無縫地帯

百田尚樹『日本国紀』コピペ論争と歴史通俗本の果てなき戦い

幻冬舎から出版された百田尚樹さんの『日本国紀』刊行にあたり、その内容を巡って歴史的に正しくない説明が多く含まれ、またWikipediaや類書などからの引用表記なきコピペがあり批判が広がっています。

ベストセラーとなった百田尚樹さん執筆の『日本国紀』(幻冬舎)が物議を醸しています。

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個人的には『日本国紀』は既読で、歴史家ではない百田尚樹さんが独自の視点で著した歴史的な読み物だという判断で読み解いていましたので、騒動になってしまった理由がイマイチ分かりませんでした。ところが、後述する2つの論点についてすでに大手新聞も巻き込んだ論議になり、重ねて問題視される「Wikipediaからのコピペ問題」や、外部からの指摘に対して著者の百田尚樹さんや執筆に協力したとされるジャーナリストの有本香さんらが挑発的な返答を繰り返して火に油を注ぐ事態となりました。

売り上げ好調百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動専門家の評価は?(毎日新聞 18/12/20)
百田尚樹氏『日本国紀』は随筆である…定説と大きく異なる部分、事実誤認部分(ビジネスジャーナル 18/12/1)

さらには『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)などのベストセラーも持つ歴史家・呉座勇一さんも、朝日新聞などでみたび本件『日本国紀』の歴史的史実にまつわる内容について批判的に取り上げ、いわば歴史モノの史実面での真贋と、愛され読まれる歴史モノとしての蹉跌という別のベクトルの問題になってきています。

(呉座勇一の歴史家雑記)百田氏新作、過激と言うよりは(朝日新聞デジタル 18/12/4)

問題とされる論点が複数併存しているのですが、大きく分けて「それは歴史的に正しいか、歴史を題材にした本は正しくなくても売れればいいのか」という話と、「Wikipediaなど既存のネット文献をそのままコピペし剽窃することは望ましいのか」という話とに大別されるかと思います。

前者の「歴史的に正しい内容ではない」という指摘については、私も月刊誌『Monoqlo』での書評連載でも論じましたが、平行線をたどるタイプの議論ですので問題視したところで結論が出ることはないと思います。

歴史的に正しい内容で執筆されるべきだとする歴史家や歴史ファンもいれば、通俗的で楽しく読みたい読者層もいます。この百田尚樹さんの『日本国紀』は明らかに後者向けの、正しさは別として百田さんの本を楽しく読みたいというファン向けの本であろうと思います。これらの本は本当に歴史を学びたいと思って読み解く動機のものではないであろうと考えれば、呉座さんの批判する「通説と思いつきの同列やめて」「古代・中世史に関しては作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている」という内容も、百田さんや有本さん、幻冬舎見城徹さん側は百も承知でやり切った、とも言えます。

これを商業主義的な手法で歴史学・考古学の見識を蹂躙したと批判するのもまた理解されるべき価値観である一方、私たちも戦後の歴史読み物の中で、変遷する歴史的評価とは別に作品中で面白おかしく思い入れたっぷりに書かれた事件や人物像に翻弄されることは数多くあります。例えば『司馬史観』と呼ばれる歴史小説の大家・司馬遼太郎さんが著した実際の歴史とは似ても似つかない群像劇が一般的な歴史的人物像として定着してしまった結果、坂本龍馬への過大評価が日本社会で広まってしまい、ソフトバンクグループ総帥孫正義さんが「私が尊敬する人物は坂本龍馬である」みたいなことを公言してしまうに至ります。

したがって、個人的には戦後、とりわけ90年代以降日本人の政治的思考や歴史認識に影響したとされる西尾幹二さんの『国民の歴史』(文春文庫)や、小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』(扶桑社・当時)などのような思想的バックボーンを誘起するものというよりは、歴史的読み物として読者の読みたがるものを面白く読み解かせる司馬遼太郎さんのような歴史小説、講談のようなものと『日本国紀』は判断するほうが正しいのではないかと思うわけであります。もちろん、司馬遼太郎さんと百田尚樹さんとを同列に論じるつもりもありませんが。

