弥彦村、早期集団接種の明暗

コロナ「興亡」記 ワクチン接種3

弥彦村、早期集団接種の明暗

ワクチン接種の不条理は、政府の中枢部分だけでなく、行政の末端である自治体の現場でも起きている。東京から医師たちを破格の出張代で呼び、周辺から看護婦OBを集めて、集団接種方式で早期かつ短期間に接種率8~9割に達した新潟県弥彦村。その「小さな奇跡」がなぜ1、2回目接種では実現し、3回目ではできなかったのか。=約7900字、無料記事

岸田文雄首相は6月15日、通常国会の閉幕後の会見で「内閣感染症危機管理庁」を内閣官房に新設し、今後の感染症対策の司令塔とする方針を表明した。

現在は内閣官房の「新型コロナウイルス等感染症対策推進室」(通称・コロ対)と厚生労働省の「新型コロナウイルス感染症対策推進本部」の二本建て。「室」と「本部」とたった一語の違いだが、その間には深くて暗い河がある。これを統括し、一体的運用するため首相直轄組織を新設する、というのが謳い文句である。

また、国立感染症研究所と国立国際医療研究センターの機能を統合し、専門家の知見を生かして感染症に対応できる新組織を設けることも検討するという。米疾病対策予防管理センター(CDC)をモデルとした「日本版CDC」づくりのことだが、海外の著名機関を名称だけサル真似する「日本版○○」も、いかにも霞が関らしい安易な発想である。

屋上屋を重ねる――機能不全を糊塗しようと、新しい看板を掲げてアリバイとする。提言した有識者会議も、ほかに知恵はないのか。「コロ対」の上に「危機管理庁」を設けて一元化を装うその知恵自体、官僚の考える弥縫策である。

「コロ対」だって首相直轄だった。厚労省はエース級を室長に送りこんだが、内閣官房と厚労省の水面下でのツバぜり合いは熾烈を極めた。霞が関の牢固たる「省益」の壁が破れなかったことは、ワクチン担当相が結局はお払い箱、デジタル庁も横串を通せず看板倒れなことが証明している。

その根幹にある組織の無駄やデータの不連続性などには本気で手をつけない。たとえば、国と自治体の間では、匿名を担保したデータの相互融通ができず、VRS(ワクチン接種システム)と住民基本台帳の「突合」を阻んでいるという問題がある。システム問題は別途取り上げるテーマだが、ワクチン接種でもそうした不条理の実例に突きあたる。

「神域」弥彦村の奇跡

新潟の弥彦村で例証しよう。

コメどころ、越後平野の真ん中に聳える標高634メートルの弥彦山の麓に村はある。越の国を平定した天香山命あめのかぐやまのみことを祀る古い彌彦やひこ神社と周縁の温泉鄕のほか、境内には日本で唯一の村営競輪場もある。

弥彦山の懐に抱かれるような村営競輪場と弥彦村の水田(弥彦山山腹からの遠景)

伊集院静の小説『いねむり先生』は、妻の女優、夏目雅子を白血病で失い、アルコール依存症で小説が書けなくなった1980年代、「麻雀の神様」阿佐田哲也(色川武大)と競輪場をはしごするという“旅打ち”の物語だが、一読、弥彦の情景が忘れられない。

千人以上の人間が一点だけに神経を集中させて遊んでいる。そのありさまは、楕円形の沼に大勢の男が膝まで水に浸かり、飛び跳ねてくる獲物を狙っている姿と似ている。大魚もいれば雑魚もいる。つかんだと思った瞬間、スルリと手の中から獲物は滑り落ちていく。

いい文章である。鬱蒼とした杉木立の聖域を背負う競輪場、そのバンクをひたすら周回するレースの最後の打鐘ジャンに、人生を賭すしかないギャンブルの切なさが浮かんでくる。「サマータイム」の歌が引き金になり、幻覚に見舞われた作者は、所構わず睡魔に襲われるナルコレプシーの阿佐田の不思議な優しさに癒やされる。神域の弥彦ならでは、どん底から立ち直るクライマックスだった。

