「受け皿」メリルリンチの確執

リーマンの牢獄 【2】後編

「受け皿」メリルリンチの確執

日本のリテール市場に割り込もうと、メリルリンチは元山一社員を1600人も採用したが、捕らぬタヌキの皮算用で、毎年赤字の山。追加募集で加わった彼を1億円プレーヤーに仕立てたのは、役立たずの旧山一エリート組を追い出す“あてつけ役”だったからか。=有料記事、約1万3500字

 

 

第2章大洪水のあと〈後編〉

 

――あの牡牛のロゴのメリルリンチ?米国第3位の証券会社じゃないですか。齋藤さん、日本のメリルには、破綻した山一證券の元社員たちが1998年にエスカレーター式に大量採用されていましたよね。まるで山一が引っ越して、メリルのなかに“独立王国”を形成するみたいで、ヘゲモニーを握れば〈メリ山〉になるなんて言われていましたが……。齋藤さんも、山一退職者の“王道”を歩み始めたわけですか。

1914年創業の由緒あるメリルリンチのロゴ

「そこが微妙なんです、アバターさん。1999年6月に僕が入ったのは、山一破綻から3カ月後の98年2月に設立され、同年5月に大蔵省から証券業の免許を得たばかりの〈メリルリンチ日本証券〉で、ここは個人客や中小企業などの小口取引が中心のリテール部門でした。

メリルにはもう一つ、主に機関投資家などを大口顧客とするホールセール部門〈メリルリンチ・ジャパン(東京支店)〉が先にありました。こちらは1972年に日本の外国証券会社として第1号免許を取得し、以来着々と27年間地歩を築いて、当時は11期連続黒字と隆々たるものでした。

メリル・ジャパンだけで、世界のメリルのホールセールの収益の3分の1を稼いでいた優等生でしたね。日本のガリバー野村證券が、総会屋への利益供与事件などで営業自粛を余儀なくされたあいだ、97年10月には東京証券取引所での株式月間売買高シェアがメリル8.1%、野村5.4%と首位が逆転したこともあります。

ホールセールと両輪で

となれば、欲が出てきて、日本のリテール部門にも進出しようと考えるのは当然です。ところが、山一の破綻前は簿外不良債権が見えず、おいそれと手が出せない状況でした。いざ山一が自主廃業に追い込まれると、簿外債務も明るみに出ましたから、米国のメリル本社は東京市場でホールセール・リテール両輪のフル装備にグレードアップするには〈絶好のチャンス〉ととらえました。

98年1月に日本のリテール市場に進出すると宣言、山一の社員2000人、50店舗を引き継ぐと、受け皿に名乗りを挙げたのです。山一が抜けた穴にいち早く割り込み、預かり資産のパイをさらおうという野心的な戦略でしたね。四大証券時代から、日本勢3+外資1の時代に移ろうとしたんです。

失職に戦々恐々だった山一社員にとって、これは朗報でした。98年3月末に全員が職を失う予定で、先の人生が見えなかったからです。だから雪崩を打つように、山一社員が4500人もメリルに応募したんです。失業率の上昇が金融恐慌の引き金を引くのではないか、と恐れていた日本の政府もメリルの英断を称えたものです」

――清武氏の『しんがり』によれば、採用された山一社員は1606人、店舗は31店と少しスケールダウンしましたが、それでも同じ証券業界に横滑りした人たち――東海丸万証券(100人)、ユニバーサル証券(91人)、日興証券(80人)、大和証券(52人)に比べれば、ケタ違いの多さです。

住友銀行(81人)、さくら銀行(41人)など銀行界に転じた人や、非金融界に流れた人もいましたが、やはりメリル転職組が圧倒的な“団塊”になっていました。

「アバターさんは何も知らないんですね。自主廃業によって山一證券の社員は手厚い保護を受けたんです。泣きながら全世界の人々に〈社員を救ってくれ〉と訴えた最後の山一社長、野澤正平氏のおかげです。彼の号泣はアカデミー賞ものでしたよ。

だけど〈メリ山〉だなんて認識は大甘でした。メリルに入って、頭数だけで支配権を握ろうなんて、とんでもない勘違いです。メリルに転職した元山一の社員の大半が、どうせ3年後には解雇されることになるんですから」

JとJSの中間の立ち位置

――でも、後から加わった齋藤さんは、先にメリルに再就職していた元山一の同僚たちに合流したんじゃなかったんですか。

「メリルリンチに入って、僕がいちばん最初に気がついたのは、メリルリンチ・ジャパンとメリルリンチ日本証券との確執です。社内では前者をJ、後者をJSと呼んでいました。Jは大手センタービル、JSはファーストスクエアにあって、同じ東京・大手町にありながらオフィスが別々なんです。

“優等生”メリル・ジャパンのオフィスがあった大手センタービル

ただ、争いと言っても最初から勝負はついていましたよ。どうみてもJの勝ちなんです。

山一から移籍した人たちは、リテール部門のJSなら主導権を握れる、と思ったのでしょうが、JSのトップはすべてJから来た人に握られ、米国から直接派遣された会計士のロナルド・ストラウス氏が社長に就きました。外様の元山一組なんかに実権を握らせるはずがない。

大手センタービルの向かいにあるファーストスクエアには
新しいリテール部門の「メリルリンチ日本証券」が入居した

――ちょっと待ってください、齋藤さんはどっちについたんですか。

「僕が入社したのはJSでしたが、立場はいつもJとJSの中間です。メリルには先人がいました。僕と同じ86年の山一同期入社組の堀川幸一郎氏(仮名)です。山一の佐賀町寮では彼もいっしょの寮生でしたが、山一の閉鎖的な体質を嗅ぎとったのか、入社4年目でいち早くメリルに転職しています。

国立大工学部出身の目から鼻に抜けるような頭のいい男で、メリルでめきめき頭角を現し、若くしてMD(Managing Directer)に抜擢されて、いち早くエグゼクティブ・コミティー(役員会)の一員になっていました。彼なら将来、Jの守屋寿会長の後釜になってもおかしくなかったと思います。

そういう身近な出世頭がいたので、Jに親近感を覚えるのも無理ないでしょう?彼はのちに僕にとってキーパーソンとなります。遅れてメリルにきた僕は、新入りの49人とともにJSに新設されたBFS(ビジネス・ファイナンシャル・サービス)部門に配属されました。

Jに長年いた坂東謙一氏がヘッド(MD)、その上には熊谷邦彦・副社長(DP、Deputy President)がいました。熊谷氏は野村ロンドン、ソロモン・ブラザーズを経てJに招聘された人で、その副社長室はファーストスクエアの上階で広大なスペースを占領していました。贅沢三昧でしたね」

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