おそらく、司馬遼太郎さんが書いていた時代にインターネットがあるならば、間違いなく『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』などの作品は歴史家や研究者から真正面から酷評され、SNSでは罵倒の嵐になっていたのではないかとすら思います。百田尚樹さんはただでさえ目立つため、どうしても書いてある内容に問題があると批評や批判の対象になるわけですが、それを超えて「百田さんの本ならば読みたい」というファンもまた少なくない部分を加味すると、むしろ百田ファンではない人たちに「あれは歴史の学術的には正しくないエンターテインメント本なのだ」という説明書きをして線引きをしておくことが求められているのではないか、と感じます。

一方、「Wikipediaや他の作家の解釈を下敷きに論述しているのではないか」という問題については、私自身がすべての文献を比較対照して検証したわけではありませんが、すでに幾つもの指摘が出ているようで、念のため、URLを貼っておきます。事実だとするならば、幻冬舎は校閲やリサーチャーがいなかったのだろうかと心配になるレベルです。

【日本国紀】コピペが発覚した場合の他社の対応【ミスチル、幸福の科学、司馬遼太郎らをめぐる事案を通して】(論壇net 18/11/28)
日本国紀研究その5(事務課リー note(ノート) 18/12/2)

その後も、増刷される中で修正された部分もあるなかで続々とコピペとされる部分や、引用表記や参照文献として明記せずに研究成果や文面を流用していると見られる部分が指摘されており、常識的には著作権者との話し合いを進めつつ全面改訂するか、一度回収する段取りを進めるべき事案のようにも見えます。

より問題なのは、これらの問題個所の修正にあたって「ここの部分を修正しました」と分かる形であまりきちんと提示されていないようであること、また、指摘をした有識者やネット住民に対して不思議な戦闘態勢で百田尚樹さん側が応戦しているように見えることです。常識的な対応として「そういう風に見られたら本意ではありませんが、指摘は一部ごもっともなので修正いたします」ぐらいの回答をされたのであれば「次からはよろしくね」で済むべきところが、なぜか関係者がみんな開き直っているのでバッシングがやまない状況になっています。

百田さんにおいては、やしきたかじんさんの逝去にあたっての書籍『殉愛』(幻冬舎)での「ワンミス」があり、そこへ西岡研介さんらの『殉愛の真実』(宝島社)による批判もまたあり、先日は東京地裁でやしきたかじんさんのご親族から名誉棄損裁判を起こされ敗訴に終わっています。見ようによっては、売れてしまえば275万円程度の賠償を支払っても腹は痛まないという状況なのかもしれませんが、せっかくあれだけの書く力が百田尚樹さんにあり、彼の作品を待っているファンが多いのであればいま一歩良い刊行物を出し読み継がれる作品にしようという意欲があっても良いのではないかと感じる部分はあります。売れる作家であるからこそもう少しきちんとしたリサーチを行って事実関係の検証に基づいた執筆をしていれば良かったのにと思うところが大です。

百田氏と幻冬舎に賠償命令「殉愛」で名誉毀損を認める(朝日新聞デジタル 18/11/28)

ベストセラーを巡る問題については、売れる著者とウケるテーマの組み合わせでプロモーションを派手にやって売り抜くメソッドが定着する一方、本来書籍が担ってきた正しい知識を読者に伝えるという媒体としての使命が薄れてしまった結果、お手軽な新書や企画本が並び、売れ線が限定されて出版業界全体が枯れてしまうことになります。大きな事件を引き起こした酒鬼薔薇聖斗氏の『絶歌』(太田出版)の件にしても、あれだけのことをしておいて太田出版にぶん投げる経緯もあったわけですし、より良い売り方を考えられるような仕組みがあるといいなと外野からは思う次第であります。