福本邦雄外伝 〈上〉 知られざる母の情死

福本邦雄外伝 〈上〉 知られざる母の情死

2010年11月1日、福本邦雄が83歳で逝ってからもう9年半経つ。故竹下登首相の盟友で「政界フィクサー」だった彼が、政治の奥の院のことは何くれとなく私に教えてくれた。彼を追悼する文章「『裏の裏』は黙して」を当時雑誌に書いたので、ここに引用しよう。

すうっと手がのびてきて、心の奥をさりげなくつかむ。そして自家薬籠中に。そんな人だった。「あなたの文章は保田與重郎だな」と言われてハッとしたことがある。「無官の大夫」という題のエッセイを「文藝春秋」(1995年4月号)に載せたときだ。
彼の刎頸の友ともいうべき竹下登元首相が長時間インタビューで「僕は無官の大夫だから」とつぶやいた話が枕だった。わざわざ「ムカンは冠じゃなく敦盛の無官」と注釈してくれた竹下氏の気くばりに、「なかなか教養人なんですね」と感心してみせたら、福本氏が破顔して「(歌舞伎の)一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきだろ?あいつのは耳学問さ」と言い放った。
教養人はオレだといわんばかり。でも、竹下氏の母が松江高女時代に、「福本イズム」で一世を風靡した福本氏の父(和夫氏)に憧れ、実家の造り酒屋、竹下酒造に「大衆」という二級酒ブランドが生まれただけに、2人は何でも言える仲だったのである。

ひとつだけ筆を抑えたことがある。いつか字にできたら……と、短歌と歌人にことよせて己を語る「むかし女ありけり」(講談社版『ほむら立つとは』)の連載を企画したのは2000年夏だった。原稿をもらったら、若築建設事件で福本邦雄本人が逮捕されて小菅入り(のち起訴猶予)。紐なしの特注浴衣を拘置所に差し入れて「獄中でも連載を」と励ました。

東京大学名誉教授、伊藤隆も3年間19回のインタビューを重ねて『表舞台裏舞台福本邦雄回顧録』(講談社)をまとめたが、戦後に共産党から除名され、産経新聞を経て椎名悦三郎の秘書になった複雑な過去はさすがに口が重かったという。インタビューの録音テープもすべて回収されたと伊藤に聞いた。早くに亡くした母親のことは「家族に迷惑がかかるから」と口をつぐんでいる。

忘却するには惜しい。そろそろ字にしようか。彼の暗黒の海がそこに横たわる。

まず1933年(昭和8年)4月1日付の朝日新聞夕刊から始めよう。今から実に87年前に起きた情死未遂事件である。

【東京市】大森区大森3ノ246喫茶店「白蛾」のマダムで3・15事件の大立者福本和夫をめぐる5人の情人の1人である星野幸子(32)が〔3月〕31日朝「白蛾」の2階の自室で同居人の情夫、国際拳闘クラブのコーチャー杉野文一(29)とお互いに動脈を斬った上アダリンを飲み、苦悶中を家人が発見、大森町の安田病院に収容手当を加え両名とも生命は取り止める模様である。

この星野幸子こそ、福本邦雄の実母である。筆を抑えたとは彼女のことだ。邦雄の生前は触れてはいけないタブーだった。

朝日新聞の記事は正確でない。3・15事件とは1928年3月、日本共産党員ら数千人を治安維持法違反で一斉検束した事件だが、幹部の福本和夫は逃れて潜伏し、逮捕は同年6月である。幸子は情人ではなく、別れた正妻であり、2人の間に生まれた一子こそ邦雄だった。

朝日は「生命は取り止める模様」との予測も外している。4月18日夕刊に幸子が「17日午前四時遂に絶命した」というベタ記事がひっそりと載った。いったん息を吹き返したものの、彼女はもう一度、睡眠薬をあおって自ら死出の旅路を急いだのだ。

 

カフェ「白蛾」の名を世に高からしめたのは、店に通って幸子の歓心を買った作家、尾崎士郎である。洋行帰りのアカのヒーローに憧れたあげく「ブルジョア女が転落した末の酒場のマダム」の姿は、『青い酒場』『悪太郎』などの小説に描かれている。しかし若いツバメとの心中に逆上したのか、尾崎は婦人公論の1933年5月号に「彼女は生くるべからず――『白蛾』のマダム星野幸子の情死事件」を書き飛ばし、平然と死者に鞭打っている。