その弥彦村で1年前、小さな奇跡が起きた。

弥彦ではすべてを集団接種方式とし、高齢者は1回目を2021年5月18~22日、2回目を6月8~12日として実施し、高齢者の接種率は90.6%に達したことである。当時の菅義偉首相の「1日100万回」の大号令のもと、東京五輪が始まった21年7月末になって、全国ではようやく目標だった高齢者の8割程度に達したことに比べると、驚異的な速さである。

なぜ弥彦で実現できたのか。

村の取り組みは早かった。時期尚早だったGoToトラベルにより20年末からコロナ感染症第3波が到来し、五輪を控えて政府はワクチン接種を急ぐ必要性に迫られていた。ところが、ファイザー、モデルナのmRNAワクチンの調達は基本合意だけで、具体的な入荷量と日程が定まらず、焦った菅政権が河野太郎をワクチン担当相に任命して、ハッパをかけた21年1月半ば、弥彦村でも村役場内に総務部長(当時は農業振興課長)をチーフとするプロジェクトチーム(当初は6人、4月の16人に増員)が編成された。

このプロジェクトチームは、村で高齢者接種が始まる5月18日までに計15回開かれた。村民人口7912人(21年1月1日現在)、うち65歳以上の高齢者3700人の弥彦村で、いかに効率的に接種するかの態勢づくりの原動力となった。

まず接種を希望するかどうか、村民の意識を調査した。2月1日に実施したアンケートで、65歳以上の92.5%、64歳以下の88.9%が「希望する」と答えたことが判明した。接種にゴーサインが出た。

村には内科医が2人だけ

だが、最初の障害に直面する。当初は個別接種を検討したが、村には2カ所しか内科医院がない。到底、ワクチンの打ち手が足りない。予約も渋滞して手間がかかるだろう。第3波の急拡大や、高齢者の重症化を防がないと、病床がたちまちパンクすることは目に見えていた。

接種日時を行政が指示し、大量かつ短期間に実施する「集団接種」方式しかない、とプロジェクトチームは考えた。弥彦村では長年、住民健診を地区指定方式で行ってきたため、地区指定で接種を進めることに違和感がない。このため集団接種のほうが、予約が取れないという混乱も起きず、予約なしで打てることがむしろ安心感につながると判断したのだ。

しかし内科医院が村内2カ所、医師が2名しかいない(この時点で歯科医の動員を厚労省はまだ認めていない)ことは、ワクチンの打ち手をどう確保するか次第で事の成否が決まることを意味する。

これは全国どの自治体も遭遇した厚い壁で、長年放置されてきた地方の医療インフラ不足がまた露呈したともいえる。「医者がいないから」と県や国を頼らざるをえない。結果、もっともインフラの乏しい自治体の低きに合わせる「悪平等」が蔓延することになる。

要は住民基本台帳に基づいて、接種券を住民に配るだけで、あとは政府からワクチンが回ってくるまで「待ち」になる。感染症拡大の緊急性などお構いなく、従来のインフルエンザ・ワクチンとほとんど変わらないペースになってしまう。

弥彦村は諦めなかった。隣接する燕市医師会会長に医師派遣を打診してみる。燕市では個別接種を考えていたらしく、同市医師会からは「1、2名の派遣なら可能だが、平日開業中の派遣は難しい」と言われた。

開業医が無理なら、大学病院の医師ではどうかと弥彦村は考えた。国立新潟大学付属病院の医学部長と学長の経験者で、越後平野の東にある五泉市の総合病院院長を訪ね、大学付属病院の医師派遣を依頼してもらえないかと頼んだが、「一市町村にのみ派遣するのは難しい」と色よい返事がもらえなかった。その後、大学病院医学部からも同様の回答が届いた。

県にも感染症対策本部ができたが、県主体の集団接種は人口の多い新潟、長岡、上越の3市で予定しているだけ。独自に集団接種を進めようとしていた弥彦村の供給を増やす余裕がなく、特別待遇は難しいという感触だった。県の部長との直談判でも、集団接種は1会場で3000人以上という下限があり、とりあえず65歳以上の接種券発送者が2562人しかいない弥彦はその枠に入らないという。

