
闇市のキャットウォーク 森貝光子一代記 【3】
「赤狩り」のパージ俳優第一号と共演
全米を吹き荒れた「赤狩り」の傷跡がまだ生々しい時代だった。『八月十五夜の茶屋』の原作にも冷戦が影を落とし、沖縄での舞台初上演は米軍施設内で、那覇公演は中止になった。光子もサキニ役の共演相手が、パージで最初に映画界から追放されたスターで、舞台で生きるしかなかったその苦汁の表情が忘れられない。=敬称略、一部有料。
第一部ニューヨークの蓮の花2
光子のメモがある。「七月五日シカゴへショーをみて」とあるから、実際の『八月十五夜の茶屋』の舞台は、一九五六年七月にシカゴで初めて目にしたのだ。
「誰でも最初は素人なんだから、上手な人の後について勉強して、磨いて上手になっていけば、できないことはないと思っていた。じぶんが選ばれたことを祝福して、やってみるだけのこと。お茶屋がどうの、芸者がどうのと、東洋の解釈にさほど違和感は感じなかった。むしろシカゴの舞台を見て、あんなのだったら、私ならもっと上手にできると思った。いくら日本語のせりふでも、相手の英語のせりふにあわせたキューがあるから、脚本はぜんぶ暗記しました。あとは勇気と心臓ですよ。わからないときにはにこにこっとして『わかりません』。それなら、かわい子ちゃんで通るでしょ」
新橋芸者が日舞指導
それでも、日本舞踊の稽古をつけてもらうことにした。ユキ・シモダという二世に踊りを振り付けてもらったマリコ・ニキのように、光子はたまたまアメリカに来ていた元新橋芸者のもとに通うことにした。『東京行進曲』や『カチューシャの唄』の作曲家、中山晋平の後妻になった喜代三である。

種子島出身で鹿児島芸者だった喜代三は戦前、歌手として『鹿児島小原良節』『明治一代女』でヒットを飛ばし、山中貞雄監督の丹下左膳映画では女優として出演した。夫晋平を五二年に亡くし、歌手に復帰するが、五八年に自叙伝『多情菩薩喜代三自叙伝』を出しているから、ニューヨークでは執筆に励んでいたのかもしれない。
「日本倶楽部で出会ったのよ。気さくでとっても面白い人。私もオーディションで『踊れる』と大見得を切った手前、はったりとバレないよう、三味線と一応の所作を教わりたいと相談したら、『一日五ドルでいいからどうぞ』って。でも、さすが芸者さん、気っぷがよくて人の気をそらさない。お稽古というより、おしゃべりばかりね。いくら物真似上手とはいえ、身振り手振りがおかしいと、ゲラゲラ笑いころげたりして……」
もっとも、置屋「中千代田」のお喜代姐さん(多田喜代)のような築地の名妓ともなると、喜代三にもっと意地の悪い評価を下している。
「新橋芸者のレコード歌手ですか、あゝ、喜代三さんはね、あちらは新橋ではありませんのよ。烏森(新橋南地)の芸者なんです。中山晋平さんの、でしょ。新橋ではね、戦前から芸者衆にレコードは吹きこませなかったんです。ですから新橋喜代三ってね、名乗っていらしたけれども、新橋の芸者衆ではないんですの」
一九五五年八月には、東京の歌舞伎座で『八月十五夜の茶屋』の日本初演があった。しかも蓮の花は、新派の看板女優、初代水谷八重子が演じた。ただ、英語版のままで字幕も通訳もなかったから、チンプンカンプンでさすがに評判がよくなかった。
そりゃそうだろう。築地芸者の本場で英語劇とはいかにも場違いだ。松竹オーナーの大谷竹次郎が『サヨナラ』につれなかったのは、このときの『茶屋』で懲りたからだろうか。

