竹田圭吾と彼が生きた最後の数年間について
ジャーナリストの竹田圭吾さんが51歳で亡くなられました。ささやかではありますが、故人との親交もあり、どうしても一言申し上げたいなあと思いまして、僅かながら偲ぶ心境を綴りたいと思います。
山本一郎です。非常に残念な話でしたし、いろんな想いもあるところですが、お悔やみの言葉の一つも言わずにお別れするのもどうかと思いましたので。
何を隠そう、私は彼の晩年しか知りません。51年間の彼の人生の、最後の5年間ほどをご一緒しだだけです。
単純に「惜しい人を亡くした」や「あまりにも早すぎる死を悼む」という文言を、他の方はどうあれ私が使いたくないなあと思うのは、ガン治療も含めてですがここ数ヶ月は大変な闘病生活の中におられ、しかもご自身ももう帰ることのないであろう辛い旅路を孤独に歩まれる決断をされたからであります。訃報に接したとき、私は亡くなってしまったのかという寂寥感よりも、あの状態から竹田さんが解放されたのか、それはせめてもの救いなのかなという心象になってしまったのは、少なからず私は竹田さんからご指導をいただき、彼の言葉を自分なりに咀嚼してここまでやらせていただいたからだという自負もあるからかもしれません。
きょう、フジテレビ系『とくダネ!』に出演させていただいた際、番組の冒頭に竹田圭吾さんの訃報と業績についてのビデオが流され、お別れに直面した菊川怜女史や梅津弥英子アナが号泣されただけでなく、スタジオ内のスタッフにも惜しむような嗚咽が流れてスタジオ内が異様な雰囲気になったのは、竹田さんの故人としての人柄を偲ぶものも多いからだと言えるでしょう。
とくダネ! 公式サイト
かくいう私も、この『とくダネ!』に出演させていただくようになった理由も、竹田圭吾さんのお身体の具合に異変が見つかり、ご入院前の検査でどうしても番組に出演できないという状況になった際の「代打」として、番組の前のプロデューサーの方々にご指名され機会をいただいたことが契機でありました。その話を竹田さんに電話で報告した際に、その大柄な体躯から溢れるような声量で「安心して休めるわ。よろしく」とお話をいただいたのが記憶にいまでも残っています。
[[image:image01|center|竹田圭吾さん、中川淳一郎(左)と私に挟まれネットを斬る(提供:@aku_tさん)]]
その後も、月に一度ないし二度程度、主に海外情勢のあれこれについて情報交換をしたり、竹田さんがレギュラーを担当していたラジオ番組に出させてていただいたり、私や畏友・中川淳一郎らとやっているイベントにゲストで竹田さんにお越しいただいていたりしたのですが、物腰が柔らかい一方、非常に強い示唆をされる御仁でもありました。空気を読まないことを、むしろ誇りにしているようなジャーナリストでした。そして、私を買っていただいた理由も、これははっきり言われましたが「山本さんはいちいち計算しなくても充分に世間一般から見て少数派なことを自然と理路整然と言い、しかもブレないこと」だそうです。大きなお世話であると私は思います。
闘病生活に入られる前の竹田さんとは、むしろ竹田さんが問題意識を持ち取り組まれている仕事のお手伝いという感じで、あんまり名前を並べて何かを手がけるという感じでもありませんでした。ただ、悔やまれるのは一昨年、退院され体調も回復されたように見えた竹田さんと無理のない形で対談本でもやろうよということで、ほんのわずかに進んでいただけでお互いの多忙や闘病で止まってしまったことであります。企画のときに竹田さんが「抗がん剤ダイエット本を売れば百万部売れる」と冗談を飛ばしたのが結構な飛距離だったので困り果てたぐらいでしょうか。元気なら、竹田さん復活を祝う竹田さん単著の新書でも出すのが一番いいだろうと、みんな思ったわけです。そして、それは残念なことに叶わぬ願いとなりました。
