セレブとハイソの目くるめく異世界

闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【4】

セレブとハイソの目くるめく異世界

一夜にして世界が華やいだ。舞台公演のツアーは、アメリカ東部の大都市を転々とする巨大な興行。本物の和服を着た大和なでしこは引っぱりだこだ。オフシーズンはニューヨーク進出の日本企業のモデル。ロックフェラー夫人、ルーズベルト夫人から、ディートリッヒやC・ヘップバーンの世界が身近になり、浮世絵を収集する建築家ライト周辺の多士済々。イサムノグチと李香蘭もすれ違う日々。=敬称略、一部有料。

 

第一部ニューヨークの蓮の花3

 

『八月十五夜の茶屋』地方公演のツアーに出た森貝光子のメモに戻ろう。一九五八年二月十六日から、フロリダ州マイアミビーチで再度公演している。その二年後の一九六〇年、カナダまで足をのばす長期ツアーに出た。

一九六〇年六月七日~ロングアイランドのニューヨーク州ウエストバリー

ニューヨークの南西のニュージャージー州ハッドンフィールド

同六月二十日~ボストン西方のマサチューセッツ州ウエスト・スプリングフィールド

同六月二十七日~フィラデルフィア北西のペンシルベニア州デヴォン

同七月四日~ボルチモア北西のメリーランド州オウイングス・ミルズ

同七月十一日~ニューヨーク北方のニューヨーク州レイザム

同七月十八日~オンタリオ湖北岸のカナダ最大の都市トロント

八月一日~カナダ・ケベック州の州都モントリオール

「トロントに行ったときには大事件だったの。私のビザが、カナダでは働いちゃいけないビザだったんですって。だって、学生ビザで入っているから。でも、スターがいなきゃショーにならないし、一日、税関に留められましたよ。みんなが心配したけど、私はなるようになると思って、すぐそばにあるメリーゴーランドに一日乗ってましたけど」

八ミリに映っていたのは、こうして断続的につづいた巡回公演のひとつだろう。だが、撮影された時期は彼女も覚えていない。スクラップ帳には、レッド・バトンズと彼女の芝居を称賛するローカル新聞の黄ばんだ切り抜きがたくさん貼ってある。日付は一九六〇年七月とあった。おそらくこの年のツアーだったのだろう。トロントの邦字新聞「大陸時報」に光子が寄稿した「アメリカは親類です『旅烏』日記」から引用しよう。レッド・バトンズは、すでに赤髪がロマンスグレーになっていたらしい。

オスカー俳優、レッド・バトンズが「サキニ」役を演じた舞台を派手に報じる地方紙

 

日本人の私には、いつも両手を合せて拝むような恰好で何やらゴシャゴシャと言いながら挨拶なさる。私にはそのゴシャゴシャが一向に解せない。『もう一度仰言って下さい』とある時聞いたら、それがなんとセリフの日本語だった。

『満月の夜には、アーナーターオーモイダシマスヨ』

日本語のセリフには、芸熱心な彼レッド・バトン〔ズ〕も一苦労だったようだ。

( 「大陸時報」The Continental Times Dec. 2 1960)

大テントの巨大会場ツアー

大きな写真入りの切り抜きを眺めると、ドサまわりのうらぶれた風情ではない。

地方割拠のアメリカで、ブロードウエーの舞台を見る機会は、ニューヨークに住む市民のごく一部しか享受できない。地元を離れることがめったにない地方の富裕層は、ブロードウエーの引っ越し公演を楽しむしかなかった。今でいうロックバンドの世界ツアーのようなもので、さながら「蓮の花」の凱旋公演。会場もブロードウエーの劇場より大きく、観客も遥かに多く満員御礼だったという。

「ニューヨークだけでも五つか六つカンパニーがあって、それぞれ行く地域が契約によって違うの。私が行ったのは、ニューヨーク郊外の三千人が入るような野外劇場ね。円形のテントの仮設劇場で、八方から見られ、役者も八方から登場する。人いきれでムッとするほどだから、夏はテントの裾をまくりあげて、風をすうっと吹き渡らせていたわ。満月の夜には、お月様もそのまま舞台装置といった案配でした」

カナダでは、日本大使館から大きな花束が届けられた。有名な女性劇評家ドロシー・キルガレンも、コラムでソフィア・ローレンやキャサリン・ヘップバーンら大女優と並べて光子を論じている。

ただ光子のメモは、一九五七~一九五九年にかけて大きな空白がある。彼女の記憶は定かでないが、舞台が非番のときは何をしていたのか。

「ああ、ひとつはね、いろいろファッションモデルの仕事があったのよ」

そもそも光子が渡米を思い立ったのは、戦後復興の一翼をになったカメラの輸出を振興するお手伝いに、外地でモデルの副業をしようという見込みがあったからだ。

ニコンやヤシカ、キヤノンなど国内のカメラメーカーはこのころ、日本人モデルを使ってアメリカ各地で競ってカメラショーを開いていた。光子のギャラは一日二十ドル。当時の外国為替レートは一ドル=三六〇円に固定されていたが、実際には五百円以上。すでに一日一万円以上の収入が入る身分だったのである。

