無縫地帯

座間9人殺害事件、凄惨な事件だが報じられ方に違和感はないか

15歳の少女を含む9名が殺害された凄惨な事件ですが、殺害の手口や被害者の実名報道がどれだけの意味を持つのか、もう少し立ち止まって考えたほうが良い時期に差し掛かっているように思います。

「死にたい」などとほのめかす自殺志願者とSNSでコンタクトを取って僅かな期間に9名の殺害を行った座間の事件、15歳の女子学生を含む全員の身元が特定するなど、社会を震撼させたシリアルキラーの行いについてはかなり足取りや手口が鮮明に報じられるようになってきました。

【座間9遺体】残る8人、ほぼ身元特定事件解明を本格化(産経ニュース 17/11/9)

もちろん社会全体の関心事ですから、大々的に事件が報じられるのは仕方がないとしても、問題は「殺害の手口の詳細」や「犯人だけでなく被害者の実名や人となりについて」までメディアで大きく取り上げられ、これって本当にメディアの受け手にとって必要な情報なのか、無理に事件の恐怖を煽り立てていないかを慎重に考えるべきものになってきているように感じられる点です。

リンクは貼りませんが、日刊スポーツでは被害者女性の自宅を取材したうえで、被害者女性の実名報道や顔写真の公開をしないで欲しいというご遺族の張り紙まで写真掲載し、さらにそれを記事にして、実名のタイトルをつけるということまでしています。

安易に「被害者の心情を慮れ」というのは報道の自由や国民の知る権利を考える上では異論も出るのかもしれませんが、明らかにご遺族が気持ちを整理したり心を落ち着かせて事件を受け入れようとしているところを、メディアが踏みにじるようなことをするのが望ましいのかというテーマは、そろそろ真面目に考えたほうが良いのではないか、と思います。

併せて、テレビ報道などでもワイドショーを中心にこの大きな事件の陰鬱な背景や殺害に至った経緯、殺害の手口そのものまで報じて、この事件の異常をこれでもかと報じています。大きい事件ですから、国民の関心事だと判断してそのような話題を取り上げることそのものは違和感はないのです。しかしながら、ただ単純に「そういう気持ちの悪い映像は観たくない」という話ではなく、問われるべきことはこういう重篤な犯罪がSNSという区切られたスペースで行われ、顔を合わせたこともない人間同士が対話し、会いに行き、連れ去られて殺害されたという事実が、お茶の間に繰り返し報じられることにどれだけの意味を持つかということです。

おそらくは、テレビを観ている中高年の女性は、SNSで若者が交流し、面識はなくても話が合えば気軽に会いに行く状況を知らずに「けしからん」となるでしょうし、また、そういう人たちが政府に対して「SNSを禁止しろ」とか「自殺願望などを書き込めないようにしろ」という短兵急で明後日の方向の世論に誘導されることは間違いありません。事件の異常性を報じるほどに、テレビの受け手は「自分たちの違うところで起きた重大な犯罪である」と切り分けた上で、そのような異常な犯罪の起きるネットのSNSなどは青少年の被害が出る前に規制してしまえという意見を持つのは当然です。子供を持つ親の身からしても、おぞましい事件であるほど再発の防止を求める包括的な対策を求める空気になるのは容易に想像がつきます。

ただ、物事の本質は自殺志願の少女たちが多数殺害されたという事件そのものというより、そういう自殺をしたいと思う子供や若者たちがそれだけの数実在し、SNSを通じて自殺をしたいというシグナル、サインを送っているという現実にあります。もしも、SNS上でそういう自殺願望を書き込めないようにしたとしても、それは単に書けなくなるだけで、自分の生と向き合っている少女はより目立たないところで自殺衝動を駆り立てて、自殺したいというサインは誰にも届かず、ただひっそりと決断して自ら命を断ってしまう可能性だって高くなるでしょう。苦しい気持ちを受け止めてもらえる場所を制限すれば自殺が減るわけではない、むしろくだらない愚痴やしょうもない願望でも誰かに届く場所として、SNSが機能してくれたほうが社会にとっては役に立つはずです。

翻って、前述の日刊スポーツは踏み込みすぎていると思う部分として、愛する娘さんを殺されてしまったご家族の心痛というのは、単に喪失した我が子を惜しむという心情だけでも私の胸がかきむしられるほど苦しいことなのに、何よりも子供が心の中に抱えていた「死にたい」という観念から解き放ってあげることのできなかった痛恨にもあるんじゃないかと思うわけです。自殺は本人も苦しいことながら、そういう苦しい心情を察してあげられなかった家族や友人など周囲の面々にも辛い経験として重くのしかかっていきます。だからこそ、そっとしておいてほしい、我が子の名前や顔写真を世間に広めないで欲しいという気持ちをメディアが蹂躙するというのは困りものです。

事件、事故であれ災害であれ、不幸に陥った人たちの感情を伝え、状況の悲惨さを知らしめるというのはメディアの重大な役割であることは分かります。そういう困った人たちの悲痛に満ちた表情がなければ事件報道にならない、絵にならないというのも、仕事柄、仕方がないのでしょう。重大な事案は国民みんなの関心事だからこそ、殺害の手口を詳細に報じるというのも、やむを得ないところなのかもしれません。ただ、線引きというか、ちょうどいい塩梅ってのはないのかと毎回思うわけですよ。

メディアに世間一般の倫理観を持てというような話をしても仕方がないところではありますが、もう少し考えたほうがいいのではないでしょうか。