無縫地帯

「AO義塾」問題と大学改革の是非

大学AO入試の結果を盛って燃えた「AO義塾」ですが、大学の入試制度と大学の意義についてはもう少しきちんと議論されるべきじゃないかと思いまして、記事を書いてみました。

山本一郎です。内部進学のエスカレーターで大卒ですが、20倍以上だった慶応義塾中等部に中学受験で入れていただいて、あれから30年近くたって、みんな良いおっさんになってるわけですね。

で、同じ時代、同じだけ勉強して、ものすごく狭き門で学力を試され選抜されたはずの我ら義塾の中等部塾員といっても、医師になり世界で活躍している者もいれば、経済事案でひっそり名前が出てそれ以降消息不明の者もいて、諸行無常な感じはします。一番強く感じるのは、中学受験が如何に熾烈で大変なものであったとしても、そこでの成功は必ずしもその人の成功を保証するものではない、というごく当たり前の教訓を呼び起こすのであります。必要なことは、才能と運と続ける気力だってことですかね。元も子もないことですけど。

ところで、先日そんな慶應義塾大学や国公立大学への入学ルートのひとつであるAO入試(アドミッション・オフィス)について、実に大変なやらかしを敢行した「AO義塾」が盛大に祭られていました。

「東大推薦入試が塾に攻略された」は誤解だ「14名合格」のAO義塾に疑問をぶつけてみた(東洋経済太田敏正 16/3/26)

東大推薦入試の「合格実績」は誰の手柄なのかAO義塾・報道の矛盾の真相があきらかに(東洋経済太田敏正 16/3/27)


事案としてはスキャンダル風味ですが、行儀の悪いAO義塾のネタは結論からすれば「少しでもかかわりのあった合格者を、自分とこのサービスの利用者としてカウントして、結果を盛って広告する」という古典的な手法ながら、それだけAO入試のあり方を端的に表している事案でもあるということです。

途中で、netgeekの腹BLACKさんも出てきたので、ゴシッピーな方面は彼らの記事をご覧いただくとして。

【炎上】東大推薦合格No.1を謳うAO義塾に実績水増し疑惑が浮上。斎木陽平代表は「その質問には意味がないと思います」と言って回答を拒否。(netgeek 16/3/26)


文部科学省も3年ほど前からAO入試については「青田刈り」「学力が低い」などの強い批判が一部の教育関係者から出たことを受けて、見直しを求める方針なのですが、実際のところ、表に出ている論文の類を並べて読んでみても、必ずしもAO入試の良し悪しという点では「本当のところはどうなのか」「何が悪いのか」があんまり見えてきません。

たとえば、福井大学の専任助教授大久保貢さんの論文では、学業成績の平均で見た場合、他の一般入試で入ってきた学生と比べてAO入試の学生が優れていることもあれば劣っていることもあるという程度で、AO入試経由の学生が物凄く劣悪という感じでもありません。

入学者選抜方法別学業成績の追跡調査(平成17年度)


また、慶應義塾SFCの中室牧子准教授も、大掛かりなAO入試の再評価を論文で試みていますが、これも結論から言うとAO入試が良いとも悪いとも言いづらい内容になっています。どういうわけか、リーダーシップとか客観的な評点が出しづらいものを持ち出してきて他の論文に対して「どのような統計的手法が用いて分析されたのか不明な報告が多い」とか書いちゃってて、論文を読むものの心に「お前が言うな」的心情を強く投げかけるあたり好感が持てます。

「AO入試」の再評価慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)を事例に


東北学院大学の教養学部教授、片瀬一男さんの研究も、ルート別の年次成績で違いを見極めようというアプローチで検証をしていますが、これも高かったり低かったり明確な傾向をすっぱりと出せるような雰囲気でもありません。詳しく検証されていて、見れば見るほど「結局、大学なりの環境と教育が施されると、当たり外れはあるとはいえAO入試は良くも悪くも普通の結果になるんじゃないの」というような雰囲気です。

AO入試に関する試論(1)―教養学部におけるAO入試入学者の成績の推移を事例に―


要するに、AO入試の学力は概ね一般入試より低そうだけど、だいたいそこそこ頑張れば他の学生と似たような成績をとる、ただし一般入試より当たり外れが大きく、駄目な学生を取ってしまうリスクがある一方で、すんごいやる気のある学生を採れる方法なので、慶應SFCのように「青田刈りする側」の大学なら多少はメリットあるんじゃね、という話なのでしょう。

いくつか出ている主要な論文を並べて読んでもこういう状況なので、仕組みとしてAO入試を用意しても一般入試と学力も卒業後の進路も大差ないのであれば今までどおり学力一本の試験で何も問題ないじゃないかという議論になることもあり得ます。

ちなみに、私は統計やっとるといっても選挙での投票行動や、野球などプロスポーツのような解析が中心なので、このような「大学教育においてAO入試は有効か」というような曖昧でどうとでも取れる命題の調査はむつかしいと思います。先の中室女史の論文のように、一定の定量解析ではAO入試の利点は見受けられないけど、リーダーシップのようなどうとでも取れる別腹の話を持ってきて下駄を履かせるというような恣意性はどうしても入ってしまう部分だと思うんですよね。もしも、やるのであればプロ野球で一般的なように単にOPSやWHIPのような数字で判断するのではなく、そのシーズンでの傑出度でバイアスを処理したり、トータルで見てどのような人材を社会に輩出できたかの貢献度を見る的なアプローチのほうが、おそらくは「特定の入試制度が、その大学にとってふさわしい学生を集めることができたか」が正しく理解できるはずです。