33年は尾崎が大河小説『人生劇場』の連載を始めた年にあたるが、すでに妻の作家、宇野千代と別れていた。千代とのなれそめは1921年、千代が「時事新報」の懸賞短編小説で一等を取り、彼が二等だったことからだ。のちに千代は「その、おどけたような吃りの癖まで、思いもかけない感情の陥し穴に、私を誘いこんだのであった」と『生きて行く私』で回顧している。

札幌の夫を捨てて尾崎と同衾した千代は、23年に大森駅から西へ2キロほどの馬込町で農家の納屋を買い、洋館と折衷した奇妙な家を建てて住むようになった。26年、2人は正式に結婚したが、雑木林と大根畑に囲まれた家は千客万来のサロンとなる。

人好きのする尾崎は顔が広い。学長人事をめぐって紛糾した17年の早稲田騒動では革命家気取りの学生リーダーだったし、中退後も普選運動で投獄され、石橋湛山の東洋経済新報や荒畑寒村の売文社を渡り歩いていた。家には政治活動家から衣巻省三ら文士まで多士済々が出入りし、やがて詩人の萩原朔太郎、小説家の広津和郎らも移り住んで「馬込文士村」が形成される。

27年、川端康成に誘われて尾崎と千代が伊豆湯ヶ島に旅したころからすきま風が吹く。湯ヶ島で千代は『檸檬』の梶井基次郎や『測量船』の三好達治と親しくなった。それが噂となって尾崎も毎晩のように大勢の友人を連れて銀座を飲み歩く。新聞連載「世紀の夜」が評判になり、売れっ子女流作家の日陰の身から脱したからだが、そのうちに千代には断りもなく、銀座のバーにいた年若の娘(古賀清子)と結婚式を挙げてしまった。千代は「私はおかしくなった」と書いているが、大森海岸の蟹料理屋で、清子を同伴した尾崎と会っている。

酒が廻って、唄になった。尾崎が例によって、眼を閉じ、首を振り、人の心をそそるような声で、唄を唱い始めると、娘もまた、尾崎とそっくりに眼を閉じ、その同じ歌を唱うではないか。私はそのとき、凡てのことを理解した。(宇野千代『生きて行く私』)

30年8月、尾崎と離婚した。別れたさみしさを紛らそうと、千代は毎日、ジアールという睡眠薬を飲み、それから少量の酒を煽って朦朧としていた。新聞連載小説の心中場面の取材で、情死し損ねたばかりの画家、東郷青児と出会った千代はたちまち恋に落ちる。最初に東郷と会ったのが、大森駅前の「白夜」という酒場で、緑色のペンキを塗った小さな酒場だったと千代は書いている。その夜から彼女は世田谷の東郷の家に引っ越したとあるが、この「白夜」とは幸子の店「白蛾」ではないのか。

幸子がすでに尾崎を知っていたとしたら、どんな目で千代を見ていたのだろう。そして千代は前夫が足繁く通った店といつ知ったのか。梶井基次郎は肺結核で死に、馬込の家に長逗留した『ゼーロン』の牧野信一も自殺し、暗い季節だった。睡眠薬を常用する退嬰たいえいすれすれの生きざまは、「白蛾」の幸子とほとんど背中合わせである。

尾崎士郎と1歳年上の宇野千代
パブリックドメインより

聡明で美形のマダム目当てに「白蛾」に群がったのは尾崎だけではない。詩人で作家の衣巻もその一人だ。彼は稲垣足穂の神戸時代の同級生で、第一回芥川賞の候補となった。同じく詩人の小野十三郎、そして国木田独歩の息子で詩人兼小説家の国木田虎雄もいる。虎雄は副士幸次郎主宰の「楽園詩社」同人で、団鬼六の母と結婚したこともある。ほかに海軍士官やボクサーもいて、嬌態の日々を尾崎が活写している。

ああ、誰だってマダム・ヒトミ〔幸子〕の印象を払ひのけることはできないであらう。マダム・ヒトミは、どの男にだつて自分の幻影を投げることができる。酔つ払ひで、デカダンで、――身も心ももちくづしたといふポーズをとりながら、しかも、彼女の心は貞潔な感情の中に凍りついてゐるのだ。昼は自分のベッドの中で暗鬱な夢におさへつけられて昏々として眠ってゐる彼女だ。そいつが、夜になると、さかなのやうに泳ぎだす。空想に塗りつぶされた彼女のうろこは青く冴えかえつて、ちやうど、ふたたびかへつて来ない故郷に憧れる白系ロシア人のやうな、絶望と倦怠の中で遠くにある貞操を酒場の舞台の上で刻々うつる情熱に身をまかせて追ひ求めるのだ。(尾崎士郎『青い酒場』)

