右も左も囚人仲間の「生々流転」

令和に読む日記逍遥 第3話〈下〉

右も左も囚人仲間の「生々流転」

小菅で懲役囚として過ごした5年間に、河上肇が見た囚人服の群像は、ドストエフスキー『死の家の記録』のごとく、最底辺から世相を映した鏡だった。物情騒然の時代、人間の業の万華鏡。自身にも二女芳子の結婚と出産という朗報が届いた。=敬称略、一部有料

 

河上肇日記と小菅の人々【下】

 

小菅刑務所の病舎は、南1舎の西側、北1舎の西側、庭の離れにあって、それぞれ第1病舎、第2病舎、第3病舎と呼ばれた。第1病舎は外科、第2病舎は内科、第3病舎は肺病患者の隔離病棟であった。

昭和10年(1935)12月8日に、河上肇は三度目の胃けいれんに襲われ、なかなか痛みが引かなかったため、11日には第2病舎に入れられる。思想犯ならば通常は独居房だが、第2病舎には一つしかなく、すでに強盗殺人犯で無期懲役の若者が入っていた。やむなく雑居房にまわされる。昭和8年1月の逮捕以来、初めての雑居房であった。

病舎にも除夜の鐘

ほどなく胃痛も消えて体力も回復し、健康体に戻ったが、医師からは暖かくなるまでは「準病者」としてとどまるよう勧められた。病舎のベッドは心地よく、毛布は1枚多く与えられ、湯たんぽも使えたので、小菅の寒い冬を乗り切るには楽であった。しかも独居房のように麦飯ではなく、米のご飯が出される。ただ病人ではなかったので作業する必要があり、雑巾さしが課せられた。

雑居房には16床のベッドが並んでいて、その真ん中あたりを使った。

北隣には「第二説教強盗」の岡崎秀之助がいた。女子教育の先覚者下田歌子や文芸評論家三宅やす子の家に押し入った強盗で、昭和4年2月に銀座松坂屋デパートに入ったところを逮捕される。当初は防犯に関する説教をしてから立ち去る「説教強盗」だと思われたが、2週間余りのちに本家が捕まると「第二説教強盗」となる。

岡崎は、準病者に雑巾さしを教えるだけでなく、布やハサミ、針を配るなど、いろいろ世話を焼いていて、河上肇の印象は悪くない。

「この男から雑巾刺の要領を教わった。病舎の古参者であり、準病者の世話係になっていたこの男には、その外のことでも弘蔵は色々と世話になった。弘蔵にはこうした人たちの方が生じっかなインテリゲンツィヤよりもずっと人間味があるように思えた」(『自叙伝』)

本家「説教強盗」妻木松吉も、同時期に小菅刑務所にいたようで、加太こうじの『昭和大盗伝:実録・説教強盗』に収録されたインタビューでは、河上肇と交流があったと語っている。だが日記でも『自叙伝』でも、本家「説教強盗」にはまったく触れていない。

逮捕時の「説教強盗」妻木松吉

東隣には阪井という70の老人がいた。強盗殺人で無期懲役、仮釈放になったものの再び強盗を働き刑務所に戻される。食欲はなく衰弱していて、しばらくすると心臓マヒを発症、死んだかと思われたが注射によって息を吹き返した。

「その後不思議に食欲を恢復して来て、段々元気になり、後には弘蔵とも何遍か入浴を共にした。弘蔵が背中を流してやると、彼は『すまんすまん』といって、ひどく好人物らしい笑顔を見せた」(同)

阪井老人は翌11年6月に獄中で亡くなり、河上肇は棺前読経に立ち会う。

その横には、大山という50前後の男がいた。強盗殺人で無期懲役、痔瘻に悩まされるが手術を拒んだため、周囲には悪臭が漂っていた。

阪井や大山など長期の病人は、重い病気を抱えていたので憂鬱な顔をしながらも静かに過ごした。やかましいのはだいたいが短期の病人で、猥褻な話ばかりを声高に繰り返す。

大晦日の夜には、そんな猥談でいっそう盛り上がった。

やがて除夜の鐘が聞こえてくる。

「弘蔵はこの夜あの奇怪な牢獄の病監で、世にも不運な人たちと一緒に聴いた除夜の鐘を、いまでも忘れることが出来なかった。彼は鐘の音さえ聞けば、出獄後も暫くの間は、その除夜の鐘を思い出すのが常であった」(同)