「一日二十ドルにしたって、ほかにちょっと写真撮ったら別に二十ドルですからね。バーで撮ったり、ちょこちょこそんなことをしましたから、もっと収入がありました」

現に、これも当時の輸出の花形だった真珠の販売促進で、フィラデルフィアで開かれた「ミキモト・パール・ショー」にもお呼びがかかった。

日本企業の展示会でモデル副業

彼女のメモから、どんなショーに出ていたのか拾ってみよう。たとえば、一九五六年十二月二十七日、パーク・アヴェニューに面した最高級ホテル「ウォルドルフ・アストリア」(アイゼンハワーやマッカーサーも長期滞在した)のファッションショーである。

「洋裁学校のトラファーゲンが開いた民族衣裳のファッションショーよ。私は島田の鬘を持ってたので、それをかぶって色打掛を着て行列で練り歩いたの」

翌一九五七年の十月二十二日には「シルク・ファッションショー」、一九五八年には時期は不明だが、ニューヨークの「ホールマーク・ショー」「高島屋オープニング」などがメモに残っている。彼女は引っ張りだこだったのだ。

一九五八年五月には国連のワールド・トレード・フェアのコンテストで「ミス日本」に選ばれた。NHKの「海外ニュース」によって日本でも報じられたが、光子を「海外で活躍する日本人女性」として紹介したのは、若き日の磯村尚徳記者(一九七四年からNHK「ニュースセンター9 時」の初代キャスター、二〇二三年に九十四歳で死去)だったという。

「ミスターNHK」磯村尚徳氏

「私が帽子のショーで一等になったんで、磯村さんは私の顔を知ってらしたんですよ。たまたま私の近所のだれかのところに、あの方は通ってきていた、私が偶然、鉢合わせしたことが二回くらいあったかな。すでに何かのショーで私の写真を撮って、日本に流したことがあるんですよ。ショービジネスをしている人は、職業カメラマンに頼めば、すぐ日本に流せるんですって。そんなの知らなかったわ」

同年八月二十六日、光子はCBSテレビに出演する。ブロードウエーの演技派女優ルース・ホワイトの番組だったらしい。ホワイトはこのころ母の介護に献身していて、出演は「クラフト・テレビ劇場」「今月のデュポン・ショー」などテレビが中心だった。光子はチョイ役だが、粗い画像の写真が残っている。

「スタジオで撮りましたね。私のせりふは日本語で『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』だけ。ウェートレスでお茶を注いだり、ちょっとしたお世話をする所作でいい。着物を着ていてオリエンタルの感じが出るから、日本にいるような感じに見えるじゃありませんか。もっと英語ができれば、まだ私は仕事がいっぱいあったんですよ」

ホワイトは一九六〇年代になって、のちにノーベル文学賞を受賞した劇作家サミュエル・ベケットの『ハッピー・デイズ』、エドワード・オルビーの『マルコム』などで評価され、一九六四年に米国製作のテレビドラマや番組の優秀作品に与えられるエミー賞を受賞している。

「でもね、ファッションモデルは季節のお仕事なの。春いっぱいはニューヨークやシカゴなどでショーの仕事があるけれど、夏になるとショーも開かれなくなる。秋まで三カ月、収入が途絶えてしまうでしょう。つい、このへんで日本に帰ろうかしら、って弱気になるのね。一九五六年秋に日本に帰ってしまったら、私の今日はなかったかもしれない」

だから、「私ほど運のいい女はいないのよ」が彼女の口癖なのだ。

社長が買った毛皮のストール

キヤノンのカメラショーで、社長夫妻と知り合ったのは、その幸運のひとつだった。光子の手元にある八ミリフィルムに映像が残っている。

ニューヨークの摩天楼「エンパイア・ステート・ビル」の展望台から、望遠鏡を覗きこんで眼下のマンハッタンを眺める夫人が映っていた。和服で悠然としていて、周りの奇異の目にも臆するところがない。

セントラルパークを周回する馬車と御者の笑顔。街路の人ごみやセントパトリック教会の尖塔、五番街七八一丁目の「シェリー・ネザーランド・ホテル」が画面をかすめていく。ピンクのスーツを着た光子が、街路に立って夫人にあちこち指さしている場面もある。

「そのときは誰かにカメラを回してもらったの。私が買ったカメラよ。ずいぶんと値が張りましたけどね。一週間、ニューヨーク見物に来ていた奥様の案内役をさせていただいたわ。ちょっとしたお金をいただいてね」

