ラジオから除夜の鐘に目頭熱く

令和に読む日記逍遥 第2話<下>

ラジオから除夜の鐘に目頭熱く

治安維持法違反で検挙された夫、河上肇は法廷に立たされ、執行猶予の望みむなしく実刑判決。控訴するかどうかで悩むかたわら、地下に潜って逃亡していた二女まで検挙。秀夫人は警察署と刑務所を行き来する激動の一年も暮れて、師走に親王誕生のニュースが流れていた。

 

河上秀日記【下】

 

芳子の誕生日

昭和8年7月24日は、河上肇の次女芳子の誕生日だった

「よし子の誕生日なり、満二十一才になる、思ふ事多し」(河上秀日記・7月24日)

日記にはあまり出てこないが、芳子のことはずっと気がかりだったろう。のちに内田丈夫に、次のように語っている。

「お手伝いが宿下りをした夜、ひとりになると、あの二階の六畳間を檻の中のクマのように、芳子、芳子と涙を流しながら、行ったり来たりしたものでした」(「河上秀夫人のこと」)

河上肇の逮捕を知って、芳子と禮子は四谷愛住町のアパートに移っていた。だが女2人というのは人目につくので、それぞれ職を探して別々に暮らすことにする。

禮子は2月から、下谷区のガソリンスタンドに勤めたのち、新聞広告を見て進運乗合自動車に応募し、女車掌として働き始めた。

芳子は3月初めごろ、これまた新聞広告でゼネラル揮発油に応募、新宿のスタンドでガソリンガールの見習いをしたのち、両国橋のスタンドに同僚と住み込んだ。

じつは5月ごろ、母親に会いたくなった芳子は高円寺の左京の家を訪ねた。秀夫人はすぐにやってきて抱きしめたのち自首を勧め、有章もそれを望んでいると告げたが、芳子は受け入れず、立ち去ったという。禮子に断りなく自首するわけにはいかなかったのだろう。

その日のことはもちろん、秀夫人の日記には出てこないし、推測されるような記述も残していない。2月22日以前の日記も、芳子のことを書いたがゆえに破棄したのかもしれない。

予想外に重い求刑

河上肇の第一回公判は、8月1日に開かれた。

大塚夫人が卒倒したからか、鈴木弁護士の指示に従って秀夫人は、弁護士会館で待っていた。

公判は午前9時40分から、東京地方裁判所第二号陪審廷で行われた。傍聴席はほぼ満席となる。

最初は藤井五一郎裁判長の訊問で、山口県出身ゆえか、姓名を読み上げるとき「被告人河上肇」と言うべきところを「先生」と呼びかけそうになり、のちに右翼に糾弾される。

帝人事件裁判法廷に向かう藤井五一郎裁判長
出典『藤井五一郎の生涯』藤井五一郎追想録刊行世話人1971

予審調書について、河上肇は否認も訂正もしなかったので、訊問はすぐに終わった。

暫時休憩ののち戸沢重雄検事の論告が始まる。

「被告は久しきに亙り社会に向ってマルクス主義の毒素を蒔き散らし」「何が被告を駆ってここに至らしめたかといえば……実は意志薄弱のために外ならない」「被告が五十五歳の老人で入党などした事は、全く年寄の冷水」

検事の文言に河上は侮辱を感じ、憤慨する。

最後に「本職は被告河上肇に対して治安維持法第一条第一項の前段の規定を適用し、懲役7年の刑を科するを適当と考える」と求刑した。「国体変革の罪」で懲役7年、予想外に重い求刑だった。

「十一時半頃両弁護士来られ、今検事の論告が了つて七年求刑されたときいた時意外に重いのにハッと思つた。お二人とも意外だつた様子なり」(河上秀日記・8月1日)

午後からは、上村進弁護士が友人として、鈴木義男弁護士が主たる弁護人として、それぞれ弁論を試みる。鈴木弁護士は、治安維持法第一条第一項では前段ではなく後段が適用されるべきであり、量刑も最短期の二年、執行も猶予されるべきだと主張した。

法廷での河上肇の様子は、左京が教えてくれる。

「始め入廷の時は大分興奮してふるへて居られたそうなれど後には落ちついて居られたと。鈴木弁護士の弁論は実に立派だつた由、あれなら兄さんも満足だらうといつて居られた」(同)

判決は一週間後の8日、午前9時からとなる。

河上肇はこのとき、少し物足りなく感じていた。裁判長の訊問が思いのほか短時間で済んだからであった。

「三・一五事件や四・一六事件に連坐した共産党被告の裁判は、何遍も何遍も回を重ねて、未だに判決が決まらずにいるのに、おれの運命はたった一日の今日の公判で決まってしまうのかと、何ということなしに頼りなさを覚えた」(『自叙伝』)

夜になると、門下生だった小林輝次と農民運動家の石田樹心が相生町の家を訪れる。重い求刑に驚きながらも、一審では実刑にして控訴審で執行猶予になるのではと話していた。

秀夫人は翌日、市谷刑務所に様子をうかがいに行った。

「昨夜はさすがに寝られなかつたと、意外に重い求刑で、出られまいと思ふ、と仰る。判決で或は執行猶予になるかも知れないし、もしそうでなければ保釈が出来るだらうから静かに待つておいでになるやうに云ふ」(河上秀日記・8月2日)

3日には山田盛太郎と山田勝次郎が訪れ、ともかく実刑はないだろうと語った。

だが5日に秀夫人が刑務所に赴くと、裁判長と検事に上申書を提出したことを告げられる。

「研究がいけないといふのならそれもよすし、将来文芸とか歴史とか伝記とかいふものをしたい、許されるなら早く出して貰ひ度いといふ意味のものゝ由。それでもまだいけないといふのなら二三年行く事も覚悟して居ると仰つた。本当に何とおなぐさめする言葉もなし」(同・8月5日)

上申書は3日の朝に、弁護士に相談することなく提出された。執行猶予を願うあまり「研究がいけないといふのならそれもよす」とあって、「獄中独語」がマルクス主義者としての没落なら、上申書はマルクス学者としての没落とも読める。「精神気力の萎靡沈滞を極めた頂点で、もがき悩んだ揚句、私はとうとうこんな醜態を露わすに至った」と『自叙伝』では悔いている。

気力が萎えていたのは、秀夫人も同様だった。

上申書提出を聞いた日、帰りに鈴木弁護士や左京を訪れるが不在、夜になって再び左京の家に行ったがやはり不在、「すつかり打ひしがれて帰る」と日記に記した。河上肇の狼狽える姿を見て、だれかと話がしたかったのだろう。次女芳子を思う短歌まで書き留める。

「電車よりチラと見えたる若き女に胸うつと思ふ間に走り過ぎけり」(河上秀日記・8月5日)

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