これで弥彦の構想は暗礁に乗り上げたかと思えたが、小林豊彦村長が“マジックカード”を切る。

小林村長のマジックカード

種明かしをしよう。小林村長は筆者と同じく日本経済新聞の記者出身である。1945年に弥彦で生まれ、父も祖父も村長だった。東京に出て1969年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業、日経に入社して記者となり、主に商社や農水省など主に産業部畑を歩いた。海外もトロント支局、米州編集総局デスク、日経シンガポール社社長を経験している。国内では浦和支局長、産業部長、出版局長、営業本部長、日経リサーチ社長を歴任、60歳で退社して弥彦に帰郷した。

地元でコメづくりに励んで何度も表彰されたが、前村長の村行政の不透明経理を批判して、2015年の村長選に無所属で立候補、激戦の末56.1%の得票で前村長を破って初当選した。1期目は村議会とのねじれで苦労したが、19年には57.9%の得票率で再選された。2期目は村議会とのねじれも解消、持ち前の馬力でワクチン接種でも「とにかく早く実施したい」とエネルギッシュに動いた。

東京のコネを使って早期集団接種を実現した小林豊彦村長
(後援会「豊かな弥彦村を創る会」公式Webサイトより)

マジックカード1号は「東京コネクション」である。

酒豪の小林村長は、東京・四谷に顔なじみの飲み屋があり、その女将の紹介で店に通う客の慶應義塾大学病院の医師たちに声をかけた。集団接種の会場は村立の弥彦体育館とサン・ビレッジ弥彦の2会場あるが、1会場あたり医師を平均3人として延べ45人のめどをつけた。これで1日6時間を1回目5日間、2回目5日間埋めることができる。

小林村長は記者時代の上司だった日経OBのツテをたどって、聖マリアンナ医科大学病院の医師にも呼びかけた。

だが接種は医師だけでは済まない。看護師、保健師、薬剤師などの医療従事者が要る。これは1会場15人平均として1日30人必要だった。ほかに村民の案内など運営スタッフが1会場平均35人必要だった。弥彦では、移動手段を持たない高齢者のために、各地区を巡回する無料バスを手配し、ピストン形式で1日6便を走らせている。

弥彦村には県立吉田病院、県立燕労災病院で看護師長を務めた村民がいたため、その紹介で近隣の看護師の確保を進めた。現役看護師は病床ひっ迫で余裕がないから、狙いはOBである。退職グループに呼びかけてもらったところ、あっという間に求人が埋まったという。

破格の条件をつけたからだ。医師に対しては1時間3万円、看護師には同1万円の出張料のほか、往復の新幹線と宿泊代は村持ち、しかも弥彦温泉郷でいちばんの旅館を用意し、毎日食事メニューを変えて飽きさせないといった、いたれり尽くせりの好待遇である。

村には2億~3億円の臨時経費が生じることは覚悟のうえで、「ワクチン最優先」と腹をくくった。とはいえ、ここに、他の自治体には真似できないマジックカード2号があった。村の予算の別ポケットに、弥彦競輪の収益金という隠し玉があったことである。

弥彦競輪という別ポケット

禍を福となす――実はコロナ感染症は、全国の公営ギャンブルを潤わせた。伊集院と阿佐田が興じた“旅打ち”のような、競輪場に足を運ぶファンこそ減ったものの、家に引き籠って無聊をかこつ人びとがネットでギャンブルを物色、電話やネットで車券を買う楽しみに目覚めて裾野が広がり、ジリ貧だった売り上げが急回復したのだ。

これは弥彦競輪場も同じで、2021年度の弥彦競輪の収益試算表によれば、競輪場の開催収支概算額が9億9670万円、開催外収入が3億530万円が見込まれ、ここから開催外支出5億200万円を差し引くと、8億円の収益があがったことになる。弥彦村への繰出金は3億円だから、これをワクチン集団接種費に充てれば村の予算に大きな穴は開かない。

村長の顔の広さといい、村の財政といい、弥彦村は特別恵まれていて、他の自治体には真似できないといった反論が出るかもしれないが、これだけ恵まれた弥彦でも、後述するように3回目接種では早期の集団接種を実現することができなかったのだ。