だが、尾崎の観察は酔客のそれでしかない。彼は「批判もなければ釈明もない冷徹な感情」で報告するとリアリズムを標榜するが、嫉妬深い文士の「露悪」に走り、幸子の遺書の「かうなることは先からご存知だつたと思ひます」という恨み言まで引用して、女の死を悼むでもなく詫びるでもない非情さで溜飲を下げていた。前年の10月にも幸子は自殺未遂を起こしたが、当時の彼の文章を引いておこう。

三井の重役の家にうまれて、ブルヂヨア的伝統の中で小さい女王様のやうに育てられた彼女である。若き革命家の妻となつて、彼女を育てたブルヂヨア的雰囲気と戦つてきた彼女である。性格の底に根ざすニヒリズムの故にマルキシストにもなれず、教養の高さと純情のひたむきなるが故に今日の時代に融合することもできず、理智の明徹なるが故に恋愛に殉ずることもできず、第一の結婚〔福本和夫〕と、第二の結婚〔岩堂保〕によつて得たる二人の愛児〔邦雄と健仁〕への母性愛の強きが故におのれの野心におもむくこともできず、懐疑と絶望に身も魂もすりへらして、索漠たる人生を流るヽまヽに流れていつた彼女の姿は秋の夜に火を慕ふ力さへもうしなつてわれとわが身を泥土に委する蛾の運命にも似てゐるではないか。
(婦人公論昭和7年12月号尾崎士郎『母性の悲劇共産党福本和夫氏前夫人の自殺』)

「身を泥土に委す蛾」という形容には、『資本論』を初めて邦訳した高畠素之の国家社会主義にかぶれた尾崎自身の過去が投影されていて、女の不幸など眼中にない。それとも口述を婦人公論記者に代筆させたがゆえに口が滑ったのか。

婦人公論に載った福本和夫の写真

幸子は三井財閥の持株会社、三井合名会社の調査役、星野政敏の三女として1902年(明治35五年)に生まれた。政敏は愛媛県の士族、菅沼忠三郎の長男だったが、星野正言の養子となり、明治21年に東京帝国大学農科林学科を卒業し三井に入社した。三井の台湾出張所長のほか、台湾製脳会社取締役や台湾拓殖製茶会社調査役などを歴任し、妻ツル(明治10年生まれ)との間に長女ムツ(明治25年生)、長男有終(明治27年生)、二女ミチ(明治34年生)、三女幸子の一男三女が生まれた。

幸子が革命家、福本和夫と結婚したのは1925年12月。ほとんど26年の父政敏の死と踵を接する時期だった。23年9月に関東大震災が起きてからまだ2年余と帝都は復興のさなかだった。

鳥取の下北条村出の秀才で、東京帝大を出て松江高女教授となった福本和夫は、官費留学で敗戦国ドイツに学び「現実のかわりに理想を、事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、専門家のかわりに全人を、教師のかわりに指導者を欲した」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)空気を吸った。帰朝後は雑誌「マルクス主義」で論壇にデビューし、定宿の本郷菊富士ホテルに青年男女が集まった。

本郷3丁目交差点から坂を下った中腹にある文壇セレブの泊まるホテルで、かつては尾崎と千代も同棲していた。「エンゲルス・ガール」の令嬢幸子も、颯爽とした革命家の姿に憧れて訪れたらしい。当時の和夫は「シャレた背広、磨かれた靴」という大正末期のモダンな「マルクス・ボーイ」で、幸子が後年書いた回想に、夜道を歩きながら和夫と交わした会話の断片がある。

「貴女はマルキストたり得る、正しい見解なり素質を持つてゐると思ひます。そしていままでの生活からハツキリ分離し得ると思ふ」
「無論なれますとも。今までの生活様式をこれ以上続けていく勇敢さを持つてはゐませぬ」
(婦人公論昭和5年4月号星野幸子「福本和夫は色魔か?――歪められた彼のために」)

痛々しいほどぎごちない。だが、内心はこの恋に「寂しさ」も感じていた。

ひつきりなしに話しつヾける福本の口からもれる河上〔肇〕氏の誤れるマルキシズム非難や、ローザ〔・ルクセンブルク〕やカール〔・リープクネヒト〕の言葉を聞くと一種の昂奮の為に色々の質問をした。後から後から湧いて来る、二三日中に両親から別れて、福本のみの生活へ飛び込んで行くそれに対して微かな断ち切れない過去の愛着心と、両親への精神的依存の判然とした分離、それへの悲哀の感情が重苦しく気を沈ませて終った。(同)