竹田圭吾(ジャーナリスト)×山本一郎(投資家・ブロガー)「ネット解禁で日本の選挙はもっとヒドくなる?」(週刊プレイボーイ 13/2/7)
それまで、私はどちらかというとルーズなことも前面に出すほうで、例えば、打ち合わせの時間に遅れると携帯電話で遅参の連絡をした後に「遅刻なう」とやっているTwitterなどで書くのが日常でした。あるとき、赤坂のタリーズで竹田さんとの待ち合わせに数分遅れ「遅刻なう」と書いてから走っていき竹田さんと会うのですが、怒った風でもなく、ただ穏やかに「山本さんはもう『遅刻なう』と書かないほうがいい」と淡々とお話をされたのでした。曰く、俺が待たされる分にはいいけど、公に遅刻と書かれると待たされたほうが遅刻される程度の価値しかない人だと誤解されることになるからだと。遅刻は仕方ないけど失礼を感じられるともったいないのではないかと。なるほどと思って、それ以来、私はTwitterで「遅刻なう」と書くことをやめ、それを見届けたかのように、ご一緒した仕事で竹田さんの原稿が少し遅れてやってきたのはご愛嬌であります。言ったそばから仕事が遅れてんじゃねえかよ、と。
一事が万事こんな調子でしたから、手術後も痩せられたとはいえ仕事はそこそこ順調にこなしておられて、グライダーのように滑空し何年も飄々と生きていかれるものだと思っていました。昨年夏は、被災地の仕事で少し長い時間一緒になり、あれやこれやお話させていただいたりもしまして、そのころは、ビールを飲み、海産物を食べて、多くの方と語らいました。まずまずお元気そうだったので、てっきり、しばらくは大丈夫なものだと思っていたわけであります。
もっとも、直接詳しい病状は聞かずとも、私の家内もガン方面には知見のある口腔外科医ではありますので、大変な闘病生活であったろうということは分かってはおりました。彼は孤独な戦いだと何度も言っていましたが、見守るほうも見守るほうで、壊れていく竹田さんを正面から見据えることができなかったのです。竹田さんが入院されていた慈恵医大病院に中川淳一郎と見舞いに赴いたときは、繰り返し孤独と油断を述懐しておられました。それ以来、一緒にいられる時間は3泊4日から2時間になり、最後は15分も一緒にいると、おつらいのだなと感じるほどの状況になっていたと思います。闘病を支えた竹田さんのご家族に対する感謝も、あまりプライベートをお話にならない竹田さんの口から繰り返し漏れるようになると、それを最後に何かで仕事をご一緒する機会はなくなりました。
竹田さんは身体が大きくて声がでかかったんですよ。その声でもう少しお話を聞いてみたかったけど、私はあの闘病がもし数ヶ月、数年続くのだとしたら、相当なさらなる苦難、苦痛だったろうと思います。いくら頑健そうな竹田さんでも厳しいのです。痛そうだし、苦しそうだった。もしも願いが叶うのであれば、もう戦わなくていいんだよ、ゆっくり休んでくれていいんだよ、と声をかけてやりたい。そして、彼が最後までこだわったのは、どんなに辛くとも現場に出て、自らの肉声で、テレビの視聴者やラジオのリスナーに言葉を届けることでありました。それはもう、大変な悲壮感のある決意だったと思います。もう声なんかほとんど出ないだろうにな。
気丈に竹田さんが報道や情報制作の現場にこだわったのも、彼自身が自他共に認めるへそ曲がりだったのもありますが、ご自身の闘病をも相対化されるような「俺以外にも、ガンで苦しんでいる人たちはいる」という気持ちだったんだろうとも思います。彼は自分のことは言わないから、想像するしかないんだけど。
そんな感じなので、しめやかではあるけれど、みんな明るく現世から追い出してやるのが粋だと思います。粘りに粘ったし、彼が最後まで頑張ったの間違いないんだけど、これはもう仕方のないことなんだよ。どうせ私もみんなも後から逝くんだから、そのときにはまたビール飲みながらカルビでも食いましょう。
竹田圭吾のおごりで。