五番街五七丁目のティファニー本店のあたりだろうか、社長夫婦が街路を歩いている。夫は茶の背広姿でカメラを意識してか、後ろ手に手を組んでゆっくり歩いていく。和服の妻はそのあとから、草履でちょこちょこ足を運んでいるのがほほえましい。

五十年以上経って、そのフィルムを見る光子はくすくす笑いだした。

「私が紹介したお店で、社長さんがお土産に毛皮のストールを三つ、ついでに奥さんの分も一つ買ったの。それを持ってホテルに帰ったら、奥さんが見つけてきっとなってね。『あなた、これはだれに渡すの?私の知らない女性がいるんですか』って詰め寄って、目の前で夫婦喧嘩になっちゃってねえ。ナイトクラブの女性にでも、お土産にあげようとしていたんでしょうか。いや、大変なところに入ったと思ったもんですよ。ご主人が『まあ、いろいろと』って言い訳すると、奥さんがギュッとつねって『イタタタ……』」

産婦人科医からキヤノンを創業した御手洗毅氏

光子はこの社長夫妻をキヤノン創業者の御手洗毅(現キヤノン社長兼会長で元日本経団連会長の御手洗富士夫氏の伯父)と疑わなかった。が、朝日新聞の元財界担当記者にキヤノン広報で照会してもらったところ、画像は違うようだという。では、誰だったのだろう。

御手洗毅はもともと日本赤十字病院の産婦人科医だった。

山一証券にいた内田三郎の妻が出産で御手洗の世話になった縁で、内田とその義兄の吉田五郎と知り合いになる。内田と吉田はカメラ熱が高じて、昭和九年(一九三三年)に「精密光学研究所」(のちに「精密光学工業」と商号変更)を旗揚げした。医療用カメラに期待していた御手洗も共同経営者となり、工場建設の資金集めに奔走している。

ブランド名は、内田が観音菩薩を信仰していたので「KWANON」。やがてもっと語呂のいい「キヤノン」に変えた。「三五ミリカメラの最高峰、ライカに追いつき追い越せ」をモットーとするこの新しい会社は、社長なしの内田専務だけで、御手洗は監査役だった。すでに国際聖母病院産婦人科部長の身で、医者を辞める気などなかったからである。

キヤノン雄飛へ五番街進出

一九三七年、危機が訪れた。軍需優先の世となり、キヤノンが製造している民生用高級カメラに、日本光学がレンズを供給してくれなくなった。製品ができなければ支払いも滞る。御手洗は医師の立場から、結核診断に欠かせないX線カメラに活路を見いだした。従来はほとんどドイツ製だったが、国産化して海軍と陸軍からの受注に成功する。

一九四二年、内田がシンガポールの司政府に赴任することになり、社員の懇請もあって御手洗が初代社長に就いた。目白に建てたばかりの御手洗婦人科病院の院長と兼任である。が、一九四五年の空襲で病院は焼失し、社長業に専念せざるをえなくなる。終戦翌年の二月に、早くも新製品「キヤノンSⅡ」を発表し、カメラ生産を再開した。

御手洗は「世界を相手にしないと」と考えていた。最新の試作品を持ってプロペラ機でアメリカに渡ったのが、一九五〇年のことである。

社史の『キヤノン史―技術と製品の50年』を要約しよう。

御手洗がシカゴでふと目にしたのが「ベル・ハウエル社に二十九歳の社長誕生」という新聞記事。これだ!と思い、むりやり会って、販売代理店契約を結ぼうとした。しかし、若い社長は日本の知識がほとんどない。それでもカメラを置いてくると、後日、「当社の技術者によれば、ライカより数段優れている。これがドイツのブランドならホットケーキのように売れるだろうが、残念なのは『メイドイン・オキュパイド・ジャパン』(占領下の日本製)であること。ベル・ハウエルのブランドで生産するなら引き受けてもよい」という回答が舞い込んできた。  御手洗はもちろん、OEM供給を断った。「キヤノンのブランドでなくて何の世界進出か、自分で産んだ子は自分で育てる」 

一九五五年、御手洗はニューヨークの五番街にオフィスを構えた。光子が「社長さん」夫妻に会ったのは、まさにキヤノン雄飛の時期だったのだ。

しかし、この社長は恥ずかしい痴話喧嘩の場面をガイド役の光子に見られた。妻もバツが悪かったのだろう。「ぜひうちにいらして」と光子を誘った。たしかに八ミリのフィルムには、社長の桜新町の家の庭を逍遥し、客が数人と毅が池の鯉を眺めている画像がある。

「ずっと後年のことよ。私も結婚していて主人を連れてうかがったの。お昼をご馳走になって、ずいぶんおもてなしいただいたわ。気の強い奥さんでした」

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