と北西部分は2舎、南東と北東部分は3舎と呼ばれた。南北とも1舎の1階と2階は雑居房で、1房の収容人員は8名、それ以外は独居房で、1舎1階ごとに50房あった。

小菅刑務所には、10年を超える重罪犯と重要な思想犯が入れられた。一般の受刑者は、昼間は敷地内にある工場や農場で労働に就いたが、長期の重罪犯や思想犯などは昼夜とも独居房に拘禁された。それらの受刑者は、南の1舎3階、2舎3階、3舎1階の独居房に入れられた。

思想犯はだいたいが南の2舎3階だったが、河上肇はなぜか、1舎3階の40房に入れられる。

ちなみに41房には入獄7度目の55歳、窃盗及び建築物侵入で懲役15年、42房には入獄4度目の45歳、強盗傷人で懲役18年と、なかなかの猛者が入っていた。

感想録の日々

河上肇が最初に課せられた作業は「活字の解放」、解版であった。昼も夜も独居房で行うと聞いて、秀夫人は心配する。

「てる子さんに聞けば鉛を扱ふので毒だし眼が悪くなるとの事、うつかり気がつかなかつた」(河上秀日記・昭和8年10月21日)

12月になると筆記帳が支給された。日記を書けるように370頁と厚く、表紙には「感想録」と書かれていた。河上肇はその冒頭に次のように記す。

「今日初めて此の『感想録』およびインキとガラスペンとを居房に置くことを許さる。之は私にとつて無上の喜びである。それは予期して居なかつた事であるから、喜び殊に大である」(感想録・昭和8年12月11日)

続いて「今日母につれられて静子および芳子の両人面会に来たる」とあって、数年ぶりに親子4人が顔を合わせた日であったことがわかる。

もっとも感想録の表紙の裏には「随時検閲を受くるもの」との断りがあったので、書けることは限られていた。

年を越えて昭和9年の2月11日、紀元節の日には、前年暮れの皇太子誕生の恩赦で刑期の4分の1が免除された。河上肇も懲役5年が3年9カ月に、これによって満期出所は昭和12年6月15日となる。

こののち新たな作業が言い渡される。

「外国書の翻訳を命ぜらる。よつて夕刻より夜にかけて、過去四ケ月余使用し来りし活字整理用のケースを片づける。いやな仕事と分れるのでも、分れるとなれば、何となくあはれを感じる」(同・昭和9年2月26日)

谷内庄太郎所長からは図書館の使用許可が下りるが、河上肇はこれを断り、昼も夜も独居房で翻訳を行った。作業は暮れの12月まで10カ月近く続けられ、英語やドイツ語の洋書を7冊翻訳した。その中にはヒトラーの『我が闘争』も含まれる。

河上肇が翻訳させられたヒトラー『我が闘争』の原書カバー

4月には次女の芳子が、慶應病院附属の助産婦養成所に入学した。修業年限は2年だった。職業を身につけ、自立しようと考えたのだろう。大森ギャング事件は起訴留保となっていたが、7月1日に不起訴の通知が届いた。

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