しかし尾崎の評点は辛い。

感覚だけがすべての判断の原則である彼女の眼には、ツルゲネフや、チエホフや、ドストエフスキーのすんでゐたロシヤは好きであっても、共産主義のロシヤはどうしても好きになれなかつた。これは一つの時代が次の時代へのつながりの上に立ってゐるといふことを理解する能力の欠如を語るものではなく、文学に於ける『十九世紀』的なるものへの思慕が彼女のロマンチシズムの中に一つの『信念』をつくりあげてしまったからであらう。(尾崎士郎『母性の悲劇』)

和夫には結婚歴があった。欧州留学前の22年に郷里の島根で吉本艶と結婚し、長女逸子が生まれたが、帰国後の25年に離婚している。幸子とは再婚になるが、結婚式は慌ただしかった。和夫は真っ白な手袋とタキシードにオーバーをはおり、香水までまぶした花婿の出で立ちで、わざと地味な大島の着物を着てきた花嫁の幸子に「何てまあ、おどけた結婚式ではないか」と朗らかに嘯いたそうだ。まさに「王子様と王女様のお伽噺とぎばなし」「現実の彼方に泛んでいる金色の夢」と彼女は結婚したのだ。

山口に着くやいなや、二人は衝突する。彼女を苛立たせたのは、「恐ろしく凍りついた」冬の山口の単調さばかりではない。「日本のレーニン」を自負する福本の生活力の無さにはあきれるばかりだった。停車場に立てば、小さなスーツケースも赤帽に持たせようとする夫。ふだんは温和で無抵抗だが、論文を書くとなれば青ざめて緊張し、余事は何もかも忘れる日常に、新婚の甘い夢を砕かれた幸子の毒舌は、夫の偽善を鋭く責めてやまない。

「自身学者以外に何にもない癖に、労働者の指導もないもんだと思うわ。反動的になりますよ。徹底してみせるわ」
(星野幸子「福本和夫は色魔か?」)

彼女は無断で東京に帰ってしまう。福本の反噬の手紙は不器用だった。

「貴女は、あなた自身の功利主義のために――その一切の巧妙なる詭弁にも拘らず、結局私をスッカリ犠牲にしようと考へていらっしゃるのです。〔中略〕ところが私には果たさなければならない重大なる使命があるのです。安価なる享楽生活、沈滞せる無為の生活、冷酷と欺瞞――亡滅の世界、無創造の世界、――に私を投げ込み度くはありませぬ」(同)

耳を澄ませば、理屈を盾に我を通そうしただけで、その論文と同じく和夫の言葉は没論理で案山子のようだった。しかし政治活動のせいで山口高商を辞めさせられ、新婚3カ月で2人は東京・北品川御殿山718番地の幸子の実家の隣で暮らし始めた。諍いが絶えない。私立大学にでも職を探したら、と尻をたたいても動かない夫に業を煮やし、幸子は母家に引っ張っていって、あてつけにお嬢様芸のピアノを弾いてみせた。和夫は冷笑を浮かべ「冷酷に立脚する巧妙なトリック」と腐し、「所謂阿堵あと物〔金銭〕の微かなるにほひが、あの冷酷にして『上品』な『七面鳥』を雀躍せしめた」などと悪態をつくだけだった。よくある若き夫婦喧嘩を、二人とも階級闘争にしていたのが滑稽と言えば言える。

26年5月、とうとう破局が来た。和夫は菊富士ホテルに引っ越す。

「御機嫌よう。御互はどうあつても同じ方向へは行かれやしない。〔中略〕もう之以上僭越な文句を君から聞く必要はないのだ。ロシヤへ行く。僕の価値は、その時屹度解るだらう。君は君の生活を送り給へ」
「えヽさうしませう。徹底しないマルキシズムより私の無創造の世界の方がより良いと思ひます。あなたは偉いかもしれません。そして、よく云ふ(あなた自身が云ふ)世界的の人間になるのかもしれません。けれどもそれが今の私に何だつて云うんでせう」(同)

7月、ふたりは離婚に同意したが、すでに彼女は子を宿していた。翌27年(昭和2年)1月、長男邦雄が生まれる。(敬称略)■
<資料収集は友人、山本一生君に拠る>

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