無縫地帯

仏パリで犠牲者120名以上に祈りを寄せる日本人、レバノン、ロシアなどにも祈ってあげてください

フランス・パリでの悲惨なテロ事件が発生する一方で、紛争地域では毎日多くの人命が失われています。日本人として、どういう祈り方ができるのか、2日ぐらいずっと考えていました。

山本一郎です。人間、心理的に近いところに想いを寄せることは自然だと思う42歳です。

私事ですが、高校生であった90年に興味を持っていたソビエト連邦を訪れ、その後91年夏、モスクワ大学に短期留学(交換留学)をしました。そのとき、モスクワ大学の寮に投宿していたのですが、ドーンという大きな爆発音が響き、街頭に人々が飛び出して騒ぎが拡大して寮の中にもソ連の治安部隊と思しき制服を着た隊員が雪崩れ込んできました。

「何事かあるかもしれない」と同部屋にいたソ連人たちやルーマニア人留学生たちと一緒に、いまでもモスクワのお土産物市が並ぶアルバート通りと、その端に位置する外貨ショップへ走りました。その途中で、ソ連の一員であるロシア共和国の大統領であった、故ボリス・イェリツィンさんが戦車の上に立って演説をしている光景を人垣の遠くから見て、騒乱とはこういうものなのだという原体験を得ました。

後日、歴史には「ソ連8月クーデター」と記されるこの日は、私にとっても特別な感慨があります。帰国日になっても空港が一部封鎖され、チケットの飛行機が何らかの理由で飛ばないことが明確になったため、キエフ、ソフィア、アンカラ、バーレーン、タシケントとバス、飛行機を乗り継ぎ、半月かけて一人旅で東京まで帰ってきたのは良い思い出です。が、同部屋で騒擾に私たちと怯えていたソ連人たちは、一人はリトアニアへ帰る途中で行方不明になり、一人はその後ロシア陸軍に入隊してジョージアの治安維持に参軍して若い命を散らしていました。十年近く経って、彼の出身地であるアルハゲリンスクを訪問したとき、老母が息子の死を嘆き悲しんでいたのを見て落ち込んだものです。

テロは許せない行為であるのは当然として、ただしそこに暮らしている人たちの日常の投影でもあります。理由無く行われる殺人、犯罪とは異なり、テロは行う側も命をかけて実行するものであり、そのバックグラウンドには深い悲しみと、テロリストなりの戦う理由があります。その嘆きと生きてきたことの証明を行うために、人を殺す目的で組織化し、殺害計画を立て、準備してテロ行為に臨み、死んでいくのです。

許せないテロ行為によって、犠牲となり命を落とした人たちに対して、祈るのは尊い行為だと思います。私も、フランス・パリで起きたテロによって、亡くなった人たちや、息子や娘、愛する夫や妻、あるいは肉親を失った家族の慟哭にも深い同情を寄せざるを得ません。

加えて、この国際社会には同じように、パリで起きた惨劇と同様のものが、数十、数百と繰り返し起き、人々の命や大事な家族を奪っていきます。もちろん、多くの日本人にとってフランス、パリの人々は身近に感じることは多いのでしょう。その一方で、内戦や内乱が常態化し、平凡に暮らす人々が常に危機に晒されている地域はたくさんあります。パリでの事件の前々日にはレバノンのベイルートで200名以上の死傷者が出る連続爆破テロがあり、ロシアでは乗員乗客あわせて224名を乗せた民間飛行機がテロと見られる爆発が原因で墜落し全員死亡しました。シリアで、南スーダンで、各地で起きる死亡事故、襲撃は日常的なものであって、本来であればすべてに対して心を寄せ、祈らなければならないことばかりです。

「テロとの戦い」だと拳を振り上げるのは必要なことです。ただし、テロを行う人たちの抱える葛藤や悲しみ、屈辱、鬱憤といった、人間だからこそ抱える深く暗い感情にも光を当てていく必要はあるでしょう。「アラブ社会の出身者だから犯罪者」ということではなく、彼らのことをもっと良く知り、目的を考え、どうすれば日本人として、あるいは日本政府の、国際社会の一員として問題解決に資することができるのか、考えるべきです。アラブに行って状況を知りにいけとか、義勇軍や治安要員になれということではなくて、テロの犠牲になった人たちに祈ると同時に、決死にテロを行う決断を下した人たちを知る努力を払うべきだと思うのです。

折りしも複数の現地報道では、パリでの一連の爆破テロで、爆弾を身に巻き、自殺していったテロリストを「カミカゼ」と表現しています。

これ、70年前の日本人のことではないですか。

国家や社会や民族が追い詰められ、精神的に存亡の危機にあると認識した人々が、その活路を見出すために己を武器にして少しでも敵に「一矢報いる」と考える思考は、歴史を通じて日本人自らが体験してきたことではないかと思うのです。イスラーム社会の人たちの苦悩の末の自爆テロが、アメリカ人やフランス人には理解できなくとも日本人には何となく空気として分かるというのは、こういうところにあるのではないかと思います。

また、日本人は神風は吹かなかったことも知っているんですよね。

ガラパゴスでまったく構わないから、イスラーム社会の人たちのことも知りつつ、不幸な出来事で命を落としたすべての人の安らかな旅立ちを祈ることが、日本人としてのフェアではないかと感じます。

この問題を考え始めると、どうしても人間社会が抱える深い業のようなものを考えてしまうのですが、どうか平常心で起きたことを受け止めて考えて見ていただければと思います。

なお、私がソ連に興味を持った理由はシステムソフトの「大戦ry