雑居房の凶悪犯

年が明けた1月4日には秀夫人が面会にきて、芳子の婚約成立を知らせる。河上秀日記によれば「涙ぐんでよろこんで居らした」という。

1月28日には蜷川虎三が上京し、結納が取り交わされた。前夜に河上肇は「S君に寄す」と題する詩を作って祝し、手紙に書いて送った。

独居房の若者は年の瀬に亡くなり、そのあとに河上肇が入った。最初は珍しかった雑居房だが、ケンカはするし猥談ばかりで、うんざりしていたところだった。

このころ刑務所内では感冒が流行し、病舎に運ばれる受刑者が続出した。独居房もベッドが2床追加され3人部屋となり、すぐに40半ばで窃盗常習犯の石塚がやってきた。工場の作業で親指を失ったため入浴時に不自由しているのを見かねて、背中を流したり、体を拭いたりしてやると、事故で特別支給された玉子を1個、お礼の意味を込めてわけてくれた。

「約二週間狭い室の中でこの男と起居を共にしたが、やはり小ブルジョアのインテリゲンツィヤよりも前科五犯というこの泥坊の方が、ずっと人情味があるように感じた」(『自叙伝』)

もう一人は強盗殺人犯の山田で、看護夫であることをいいことに、独居房は寒いからと毛布や湯たんぽを勝手に持ち込んで寝ていった。

2月に入っても病人は増え続けた。そこで雑居房のベッドを取り払って板の間に畳を敷き、そこに50名以上を収容した。「準病者」だった河上肇は、独居房から1舎1階の準病舎に移される。こちらも雑居房で、定員8名とはいえ凶悪犯が揃っていた。
「松島竜蔵称呼番号七番ゆゑ人々七サンと呼ぶ。父を殺せし人にて無期懲役。最初放火にて服役中、妻が父と相通じたるため、仮出獄後父を殺したりといふ人。服役既に二十一年に及ぶ」(河上肇日記・昭和11年2月12日)

時々薄気味悪い微笑を浮かべながら、人に話しかけることなく一日中雑巾さしをしていた。工場にいたときは、セミやトンボやトカゲ、果てはネズミまで捕まえてそのまま食べてしまうことで有名だった。雑居房でも、便所に入る前に下半身素っ裸になって皆を驚かせる。

「才賀屋(七十九歳)(老妻を殺して放火、懲役十年)」(同)

中風になった老妻を殺して放火した老人で、こちらも何も語らず、ひたすら雑巾さしをしていて、獄死を覚悟しているように見えた。

「綱手(七十八歳)大錠といへる幕の内力士の末路。殺人強盗。無期懲役」(同)

相撲史を繙いても「大錠」という力士は見あたらない。「大碇」なら大関大碇紋太郎がいるが、本名も年齢も違う。河上肇は確認できる立場にあり、本名や年齢を間違えるとは考えにくく、大関とは別人であろう。

綱手は足腰が不自由になって病舎へ送られると、自らで人生の止めを刺した。

「今暁第二病舎の浴場の鉄棒に帯をかけ、からだを湯船に落してくびり死んだ老人がある。前科三犯、無期懲役の言渡を受けて昭和九年に入所した綱手といふ元力士」(同・6月18日)

河上肇は、綱手の棺前読経にも立ち会った。

「榎広光(二人既遂三人未遂)(殺人、無期懲役が恩赦にて二十年に減刑)」(同・2月12日)

榎広光の事件は『警察新報』昭和8年7月号に載っている。昭和6年、28歳の榎広光は香川の仲仕で、5人の女性と小舟に乗って沖合に出たが、ある女性に欲情し、手籠めにしようと他の4人を海に放り投げた。すぐに思い直して救助したものの、1人だけ助からなかった。「二人既遂」とあるので、その後にさらに1人亡くなったのかもしれない。

河上肇には親切で、布団を敷くのに手間取っていると手を貸してくれるなど、何かと世話になった。

ほかにも、懲役10年の詐欺犯や、同じく懲役10年の強盗傷害、強姦未遂犯などがいた。

この雑居房で2月26日を迎える。

この記事は有料です

会員登録・ログインして記事を読む