FaceBookが歴史的な報道写真を巡って揉めた一件で感じたこと
ベトナム戦争の悲惨な状況を伝える歴史的な報道写真を巡り、FaceBookが起こした騒動は「歴史的な正しさ」と「時代ごとに違う政治的正しさ」の違いを浮き彫りにしたようです。
山本一郎です。裸で寝ていたら風邪をひきました。
ところで、ジャーナリズムの権威であるピューリッツァー賞も受賞した歴史的な報道写真を巡ってFaceBookがメディア界隈や一国の首相を相手に騒動を起こす事件がありました。
フェイスブック「ナパーム弾の少女」写真検閲で物議 批判受け撤回(AFP 16/9/10)
交流サイト(SNS)最大手のフェイスブック(Facebook)は9日、ベトナム戦争(Vietnam War)でナパーム弾攻撃の被害を受けて逃げる裸の少女の写真に対して自社サイト上で行っていた検閲措置を撤回した。検閲措置に対しては、ノルウェーの首相を含む多数の人々から批判が集まっていた。AFPこの騒動を巡っては、その対象があまりにも有名な報道写真であったため、ネット上でも今のところはジャーナリズムの観点から論考した情報が多くを占めているように感じます。
フェイスブックがベトナム戦争の報道写真”ナパーム弾の少女”を次々削除…そして批判受け撤回(新聞誌学的 16/9/10)
ニューヨーク市立大学ジャーナリズムスクール教授、ジェフ・ジャービスさんは、その影響力に応じたバランスと責任の取り方として、「フェイスブックにはエディターが必要だ」と指摘する。まあ、Facebookはこれまでにも同社サービスの提供するコンテンツが結果的に社会へ大きな影響力をもたらしてしまうことから、コンテンツの扱いについていわゆるメディアとしての行儀作法みたいなものを求める人々の声は少なくありませんでした。しかし同社ではそういう対応を考えてはおらず、つい最近も同社CEOのザッカーバーグがそうした対応を否定する発言をしたばかりです。
ジャービスさんが言う”エディター”は、個々のコンテンツの編集作業にあたるのではなく、倫理基準やポリシーの運用のレビューを担う、ニューヨーク・タイムズのパブリック・エディターのような存在を想定しているようだ。
そのようなオンブズマン的なエディターの存在は、繰り返されるフェイスブックの問題への対処に、有効かもしれない。:新聞誌学的|https://kaztaira.wordpress.com/2016/09/10/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%8C%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%80%8C%E3%83%8A%E3%83%91/
Facebookはメディア企業ではない!マーク・ザッカーバーグ断言(映画.com 16/8/30)
今回の報道写真を巡る一件でもこの方針は徹底されており、ジャーナリズムを司るメディアとしての責任は取らない一方で、世界的な規模のSNS運営事業者としての責任回避に全力を傾けている印象があります。
フェイスブックはその後発表した声明で、「裸の子どもが写った画像は、通常ならばわが社の規定に反すると判断され、一部の国では児童ポルノに該当するものだ」とした上 で、今回の写真については「その歴史と世界的な重要性」を認め、検閲の撤回を決めたと説明。一方で、謝罪には至らなかった。AFPFacebook側の論理としては、ジャーナリズム的な情報の重要性よりも、世界的にバッシングの対象となる児童ポルノでトラブルになることを避ける方がプライオリティは高かったということであろうと推測できます。
言い換えれば、見た人の不快感をジャーナリズムに優先した判断です。
問題の報道写真は2016年の今日の社会的価値観からすると、戦争の悲劇を伝える写真であるという以前に、全裸の少女が大きく写っている画像であるということの方がインパクトが大きく、それを公の場に晒すことがネガティブなものとして評価される可能性に配慮をするべきか、というのは利用者に与える価値の判断において重要な問題です。もし、この写真が2016年の今どこかで撮影されたものであった場合、はたして世界的な規模で報道写真として流通することはできたのだろうかという疑問はあります。
もちろん、シリア内戦など悲惨な戦争報道では、日本のマスコミは銃撃戦や爆撃で殺害された人々や児童の画像はたまに流通しますが、欧米マスコミやアルジャジーラに比べると圧倒的に抑制されているように思います。少なくとも、日本国内のメディアにおいてこの写真が大きく誰の目にも止まる場所に公開されることはかなりむつかしいでしょうし、メッセージ性の強力さだけでなく、流通するべき報道画像としてのインパクトの強さは受け止められるかどうか、不安になります。。新聞やテレビ報道にこの写真を大きく掲載されれば、もしかしたら児童ポルノ反対を唱える市民団体からクレームの嵐が起きたとしてもあまり驚かないです。
個人的には、今回の一連の騒動についてFacebookが行った行為はお粗末だったなと感じつつも、全世界に住む万人のリテラシーに合わせたポリティカル・コレクトネスを推し進めていくと、過去のジャーナリズムでは正義だった行いも現在においては許されざる蛮行にしかならない可能性があるのかもしれないなとぼんやり感じたりします。時代が移ったので、おそらくは、誰が見ても悲惨で、誰が見ても戦争は止めようという別の種類の写真へ切り替えられていくのではないかと思います。
今流行りのAIみたいなものについても、今後どう成長させていくかという場面においては、こうした社会的価値観の変容といった要素をどう扱うかが大きな課題の一つとして重くのしかかってきそうに思えます。
あらゆる意味で「みんながこう思っている」という最大公約数に向けた取り組みか、眉を顰めるけど目を背けてはいけない現実かは、常に出し手も受け取り手もチューニングしておかなければならないだろうと。