とにかく政府が高齢者の1回目接種を始めたのは21年4月12日から。ワクチンの入荷に手間取り、恐らく菅政権の当初の腹づもりよりは2カ月遅れだった。下のグラフのように、1日あたりの接種回数は5月半ばまで地を這うようだった。

5月連休で第4波が尾を引き、五輪期間に第5波のピークが重なるとの予測が出てきた。楽観できないとみた政府は集団接種や職域接種で鞭を入れ、接種のペースを加速させようとする。霞が関の苦戦を見かねたように、防衛省・自衛隊が東京・大手町などに大規模集団接種会場を設けて、接種率向上に一役買おうとしたのは5月24日から。弥彦村は3月5日に集団接種の模擬訓練を行うなど早くから準備を進めてきただけに、それより10日も早く5月18日から高齢者の1回目集団接種を始めた。ワクチンは国から配布されたファイザー製だった。

しかしファイザー製ワクチンは世界中から注文が殺到していた。4月17日に菅首相が自らファイザー会長兼CEO(最高経営責任者)アルバート・ブーラに電話会談で追加供給を要請、5月14日には第3四半期に5000万回分を追加購入する契約を結んだが、全国の自治体からの矢の催促にもかかわらず、ファイザー製の在庫不足が露呈した。

村民以外にも接種を広げる

このため、政府は5月21日にアストラ・ゼネカ製と同時にモデルナ製ワクチンを国内承認した。これらを64歳以下の一般接種に充てることを弥彦村も検討せざるをえなかった。

モデルナ製は大規模集団接種用が想定されており、弥彦村は県から情報を入手し、64歳以下の一般接種に充てることを前提に市町村大規模接種を申請、モデルナ製ワクチンを入手した。1日500人以上接種することが条件だったので、住民基本台帳に基づく村の敷居を外し、周囲の村外居住者とその家族にも広げることにした。

政府が職域接種を広げる考えを示したことから、弥彦村でも村民以外で接種を受けられる人の範囲を以下のように定めている。

・村の運営に欠かせない者780人

小中学校の教職員とその家族

村内観光施設などの職員とその家族

弥彦村役場の職員とその家族

村南方の信濃川分流の大河津分水路や国道の改修などの建設従事者とその家族

・弥彦村版の職域接種対象者2600人

弥彦村の事業所に勤務する者とその家族

・隣接する燕市の小中学校職員とその家族1000人

弥彦の職域接種は、医師・看護師を村が手配し、会場の案内などは事業所に委ねる方式だった。高齢者の集団接種と変わらず、医師は依然確保難だったので、一般接種でも東京から招聘した医師にお願いしたが、一部は土日に地元の医師や県内の医師にも協力してもらった。燕市の小中学校職員を含めたのは、同市と弥彦村が定住自立圏を組んでいるからである。

一般接種は対象者が平日は仕事をしているので、接種日を主に金土日とした。また18~20時の夜間接種時間を設けて、接種率の向上を図った。こうして予約なしで早く接種が受けられると聞いた周辺の対象住民が、地元での接種日が来るのを待たず、弥彦の会場に接種に訪れる事例が相次いだという。

結局、一般接種の対象は村民が4042人、村外居住者が4410人と村民を上回る結果となった。1回目接種が6月25日から7月11日まで、2回目が7月23日から8月8日までだが、真夏に冷房装置のない体育館で接種するという厳しい条件だったにもかかわらず、8月8日に一般接種の接種率が80%に達したのは、全国レベルでは先陣と言っていい。競輪でいえば「先行逃げ切り勝ち」だった。

政府は12歳未満、18歳以下の接種についても順次規制を緩めた。弥彦ではこれも集団接種方式とし、高校生世代は9月18日に1、2回接種を終え、小6、中学生世代は10月30日に終えている。それぞれ接種率は80、82%に達した。「弥彦の集団接種は大成功」と筆者が小林村長から威勢のいい電話をもらったのは、デルタ株が収束した昨年秋だった。