確かに、いくら水谷八重子の芸者姿がきれいでも、日本人の観客は素直に愉しめない。しかし一九五七年一月に日本で公開された映画版は、興行成績では洋画部門で年間三位とまずまずだった。芝居通の三島由紀夫は、水谷八重子の舞台も京マチ子の映画も両方見ている。
「果然、原作の面白さは、今度の映画で十分に味はれたのである」「この芝居はいかにもニューヨークのインテリ観客層に喜ばれるように出来てゐる。ニューヨークのインテリは、概して現在の政府と軍部に反対である」「エキゾティシズムにのっかって、わざとドタバタ調を駆使している。そのドタバタがいかにもストーリィと調和してゐる計算は巧妙である」などと、映画と原作が喜劇とみせかけて批判の隠し味があることを、さすがに見抜いている。
三島由紀夫の恋とベタ誉め
歌舞伎座の失敗にやけに甘いのは、しかたがなかったのかもしれない。
岩下尚史の『ヒタメン』によれば、水谷八重子の英語劇を観る前月、三島は赤坂の料亭「若林」の娘、貞子と歌舞伎座で遭遇し、一目惚れしている。貞子は歌舞伎役者たちもよく知っていて、六代目中村歌右衛門を「おにいさん」と呼んでいたほど。その楽屋で三島とすれ違ったのだ。

三島は秋に上演予定の新作歌舞伎台本『鰯売恋曳網』を書いていた。歌舞伎座版をそっとしておいたのは、それからまるまる三年続いたこの恋と、松竹への配慮があったせいかもしれない。三島も歌舞伎のエキゾティシズムにのって、わざとらしいドタバタ劇を創作していたからである(ローガン監督と違って、彼は歌右衛門を後ろ盾にしていた)。
光子が喜代三に日舞を習っていたころ、ほぼ同時期にMGMの映画版『茶屋』の撮影が進んでいて、京マチ子がアクロバチックな日本舞踊(藤間万三哉演出)を見せている。冒頭の琉舞はつけたりだが、襖があいて真打の蓮の花が三本指で一礼し、踊りながら次々と衣裳を換え、扇子を指先でくるくる回す場面は、この映画のクライマックスになった。
もとの脚本にこの踊りはない。カラー映画を意識して、アメリカ人受けを狙い監督が付け加えたものだろう。当時のハリウッドは、海外ロケで安上がりに製作し、ご当地に輸出して当たりをとろうという、一石二鳥の「ランナウエー方式」だった。華やかな日本舞踊の場面で、被占領国日本の「屈辱感」を薄めようとの計算もあったのではないか。
ともあれ、あでやかな芸者姿であらわれた京マチ子は、眉を剃り落とした『羅生門』などの上臈のイメージを一新し、狙い過たず、海外でまたもや数々の賞にノミネートされた。彼女を愛人にしていた大映の永田雅一社長は鼻高々だったろう。
松竹少女歌劇団(大阪松竹歌劇団)出の彼女は、ダンサーとして日舞、バレエからカンカン、レビューまで稽古で鍛えられている。溝口健二監督の『雨月物語』でも舞うシーンがあるから、いわば彼女のために創作された踊りだったのだ。
が、いま見ると、あまりにケレン味が強い。それでもこの踊りは、演出した藤間万三哉の妻、吾妻徳穂が二世宗家となった吾妻流のレパートリーに入れられた。むろん、この踊りを光子は知らず、舞台で踊ったこともない。だから、その蓮の花像には点が辛い。
「あんまり色気が出過ぎちゃって、女っぽくて喜劇には向かないわね。あの人たちは顔がよければ、スタイルがよければいいから……。でも、役はいいし、しなはつくるけれど、すっと立ったときに、気品がどうしても……。後日、パーティーで見た京マチ子は、いかにも利いたふうで、大きな声で話していたわ」
ご両人ともいまは鬼籍に入ったからもう時効だろうが、このあけすけな物言いは鼻っ柱の強い光子らしい。ファッションモデルの矜持が、大女優の色気に対抗心を燃やしている。そこまでムキにならなくても、と思うとちょっと可笑しい。
原作者は沖縄軍政を知る元将校
『茶屋』はまったくの架空話ではない。
マリコのプログラムにも光子のプログラムにも、パトリックの脚本が依拠した原作小説の『茶屋』を書いたヴァーン・スナイダーの解説が載っている。
「あえて僭越なことを言わせてもらえれば、『八月十五夜の茶屋』の底流をなす話は、海外での軍政活動に従事する人々の指針の一つになれば、との思いをこめて書かれました。アメリカ陸軍が軍政活動を開始した一九四四年当時、前線に配備された我々には、時間の浪費に終始したとの思いが残っています」
三島が見抜いた通り、ドタバタ劇という表層の下に別の底流があって、米軍の軍政の難題を真摯にとりあげているというのだ。この作品を「ただの喜劇で、シリアスな作品ではない」などと軽んじてくださるなと、やんわりと反論している。