ただ、そういう結果に基づくアプローチにしても、入学したあとの教育体制や就職の有利不利のほうが、一般入試とAO入試、推薦の方法の違いによる学生の質のばらつきよりも大きい効果があるとするならば、AO入試が良いの悪いのという話は従属的な変数でしかなく画餅になります。また、一般入試とAO入試が良い悪いと統計で出すのは教育を施す産業側が勝手に教育経済学などの名の下に総体で処理しているだけであって、実際に入学を志し、勉強をし、学友と友情を育み社会を支えるのは一個一個の人生です。だからこそ、統計的に最頻値がこれであるからこの方法は有効と総花的な理解をするよりも、プロ野球のスカウトのように「この学生は人格的にもアレだし家庭も微妙だけど、数学能力だけは抜群に優れている」というような特別推薦の方法で一本釣りして育て上げたほうが社会にとって最善の道になることだってあり得るわけです。貧富の格差の一側面とは、これらの「時間単位の生産性が、人によって数万倍、十万倍違う」ことがあり得るからこそ、特殊な才能をもった人材を発掘し、高度教育を与えることの大事さが喧伝されておるわけで、そういう方法のひとつとしてAO入試が定着しましたか、そうではないですよね、という議論はどこかできちんと整理しておくべきだろうと思うのです。

最近だと、当のアメリカで、ハーバード大学のピンカー教授が「やっぱ学力テスト必要じゃね?」と言い出したというネタをKodai Kusanoさんが翻訳しており興味深いです。読める人はテンション高めの原文をどうぞ。

ハーバード大教授「崩壊したアイビーリーグを立て直せるのは学力テストだけ」(note Kodai Kusano 16/4/1)

The Trouble With HarvardThe Ivy League is broken and only standardized tests can fix it(Steven Pinker 14/9/5)

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And in many fields the best programs are at lesser-known universities, which can nimbly expand into new intellectual frontiers while their Ivy League counterparts, stultified by tradition and cushioned by reputation, become backwaters.
日本の大学教育に限らず、そもそも社会や産業、文化にとって必要な高等教育を国民に施し、より良い社会にしていくためにはどのような教育が必要で、それに対してどう適切な評価を下していくべきなのか、という永遠の命題についてはまだまだ結論めいたものさえ出てこないという状況なのでしょう。

加えて、安易に他国比較して、たとえばポルトガルの大学進学率は98%だけどOECD平均で見ると日本の大学進学率はまだまだだから大学の統廃合はしたくないみたいな話が出ると、AO入試は単なるオールオッケー入試になってしまいます。大学が定員割れしているので外国から無闇な留学生を受け入れてしまうようなケースさえもあるわけで、それって本当に日本の大学制度として大丈夫なのだろうか、と思うのは仕方のないことだと思うんですよね。

つまり、日本の大学改革について言うならば、外からぼんやり見ている限りでは「日本がどういう教育を国民に施すのが国富を増やすのか、社会全体の幸福が増すのか、あんまりはっきりしたビジョンが決まっていないので、そこからKPIを作って評価しようにもまちまちだったり大事なパラメータが非公開だったりして検証できないため、どう解決したら良いのかよく分からない」という状況じゃないかと思います。

これからはAIの時代だ、日本人の雇用が百万単位で失われる、と騒いだところで、そもそも戦後から一貫して日本はファクトリーオートメーションを進め、昔は工場で数千人が働いているところをいまの最新鋭の工場では20人とかで操業しています。そして、ファクトリーオートメーションを進めるために必要であった工作機械が産業化して世界に輸出されている現状があるわけで、AIどころかFAは製造業を一変させ、数百万どころか世界中で数億の製造業人口を削減したことになります。

JRから切符切りという膨大な作業を減らして人員削減に役立った非接触ICなど、すべての技術は人手から作業を切り離す方向に作用していく進化の過程であると考えると、AIがどうだ、雇用が失われるとか騒ぐ前に、それでもなお人が関与しなければならない仕事や、より生産的な仕事に携われる人材を育成しなければ日本は駄目なのだ、と考えるほかありません。そこから逆算して、どのような人材を重点的に高等教育で教育するのか、その入り口として、どのような初等教育であるべきか、そういうことを踏まえていかない限り、Ao入試も含めた大学改革はなかなか前に進むことはできないでしょう。

確かにAO義塾はネットゴシップとして面白かったし、お前ら何しとんという感じもしますが、突きつけられている問題は「あの程度の教育産業でも成り立ってしまうぐらい、日本の大学入試のあり方は関門が関門として役立ってない」のだとすると奥にあるものは結構深刻です。

最後に、デイリー新潮がこんな記事を出していました。

子供3人をスタンフォードに入れた「アグネス・チャン」の教育法(デイリー新潮 16/3/31)


この記事を読んで「素晴らしい」と思うかどうかが分かれ道なのかなと。
私は、私の3人の子供をちゃんと教育したいと思う一方で、こういう家庭が日本の教育を捨ててハーバード大学やスタンフォード大学に入れようと志す現状のほうも憂えるわけですが。