3回目出遅れ、ライン組まれた弥彦

だが油断大敵。10-11月に感染者が急減、コロナはワクチンのおかげで制圧できたのではないかと国民が気を緩めたころ、21年末からオミクロン株が蔓延しだした。これまでになく感染者数が爆発した第6波の襲来に、菅政権から岸田文雄政権に替わっていた政府は泥縄式に3回目の接種を急ぎだした。

明らかにワクチン接種熱は冷めていた。この連載の「ワクチン接種1」で示したように、厚労省は21年前半のワクチン不足に懲りて、3回目接種には慎重だった。海外では2回目接種から8カ月以上経ったら追加接種(ブースター接種)が必要との説が、7カ月、6カ月、5カ月と短縮されていったのに、有識者会議の事務局は耳に蓋をしていたようで、3回目の高齢者接種を22年1月の年明け開始まで遅らせた。1日40万人を超えるペースが定着するのは2月以降である。

その時点では、国内感染者数はピーク(2月1日の10万4312人)に達しており、ワクチンの出し惜しみが3回目接種の出遅れをもたらしたことは明らかだった。その責任が誰に帰すかどうかの追及は今後も続けるが、弥彦も国から「2回目接種後、8カ月を経過した後から、3回目接種を実施する方向で態勢を整備する」よう通達を受けた。

2回目接種を21年6月に終えている弥彦村は、その8カ月後となると、厳冬期かつ降雪期の22年2月が接種時期になってしまう。前年同様、今回も地区指定の集団接種方式を行うことに決めていたが、豪雪の心配や足弱の高齢者が凍った雪で転倒するリスクを考えて、春が近づく3月15日から連続15日で集団接種を行う日程を選ぶことにした。

オミクロン株が猖獗を極めると、政府はなし崩しに接種間隔を6カ月に短縮したが、医師不足は前年と変わらない。そこで弥彦村は再び東京からの医師招聘に頼ることとし、3月15日開始を前提に予定を押さえてもらった。花角英世・新潟県知事から強い前倒しの要請があったが、東京の医師の予定を大幅に前倒しするのは難しく、結局、2週間早めて高齢者向けの3回目接種は2月28日~3月4日の連続5日間、前年と同じ2会場で実施した。

このときの接種率は対象者の94%に達したが、全国の高齢者3回目接種のピークが2月中旬、1日80万人台に達していたのに比べると、日程的には遅れ気味だったといえる。新潟独特の「雪」事情もあったとはいえ、最大の理由は接種間隔を国がミスリードしたことにある。

そして菅政権のような首相自身の大号令で、内閣官房や総務省の尻をたたいてワクチン接種をせかすこともなく、岸田政権下では申請によってモデルナ製の配布を受けることもできなかった。

筆者は3月の春分の日前後の連休に弥彦を訪れて、小林村長に前年のような「小さな奇跡」が起きなかった理由を尋ねたところこう答えた。

「ワクチンの配布がなければ、自治体は動けません。政権交代で、1年前のような超法規的なことができる時代は終わった、という認識かな」

岸田政権下では河野ワクチン担当相が交代し、厚労省が主導権を取り戻したため、ワクチン配布のコントロールで弥彦のような“ハネ上がり”を封じこめ、護送船団方式が復活したことが見て取れる。

その結果は国とワクチンそのものへの「不信」だった。3回目接種の進捗状況を、日本経済新聞が県庁所在地と政令市、東京23区の計74市区を対象に3月1日時点で調査したところ、4月完了を見込んでいたところが1割と低調であることが明らかになった。4月末になっても対象6374万人中、1000万人が未接種にとどまり、6月で高齢者の接種率は9割に達したものの、64歳以下を含む全体では60%で頭打ちになった。

ライン組まれて「見」にするしか

競輪用語にたとえれば、弥彦のような自治体は「インを絞められ、ラインを組まれて〈アンコ〉のまま、追い込みも捲りもできず入線した」ようなものだろう。とても車券は買えないレース、村としても「ケン」(様子見)にするしかなかったのだろう。

歴史は二度起きる、とはマルクスの言である。二度目は喜劇として、と続くのだが、弥彦の「奇跡」は二度目が起きなかった。よくよくみれば、地方創生は国が阻んでいるのである。(続く)■